甘露連日続いていた公演の最終日。最終公演を終えて楽屋に戻る。普段長期間の公演があることは少ないが、とある件のこともあって人気が上昇した影響が大きく、初めて長期公演の依頼を受けた。これもまた師匠の後押しあってのことではあるが、自身の挑戦・経験としては貴重だろうと受けたのだった。受けた、はいいが…。
(まぁ、当たり前だが疲れるな…。)
沢山の人に落語を聞いてもらえるのは嬉しいことだ。職業である前に己自身も落語が好きだ。だから、その良さを伝えられているのならそれほど嬉しいことはない。が、沢山の期待を受けるということでもある。わざわざ表に出すほどでもないが、それなりにプレッシャーやストレスは感じる。また、初めての長期公演だ。スタミナの管理等もうまくいくはずもなく、最終公演はまぁ無我夢中で演っていた記憶しかない。
楽屋の廊下を歩いている途中、人の気配がない場所で思わずため息をつく。これは相当キてるな…。幸いなことに明日からは数日休暇を貰っている。なんとかそこで回復するしかないな。なるべく滋養に努めるしか…。などと考えていると、楽屋の管理人である人のよさそうな顔をしている男性が声をかけてきた。
「あ!お疲れ様です、辰巳さん。」
いかにも探していましたという様子で少し焦っているようだった。
「どうも、お疲れ様です。何かありました?」
俺が落ち着いた態度で返すと、管理人も落ち着いた様子で、
「いや、申し上げにくいんですが、また、あの方が来てまして…。」
と続けた。
あの方、と聞いてすぐにとある人物を思い起こす。
「あぁ。あいつ…いやあの人ですか。いや本当にご迷惑をおかけして申し訳ない。」
「いえいえ!辰巳さんが謝ることでは…!その、まあ念の為にご報告だけしようかと。」
「毎度毎度ありがとうございます。」
「いやぁ、私にはこれくらいしかできませんから。それにあの方も、まぁ、多少、その、圧のある様相ではありますが…。悪い方ではないようですし。特に問題のある行為は見られませんでしたし。それに、迷惑をかけたから、と我々宛に差し入れまで下さって…。」
その辺は変にしっかりしているんだよなぁ、と思う。
「なるほど。そうでしたか。例外的なことではあると思いますが、許可してくださってありがとうございます。」
「いえいえ。関係者…という形で入室の記録はとれておりますので、一応問題はありません。あと…えー…その。個人的な興味からの質問で大変申し上げにくいんですが…」
「なんです?」
「その、あの方、どうも表の職業の方には見えないんですが。どういう関係なのかお聞きしても…よろしいですかね。」
まぁ、そうなるだろうな。普通に考えて、落語家とどう見ても裏社会に属していそうな男が関係がある方がおかしい。
少しうーんと唸って考えた後に、
「まぁ、腐れ縁ですかね。」
と困り笑いといった表情で返す。
「あぁ、そうですか。いや、お疲れのところ呼び止めてしまってすみません。」
それ以上聞くのも野暮だと思ったのか、管理人は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「いえいえ。大丈夫ですよ。本当にこちらこそお世話になりました。」
管理人はそれを聞くと、いやぁこちらこそ、と俺に軽く会釈しながら管理室に戻っていった。俺も軽く会釈をして楽屋に向かう。
また溜息が出る。あいつまた居るのか。いや、居るのは別に構わないが、あまり俺に構いすぎるのもあいつにとって良くないんじゃないか、とも思う。俺はどうやら巻き込まれやすい体質らしいから、結局近くにいるならまた不可思議な事件に巻き込んでしまうのではないか、と不安ではある。あいつはそこまで気にしていないんだろうが…。
一呼吸おいてから楽屋に入る。何か小言のひとつでも飛んでくるのかと思ったが想像していた言葉はなかった。本当にいるのかと楽屋を見渡すと見慣れた人物が見慣れないことをしていた。
「………こいつ本当に…。」
黒八鬼組の若頭である柳生宗家はあろうことか俺の楽屋で眠っていた。俺が入ったことにも気が付く様子はなく、すやすやと安定した寝息をたてている。こいつは思っていたよりも警戒心が無いのか?いや無いというよりこの場所だからか。よく分からない。
どう起こしてやろうか、と考えて、ふと、とある好奇心が湧いた。
この状態で口づけをしてやったらこの男はどう反応するだろうか。
此奴に関しては分かってきたことも多いが、まだ分からないことも沢山ある。それにこの男に関して自分はとても興味を持っている。色々なことを暴いてやりたいとも思うのだ。それがどんな理屈からくる感情なのかは分からないがどうあれ消えない欲求であることは変わらない。
思い立ってしまっては仕方がない。自分の性分で、思い立ったことは行動に移さないと気が済まないのだ。
寝ている宗家に近づく。一応サングラスを着けているのが可笑しくって少し笑ってしまう。仰向けに寝ている宗家の横に膝をついて座ってから、覆いかぶさるように床に手をつく。
ここまでしても寝ている宗家に対して若干罪悪感を覚えたが、すぐに思い直した。俺が悪い、というより……
「お前がこんな態度とってんのが悪いな」
自分の口角が自然と上がるのが分かる。あぁ。笑ってしまうほどに『良い』な。と思う。
彼の唇に口づけを落とす。唇が触れたことにより、流石に起きたのか宗家が「ん゛…。」と声を上げる。
顔を離すと同時に彼がかけていたサングラスを指にかけて外す。宗家の表情を見ると、まだ開き切っていない目は困惑の表情で塗れていた。それを見て、気が変わった。もう少し仕掛けてみたい。
「…は?お前、何……」
それ以上の宗家の言葉を聞くことなく、また彼の唇に自分の唇を重ねる。今度は抵抗しようと宗家が俺の肩に手をかけ押しのけようとした。それに構わず、先ほど話そうとした拍子に開いた彼の口に自分の舌をすべりこませる。途端、宗家が体をこわばらせる。巫山戯るな、と抗議するように言葉になっていない声を上げる。その抗議の声も空しく、暫く深い口づけを続けた。口を重ねる毎に、舌を絡ませる毎に、抵抗する様子は収まり、宗家は静かに俺の口づけを受け入れていた。流石にやり過ぎたか、という今更な罪悪感から顔を離す。
うまく息継ぎが出来なかったのか、顔を離すと彼は深く息を吸っては吐いてを繰り返した。暫く互いの呼吸の音だけが響く。怒鳴られる覚悟はあったが、怒りを含んだ言葉は飛んでこない。恐る恐る表情を覗くと茫然としているままだった。自分が起こしたことではあるが心配になり、体を離し傍らに座る。
「おい…」
大丈夫か、と続けようとしたところで宗家は体をゆっくり起こした。傍らに座る俺の方を見る。
「……今何時だ…。」
想定外過ぎる質問に言葉を詰まらせたが、すぐに楽屋の時計を見て答える。
「5時35分…だな…。」
「…ここ借りてんのって6時までだったよな。」
いつもよりゆっくり確認するように話している。多分管理人から聞いていたのだろう。確かに今日は最終公演だったから撤収の時間も決まっている。
「そう…だな。」
「俺、先に外に出てるわ。」
「?…あぁ。分かっ…た。」
俺の返事を聞いてか聞かずか、立ち上がり楽屋を出ていく。俺の方が茫然としてその背中を見送る。が、すぐにサングラスを取りに戻ってきた。もう一度部屋を出ようというときに、ドアに手をかけながら、「オイ」と声をかけられた。なんだと困惑しながら返事をすると
「テメェ、覚えてろよ」
と部屋の外を向いたまま、聞こえるか聞こえないかの声で言ってまた楽屋から出ていった。後ろ姿しか見れなかったが、首元が少し紅く染まっていたように見えた。
暫く押し黙ってしまう。少し興味を持ったがいいがその反応は予想外のものだった。というより予想外すぎた。なんだあれは。
「はぁ…本当に…」
本当に、堪らなく愛おしい。
そう思ってしまったことを恥じたのか、熱が集中した顔を隠すように両手で顔を覆いうずくまる。腹の底にもっとアイツの反応を見てみたいという欲が渦巻いているのが分かった。
「いや、そんなこと考えてる場合でもないな………………」
口元を抑え目をつむり深呼吸をする。冷静に見えるように外で待つアイツのところに行かねばならない。少しでも悟られれば揚げ足をとられてからかわれることだろう。…もしかしたらそんな余裕も彼にはないかもしれないが。
もしかしなくとも相当入れ込んでいるな、と改めて自覚する。こんなんじゃ溺れているのはどっちだか分からない。
嫌われていないといいが、等と勝手なことを思ったが、その心配は、その後何もなかったかのようにいつも通り突っかかってくる宗家を見ることにより払拭された。だからこそ…まぁ良いことではないが、また安心してこの男のことをからかってしまうのだろうと思う。
何の因果か分からないが、何者かが運んだこの甘露は、自分にとっては甘すぎるかもしれないが、しかし丁度よい味わいで、ずっと味わっていたいと思ってしまうのだった。