鯛も一人はうまからず『大変申し訳ございません。また機会がございましたら、宜しくお願い致します』
何回目か分からない謝意の言葉が電話口から聞こえる。本当に申し訳なさそうに話すものだから、こういった対応をするのも大変だろうと凡庸な感想が浮かぶ。
「いえ、とんでもない。たまたま私が不運だったんでしょう。またよろしくお願いします」
冗談を交えながら、深刻でもないといった声色で話す。
『私共の力不足です…本当に申し訳ございませんでした。失礼いたします』
「はい、失礼します」
通話を切り、溜息をつきながらスマホを持った腕をだらんと下げた。思わず空を見つめてしまう。どうしたものか…。気をとりなおすために屋上に出てタバコを吸おうと、屋上につながる階段に足をすすめた。
まほろば株式会社をめぐる騒動が収まった後、決まった住居を持たなかった虚淵は、阿僧祇に誘われるまま彼の所有するビルの部屋を借り、仮の住居として暮らしていた。このまま世話になり続けるのも自分の中で問題であると判断し、新しく住居を探してはいたのだが。
…こうも見つからないもんか?
いくら条件を変えても、不動産屋を変えても、更には地域さえも変えてみたが、すべて「先に他のお客様が抑えているので…」「事情によりお貸しできなくなってしまいまして…」と契約できないと断られてきたのだ。明らかにおかしい。こうも断るばかりでは向こうも商売が成り立たないだろうし、春先でもない今そう多くの人間が新居や転居先を探しているとも思えない。
その日は晴天で、屋上には冷たくもさっぱりとした風が心地よく吹いていた。いやな予感と考えを、吸ったタバコの煙と一緒に吐き出そうとする。
…十中八九、「そう」だろうな
当人に聞いたわけではないがあの男であれば不動産屋にツテがあったとしてもおかしくはない。もし彼のせいだとしたら、受け取れるメッセージとしては一つだけである。
「ここから出ていくな」
当分の間、という意味なのか、この先ずっとという意味なのか分からないが、まぁ恐らくそういう意図だろう。あくまでも「もしも」の話ではあるが。
偶然自分の不運が重なっただけにせよ、誰かの手によるものにせよ、もう別の住居を探すのはあきらめようという結論に至る。そもそも今住まわせてもらっている部屋の居心地が悪いわけではない。そこは問題にはならないのだ。ただ…。
「絶対に甘えるなよ…………俺…………」
屋上の柵にもたれかかるようにしゃがみ込み、吐く息とともに独り言をつぶやいた。自分は彼に対してもたれかかりすぎる部分がある。信頼を置きすぎている部分がある。というよりもそれは依存により近いものであると自負している。だからこそ自律しなければならないのだ。彼にとってそれが要らぬ荷物になる可能性はかなり大きいのだから。
それについてごちゃごちゃと考えるのも今更というもので。自覚した時にはすでに遅かったのだから仕方がない、と一旦思考の隅に置いておくことにした。
何か気分の晴れることがしたい。余計な気が起きないうちに、何か集中できるような…。
「……………………なんかつくるか」
屋上からうかがうことのできる太陽は、すでに橙色に染まり始めている。日が沈むのが早い季節だ。寒くならないうちに買い物に出てしまうのが得策だろう。
階段を降り、一階の事務所の横を通りすぎ以前見つけたスーパーに出かけようとした。ふと靴紐がほどけそうになっていることに気が付き、結びなおそうとしゃがみ込んだ。以前見た靴紐の無い靴を思い出す。ああいう格好いいものもあるのだから買ってみるのもいいかもしれない。
「あれ、どこか出かけるの?」
少し上の方から声をかけられた。よく知った声だ。
「ん~。ちょっと買い出しにな」
よっ、と体を起こし声の主と改めて相対する。何か用があったのか、外出していた阿僧祇が帰ってきたところに丁度鉢合わせる形になったようだ。
「ふーん、そっか。どこまで?」
「近くのスーパー。なんだっけ、アカマツ?肉がうまくて野菜が安かったとこ」
ま、知らねぇか。と語尾につけたし笑ってみせる。内心が勝手にきまずさを感じているのを誤魔化すように。
「なるほどネ。そんなに食料なかったっけ?」
「あぁ、いや、多少はあったんだけどな。4人分作るには足りねぇかと思って買い足しに?」
阿僧祇は桐志の返答に暫くなるほど、といった様子で聞いていたが、ふと気が付いたように桐志に質問を投げかかる。
「…………料理?作ってくれるの?」
「え?あぁ、まぁな。…あ~っ、とそうだ。お前に言っときたいことがあってな」
「何?」
住居の件を思い出す。どちらにせよ言っておいた方がいいことだろう。それに、望み薄ではあるが、彼の様子から何か分かるかもしれない。
「もうしばらく、その…ここに住まわせてもらえないか?どうにも別の住居が見つからなくってな。そんなとこまで悪運強くなくてもいいとは思ったんだが…」
「もちろんいいけど…。わざわざ言わなくってもいいのに」
「まぁ、なんだ?親しい間柄にもなんとやらって、あるだろ?改めて世話になることは変わらないわけだし。言っときたくってな」
「そう。まぁ好きに住んでもらって構わないヨ。最初からそのつもりで声かけたわけだしネ」
「そか。じゃぁ、遠慮なく?」
「うん」
住居の話を持ち出してみたが、阿僧祇の表情は普段の笑顔のままに見える。多少はそれよりほころんでいるようにも見えるが、気のせいだろうか。
「じゃ、行ってくるわ。…あっ、そうだ」
今度こそスーパーに向かおうと動き出したが、あることを思いついて足を止めた。
「何食いたい?」
「夕飯?」
「そ」
阿僧祇はしばらく考えたあとに
「なんでもいいヨ」
と答えた。桐志はおおげさに溜息をついて、
「それ一番困るんだよなぁ。しいて言うなら?」
と返す。
「ほんとになんでもいいって。あ、でも」
「分かってるよ。甘いもんとカレー以外だろ?」
「そ。流石だネ」
「何年付き合いあると思ってんだ。じゃな」
「いってらっしゃい」
阿僧祇の挨拶に対し背を向けたままひらひらと手を振り応える。景色はすっかり橙色に染まっていた。昼間は多少温かさが残っていたが、夜は冷え込みそうだ。
献立を考えながらスーパーで買い物を済ませる。そういえばレジ袋が有料になったことを忘れていた。エコバックの購入を検討するべきかと考えながら有料のレジ袋を購入した。
両手に食品が沢山入ったレジ袋を下げ帰宅する。2階に住む住人にも料理を振舞うつもりだったため2階のキッチンにある冷蔵庫に食料をしまう。ひとまず、はまぐりの砂抜きから始めることにした。ボウルに水と塩を入れ砂抜きをする。しばらく放置。切り身で買った鯛は鱗をはがし、目立つ骨を抜いた後、塩をふっておいておく。流石にすべての手順を覚えているわけではないので、スマートフォンでレシピを調べながら調理を進めていく。片手間にレタスとポテトサラダ、コンソメスープを用意し、買っておいたバゲットを食べやすい大きさに切った。
「こんだけあったら充分だろ」
調理が進むにつれて、オリーブオイルとニンニクの良い香りにのって、はまぐりと鯛の美味しそうな香りがキッチンに広がっていく。その香りを不思議に思ったのか零名がキッチンに入ってきた。
「あれ?今日は桐志さんが作ってるんですね」
「ん。いらっしゃい零名ちゃん。まぁ丁度時間があったんでな」
「美味しそうな香り…。何作ってるんですか?」
「アクアパッツァってやつ。魚うまく食えるから好きなんだが…あ、そうだ魚嫌いとかないよな」
そういえば食に関する好みを聞くのを完全に失念していた。あらかじめ聞いておけばよかったと若干後悔しながら確認する。
「零名さんは健康志向なのでなんでも食べますよ~」
「そっかぁ、そりゃ偉いなぁ。マァナちゃんもそんなとこか?」
「う~ん…まだ好き嫌いがはっきりしてないので、とりあえず食べてみるって感じかもしれませんね~…」
「なるほどな」
まぁ、お気に召さなければ新たにまた作ればいいかと考える。他にも食材は購入したことだし、簡単なものでもよければすぐに作ることはできるだろう。などと考えながら味見をする。申し分ない仕上がりだろう。
「うし、じゃぁ料理並べんの手伝ってもらおっかなぁ?」
「はーい!並べまーす!」
小気味よく元気に返事をする彼女の声を合図に、食卓に美味しそうな料理が並べられていく。並べられたすべての料理を見て零名が感嘆の声をあげた。
「わぁ…すごい、豪勢ですねぇ」
取り分けるための食器を並べながら桐志が答える。
「そうか…もな?なんかいざ作ろうと思ったらな。やる気が出た。そういうこともあるわな」
「どれも美味しそう~。マァナ呼んできますね」
「ん。頼んだ」
丁度零名と入れ違いになるように阿僧祇が降りてきた。食卓の様子を見て少し驚いた表情を一瞬見せた後席についた。
「うわ、すごいネ。何かの記念みたいな」
「いざ作ろうと思ったらな。あれもこれもと思いついちまって…。あ、そうだ」
食器棚にあったワイングラスを2つ取り出し、調理用に買った白ワインの残りと一緒にテーブルに持っていく。
「白身魚にはこいつがないとなぁ」
白ワインのボトルを軽く掲げ阿僧祇に見せる。
「ははっ、いいねぇ。いよいよパーティらしくなってきた」
「まぁ、これからもよろしくってことで?」
グラスにワインを注ぐ。透明なグラスに小さく波打って注がれている様はなんとも特別感のある情景だと感じた。
「あ~!いいなぁ、ずるいですよ~」
「まだ酒は早い…?だろうから、零名ちゃんとマァナちゃんにはこれな」
あらかじめ購入しておいたマスカットのジュースを冷蔵庫から取り出し、同じように透明なグラスに注ぐ。
「お好みかは分からないが…まぁ、うまいと思うぜ?飲んでみな?」
零名は若干不満げな表情を残していたが、マァナが飲み物に興味をもったことを喜ばしく思ったのか、満足げな表情に変わった。
「じゃぁ、食べるか」
いただきますの合図で食事が始まる。
自分で作った料理を普段食べる分には、当たり前の味として何ら感想が浮かぶことも無いが、共に食卓を囲む者がいれば話は別だ。おいしいと零名が感想をこぼす。それだけでもずいぶんと味の感じ方が変わる。自分にとっても美味しいものに感じられるのだ。
楽しそうに食事をする零名とマァナとは対照的に、阿僧祇はずいぶんゆっくりと丁寧に食事を進めている。なんとなく気になって
「うまいか?」
と問うてみる。すると黙々と食べていた手を止め、
「美味しいよ」
と答えた。
なんとなく、なんとなくだがその表情は普段よりいくらかほころんでいるように見え、それがうれしくなり
「そうか」
と桐志も笑って答えた。
なんでもない日の少し特別な食事。それだけでも心というのはずいぶん安らぐものなのだ。いつの間にか自身に対する不安は消え、ずっと前向きな気分になっていた。どういう因果であれ、共に居ることができるのなら、ゆるされるのなら、それを楽しんだっていいじゃないか。さわやかな白ワインの香りが鼻を抜けていった。