『花』 阿羅醐城突入を目前にして鎧戦士たち五人は、緊張と不安に負けそうになるのを必死に堪えていた。
負けるわけにはいかないと、押し潰されそうなほどのプレッシャーは、自然に遼たち五人を無口にさせた。
迦雄須は先刻、彼等が休憩場所にしている崩れたビルの窪みから出て行ったきり、長く戻ってこない。
偵察という名目で外に出てきた当麻と伸は、灰色の街を半ば途方に暮れた表情で見つめていた。
「勝てるのかな…」
呟くようにして伸が言った。色を無くした街は静寂さの中に佇むばかりで、何も答えをくれようとはしなかった。
「勝たなきゃいけないんだろう」
答えるというよりも、むしろ問うようにして、当麻は伸に言った。
未だ明らかにされていない過去の経緯。
鎧の謎。
妖邪界の事。
不安だけがのしかかってくるように思えるのは、自分だけなのだろうかと伸は自問自答する。
誰もこの戦いに対して、何の疑問も無いのだろうか?
今まで無我夢中でここまで来たものの、果たしてこれで良かったのだろうかという疑惑の念だけが、自分の中で膨れ上がっていく。
「くよくよ悩むのは、後にした方がいいぜ」
当麻は狡猾な笑みを口元に浮かばせて言った。
「僕は別に」
「今頃になって、これで良かったのか。なんて考え込んでいるんだろ?」
ずばりと自分の心中を言い当てられて、伸は思わず目を見開く。
「今は悩んでいる場合じゃないってことは、この有様を見れば純にだって判ることだ。
今、必要なのは、どうやってあの巨大な敵に勝てるかを考えることだ」
どうやって反論していいのか判らずに、伸は暫く無言で当麻の顔を見つめた。
不適な笑みを浮かべているものの、当麻の瞳の奥には、不安と恐怖にも似た何かが揺らめいているのを伸は発見した。
(偉そうな事を言っているわりには、自分だってどうなんだよ?)
口に出して言おうかとも思ったが、伸は何も言わずに踵を返した。
下手に口にしようものなら、このプライドばかりの高い、精神年齢は純と同レベルの軍師は、また、衛星軌道上に戻ってしまうかも知れない。
無駄な口論をするつもりもなく、遼たちのいる場所へと戻ろうとした伸は、この無人の街に流れるピアノの旋律に足を止めた。
「何だ?」
いぶかしげに眉を寄せた当麻は、伸の横に並んで言った。
「さぁ、ピアノの音のようだけど」
「いや、そうじゃなくて、この曲だ。お前、知っているか?」
そういう問題ではないような気がしたが、伸は当麻の問いに素直に応じた。
「ショパンかな」
「お前、ピアノ曲は全部ショパンだと思ってるわけじゃないよな」
「当麻こそ。交響曲は全部ベートヴェンだと思っているんじゃないのかい?」
何とも低いレベルの会話が成されている間も、柔らかなピアノの旋律は、ゆっくりとした調子で流れていた。
とにかく、当麻も伸も、この非常事態に呑気にピアノを奏でてる人物を追求するべく、音のする方向へと走った。
何となく予想は出来るのだが…。
案の定というべきか、やはりというべきか――、ピアノの奏者はナスティである。
ドラムやギターが虚しく陳列されている店内の中央。
グランドピアノの前に座って、ナスティは楽しげにピアノを奏でている。
「こんな時に何を呑気に。遼も何をしてるんだ」
伸は自分のこともあってか、きつい口調で店内に飛び込もうとした。
それを寸前で止めたのは当麻である。
「待てよ、伸」
「当麻っ」
「気付かないか?」
「何をっ」
敵に狙われたらどうするんだっ。
伸の顔には、焦りと苛立ちが明確に現れていた。
「空気だよ」
「空気?」
「浄化されている…」
周辺を見回しながら、当麻は静かに言った。
その言葉に伸も辺りを見回す。
アンダーギア越しに感じる肌寒いだけの空気が、この辺だけは不思議に暖かいものに感じられた。
伸は大きく息を吐き出してから、冷静に周囲を見まわした。
「あれ――?」
それは違和感だった。妖邪界に浸食された新宿で初めて感じる違和感が、伸には最初良く判らなかった。
何だろう? 何かが違う――。そう思いながら暫く考えて、はたと気づいた。
色だと。無機質なコンクリートの壁にも、今、自分が立っている道路にも、色が視えているのだ。
確かに無機質で冷たいものには代わりは無いのだが、確かに色があるのだ。
人が行き交う道として。使われているビルの壁。
新宿という街の、都会特有の排気ガスを含んだ都会の空気が戻っていた。
「どういうことなんだ?」
「さぁね。あそこで一人ピアノ発表会している彼女に関係あるのかもな」
天空の鎧は風―空気―を司る。なればこそ、音の広がりに反応する空気が変化していくのが判るのかも知れない。
ピアノの音が止まり、ナスティが早足で店内から出て来た。
「貴方たち、何時からいたの?」
悪戯を見つけられた子供のような表情で、ナスティは当麻と伸に近寄った。
「ついさっき。ところで今弾いていた曲は?」
伸が何気なく質問する。
「シューベルトよ。子供の情景って聞いたことあるでしょ?」
ナスティの言葉に、伸は意地の悪い笑みを浮かべて、当麻の脇腹を肘でつついた。
当麻は眉間を寄せて何も言わなかった。
「どうしたの? ねぇ、それよりこれを見て」
ナスティは嬉しそうに胸ポケットから、一輪の花を取り出して、当麻と伸に見せた。
ほとんど雑草の類の花なのだが、いったい何処で見つけたのか、ナスティはそれをくるくると回す。
「どうしたの、それ」
例え雑草とはいえ、この異次元の新宿に花が咲いているのかどうか、それすらも不可解と言っても良いだろう。
「そこの瓦礫の下に咲いてあったのよ。この辺の緑なんて全部枯れてしまったのかと思っていたけど」
「あのねぇっ! 敵に襲われたらどうするんだよ。一人歩きはするなって言ったのは、ナスティだろっ!」
伸が声高に言った。
口調が何時になくきついのは、ナスティの事を心配している証拠なのではあるが、当の本人は、今初めて気付いた様子で、あっと小さな声を上げて口元を押さえた。
「たのむよぉ」
「ごめんなさい。そこまで考えてなくって。でも、ほら、妖邪は出てこなかったし、ねっ」
シュンとした表情で、伸と当麻を交互に見て言った。
さすがに伸はそれ以上言う気も起こらなくなり、当麻と顔を見合わす。
そして、二人同時に吹き出した。
「まったく、お姫様には叶わないよ」
「まったくだ」
「な、なぁに? どうしたの?」
三人はとりとめもない会話をしている間、そこが戦場だったという事実を忘れていた。
色を取り戻していた新宿の一角が、何時の間にか元の灰色の世界へ戻っていることに、まず当麻が気付いた。
先刻までナスティがいた楽器店を見る。
そこにあるのは妖邪に支配された鏡の向こうの世界。
ナスティがピアノを奏でている間だけ、本来の姿を取り戻した街は、すでに存在していない。
当麻はナスティを見た。
今まで行動を共にしてきて気にもしなかった、この『人間』の存在を今更のように見つめた。
何故、この『人間』が此処にいるのか、その理由を探そうとした。
だが、どんなに思考を巡らせても、答えは見つかりそうで見つからない。
「当麻、どうかして?」
黙って自分を遠慮なく凝視する当麻に、ナスティは戸惑いがちに声をかける。
「え、い、いや…」
ナスティの声に我に返った当麻は、返答に窮する。言い訳しようにも、どう言えば言いのか判らなかった。
答えられないものではなかったが、当麻は自分でも顔が熱くなるのが判った。
「おやぁ、天空の当麻くん。顔が紅いよ」
伸がからかうように、当麻を肘でつつく。
「う、うるさいっ。何でも……」
当麻が伸に反撃しようとした時、白炎の咆哮が街に響いた。と、同時に乱立するビルの間から、巨大な光の柱が立ち上がった。
「なんだっ」
「妖邪かっ」
「判らんっ。とにかく戻ろう」
三人は走しり出した。瓦礫の山の上に遼たちがすでに立って、その光の柱を見上げていた。
走るナスティの手から、花がこぼれ落ちた。花を地に落とすまいとナスティは手を伸ばした。
生ぬるい風に泳ぎながら花は落ちていく。
花は――色褪せて、枯れて、その形を留めることなく、消えていった。
「…………」
言葉もなく、その様子を見つめていたナスティの耳に、当麻の怒声が響いた。
「ナスティっ、何をしている。早くっ!」
慌てて、当麻と伸の後を追うナスティの耳に、白炎の深い悲しみにも似た咆哮が再び届いた。
随分と後になってからのことである。
妖邪との戦いに終止符を打って、『鎧』を在るべき場所に返還してからの事である。
「あの時、どうしてナスティのピアノで、新宿の街の空気が浄化されたのかって、不思議に思ってたんだけど、今になってやっとその理由が判ったんだ」
当麻の言葉にナスティはきょとんとした表情で当麻を見上げた。
「ほら、ナスティが花を見つけてさ」
「ああ、あの時ね」
ナスティは思い出した様子で、笑って頷いた。
「そうそう。伸に怒られちゃったのよね。こんな時にって」
クスクスと笑いながら、ナスティは言う。
そんなナスティの横顔を見つめて、当麻は考えた。
この『人間』の存在が、自分たちを守ってくれていたのだと。
一つ間違えば、妖邪と変わらない修羅と化していたかも知れない自分たちを、ナスティと純は守ってくれていた存在だった。
自分たちが『人間』であることを忘れさせない為に、二人が存在していたのだと。
足手まといだと思わせといて、その実、彼女たちは救いの手であった。
ナスティの膝で眠る純の姿に。
戦場で呑気にピアノを奏でるナスティの姿に。
闘う術を持たずに、妖邪に立ち向かう姿に。
本当に守るものが何であるか。
何故闘うのか、その理由を。
言葉ではなく、その姿で教えてくれていた。
「それで、何が判ったのかしら? 新宿の空気が浄化されていたなんて、私は初耳だわ」
問うようナスティは当麻の顔をのぞき込む。
当麻は前髪をかき上げると、一つ大きく息を吐き出すと、
「当たり前のことだったんだよ」
と、笑って言った。
当麻の言葉にナスティは目をしばたかせたが、
「そう…」
と、頷いただけであった。
「当たり前のこと…ね」
優しく微笑みながら、ナスティはそれ以上の事は言わなかった。
たぶん、それは、自分は知らなくても良い事なのかも知れないと思ったからだろう。
何が当たり前の事なのか、今となっては過去の事なのだろうから。
二人の間に風が吹いた。
あの時とは違う暖かく優しい風だった。
春の風を頬に感じながら、ナスティは、コンクリートの隙間に生える花を見つけた。
この風に揺れることはあっても、枯れることはない花。
その為に、彼等は戦った。
多くの犠牲があった。
人が滅びる時は、人自身の過ちによってであり、決して、妖邪の手によってではないことを戦いに関わった者達は身を以て知ったのだ。
二人の遠く前から手を振る人影が幾つか見えた。
伸と遼と純であった。
揺れる風の中に、誰も知らない戦いに身を投じた人々の姿が溶け込んでいく。
野辺の花は、行き交う人々の足下で、小さく揺れていた。
それが『幸福』というものであるかのように。