『笛』
「ねぇねぇ、朱天」
鎧伝説にまつわる古文書を読む朱天に、純の明るい声がかけられた。
少年はすっかり朱天に懐いたようで、手に錦の包みを持って、朱天の隣りへと座った。
「これ、吹ける?」
そう言って、純は縮緬の包みから、一本の横笛を取り出した。
「これ、物置に入っていたんだ」
「良いのか、勝手に持ち出しても?」
苦笑まじりに朱天が言うと、純は、
「大丈夫。これ見つけたの、当麻兄ちゃんだもん。お姉ちゃんも構わないって言ってたし。ね、この笛って昔の物なんだって。お兄ちゃん達、誰も音を出すことが出来なかったんだ。僕も挑戦してみたけど、全然駄目でさ。朱天なら音を出せるんじゃないかと思って」
純は期待に満ちた目で言うと、朱天の前にその笛を差し出した。
一見したところでは、確かに古いものであるが、手入れはされているらしく、漆の美しい光沢がある。書物を膝の上に置くと、朱天はその笛を丁寧に受け取った。
「銘があるな」
笛の側面を見て朱天は呟いた。
「めい?」
「この笛の名だ。ほら、ここに字が彫られているだろう」
「これ、字だったの? 僕、キズかと思ってた。何て書いてあるの?」
「枯野とある。何とも寂しい銘をつけたものだな」
朱天はそう言うと、小さく笑った。
不思議そうに純は首を傾げた。
「
笛には、風や植物の銘をつける事が多い。もしくは、作った者の名をそのまま銘にすることもある。刀や槍には強い響きのある銘をつけるであろう? 楽の器には風雅な銘を与えるのだ」
朱天の説明に、純は「へぇ」と短く答えたのみである。おそらく半分も良く判っていないのだろう。が、すぐに気を取り直すと、朱天に吹いてみせてよと強請った。
「私は……、あまり楽の事には明るくはないのだが…」
珍しく言い澱む朱天であったが、純はとにかく音が聞きたいのだ頼んだ。
「では……」
苦笑まじりに朱天は、笛を指に持つと、ゆっくりと唇へと近づけた。
空気を裂くかのような甲高い音が数秒ほど響いたかと思うと、確かに音階のある調べが室内の空気を奮わせるように奏でられた。
五線譜でいうなら、ほんの一小節か二小節程度である。
「驚いた……」
そう言ったのは、書斎を離れていたナスティだった。
ドアのところに立ちつくして、朱天と朱天の手にある笛を見比べて、本当に驚いている様子だった。
「お姉ちゃん?」
「その笛、本当に音が出たのね」
真面目な表情で言うナスティに、朱天は目を瞬かせると、小さく笑った。
「音は出ぬわけはないだろう? ──その、君らは横笛の吹き方を知らなかっただけかと」
ナスティは微笑いまじりに頭を振ると、朱天の側に来ると、
「その笛は、本当に音が出なかったのよ。とても気難しがり屋さんで、人を選ぶんですって。だから、誰も音を出せなくて当然だったの。朱天は、枯野の君にお許しを得る事が出来たのね」
「なぁに、それって、どういう意味?」
「純は聞いたことない? 昔の楽器とか名作と言われる楽器は、弾き手を選ぶという話を。ピアノやヴァイオリンでも、その楽器自体が奏者を気に入らなければ、綺麗な音をちゃんと出さないってことよ」
「楽器なのに?」
目を丸くする純に、ナスティは笑みは深くして頷いた。
「判りやすいところで言うと、遼達の鎧は、遼達でないと力を発揮しないでしょ? それと同じことよ」
「じゃあ、朱天は笛に認められたんだ。そういう事だね」
二人の言葉に、朱天は困ったように視線を泳がせた。二人が言うように、大層な事では決してないのだと言いたかったが、下手に言えば、この笛の気難しさを信じているナスティに悪いような気がした。変わりに話題を変えることにした。
「枯野という銘があるが、笛の銘にしては、寂しい名だと思うのだが」
「そうね。薄風という対があるとだけ聞いた事があるのだけれど、それ以外の事はお祖父様も笛の云われを知らないのですって。それはもともと、亡くなったお祖母様の品だったのよ」
「薄風……?」
「これも寂しい銘でしょう? ね、もう一度吹いてみて。私も笛の音を聞くのは初めてなの」
満面の笑顔で、ナスティは言った。
ちらりと横を見れば、純も期待に満ちた目を向けている。
「……私は、楽のことは不得手であって……」
「あらぁ、そんな事ないわよ。だって、さっきの音もとても綺麗だったわ」
ナスティはそう言うと、デスクの椅子を動かして、朱天の座るソファの前に座った。すっかり観客モードである。
何やら、これ以上頑なになっていても事態は好転しないと判断した朱天は、諦めたように笛をもう一度唇に寄せた。
吹ける曲など一曲か二曲。それも大昔の話であるから、聞く者が聞けば、なんと拙い音だと笑われるだろうが、ありがたい事に耳の肥えた者はいない。
朱天は少年の頃に良く吹いた一曲をゆっくりと奏でたのであった。
枯野という寂しい銘をもつ笛とは思えぬ、心地よい旋律が柳生邸の書斎に暫しの間聞こえていた。