『偲』
迦遊羅と螺呪羅が、久方ぶりに人間界へ下りたのは、人間界に残存する時空の歪みを修正する為であり、用が済めば己が世界へ戻る事になっていた。
門を喚ぼうと現世に影響のない山の奥深くへと移動した二人が目にしたのは、深紅に染まる大地であった。
「まぁ、見事な」
その風景を一目見るなり、迦遊羅は感嘆の声を発した。
「椿の森だな」
迦遊羅ほどではないが、螺呪羅もまたその光景に驚いた。
地に落ちた花と花びらで紅く染まった其処は、椿の木ばかりが乱立していたのである。
花の盛りに訪れれば、さぞ見事な濃緑と花を見る事が出来ただろう。だが、花の季節は少しばかり過ぎたようで、木にはもうあまり花はついておらず、ほとんどが地に落ちていた。
それを残念がるように迦遊羅は嘆息すると、
「もう少し早ければ花の盛りを眺める事が叶いましたでしょうに」
と、苦笑まじりに迦遊羅は呟いた。
「椿の群が見たいなら、明日にでもお主の館の周りに椿を用意させるぞ」
くつくつと笑いながら螺呪羅は言う。
それが叶う世界に暮らすのだから、迦遊羅も「ご冗談を」などとは言わない。ゆるりと頭を左右に振ると、螺呪羅の申し出をやんわりと断った。
「わたくし、椿は嫌いです。ですから、椿はいりません」
「嫌いなのか? 花の盛りを見たいのかと思ったに」
「一時の間、花を愛でるのは良いのです。ですが、長の時間、この紅い花を目にするのは苦しい」
迦遊羅はそう言うと俯いた。
「紅い花は、朱天殿を思い出させます」
小さな声に、螺呪羅は軽く目を見開いた。
少しの間、螺呪羅は迦遊羅の俯き加減の横顔を見つめ、そして椿の森へと視線を移した。
落ちた花びらは、黒く変色しかかったおり、否応なしに血を連想させる。
異様な光景だと、螺呪羅は思った。
最初に見た時は、美しいと思った。花の盛りの頃なれば、もっと美しいに違いないと思えた。
が、少しすると、この森は異様だと思った。
何故、椿ばかりなのか?
自然による偶然の結果なのか、それとも何者かの意図によるものなのか、それは判らない。
どちらにしても、この森は異様でしかない。
「未だ、気に病んでおったか…」
ややして、螺呪羅は言う。
「気にするでないと、申したであろうに」
螺呪羅の言葉に、迦遊羅は困ったように瞳を揺らした。
「そうは申されても、やはり……」
言葉が澱む迦遊羅の気持ちも判らなくはない。
事実、朱天の死は苦いものを螺呪羅達の間に残した。彼にしてみれば、そんなつもりは毛頭なかったのだろうが、残された者は悔いが残った。
如何に阿羅醐に意思を操られていたとはいえ、朱天は再三に渡って魔将を説得した。その言葉に耳を貸さずに、戦い続けた結果が、朱天の死であった。
悔いはある。
だが、その死に責任も悲しみも感じた事はない。
そう言えば、迦遊羅は薄情だとか冷淡だと詰るかも知れないが、不思議に朱天の死について悲しむ気持ちはもとよりない。あるのは、ただ申し訳ないという気持ちがあっただけだ。
胸中に湧いたその気持ちも、直ぐさまに別の感情へと変わった。
羨望だ。
完全なる死を手に入れて、二つの世界から決別した羨ましさ。
「あれは、存外に自分勝手な男だ。たまたま、お前の為に命を落としたかもしれんが、それを気に病む必要はない。あれは望んで死んだのだ。死に方がちと本意ではなかっただろうがな」
螺呪羅はそう言うと、迦遊羅の頭をくしゃりと撫でた。
「相変わらず、お口が悪いこと」
「何、本当の事だ」
苦笑まじりに迦遊羅が言えば、螺呪羅も唇に笑みを乗せる。
「では、朱天殿はどのように死にたかったとお思いですの?」
「さてな。そこまで俺は判らぬ。だが、朱天は俺とは違って身分のある家に生まれた男だ。小国とはいえ、あれには継ぐべき家名と、治めるべき領民が存在した。そのような家に生まれた武士は、勝手に自分の死に頃というものを決める事がある。戦で死ぬか、自ら腹を切って死ぬか……。たとえ、あの後を生き残っていたとしても、朱天の奴は身辺綺麗に片づけて、勝手に腹を切っていたかも知れぬということだ」
螺呪羅はそこで一度嘆息した。
「だから言ったであろう? あれは自分勝手な男だと?」
迦遊羅は何も言わない。
何も答えられないというのが正直なところだ。
「螺呪羅殿、花を用意してくれると先ほど申されましたな?」
「言ったが。……椿は嫌なのだろう」
「気が変わりました。白い椿を用意して下さいましな。その中に一本だけ紅椿を入れて下さいませ。さぞ、映えて美しい事でしょう」
迦遊羅の言葉に、螺呪羅は薄く笑むと、
「承知した」
と、短く答えた。
真っ直ぐに一本気な男だったと、螺呪羅は朱天を思い出す。
美しいとも思った。
彼が妖邪界へ来た日の事を、螺呪羅は今でも覚えている。手柄を立てる事だけに気を取られる螺呪羅たちとは違い、朱天は一人落ち着いていたように思える。
だが、それも長くは続かなかった。妖邪界に取り込まれ、記憶を奪われても、朱天は己の矜持までは阿羅醐に委ねはしなかった。それに痺れをきらして、連日のように朱天は芭陀悶と地霊衆によって呪をかけられ続け、ついには狂気に墜ちた。
それでもなお、彼は武士で在り続けたと、螺呪羅は思う。
狂う様も美しかった。
紅の髪を翻しながら戦う姿は、まさに椿の華のような美しさがあった。
阿羅醐に見初められる事がなければ、あの小さな国を守る為に日々戦い、そして死んだのだろう。もしかすれば、豊臣の目に叶い出世して後世に名を残したかも知れない。
だが、大名家の祖となる朱天は、螺呪羅には想像がつかない。やはり、小国の悲劇を背負って、織田か豊臣勢に討たれて死ぬのが似合うように思う。
紅の椿を、螺呪羅は自分の局の庭にも植えた。
紅椿を眺めて、そうして頑なだった一人の武士を思い出しながら、酒杯を傾けるのも一興だと思ったからだ。