『月』
随分と、遠くへ来てしまった。
彼はそう思った。
目の前を通り過ぎていく、車の流れを彼は飽きる事なく見つめていた。
此処は街から離れた、山間の道だった。道は、硬い灰色の何かで覆われており、白い線が延々と引かれている。
白く細い鉄棒には白い板と円板がとりつけられており、その近くには露台のような長いものが置かれている。
後になって、それが”バス停”であるものと聞いた。露台のようなものは、”ベンチ”と呼ばれるものあり、”バス”とやらを待つのに人が座るのだとも。
蓬色の縞模様をした大きな箱のようなものが、道の向こうから現れると、緩やかに彼の前に停まった。彼が立っているのは、その”バス停”というものであったが、彼はそれが何であるか、未だ判っていなかったので、その箱のようなものが自分の前で何故動きを止めたのか判らなかった。
箱の中から、腰の曲がった老人が、おぼつかない足取りで降りてくる。
背中に袋のようなものを背負い、杖をついているその老人は、珍しそうに彼を見ると、
「へぇ、雲水さんなんて久しぶりに見たねぇ」
と、言った。
箱の中から、丸いものを両手で握っている男が、
「お坊さんは、乗るのかい?」
と、聞いてきたので、彼はゆるりと首を振った。
「いや、お気遣い無用」
そう言うと、男は少し驚いたような顔をしたが、すぐに箱の出入り口らしき場所は、奇怪な音を立てて閉められた。
箱のようなものは、現れた時と同様に緩やかに、彼の前を走り去って言った。黒い煙を吐き出しながら去っていくそれを見つめながら、彼は深いため息をついた。
まったく、今の世の中は判らないことが多すぎる。
道を走るもの、空を飛ぶもの。
じっと立っている雲水を、修行僧だと思った老人が、
「雲水さんは、妙光寺さんの新しい住職さんかねぇ?長いこと和尚さんが留守だったから、村の連中も困っておったんだが。新しい住職さんが来るって話は聞いてなかったが、急に決まったんかね?」
老人は笠に隠れた彼の顔を下からのぞき込むように問うてきた。
「申し訳ない。旅の途中故のことで、その妙光寺とは縁(ゆかり)のない者だ」
「なんでぇ、そりゃあ残念だ。まぁ、ここで会ったのも縁(えん)だと思って、良かったら寺へ行って仏さんを拝んでって下さいな。お頼み申します」
老人はそう言って、手を合わせた。
「承知した」
彼はそう言うと、何時までも此処に居ても仕方がないと、老人に軽く会釈をして止めていた足を動かした。
後ろの方で老人が、
「今時珍しい古風なしゃべり方をするお坊さんだねえ」
と呟いたのが聞こえた。
彼は軽く笑みを漏らした。
「さて―――」
これからどうするべきか? そう思いながら、空を見上げた。
これからどうすれば良いのか、それは錫杖が教えてくれる。
新宿から姿を消した妖邪帝王が、このまま何もしないわけはない。直ぐに妖邪界は動き出すだろう事は、彼にも容易く予想できた。
その前に、彼は一度だけ自分が生まれ育った土地を見てみたいと思った。
永い時の中で、故郷はもう存在していないだろう。
今にして思えば、小さな領国だった。
京の摂関家と縁戚な事が取り柄の家柄だった。母は、ただ生きる為だけに父の元に輿入れしてきた貴族の姫であり、無駄に気位の高い女だったことを覚えている。公家といっても、荒廃した京では身分など何の役にも立たない。
だが、おかげで本来なら覚えるはずもない教養を身につける事が叶ったわけだ。歌に茶の湯──香の合わせ。
武士には必要なきことぞ! と、父は渋い顔をしていた。
「太郎君は、武士とは申せ、摂関家の血筋でもございます。いずれは御所に上がる事もありましょう。父上が何と申されようと、御所で主上にお目通り叶った時に、そなたが恥をかいては、母の恥でもあり、母の家の恥ともなるのです」
摂関家の血筋を誇りにしていたが、末端も良いところの貧乏貴族の娘だ。それが、生きるためにと、田舎武士の妻になる道を選んだ。摂関家の血筋を支えにしなければ辛かったのだろう。
口に出さずとも生きる糧を得るために武士の妻になった事を後悔しているようであり、夫を蔑んでいるようでもあった。
官位もない武士が、御所に上がることなどあるはずもないのに、母は御所に上がった時の事をやたらと案じていた。
山城辺りの小さな領主が、帝に拝謁する事などあるはずもないのに。
本当に、どうでも良いことばかり覚えていると、彼は苦笑を漏らした。
妖邪界と阿羅醐の呪縛から解かれて後、迦雄須の錫杖を引き継いだ。気がついた時、何処とも判らぬ山奥の森の中にいた。
旅支度を整えてから、彼はとにかく歩くことにした。そうして、あてもなく歩き続けていると、永い事忘れていた生国での事が、つい昨日の事のように思い出されてくるのだ。
村の子供らと一緒に猪を追いかけたこと。
元服をした時のこと。
嫁は細川家縁の姫を貰いうけることが決まっていたこと。
秋の夜、満月の明るい光の下、薄野原で五歳上の乳兄弟が、嫁女に子が出来たと嬉しそうに話してくれたこと。
昔の面影もない灰色のコンクリートで堅められた道を歩き、工場から出る黒い噴煙に空が汚れて、鉄の塊としか思えない物が道を走り、空を飛ぶこの時代に在って、彼は何故か生国での事ばかりを思い出していた。
若さま。若殿様――俊忠様と、そう呼ばれたのは、すでに四百年以上も前の事だ。にも関わらず、つい昨日の事のように鮮明に、童の頃をただ思い出していた。
「朱天、何してるの?」
テラスで錫杖を片手に座っている彼に、純は屈託なく声をかけた。そうして、手に持っていたグラスを差し出す。
「リンゴジュースだよ。晩ご飯、もうすぐだって。お姉ちゃんがそう言ってた」
差し出されたグラスを受け取ると、朱天は無言で頷いた。そして、グラスの中身をじっと見る。甘い果実の匂いがするが、こういうモノは飲んだ事がないので、少しの躊躇いを覚える。
「大丈夫だよ。無添加果汁100%だから」
そう言って純は自分のグラスに口をつけた。
少年が飲んだのを見て、朱天は一口その飲料を口に含む。
「甘いな」
短い感想に、純は、
「そう? 僕は酸っぱいくらいなんだけど、お姉ちゃんは100%のジュースしか飲まないんだ。添加物や糖分が多いジュースは体に悪いからって」
「良く判らない……」
そう言って、朱天は苦笑した。
目にする風景は元より、手に触れるもの、口に入れるもの全てが、自分が生まれ育った時代とは違う。この時代の人間には、粟や稗など人間の食べるものではないのだろう。
新宿で、烈火と天空を妖邪界へ行かせた後、朱天はナスティと純に請われて行動を共にする事にした。
錫杖のそれは意思であり、朱天の意思でもあった。
二人は勇敢であり、烈火たちを心から信頼しているが、妖邪界と深く関わってしまった以上、何事もないとは言い切れない。
二人のうちいずれか、または二人ともなのかは判らないが、迦雄須一族と何らかの関わりがあることを、朱天は錫杖を通じて感じていた。
滅びた一族の、僅かな生き残りの子孫なのだろうかと、朱天は考える。そうであれば、妖邪界と鎧の知識を持っていることも頷ける。
それ故の不幸もまた然り。
「今日は満月だね」
純が言う。
「そうだな」
朱天は夜空に煌々と輝く満月を見上げて相づちを打った。
月だけは昔も今も変わらない。
否。空に在るものだけは変わらないのだ。太陽も、星も、何百年の時を経てようと、変わってはいない。変わったのは空の色。空の下に存在するもの。
「あのさ……」
月を見上げたままの朱天の顔に目をあてて、純はおずおずと声をかけた。じっと見つめる瞳だが、言葉には躊躇いがある。聞いて良いものかどうか思案している様子なのが判ったので、それを助けるつもりで、
「構わぬから、言うてみよ」
と、先を促した。
「え~っと、気を悪くしないでね。あのさ、朱天は戦国時代の生まれなんだよね?」
「この時代から言うと、そういう事になるな」
「織田信長とか徳川家康とか知ってる? 会ったことある?」
純は期待に満ちた目で朱天に質問した。
その純粋な好奇心に満ちた瞳を見つめ返し、少しの間をおいて朱天はゆるりと首を振った。
「すまぬが、知り合いではないな。いや、知ってはいるが知らぬ者だな。私がまだ現世(うつしよ)に居た頃は、三好と松永久秀が権勢を誇っていた。私の家はもともと義教様の頃に領地を賜り、幕府にお仕えする家柄であったので、幕府からのお使者が館を訪ねてきていたのを覚えているな」
「幕府っていうと、ええ~……っと?」
「足利幕府だ。私の頃は義輝様が将軍職におられたと記憶している」
朱天の言葉に、純は肩を竦めると、
「良く判らないや」
と、言った。
「うむ。実のところ私も良く判らぬ。世の中は常に乱れ、血筋や家柄など何の役に立たぬ。将軍家は名ばかりとなり、御所の帝も大変心細い身の上になっておられたと聞く。私などはまだ若造で、政のことも都の有様のことなど、気にもとめていなかったのだが、今ともなれば、よくよく耳を傾けておればと良かったと思うばかりだ」
「ううん、違うよ。僕が良く判らないって言ったのは、そういう意味じゃなくてね」
「それはすまぬ。では足利尊氏様の事から話そうか? 足利幕府の祖となられたことは純でも知っていると思うが―――」
「待って、待って。えっと、タカウジサマって知らないし」
「え?」
驚きに目を丸くする朱天であったが、軽やかな笑い声が二人の耳に届いた。ガラス扉のノブに手をかけて、ナスティが肩を震わせて笑っていた。
「なんだよ、お姉ちゃん! そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
「ごめんなさい。で、でも可笑しくって」
ナスティは必死に笑いを押さえこみ息を整えると、
「純にはまだ南北朝はちょっと難しいかも知れないわね。でも、室町幕府といえば純にも聞いたことあるでしょ?」
と、言った。
「室町幕府は知っているよ。教科書に載ってたもん。あれ? じゃあ足利幕府って室町ともいうの?」
「どちらとも正解よ。でも、もうちょっと勉強が必要ね。難しい話は後にして、ご飯にしましょう」
ナスティは笑いまじりに言うと、階下へと消えて行った。
純は少しばつの悪そうな顔したが、すぐに真面目な顔をして朱天に向き直った。
「僕ね、戦国時代っていうと織田信長とか豊臣秀吉とかぐらいしか知らなくって、それで聞いただけなの。だって、織田信長って有名だもん。ゲームとかマンガともにも出てくるしね。だから、本物の織田信長ってどんなのかなあって思ったの。でも、タカウジサマってのも勉強するよ」
純は言うと、照れ笑いを浮かべて、朱天に手を引っ張った。
「ご飯だって。行こう」
「ああ」
朱天は笑みを返して、純の手を握った。
子供特有の稚い手の柔らかさに、ふいに目の奧が熱くなった。
ああ――この幼子のなんと愛しきことか。素直で純粋なこの心は、己が”人間”であったことを、ふいをつくように思い出させる。
童たちと遊んだ日のことを。幼い妹を泣かせて乳母に叱られた事。
乳兄弟と幼なじみの娘が祝言を挙げた日の、なんとも寂しくも苛立たしい気持ちを抱いたことも。
過去を思い出すということは、何と幸福なことだろうと思った。己はまだ”人間”だという事のこれが唯一の証だ。
朱天は立ち上がって、幼い手に引かれて邸内へと戻る。
そうして、昔も今も変わらないものがあることに気づく。
「何時の世も、幼子は知りたがりなのだな」
手を引く純の旋毛を見下ろして、朱天は呟いたのだった。