『雨』
まだ、八月。
あと、十日ほどすれば、九月。
雨と風に少しばかり冷たさを感じるのは、此処が山の中腹だからだろう。
湿気が全くないとわけではないが、山の空気は清々しく、肌に気持ちが良い。
山中湖公園の四阿に、征士はナスティと二人でいた。俄に降り出した雨を凌ぐ為に此処に避難していた。
ナスティの共で買い物に出たものの、帰り道に降られてしまったからである。
「誰か気をかせて迎えに来てくれればいいのに。やっぱり携帯は持って出なくちゃ駄目ね」
濡れた髪を指先で梳きながら、ナスティは苦笑まじりに呟いた。
木のテーブルには、大きなスーパーの袋が三つ並んである。
「直ぐに上がるだろう」
征士は空を見上げて言う。
ことさらナスティの方を見ないのは、濡れたシャツに下着の線が濃く浮き出ているからである。
四阿がまるで雨に閉ざされたかのように、二人の間には奇妙な沈黙があった。
特に会話が弾むわけでもない。
二人とも、言葉少なに、ぼんやりと雨に煙る公園の景色を眺めていた。
こんな時は────と、征士は考える。
伸なら、何を話すだろう。当麻なら、秀なら。自分以外の誰かなら、彼女とどんな会話をするのだろう。
二人でいる時は、ナスティが一方的に喋っているだけである。
以前から、何を喋っていいのか良く判らなかった。
それでも、今は以前よりも上手く会話をしているように思えた。皆と一緒だと感じない焦燥感を、二人だけでいると感じる。
それが息苦しくもあり、何処か甘い感情を征士に抱かせる。
ふいに、ナスティが歌を口ずさむ。
何処かで聞いた事のある旋律だった。
「この曲、知っていて?」
翠色の瞳を向けて、ナスティが聞いてきた。
彼女の細く澄んだ声に、その旋律は似合っているように征士には思えた。
「さぁ………。聞いた事はあると思うが」
素っ気のない征士の返答に、ナスティは笑みを零した。
「映画の主題歌なんだけど、何の映画か忘れてしまって。さっき、スーパーで流れていたのよ。タイトルが思い出せないから、ネットで検索もできないわ」
ナスティは、肩を竦めて溜息まじりに言った。
「もしかしたら、知っているかなって聞いたけど、やっぱりね」
と、人の悪い笑みを浮かべて言うナスティに、征士は露骨に眉間を寄せた。
「失礼な。私だって映画くらいは観る」
「どんな映画を観るの?」
「え?」
「映画くらい観るんでしょう? 何を観ているの?」
「……いや……その」
「教えてくれないと、映画に誘えないじゃないの。今度、純と一緒にアニメ映画を観にいくつもりなんだけど、貴方もどう?。最近流行っているんですって、そのアニメ。タイトル忘れたけれど」
「……私は良い。遼か秀を誘えばいいだろう」
征士は顔を背けて言った。
「付き合いが悪いわね。そんな事じゃ、何時までたっても彼女が出来ないわよ?」
「なっ」
ナスティの言葉に、征士は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、今度は不機嫌を露わにして顔を背けた。
ここで軽く受け流す事が出来れば良いのだが、生憎と征士はそういう事に器用ではなかった。
だが、ナスティは気にした様子もなく、小さく笑みを零すと、再び歌を口ずさんだ。
何処かで聴いた旋律だ。
有名な曲なのは、征士にも判る。
「ムーンライト・リバーよ。オードリー・ヘップバーンの映画」
歌を止めて、ナスティが言った。
「知っていて聞いたのか?」
不機嫌そうに言う征士に、ナスティは、首を左右に振る。
「違うわよ。……今、思い出したの。ティファニーで朝食を、っていう古い映画よ。征士が知らなくても当然な映画だわ。絶対に観ていないと思うもの」
ナスティの言葉に、征士は素直に頷いて見せた。今あがった女優の名前も、映画のタイトルも認識度は低い。さすがにオードリー・ヘップバーンという女優の名前は知っているが、映画までは観たことはない。
実のところ映画というものも、それほど頻繁に観ることはない。せいぜい学校での行事に観る程度だ。
「そうだわ、明日は皆で映画を観ましょう。レンタルショップで、皆で一本づつ好きな映画を借りるのよ」
「…………」
「貴方の、映画の趣味がこれで判るわ」
我ながら上手い考えだと思ったのか、ナスティの顔は嬉しそうだ。
征士は、何とか言おうと思考を巡らせるが、言葉が見つからない。ここで自分だけ参加しないと言えば、ナスティだけでなく、伸たちにも何を言われるか判ったものではない。
「困ったものだ」
つい、口に出してしまった言葉に、ナスティが首を傾げた。
「何が困ったの?」
問われて、征士はしまったと、露骨に表情を歪ませたが、すぐに、
「ナスティの他に何がある? そうやって、人をすぐにからかう」
と、言った。
「からかってなんかいないわよ」
「そんなことはない」
「違うわよ。征士の融通のきかない性格を少しでも柔軟にしてあげようとしているのよ」
ナスティはそう言うと、鈴を転がしたように笑った。
征士は嘆息すると、雨に煙る公園へと視線を向けた。遠くに見える入り口から、人が来るのが見えた。見覚えのある傘と、左手に持つ二本の傘が、柳生邸からの迎えだと直ぐに判った。
傘に隠れて顔は見えないが、背格好から当麻に違いない。
もう少しだけ、二人で居たかった。
と、征士はちらりと思い、そして苦笑した。
らしくない感情だと我ながら思ったからだ。
征士は、テーブルに置いてある荷物を持つと、当麻の名前をことさら声高に呼んだのだった。