魚上氷突然だが、骨折草臥は驚愕している。
それは、例えるのならば「爆睡していた所になんの前触れもなく、氷水が入ったバケツを頭上でひっくり返された」と言っても過言では無いほどに、俺は不意を突かれたのだ。
「やるじゃん」
成る程、とても軽々しく仕返しをなさる。
しかしここまで言っておいてなんだが、先にやったのは此方なので所謂これは棚上げになる。口には出していないので棚上げカウントはされていないが、少なくとも俺の中では「あ、今上げちゃったな~~」ぐらいの気持ちではある。
この間、2秒。つまりは海棠さんが俺の指に口付けをして、俺が口を開くまでのほんの一瞬だ。
「……うわ、海棠さんがすると思ってなかったから、骨折草臥はびっくりしたぞ」
「そりゃよかった。どれぐらいびっくりしてくれた~?」
「寿命が3年ぐらい縮んだ~」
「はっはっは、そいつぁすまなかった」
「すまないと思ってる顔してないぞ!!」
「バレちまった」
ケラケラと目の前で軽快に笑う彼女は、やはりどこをどう見てもすまないとは思っていないらしい。原因の一端としては、俺が特に表情や態度を変えない……と言うのもあるかもしれない。いや、もしかすると変わった所で今と大差は無いのかもしれないが。
「(変わらないんじゃなくて、変えないようにしてるだけなんだけどなぁ)」
──そんな事を一人思案している俺に、棚上げカウントを加算。
「かいどーさーん。そろそろ手、離してほしいなぁ~」
「ん、悪い悪い」
「いいよぉ~許すぅ~」
ぱっ、と解放された右手から遠のいていく体温が仄かに物寂しい。とは言っても、解放してくれと頼んだのはこっちなのだが。
さて実の所、こう見えてかなり動揺している。早々に手を離すよう頼んだのもそれが影響しているわけで。晴れて自由の身となったこの右手を彼女の領域から自分の領域まで移動させる頃には、表面に残っていた彼女の微かな温度はとうに消え去っていた。
しかし、あの時からわずかに解け始めていた氷へ与えるには、十分過ぎる熱ではあった。解け広がっていく波紋に触れて、微かに眉間に皺が寄る。
「あ、そう言えば海棠さん」
「ん?」
「なんと今日も海棠さんにプレゼントが~~はいこれ」
あたかも今思い出しましたと言わんばかりの声色で話題を切り替え、紙袋をそっと目の前に差し出す。中身の説明を事細かにする必要が無いということはよくよく理解している。そう、何と言ってもこれをプレゼント──正確にはプレゼントではなく返却になるんだけど──しに来るのは、すでに両手では足りない程の回数を重ねているわけだ。とどのつまりこれは"デイリーイベント"なわけである。
差し出された紙袋を一瞥した海棠さんは、にやりと口元を歪めた。
「おーおー、懲りないねぇ。そろそろそいつもいじけるんじゃないか?」
「これがスーツとかだったらありがたく受け取ってたぞ」
「その台詞も、何回目だ」
「持って来るたびに伝えてる気がするから……あー、数十回目?わー、骨折君頑張ってるなー」
ふいと、拗ねるように顔を背けてみると、耳に届くのはやれやれ仕方がないと言わんばかりのわざとらしいため息。言外で丸聞こえなわけだが、恐らくは故意だ。やれ困っただの仕方がないだのと表すその表情、その大袈裟な動作で意思を疎通しようというものだから、それなりに信頼はされているのだろうか?正直な所、俺は彼女が普段どの様にして他人と接しているかを知らないので、もしかすると元からそういうタイプなのかもしれない。
そして、ここで棚上げカウントが更に動く。態度で示すのは俺も同じ。ある種の甘えなのだろうか。あ、今ちょっと自分で言って恥ずかしくなった。
「今日もご苦労さん」と、差し出した紙袋を受け取ってもらえた所で本日のイベントは終了である。奇怪な事に、今しがた手渡したあの紙袋。おそらく俺が自宅に戻る頃にはさも当然のように部屋にいることだろう。俺が探索者のままだったら間違いなくSANチェックものである。しかしながら、今の俺は非常に不愉快なことにシノビなので、精神的ショックは起こらない。精々「わー、びっくりした~~」とオーバーリアクションをする程度である。
「さて、じゃあ……」
じゃあ帰る。そう口から出る前に、ふと思い出した。そう言えば最近増えたデイリーイベントがあったな、と。
「……」
「お?何だどうした腹痛か?」
解け落ちた水はただの一滴ですら何かしらの影響を与えてくる。持続的に広がり続ける波紋はいつか薄れ消えはすれど、まだ消えるには時間が足りなかった。──足りなさ過ぎたのだ。
氷が溶ければその分水が生まれる。または比喩として春の訪れにも使われることもあるだろう。暖かくなった日差しを浴び、厚く凍てついていた氷が薄くなり、割れ、波打つ水になる。冷たく刺すような硬い氷と違い、水はいとも容易くその形を変え流れていくものだ。
右手を腹の辺りへ持って行き、前屈みになる様に顔を下げ、背中を丸める。「あ、あの人お腹痛いんだ…」の完成である。
まあ腹なんて痛くも痒くも無いんだけど。
「わー、お腹痛い~~」
「やだー、大槌群特性お薬いる~~?」
「欲しい~~」
ガサガサと服を探る音が耳に届く。いつでも何処でも薬や道具を持ち歩いている所は流石大槌群と言ったところだろうか。
目的のものが見つかったのか、「おっ」と、小さく声が上がる。
「楪さんからのサービス」
「身に染みるサービスだーー」
語尾にハートの一つや二つがおまけされてそうな声色でそういわれ、手を差し出されるのが視界の端で見えた。目線だけをそちらへとよこすと、その掌の上には一粒の錠剤。色についてはノーコメントだ。
腹部に当てていた右手でその錠剤を摘んで受け取れば、仕事を終えたと言わんばかりに差し出されていたその手が引っ込む。
──その腕を掴む事はひどく簡単だった。
本日二度目の驚いた表情を浮かべる彼女を横目に、掴んだその腕を少し持ち上げて、白衣越しにそっと唇を押し当てる。ひんやりと冷たい白衣が、俺を冷静にしてしまう前に離れてしまえば、これにてデイリーイベント(特殊編)は終了である。
「びっくりした分のお礼」
「おま、」
「じゃ、そういう事で」
何か文句でも言われる前にその言葉を断ち切る様にして声を重ね、その場から立ち去る。今シノビで良かったなと思えてしまうほどには、俺は恐らく落ち着いてはいないのだろう。
「困ったなぁ」
などという言葉は、仄かに顔を赤くした探索者のつまらない独り言だ。
七十二候の三
魚上氷 ―うおこおりをいずる―