蚕起食鍬「…………」
意識が浮上する。
目だけでさっと周囲を伺えば、此処が見慣れた寝室である事に気が付いた。さも当然の、ごく当たり前の事を何故毎度毎度気にしなければならないのだろう。……そういう運命だからだ、と。一蹴されてしまえばそれまでの話なのだが。
多少の起き辛さを覚えながらも上体をもそりと起こし、枕元の時計を確認する。カチカチと定期的なリズムを刻む事なく淡く光りながら日付も表示するそのデジタル時計は、数時間前に見た筈のあの時から変わらず動き続けている。
──五月二十一日、7:45。
昨日床についた、その翌日である事を確信した。俺はまだ、"あいつ"と代わってはいないらしい。代わってたところで、別段困る話はないのだが。
軽く頭を振り、広いベットの隣──言ってしまえば俺の真隣──を確認する。起床時のお決まりとなったこの行動に、最早意を唱える事もない。
「……」
其処には、陽の光を吸い薄く光る細やかな緑髮が広がっていた。先端部分をクリーム色に変えたその特徴的な髪の持ち主は、べったりと俺の腰付近に腕を回し離れる気配もない。鳥の囀りだけが微かに耳に届く程度の静寂を、目の前の男が穏やかな寝息で薄く破り捨てていく。
「(動き辛ェな……)」
上下する掛け布団を尻目に、左手で静かにその髪を梳くように撫ぜてみると、さらりとした癖っ毛は引っかかることもなくするすると指の隙間からこぼれ落ち、枕の上へと広がっていった。ふわりと香るこの匂いは、今では嗅ぎ慣れてしまったもので。
心の中だけとは言え悪態を吐いたはいいものの、だからどうと言う事もなく、その寝顔を少しばかり観察していた。
「…………」
どこにでもあるなんの変哲も無い日常のワンシーン。そのすやりと穏やかな寝息を立て続ける様子に、酷く焦燥感を駆られた。理由なんてものは明白にそこに転がり、これ見よがしに人の不安を煽りくる。何をしていようが御構い無しの怪異に好かれると言うのが、当然いい事ばかりである筈も無い事をこの身で痛いほど理解しているのだから。
梳いていた髪を全て地に落とし、その綺麗な肌へと指先を伸ばしてみる。するりと人差し指で頬を撫でれば、それがくすぐったかったのか身じろぎをして見せた。こちらの行動に反応を示した事に安堵の息を小さく吐き出す。その様が堪らなく愛おしく感じるようになってしまったのは、何が切っ掛けだったか。
「……ナルド」
出すつもりもなかった言葉が口をつく。笑い話にもなりはしないが、その声音は聞くに耐えない程の弱さを孕み瞬く間に空へと溶けて消えていってしまった。
──溶けて良かったのだ。こんなもの、聞かせるまでもない。
「……ん、」
「……」
幸か不幸か、俺のその声に僅かな反応を見せる。黙りこくってただただ様子を伺っていれば、大凡閉じられたままのその瞼がピクリと動き、続いて口が開かれる。真っ先に出る言葉は、恐らく気の抜ける鳴き声だろう。
「……んぉ、……ナルドさんビックリ」
「起こしちゃったカー。ゴメンネー」
「いーよ。どうしたの……って、おおう8時前」
あまりに予想通りの反応に表情が変わっていたのだろうか。起きていれば首をひねっていそうなトーンで、不思議そうに尋ねてくるのを、一言「何でもねェよ」と片付ける。不満げな声が聞こえてはくるが、些事だと適当にあしらえばその声は次第に小さくなっていった。
「朝ご飯食べようネー。起きろ」
「エヘヘ……二梨くんのモーニングコールならぬ生モーニングおはように、ナルドさん朝からにっこり」
「ハイハイ」
ぎゅっ、と体にまとわりつく腕の力が強まるのを感じて、思わず眉間に皺を寄せた。不愉快だからでは無い。確かに、昔から他人との肉体的接触は好ましくはなかった。理由などそんな大それた立派なものはない。ただ只管に"気持ちが悪い"からに過ぎなかった。理由なんてものは、存在しない。
「いつまでくっついてンだ起きろ」
「えー……」
「えー、じゃねェよ」
「ぶー」
「ぶーでもねェんだなぁ……」
慣れた言葉の交わし合いの途中、ナルドがあっ、と声を上げる。それはまるで楽しげな悪戯を思い付いた無邪気な悪餓鬼のようなもので。もそりと再び身じろぎをした後、寝転がったままの状態のナルドは俺を見上げ、こう口にした。
「ね。おはようのちゅーして二梨くん」
「は?」
「おはようのちゅー」
「復唱しろとは言ってナイヨー?」
「ちゅー」
早く早くと急かさんばかりに人の腰付近をぺんぺんと指先だけで叩き、無遠慮の催促を繰り返す。まさに子供のそれだと、心の奥で小さく笑んでやった。
我儘なクソガキに説教してやれる程の真面目さを持ち合わせていない悪い大人は、(主に身動きが取れない、という意味で)そのまま放置するわけにもいかず僅かに身を屈ませた。利口なクソガキは腕の力を緩め、喜色の笑みを浮かべてこちらを見つめていた。文字通り、目を開いて俺を瞳に映している。
お世辞にも普通、と形容出来ない独特のその瞳は、寝起きだと言うことも相まってか薄ぼんやりとしているようにも見えた。或いは、期待心からの嘘か。だとして、それこそ些事だ。
期待に応えるべく、いやに整った顔に近付き唇を重ねる。
「……、」
1秒も経たないうちに口を離せば、その刹那、物寂しそうにナルドの唇が動く。何を言おうとしたのか薄く口を開けた所に、舌を差し込んでやる。僅かに身動ぎはしたもののさして抵抗することも無く、それどころか嫌がるそぶりや疑問の声すら出さずに、そろりと腕を俺の首の後ろで組み始める始末。さながら"待ってました"と言わんばかりの有り様だ。
「……ん、っ」
口内に差し入れた舌で歯列をなぞり上顎を舐めなぞれば、くぐもった声を漏らす。不覚にも何かが背を登る感覚がして、眉間に皺が寄った。
ぞわりとした形容し難い其れは、いとも容易く行動理念へとすり替わっていく。抗う術は身についている筈だが、何と無様な事か俺はそれに逆らう意思がない。尤も、欲求に従う傀儡に成り果ててしまった原因はここには無いわけで。とどのつまり、誰も悪くは無いのだ。未だ離せぬこの唇も、舌に伝わるねっとりとした熱も、頬に添えて固定してしまったこの手も。何一つ悪では無い。
……の、だが。
「…………しんどい」
「えーー」
息苦しさに口を離し、その距離20cmを保って呼吸を整える。元より体力が人並み程度の俺と、異常なまでの体力を持つこいつとでは出来る長さが違う。独断で断言してやるが其処は悪だ。案の定下からはブーイングが起こり、言葉が顔に遠慮なく叩きつけられる。
「ふーーなしくーーん」
「無理」
「あとちょっと」
「キツイ」
「じゃ~~……あ、一回」
「その一回長くする気満々だろうがふざけンな」
「…………だめ?」
先程までの何処か茶化した空気を取り去り、濁りの無い懇願を真っ向から向けられ思わず口を結んだ。静かにポツリとそれだけ漏らしたナルドは、俺の返答を──いや、折れるのを待っているのかそれ以降一言も音を発しない。
「…………」
「…………」
じくじくと溶け落ち蝕まれる自制と言う城壁が瓦解していくのは、そう時間がかかるわけでも無い。果たしてそれは俺の精神がいよいよやられてしまったからか、はたまたらしくもなく絆されてしまった結果か。まるで逃避のように思考を切り替えてみても、この眼に映る瞳はその思考の舵を手放さない。
だめだと一言告げれば済む話を、いやに回る脳が声と言う音を止める。それを口にしてしまえば、この欲は満たされない。ならば言うべき言葉では無い、と。せめてもう少し愚鈍ならと幾度思った事だろう。思った所でどうしようもないのが現状なのだが。
視線を少しばかり泳がせ無駄な足掻きとして時間を稼ぐも、そもそもこのやり取りが今に始まった事ではない事をよくよく理解しているナルドはあざとく笑んで様子を見ている。思わず口元をひん曲げてしまい、その笑みはさらに深まった。
「笑ってンじゃねェよ」
「えー?だってほら、二梨君が百……もない、二十面相してるから?かな?」
「してナイヨー。気のせいじゃないカナー?」
「気の所為じゃないんだなぁ……。ほら口がきゅきゅっと」
「やめろその洗剤みてェな言い方」
「二梨君はジョイ君だった……?やだナルドさん洗われちゃう……。そういうプレイかな?」
「しばくぞ?」
「おー、愛ならしばいていーよ」
「しねェよ何回言わせンだ」
「げー!二梨君が言うからナルドさんも言ってるってだーけなのに、かーっ!」
話題を少しずつ転がし、返答から徐々に遠ざけていく。ある程度離れたのを頃合いに、20cmの距離を更に伸ばすべく腕に力を込めた。この流れを続けながら洗面台へと辿り着けば全てがつつがなく終わると、何処かで確信する。言うなれば「勝った」の勝利宣言に近い。
「ところでさ」
「あ?」
わざとらしく、ふと今まさに思い出しましたと言わんばかりの声音でナルドが会話を切る。どう逃げ果せるかと策を練っていた意識をそちらへと向け、続きを待つ。
しかし、如何にもこうにも嫌な予感という奴は当たるもので。つい先程立てた勝利宣言が揺らぎ出し、不安定になる。せめてと表情を元のまま保ちナルドを見下ろしていれば、その口元が厭らしくゆるりと弧を描いた。
「キスは?」
七十二候の二十二
蚕起食鍬 ―かいこおきてくわをはむ―