麦秋至男は再び驚いたそうだ。後頭部を殴られる被害者の如く、陳腐なホラー映画の演出にどきりと跳ねる肩のように。
或いは……そう、予見していなかった行動に対して、反応を取れずにいた余裕ぶる愚者のように。
「さすがに反則か」と、戦犯である女は微かな気恥ずかしさを滲ませて後頭部を掻いた。予め用意していたものだろうか?椅子の背もたれからこそりと現れた小さなロボットは、あざとくも丸いプレートに大きくバッテンを付けたものを両手で掲げていた。
「…………」
一言で表すのならば、男は停止していた。息を飲むこともなく、瞬きすらも忘れてしまったかのように唯々黙りこくっていたのだ。シンキングタイムという訳ではない。文字通り、男は自分の時間を数秒止めていた。元より無表情を心がけるその顔に変化は無く、ひらひらと揺れ動くはずの薄い作りをした裾も、今では石のように硬い。
「……あー、……骨折?」
当然身動き一つ、瞬き一つしていない男の視線はナイフ……いや、アイスピックの様に女に一点集中していた。であれば、その沈黙と視線に耐えかねて声を上げるも道理と言う話だ。静寂を破る為のしゅると白衣の擦れる音を態とらしく鳴らしながら、女は腕を下ろしてロボットを撫でる。小さな駆動音と共に、撫でられたロボットは役目を終えたその両腕を下げていく。
「……」
「……」
珍しくも気不味い時間が流れる。普段ならば起こり得ない事象なのだが、今回ばかりは些か特殊だ。
しかし──
「惜しい事をした……」
その曖昧な空気も長くは続かなかった。破ったのは長く止まっていた男の方。やれやれと落胆の色を含ませた一言と共に、ゆるゆると頭を左右に振っている様は普段と何も変わりがない。特筆すべき点が存在しないのだ。
「お、やっと喋ったな」
「やっと喋れた~~。あまりの反則ぶりに、骨折草臥の心が地球の裏側まで飛んで行っていたとは海棠さんも思うまい」
「それにしちゃ随分早いご帰還じゃないか」
「実は最近作った近道が──……」
けろりと調子を戻し言葉を交わす様は、文字通り"いつも通り"の光景だ。トンネル開通だの、光の速さには勝てなかっただのと軽口を重ねていく男女の間に、先程までの気不味さは無い。男は先程の仕返しの為か、片手を伸ばし親指と人差し指で軽く女の頬を抓む。強くは無い。むしろその強さを言い表すのならば、そっと手を添えたと形容してもいい。
「──、」
そして、女は目ざとくも違和感に気がついてしまった。それが幸か不幸かは第三者に判り得る筈も無い。
頬に添えられた手、その親指の腹が体温を確認する様に肌の上を滑る。色相環の対向に位置する色が、髪と爪が重なり合った。其れを煩わしく思ったのか、人差し指が器用にも垂れる前髪を避けていく。
「いいよ」
口を開いたのは、男の方だった。二色の瞳を細め、いつの間にか奪っていたロボットを空いていた片手に持っていた。そのロボットは両手を上げて、男女の間にプレートを挟み込んでいる。おかげで女からして見れば、男の口元を視認することは出来ない事だろう。こう言ってはなんだが、口元の代わりに確認できるものといえば、プレートの記号がバツ印から丸変わっていると言うことぐらいだ。
そうして。男は更に慈しみを込めて目を細めてから僅かに首を傾げ、こう言い放った。
「キス、してくれる?」
七十二候の二十四
麦秋至 ―むぎのときいたる―