短文:いざ、生きめやも 炭善♀彼はその匂いが大好きだった。
六人もの弟妹を持つ彼は、一番多く母の“おめでた”を見守ってきた。家族を何よりも愛していた母は「何人産んでも目に入れても痛くないほど子供は可愛い」と言った。
そう言ってふくらとした腹を撫でる母の“匂い”に名前をつけるのであれば、まさに「慈愛」。この世界で最も美しいものの一つだろうと彼は思っていた。
「今のお前からはあの時の母さんと同じ匂いがする。俺にとってこの世の何よりも大切な宝だ……だから────泣かないでくれ、善逸」
もう立ち上がるほどの体力さえ失った彼を見て、彼の妹は「こんな風に、お父さんに似て欲しくなかった」とか細い声で言った。彼の特長であった丸い顔は見る影も無く、肉が削げ落ちている。かつて鍛え上げられた体と同じ物とは思えないほど、腕は枯れ木の如く。それでも、痩せ衰えた肉体でいながらも誇りと強い意志を持つ彼は、凛とした風格を失うことはなかった。
母となった剣士は二人目の我が子を抱きながら、父の布団で居眠りしてしまった長男の頭を撫でる夫を見つめる。その頬を驟雨に濡らしながら。
そして、その身にはもう一つの新しい命。
だが、その子が生まれてくる頃には父親は此岸から旅立つであろう、と医者には言われた。
「俺はお前を信じている。世界で一番信じている。だからお前たちを遺していくことに、申し訳なさはあっても不安はない。お前なら子供達を守ってくれると信じているから。ただ、子らの行く末を見られないのは寂しい。──それもまた、嘘偽りない想いだ」
今年四歳になる長男は父親の膝の上で安らかに眠っている。この頃顔つきが父親に更に似てきた。それがまた、母親の涙を増やす。
「善逸、いつかこの子達に伝えてくれ。お前達の父は、死ぬ為に戦ったのではないのだと。死ぬ為に生きたのではないのだと」
子らが生きる世界を守る為に生きた。
死ぬ事を分かっていても、戦わねばならなかった。
「必ず伝えるよ」
振り絞るような声でそう伝えた。安堵し笑う顔が弱々しく、彼女はまた泣いた。無情なまでに月は沈み日は昇り、時間を脈立たせていく。
風が強く吹いている。
それでも、彼女は生きねばならない。子供達の為に。
この世界を遺した、彼の為に。
Le vent se lève,
il faut tenter de vivre
(風が吹いた、さあ、生きねばならない)