婚約と計略 オペレーション・アップライジングのため、横須賀を目指す空母の食堂の一角で、小集団がこそこそと、だが、楽しそうに会話をしていた。中心にいたのは本日の突発的レクリエーションのボクシングで、女性の身ながらルイス・スミスに勝利したイサミ・アオであった。ルルの飛び蹴りにより空母から海に落ちたが、幸い怪我もなく、軍医からおとなしくしていれば戻ってよしと診断されたため、腹ごしらえでもしようと、食堂にやってきたのだ。だが彼女の計画は多少変更がなされた。バーベキューパーティーだけでは足りないと、いわゆる二次会に突入した若い将兵たちにその輪の中に連れていかれたのだ。さわがしいのが苦手なイサミはこれは参ったと思った。だが、参加者の中にヒビキとミユといった親しい者の顔を認め、一転、安堵のため息を吐いたのだった。
「作戦を成功させたら本国にいる彼氏と連絡を取りたい」
ドイツ海軍の女性少尉がそう漏らした。
「それ死亡フラグだぞ〜」
そう茶化したのは米海軍の女性中尉である。
「そんなの迷信ですよ! いいじゃないですか楽しみを先にとっておくくらい!」
「何? 恋バナ?」
イサミは隣のヒビキに小声で聞いた。
「なんかそんな流れだね〜」
ヒビきは呑気に返すと、意味ありげにイサミに視線を寄越した。とたんにイサミの顔は引き攣った。
「なになに? アオ三尉にも何か素敵な話が?!」
「えーッ聞きたい聞きたい!」
目ざとくそれを目に留めたドイツ海軍の女性少尉が食いついた。他の者も一斉にイサミに期待の目を向けた。英雄の恋愛事情は誰でも知りたいものである。
困ってうろうろとイサミは視線を彷徨わせた。食堂の出入り口に視線が向かった時、見知った赤いジャケット姿の男が入ってきた。瞬間、イサミの瞳に、見たことのない輝きが宿った。
イサミに向いていた目が、一斉に彼女の瞳が向けられた先に注いだ。そして一同は納得したような顔つきになった。
視線の先の人物は、TS部隊の指揮官であるサタケであった。急遽一中隊長からTS部隊全体の指揮官引き上げられたにも関わらず、前の戦闘時の采配や、訓練時の的確な指示や指摘で、信頼するに足ると部下や上官たちから評価される、優秀で人格の優れた男である。
「アオ三尉、サタケ二佐のことを?」
静かに米空軍の少尉が訊いた。とたんにイサミの健康的な色の頬に朱がさした。
そこから先はお祭り騒ぎである。どんなところが好きなのか、きっかけは、と根掘り葉掘り質問がイサミを襲った。とはいっても空気を読む能力にも長けた二次会の参加者たちは、表面上は至って静かであったが。
「じゃあ、ATFが解散したらデートに誘うという感じかな?」
「いや、実を言うともう終わってて」
途端に水を打ったように静まり返った。打ち明けてる間に悲しくなったイサミの目には涙が滲んでいた。皆沈痛な面持ちになったが、とりわけひどく落ち込んだのがヒビキであった。デートのときのファッションのアドバイスをし、悩みを聞いてきて、イサミの恋路の幸せを誰よりも祈っていたのだ。その結末自体も悲しかったし、こんな形で明らかにさせてしまったことが申し訳なかった。悲痛な面持ちのヒビキがイサミの肩を抱き、背中をなでた。だが、イサミは安心させるようにヒビキの手を優しくたたいた。
「まあ、難しいよね。隊内恋愛って」
誰かのその言葉から、各国の隊内恋愛事情へ話題が移っていった。
その後のATF内の情報通の間に、アオ三尉は訳あってサタケ二佐と別れたが、心残りがあるという情報が静かに広まった。
ハワイから日本へ向けて出港したその日の定時前、イサミはサタケからオアフ沖での海中戦に対する報告をするよう命じられた。イサミは首を傾げた。すでに報告書も上げていたし、呼び出された場所が指揮所ではなく、サタケ個人の執務室を兼ねた船室だったからだ。
訝しみながらもサタケの船室を訪れたイサミは、サタケの端末にすでに送った報告書に、口頭で補足を入れた。ATFの指揮下で実戦を行なっている以外は、本国での訓練時と何も変わらないやりとりであったし、そもそも対面でなくてもいい内容だった。ではなぜ船室に呼ばれたのか。イサミがそのわけを推理していると、サタケが物憂げな表情になった。
「アオ三尉、話が長くなるから、こっちに座ってくれ」
そう言ってサタケは二段ベッドの下の段に座り、その隣を叩いた。マットレスだけで使用した痕跡がない。艦長ではないサタケが結果的に個室をもらえたのは、ATF結成前の侵攻で、将兵の数を減らしていたからだった。
イサミが不安を押し込めながら隣に座ると、サタケは膝の上で手を組み、何かを耐えるように力を入れた。
「ATF結成後、ATFの軍法ができたのは知ってるか」
イサミは頷いた。非常事態において綱紀粛正を図るため、拠り所となる確固とした決まりがあった方がよかろうと、米軍主導で制定されたのはヒビキからの情報共有でなんとなく知っていた。
「その一二〇条で将兵の交際や結婚について定められている……それによると、指揮監督系統にあるもの同士——俺達みたいな奴らの恋愛や結婚は禁止だそうだ」
「そんな……」
イサミの胸の内に怒りと悲しみが沸き起こった。どうしてそんなことまで決められねばいけないのだろう。
イサミとサタケは婚約者同士である。一年間の交際を経て、次年度にあるであろう異動の前に入籍と挙式が出来るよう計画していた、人生の春の最中であった。交際自体も直属の上官と部下である以上、大手を振ってというわけではないが、法律や倫理に背くことなく、お互いの意思でお互いを選び、愛情と信頼を積み重ねていった普通のカップルであった。
「なら、今まで以上に隠すしかないですね」
イサミは覚悟を決めた。人権侵害甚だしい法にしたがってなどいられない。もう人生がかかっている段階にあるのだ。公言したり、職務に影響がなければ積極的に法務部も調べないだろうと楽観した。
「いや、上層部にはもうバレてた」
「なんで?!」
「おそらく、お前がCIAに尋問された時に、調べられたのかもしれない」
「あ……スマホ……」
ぐしゃり、とイサミの顔がしおれた花のように歪んだ。それを自覚したのか、彼女はそのまま膝に頭を埋めた。防衛本能が記憶を消したからか、今まで忘れていたCIAにされた拷問まがいの強化尋問の前、割り当てられた部屋で自分の私物を捜索されたのをイサミは朧げながら思い出した。そのとき、私用のスマホも取り上げられていた。数日中に二度も心の大事な部分に土足で入って荒らされるような出来事があり、イサミの心は平静を保てなくなっていた。そんな婚約者をサタケは抱き寄せ、まとめた髪が乱れないよう優しくなでた。間髪入れずにイサミは頭の上に乗せられた手を跳ね除けた。どうやら泣きたくないらしい。意地を張るイサミを、切羽詰まっているにも関わらず、サタケはかわいいと思った。
サタケ二佐、アオ三尉と婚約しているそうだな。ATF軍法に抵触するので二人で話し合うように。
日本行きの準備の最中にキング司令から司令室に呼び出されたサタケは、一枚の両面刷りのA4プリントをキング司令の副官に手渡されながら理不尽な命令を受けた。
とっさに知らないふりをしようとしたが、手元の用紙に掲載されていた写真で、そんな企みは頭の中から消え去った。
A4の用紙には表裏それぞれ画像が掲載されていた。二枚のサタケとイサミのツーショットに、四枚のメッセージアプリのトーク画面である。トーク画面はサタケとイサミのプライベートでのメッセージのやりとりの下に、丁寧に英訳文が添えられていた。
どこから漏れた。サタケの胸の内に疑問が湧いた。サタケ自身もイサミも自分の情報端末の扱いは慎重だ。イサミはヒビキにサタケとの交際に関して何度か相談していたようだが、ヒビキも友人のプライベートを吹聴する人物ではない。
他にスマホのデータが漏れそうなところは。高速で脳内を検索したサタケの脳裏に腹立たしい出来事が浮かんだ。イサミがCIAから尋問された時に、室内を捜索したと報告を受けていたのだ。その時に私用のスマホも持っていかれてもおかしくなかった。サタケははらわたが煮え繰り返りそうだった。
「婚約は我々のプライベートです。人権侵害ではありませんか」
真っ当ではない情報源を使っている司令部への疑念と、あまりにもプライベートに入り込んだ規制に対する怒りが、サタケの口調を刺々しくさせていた。
「階層の違う軍人同士や、指揮監督系統にある上官と部下の性的な関係や婚姻の規制は、適切な人事評価や不正の対策、有事の際の統制に必要不可欠だ。逆に規制がない方が人権侵害が起きる場合もある」
キング司令は巌のような厳しさから一点、憐れむような顔つきになった。
「君やアオ三尉のように清廉潔白な軍人ばかりではないのだ。申し訳ないが耐えてくれ」
キング司令とのやりとりを思い出しながら、サタケはイサミの肩を抱いた手に力を込めた。
「イサミ、俺はお前の策に賛成だ」
何を言っているのか、と言いたげな顔をイサミはサタケに向けた。
「まあ、つまりは婚約は破棄しない、だがATFが解散するまで対外的には別れたことにしておくってことだ」
「……らしくないですね」
この男が立てる作戦は、いつだって兵法の原則に則ったものだった。演習時にイレギュラーがあっても、こんなに大雑把な策を用いることはなかった。
「今は有事だ。法務部だって隊員の色恋沙汰よりやるべきことは山積みだろう。上手くやれば切り抜けられる」
イサミは思わず笑った。さきほど自分が考えていたことそっくりそのままサタケが考えていたのだ。やはり付き合いが長く、深くなると人は似るものなんだなと思った。
今の絶対的に不利な状況で現実的に二人が取れるのは、他の隊員全員欺くか、素直に別れるかの二択だけである。だが、二人が自衛隊に入隊したのは、実利面や自分の夢を叶えたいという欲求だけでなく、国民の幸せを守りたいという願いも含まれている。その中に自分たちの幸せも入れてもいいのではないか。婚約を決めてから、二人はそう考えるようになった。
「とりあえず、対外的には別れたことにするんですよね。理由はそのままで?」
「そうだな。もう上にはバレてるし、本当のことが多いほどこういうのは上手くいく。あと、言い寄られたら、未練があるからって言っとけ」
「……ありがたくその案使わせていただきますけど、自分で言いますか」
「俺は自己評価が正確なのが長所だ。まあ外れてても、お前を口説きそうな年の奴には勝てるつもりでいるよ」
サタケはイサミから見ても美点の多い男であった。だが、それを上回る誰かでも、イサミからの思慕という点でサタケに勝る者はこの世にいない。
「リュウジさんもアプローチされないように対策してくださいよ」
「じゃあ、色恋沙汰に巻き込まれたら、『有事にそんなことに時間は費やせない』って言っとくよ」
「『そんなことに時間は費やせない』って付き合う前の飲みでも言ってましたね。好きなタイプを聞いた時」
イサミはサタケの胸に子どもがむずかるように押しつけた。当時この男の隣に立てないのではないかと思い悩んだことも、今では思い出になっている。サタケは大事な婚約者を抱きしめた。今になって、もっと二人で話したいことが脳裏に溢れてきた。
だが、デスドライヴズを倒してATFが必要無くなれば、いくらでも話せるようになる。
「早く敵を倒して、復興させるぞ。そうすれば早く元通りになれる、いや、大手を振って婚約者に戻れる」
叫びたいのを抑えているような、いっそ穏やかなサタケの声を頭上に聞きながら、イサミは婚約者の分厚い体に腕を回した。
二人は法という大きな壁を、互いの信頼と愛情を糧に、約束というたった一本の細い糸で乗り越えなければならなかった。それだけでなく、生命の危機とも戦わなければならなかった。
世界の存亡の機の最前線で、お互いの体温を忘れまいと二人は固く抱き合った。
それから二人は上官と部下の距離を保ち続けた。通信の傍受などを避けてプライベートで連絡を取ることもなかった。
比較的早く二人の関係を欺く機会があったが、思わずイサミが涙をこぼしたことでサタケへの想いの深さが伝わったからか、予想してたほど、二人に言い寄るものはいなかった。
北半球で昼より夜が長くなる頃であった。
ATFとブレイバーンの奮闘により、デスドライヴズとその尖兵を殲滅し、災禍に見舞われた地域の復興支援を終えた。
いよいよ明日、ATFが解散されるというその夜、今までの奮戦を労うため、仲間との別離を惜しむため、空母の甲板や食堂で宴会が催された。
二三五〇、イサミは食堂でもらったビールを手に空母の甲板にこっそりと上った。宴会はまだ続いており、そこらで将兵たちが肩を組んで酒を飲み、笑い合っていた。珍しくあの輪の中に入ってもいいと思っていたが、甲板に出たのはそれが目的ではない。
宴会の一参加者のふりをして甲板を移動し、船首に辿り着いた。そこには懐かしい、赤ジャケットの背中が待っていた。
「現在二三五五。五分前行動はどうした、ギリギリだぞ」
サタケが咎めた。だが声はからかっているときのものだ。イサミが久しく聞いていなかったものだった。
「サタケ隊長も自分の立場なら、同じようになりますよ」
二三五五に空母甲板船首側に集合。そう昨日イサミの私物の端末にサタケは送っていた。イサミはその一方的な約束を守るために、杯を注ぎ、労う同胞の群れを心苦しく思いながら抜け出してここまできたのだ。
「お前はこの戦いの一番の功労者だからな。こうなることは予定に織り込んでおけ」
「サタケ隊長と違って自分は謙虚が取り柄なので」
「言ったな」
そう笑いながら男は左腕のクロノグラフに視線を落とした。
イサミは空母が接岸している陸地を眺めながら、気が抜けかけたビールを口に含んだ。陸にはぽつぽつと小さな明かりがついている。スペルビアの後に再びデスドライヴズが降り立ったここハワイは、復興が比較的遅かった地域であった。明かりの下に、誰かの小さな、だがとても大切な生活がある。イサミやATFの隊員たち、デスドライヴズと戦った全ての人が守りたかったものだ。イサミはその美しい光を広げられますようにと願った。
「二四〇〇」
サタケは作戦時に秒読みをするときと同じ硬い声で時刻を読み上げた。彼はイサミの手を優しくとって、跪いた。黒目がちな男の瞳が真っ直ぐイサミを射抜いた。
「イサミ・アオさん。改めて、俺と結婚してください」
帰ってきた。イサミの心に浮かんだのはそんな言葉だった。任務に支障をきたすことはなかったが、サタケとの関係を偽ってからずっと不安だったのだと今更ながら思い知った。露見すれば二人揃って軍法会議にかけられるのだ。加えて仲間にたくさんの嘘をついた。恋に一緒に一喜一憂してくれたヒビキたちを悲しませた。片付けても片付けても山になったガレキに、復興など本当にできるのかと疑った。時折愛を告げる人たちを断りながら、サタケにも同じことが起きているのではないかと気を揉んだ。
それが全て終わったのだ。本日〇時を以てATFは解散され、二人を引き裂いた軍法もその効力を失う。元どおり、サタケの隣に戻れるのだ。
「イサミ、俺はお前と一緒に生きて、死にたい……返事は」
ぼうっと自分の内側に浸っていたイサミに焦れたサタケが、不貞腐れたような顔でイサミを睨んだ。珍しいサタケの表情にイサミは思わず微笑みを浮かべた。ビールを甲板に置いて両手でサタケの手を取った。
「……はい」
言い終わらぬうちにイサミの目に涙が溢れた。サタケは立ち上がって婚約者の頭を自分の方に押し付けて、背中に腕を回した。
普通の女性より鍛えられた、だが、サタケより細い身体である。そのしなやかな感触が懐かしかった。
「おめでとう!」
二人がいる場所より数メートル船尾側に寄ったところから、聞き馴染んだ声がかけられた。スミスである。彼はクーヌスの能力を利用して人間の体を再び得たのだ。
スミスのそばにはブレイブナイツを中心とした、TS部隊のメンバーが二人を見守っていた。ヒビキは口元を手でおさえて目を大きく開いている。ミユとアキラは二人の記念すべき瞬間を焼き付けんと目を輝かせていた。その後ろにも一緒に戦った仲間たちが、歓声をあげたり、拍手をしたりと思い思いに二人を祝福していた。
誰かがキース! キース! と囃し立てた。それが無視できないくらい大きくなると、途端に主役二人が焦り出した。
「いやです! 私しませんから!」
「俺もするなら二人きりでしたい」
だが逃げ道は海しかなかった。群衆の中で、普段は良識派であるプラムマン上級曹長は見守る体制に入っていたし、別れたという情報に衝撃を受けた反動か、ヒビキは一緒になって囃し立てていた。
「……イサミ、誓いのキスの予行演習にいい機会だと思うんだが」
覚悟を決めた顔でサタケはイサミに提案をした。顔には出さないが、イサミが自分の婚約者であると知らしめたいとも思っていた。
「……練習にしてはレベルが高すぎると思いますが」
腰が引けていながらも、酔っていたせいか、みんなの祝福に答えるならしてもいいかもしれないとイサミは考えた。
「リュウジさんがしたいなら、してもいいですよ」
「わかった。じゃあ目ぇ瞑れ」
素直に目を瞑ったイサミにサタケは口付けた。歓声はさらに大きくなる。
ひさしぶりに唇に感じたやわらかな感触を、きっと一生忘れないだろうと、二人は確信していた。
fin.
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