みなみのうお座事件・前編シキミドと名乗ったその男は、とても本庁の刑事には見えなかった。色素の薄いくしゃくしゃの髪。眠たげにも見える柔和な眼差し。子供のようにすべすべした肌。締まりなく弧を描く唇。丸い撫で肩を覆う、よれたシャツとスーツ。
厳つい身体に仏頂面を乗っけた自分とは似ても似つかない雰囲気だ。
“犯罪者を追うより通学路の横断歩道に立ったり、交番で道案内してる方が似合う牧歌的な男”。それが狗飼からシキミドへの第一印象だった。
「本日は星観(ほしみ)古書店の窃盗事件についてお聞きしたい事があるとか」
「ええ、こっちで追ってる事件と繋がりがあるんじゃないかと踏んでまして、三課さんにご協力頂きたく」
シキミドは「勿論です」と、おっとり頷き、応接机の上で分厚いバインダーを広げて狗飼に見せた。
「こちらが当時の資料です」
狗飼は紙面に鋭く視線を走らせた。
「被害に遭ったのは『ネスター書簡』。盗まれた一週間後に戻って来て、店主は被害届を取り下げた。……結局、ホシは上がらなかったんですね」
「はい。実は、私がこの事件の担当をしておりました」
「貴方が?」
思わずシキミドの顔と担当者の署名を見比べる。
────"巡査部長 樒戸敬久"
木に密と書いてシキミと読ませる漢字がある事を、狗飼は初めて知った。樒戸はこちらの心理を読み取ったかのように微笑んだ。
「樒というのは植物の一種らしいですよ。主に葬儀で使われる毒草だとか」
「はぁ、なるほど。それで、ホシに目星はついていたんですか?」
「その件なんですが」
樒戸は膝の上で指を組み直した。
「店主が被害届を取り下げた後、引っかかるものを感じて様子を見に行ったんです」
「引っかかるもの?」
「過去の記録によると、古書店は度々万引きの被害に遭っていました。整然とした内装とは言い難かったですし、御老人が一人で切り盛りしていた店ですから、狙われやすかったのでしょうね。そして、店主は捕まえた犯人との示談交渉には一切応じず、必ず警察に突き出している」
「たしかに妙ですね。そんな爺さんがあっさり被害届を取り下げるなんて」
首を捻る狗飼を見ながら、樒戸は穏やかに話を続けた。
「それで、理由を尋ねたんです。そしたらどうも、本を返しに来た犯人らしき人影を見かけたらしく……」
「なんだって!?」
狗飼は思わず大声を上げて身を乗り出した。すぐに我に返り、耳を赤くして咳払いをする。
「失礼」
「お気になさらず」
樒戸は一瞬目を丸くしたが、すぐに寝起きの羊のような顔に戻った。
「店主が言うには、その人影は近所に住む男子高校生じゃないかとと」
「高校生? 餓……子供って事ですかい?」
「はい。時々店の前を通る少年と背格好が似ていたそうです」
「それで情けを掛けたって訳か」
狗飼は腕を組んで唸った。
「あ、いえ……どうもそうではないらしいのですが」
しかし、その推測は目の前の男によって訂正された。元々下がっていた眉が更に下がり、大きな手が寝癖の跳ねた後ろを頭を遠慮がちにかき回した。
「『子供だろうと手にすべきでないなら相応の報いを受ける。アレはそういう本だから』、と」
「……はぁ、天罰ってやつですか」
「かもしれません」
「希少なオカルト本らしいですからね。そういう気持ちにさせるのかもしれませんな」
なんとも言えない淀んだ空気が漂った。脱線した話題を樒戸がレールに戻す。
「情けない話ですが、店主からはそれ以上の情報を聞き出せませんでした。被害者本人が納得しているという事で私も深入りせず、今に至ります」
「いや、推定未成年の万引きでこのオチなら俺も同じ事しましたよ」
仮にその高校生が犯人なら、逮捕後、退学になる可能性が高い。ドロップアウトが原因で非行に走る少年は多い。盗品返却という反省の色も加味すれば、見逃してやろうとと考えるのが人情だ。
……身も蓋もない事情も付け加えるなら、警察は常に大量の仕事を抱えている。“既に終わった事件”にかかずらっている余裕は無い。わざわざ被害者を尋ねに行った樒戸は、寧ろマメな人種だ。
狗飼はこの優男を少し見直した。
「狗飼刑事、差し支えなければそちらが捜査している事件について教えて頂けないでしょうか? 窃盗事件と関わりがあると仰りましたが」
「ん、そうですね。こっちだけ聞きっぱなしってのもおかしな話だ」
狗飼は椅子に座り直して、懐から二枚の写真を取り出した。
「そもそもの発端はこの図形です」
樒戸は静かに机上の写真を注視した。焼け焦げた背景に赤黒い線で図形が描かれている。図形はどちらも円中に奇妙な記号を配しているが、微妙に位置が異なっていた。
「右の図形は三箇所、左の図形は四箇所。全て別の火災現場で発見されました」
「……”東京都連続放火事件”ですか」
樒戸の呟きに狗飼は重々しく頷いた。
それは二週間前から世間を騒がせているボヤ騒ぎの呼称である。七つの小規模な火災現場から二種類のマークが発見されているというのが特徴で、チーマーの権威誇示、カルトの儀式などの憶測が羽虫の如く大衆の間を飛び回っている。
「未だ軽症以上の人的被害は出ていません。しかしながら、犯人が野放しになってる以上予断は許されない状況です」
「つまり……盗難被害に遭った本に、その図案が載っている?」
見かけによらず頭の回転は早いらしい。”牛乳で薄めたコロンボみたいな男だな”と狗飼は思った。
「ご明察。専門家に聞き回った結果、ある学者から”『ネスター書簡』という稀覯本の表紙に似た図案が描かれている”との情報を得ました。日本で取り扱いが判明したのは星観古書店だけだったので行ってみたんですが」
しかし、と狗飼が続ける。
「店主は既に亡くなっていましてね。商品は散逸した後でした。やっと『書簡』の引き取り先を突き止めたと思ったら、別の古本屋が売却済みで、しかも買った人間は既に本と一緒に焼身自殺。藁にもすがる思いで近所の噂話頼りに三課さんを尋ねたって訳です」
そこまで喋って、舌が乾いてもつれそうになった。出された湯呑みに口をつけて湿らせる。ぬるい茶は好みじゃないが、熱した頭には丁度いい。
ウンウンと頷いていた樒戸が感心した様子で間を繋いだ。
「それは大変な捜査でしたね」
「仕事ですから。それに、ここまでウチの面子潰されてお宮入りなんて許されませんよ」
樒戸は分かっているのかどうのか分からない調子でお疲れ様です、と返した。
「この資料、コピーの許可取っておきますね」
「助かります」
「それと、例の男子高校生ですが、恐らく北門第一の生徒です。星見古書店の前の道が通学路になる高校はあそこくらいですから」
狗飼は驚いて片眉を上げた。刑事らしくない男はふらりと立ち上がり、「では、私はこれで」と席を後にした。
「……なるほど、食えねえな」
”樒”の意味を思い出して、狗飼はつまらないことを口走った。