手洗いうがいはしっかりと!「おい、ここで寝るな」
狗飼は郁李の肩を揺さぶった。机に突っ伏した郁李は不快そうに呻き、のろのろと顔を上げた。
「……すんません」
彼の目の下には濃い隈が出来ており、顔は土気色でやつれている。そしてそれはこの部屋にいる全員が同じだった。
「寝るなら仮眠室行ってこい」
「そういう訳にいきませんよ……今日中にこの報告書仕上げないと……」
”それが出来るならしている“と言わんばかりに郁李が狗飼をじっとりと見上げる。狗飼は溜息を吐いて頭をガリガリと掻きむしった。(その拍子に幾ばくかのフケが舞った。)
「だからってよぉ、ここでうつらうつらしてても疲れ取れねえだろうが……」
「その件なら今し方神童さんとの交渉に成功しました。状況が状況なので、一日待ってくれるそうです。」
画面から目を離さず、凄まじい勢いでタイピングしながら後閑が言い放った。
「郁李君は朝まで寝ても大丈夫ですよ」
「えっ」
突然の朗報に郁李の細い眉が持ち上がり、すぐに顰められた。
「でも、それなら他の作業を進めないと……」
「ごちゃごちゃうるせえ!」
狗飼の無骨な手が郁李の胸ぐらを掴んで椅子から無理矢理立ち上がらせた。
「ボーッと仕事されちゃこっちが迷惑なんだよ、叩き起こしてやるからさっさと寝ろや!」
いささか乱暴に突き放され、たたらを踏んだ郁李が舌打ちして狗飼を睨んだ。
「わーったよ! ……ったく、修羅場続きでも元気なこって」
「テメエこそ減らず口叩く元気があって結構。早く行っちまえ」
手で追い払うジェスチャーを大袈裟に繰り返しながらドカッと椅子に座り直す。郁李は再度狗飼に聞こえるように舌打ちしたが、後閑の方を向くと深々と一礼し、仮眠室へ消えていった。
「素直じゃありませんね」
郁李の姿が見えなくなった事を確認して、後閑が微笑んだ。デスク越しに書類が手渡され、狗飼の机上に新たなタスクが積み上がる。
「本当ですよ、一番体力ない癖に意地張りやがって」
やれやれと伸びをしながら呆れる狗飼に後閑は意味深な顔をした。狗飼は急にブルーライト眼鏡に付いたフケと皮脂が気になり、眼鏡拭きを探し始めた。小さな布切れは書類の山に埋もれてしまったようで見つからない。早々に諦めてティッシュペーパーで拭き取る。
零課がインフルエンザという名の冬の魔物に襲撃されて一ヶ月半が経つ。後閑は自分が倒れた時期以外、常に人の三倍の仕事を捌いていた。頼もしい反面、彼が居なくなった時は仕事が溜まりに溜まり、あわや決壊寸前という阿鼻叫喚の有様になったが……。
「コーヒーを淹れてきます。狗飼さん、飲みますか?」
狗飼がエクセルと格闘していると、後閑が目を擦りながら立ち上がった。マグカップを傾けると底に冷め切ったブラックコーヒーがほんの少し残っている。
「俺が淹れてきますよ」
「いえ、気分転換も兼ねてるので結構です」
「そんじゃ恐縮ですが」
水溜りのような残りを飲み干し後閑にカップを渡す。
「ブラックですか?」
「あー……ミルクと砂糖入れてもらっていいですか? 腹減ってきて」
「分かりました」と頷いて後閑は給湯室に向かった。コポコポ、カチャカチャという音がして、すぐに戻ってくる。
「どうぞ」
「すみません」
湯気を立ち上らせるカップを受け取る。うんざりするほど飲んだインスタントコーヒーでも、人に淹れてもらうとそこそこ美味い気がした。温みとほのかな甘味にほぅと息を吐く。
空席のデスクに目をやった。
「明日、樒戸さんが帰ってきたら少しは楽になりますね」
「明日というか今日になってしまいましたが、そうですね。病み上がりに申し訳ないですが、チーフには頑張って貰いましょう」
後閑は荒れて血が滲んだ唇でコーヒーを啜った。
「……正直、私もこのルーチンは限界です」
随分前から、その涼しげな顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。黒々とした前髪は脂っぽく額に張り付いており、切長の目の下には郁李に負けるとも劣らない隈が呪いの痣のように浮かび上がってる。
有能だからといって楽が出来るなんて甘い話は無い。むしろ、後閑はその有能さ故に凡人と違って休む事が出来ないのだ。少数精鋭と言えば聞こえは良いが、零課の弱点は個人の能力が尖り過ぎていて誰か欠ければ他のメンバーがその穴を塞げない点にあった。(そういった意味でも、オールラウンダーである相模原はゼロに必要な人物だった。)
「やはり誰が居なくても回りませんね、この職場は。改めて思い知らされました」
「ハハ……こんな形で仲間の有り難みを噛み締めたかありませんでしたけどねぇ……」
「全くです」
後閑が苦々しく笑い、狗飼も釣られて頬を引き攣らせた。
卓上のデジタル時計は二時過ぎを示していた。後数時間もすれば夜が明けて、暫く待てば登庁時刻に樒戸が顔を出すだろう。そしたら郁李を叩き起こして、やっと四人揃って仕事が始められる。多忙は続くだろうが今よりはずっとマシな筈だ。
「んじゃ、俺ぁもう少し頑張りますわ」
狗飼は勢いよく自分の両頬に喝を入れて、パソコンの画面に向き直った。後閑もカップをウッドコースターに置き、頷く。
「ええ、もう少しだけ頑張りましょう」
無言のオフィスに作業する音だけが響く。
翌朝、登庁した樒戸が机に突っ伏した二人を見つけるのはまた別のお話……。