秘めやかな温度躊躇いがちに唇を重ねる。薄い皮に覆われた肉は柔らかく、連日の寒気のせいかやや乾燥していた。
互いの体温を馴染ませるようにじっと触れ合い、離れる。瞼を開くと、郁李の釣り上がった眦が柔らかく溶け、ほの赤く色づいていた。視線に気づいた瞳が所在なさげに泳ぎ、羞恥に伏せられる。狗飼は声を出さずに笑うと、再び顔を寄せて青年に口付けた。
触れては離れを繰り返している内に、髪と頸の隙間に差し込んだ掌から青年の体温が上がっていくのが伝わって来る。堪らず下唇を甘く食み、舌先で浅く舐めた。郁李の背中がわななき、弱い力で狗飼の接吻の真似をし始める。男は横たわる頭を優しく撫ぜ、口のあわいに分厚い舌を這わせてゆるりとなぞった。相手の舌がおっかなびっくり口の隙間から覗き、狗飼の熱い粘膜に触れる。徐々に接触が深くなり、境界が曖昧になる。
“キス覚えたばっかの餓鬼みたいだ”
状況を俯瞰する自分がぼやいた。実際、当たらずとも遠からずな二人である。しょうがない。これも悪くない心地なのだし。
ザラついた不恰好な手が頸から鎖骨へと滑り、胸の横を通って脇腹を覆い隠す。どちらの物ともつかない唾液で湿った唇を名残惜しげに解放して、代わりに肩口に緩く歯を立てた。郁李の歯列の隙間から艶めいた吐息が溢れ____
その時、無機質な電子音が部屋に鳴り響いた。
ピタリ、と二人の体が硬直する。ちゃぶ台の上で狗飼のスマートフォンが小刻みに震えていた。
「……チーフっスよ」
急に日常に引き戻され、漂っていた甘ったるい雰囲気が冷めていく。このメロディーを樒戸専用に設定したのは郁李だった。
「すまん、ちょっと待て」
狗飼は慌ただしく携帯を取り、五コール前に通話に出た。
「はい、狗飼です」
『狗飼、夜遅くに悪い』
餃子耳に深刻そうな上司の声が飛び込んできた。壁の時計は二十二時過ぎを示している。
「気にせんで下さい。どうしました?」
『言いにくいんだが、例の件で今からお前に出てもらわないといけなくなった。なんとか頼めないか。お前しかいないんだ』
「今からですか」
狗飼は郁李の方をちらりと見やった。郁李君は胡座をかいて、手で狗飼を追い払う仕草をした。
「大丈夫です」
頭が逡巡する前に、喉の方が即答した。渋る理由は有るが、行かない理由は無い。何故か、樒戸との間に一瞬奇妙な間が空いた。
『……悪いな、埋め合わせを考えておいてくれ』
「なに、刑事の宿命です」
『解放されるのは退職後、か』
電話越しに二人分の苦笑が重なった。
『では、よろしく頼む』
「すぐ向かいます」
樒戸が通話を切ったのを確認し、狗飼は肺の中の失望をたっぷりと吐き出した。職場や上司に対してではない。長年刑事をやっていれば急な呼び出しには慣れっこである。ただ、目の前の御馳走を取り上げられた口惜しさは、流石にこの仕事熱心な男を気落ちさせた。
気まずい心境で郁李に向き直ると、既に青年は背中を向けて行為の為に敷いたタオルケットを畳んでいた。
「……すまねえ」
「別に……仕事っスもん」
淡々と応答し、ベッドの下に落とされた掛け布団を引き上げる。
先程までの蕩けた表情はどこへやら、見事なまでの仏頂面である。無理もない。
「ホント、気にしなくていいんで。先に寝ますね」
狗飼が何か言う前に郁李は頭まで毛布に潜り込んで丸くなった。
男は少しの間寝台のこじんまりとした起伏を見つめていたが、頭の辺りを二、三度慰撫して現場へ向かう支度を始めた。
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郁李は長い手足を折り曲げて縮こまったまま、じっと暗がりを見つめていた。狗飼が去って、体感で十五分は経っただろうか。いい加減体が痺れてきてぐずぐずと寝返りを打つ。
互いの職種も職場も同じ。多忙はわかり切っている。そもそも恋人ではないのだし、自分に束縛する権利は無い。
現状に納得できる材料はすっかり揃っていて____そんな割り切った思考とは裏腹に一向に眠気が訪れる気配がない。どうしようもなく温もりに飢えていた。布団の中は暖かい筈なのに、冷たい泥のような虚しさが鳩尾のあたりに溜まって精神を重苦しく支配する。理性で感情をコントロール出来ないのは郁李にとってうんざりする事案の一つだ。
毛布に顔を擦り付ける。肌触りの良い柔らかな毛並みには狗飼の体臭が程よく染み付いていて、少しだけ郁李の寂しさを慰めた。同時に下腹の奥で燻っていた熱がじんわりと再燃し始める。
「……なにやってんだ、俺」
眉根を寄せて自嘲してみても、毛布を口元から離せない。太腿を悩ましくすり合わせながらすんすんと臭いを嗅いでしまう。あの先輩の、逞しい腕に抱かれている時の事を思い出していた。汗に濡れた皮膚、ゴワゴワとした体毛、ザラついた声、焦げそうな程の熱と優しい仕草……。
郁李はぼんやりと陶酔感に浸ったまま枕に手を伸ばし、腕に抱えて頬擦りをした。狗飼の分厚く温かい胸板の感触には程遠かったが、彼の名残には違いない。
目を閉じて只管数字を数える。千を越える頃には郁李の意識は寒々しい微睡に溶けていった。
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鍵の回る音で目が覚めた。遠慮がちに扉が開き、閉まるのがベッドの上からでも分かる。聴き慣れた重い足音が部屋に入って来たので、郁李は寝ぼけ眼を擦って半身を起こした。
「おかえりなさい」
「……起こしちまったか、すまん」
帰宅した狗飼がネクタイを解きながら小声で謝った。眼鏡を掛けていない所為で時計は読めないが、カーテンから差し込む光は薄青く、まだ夜明け前だと察することが出来る。郁李は再びベッドのスプリングに身を任せ、狗飼に顔を向けて横たわった。そうして黙ってぼやけた視界の男を眺めていた。狗飼の方も別段呼び出しの報告をすることもなく、無言で寝巻きに着替えていた。
「隣、いいか」
ベッドに片膝を乗せた狗飼が郁李に訊ねる。郁李は小さく頷いて、自分より横幅を取る狗飼の為にスペースを空けてやった。ついでに、抱えていた枕を元の場所に戻してやる。
「……今夜は悪かったな、本当に」
不明瞭な視界でもケロイドの凹凸が見えるほどの近さで狗飼がポツリとこぼした。郁李はもぞもぞ狗飼に擦り寄り、筋肉に覆われた身体に肌をしっかりくっつけた。温かい。この熱を堪能できなかった悔しさと、虚しさが安堵に置き換わっていく心地よさに目を細める。無意識のうちに硬い肩に唇を寄せた。押し当て、やや強く噛む。へそを曲げているみたいで、我ながら子供っぽい。
唇を強請ろうと口を開きかけると、求める必要もなく額に歪な柔らかさを受け、身動ぎをした狗飼に抱き寄せられた。驚きに固まる郁李の後頭部をぬくい掌が何度も撫ぜた。耳元で男の低い声が囁く。
「おやすみ」
頭の中がふわふわとしておぼつかなくなる。眠気とも色欲とも異なる感覚に満たされて、郁李は穏やかに目蓋を下ろした。