【FGO】ぐだ子の夢十夜【鯖ぐだ】第一夜
こんな夢を見た。
私は一人ぼうっとマイルームのベッドに座って、誰かの訪問を待っていた。
随分と長い時間待っていたようだが、誰も訪れはしなかったようだった。
誰かに「待て」と昔言われた気がする。だからきっと私はいつまでも待っているんだろう。
ただ待っていると、思い出や記憶とも言いがたい感情を伴った既視感がもやもやと脳内を廻り始める。
夏休みの夕暮れに、家に帰りたいような帰りたくないような、泣きそうなあの気分が寄せては返っていく。貝殻を拾ったのか、きれいな石を拾ったのか。海に行ったのか、山に行ったのか。それとも家の近所の道で思ったのか。何かを手に持っていた気はするのに、それをどこで手に入れたのかが分からない。
ただ、一人ぼっちだった。
思い出とは言えないだろう、ただの心の動きだけが胸に刻まれていつまでも残っている。
カルデアに来てからは、思い出や記憶は現実感を失い、夢の中で起きた出来事のようにふわふわとしている。私が私らしく、日々を生きていたことは本当にあったことなのだろうか、辛い日々から逃れるために脳が作り出した幻影なのではないかと考えていた。
ああ、疲れた。疲れたなぁ。
私しかいない部屋でやけに声が響く。注意深く周囲を窺うと、電子音の一つも聞こえない。空調も部屋の外のざわめきも。自分の呼吸音すら聞こえずに、私は静かに錯乱した。
「待てとは言ったが、」唐突に、声が降ってきた。黒い、真っ黒い影がいつの間にか目の前にいた。
「現実を見失うことは許さん」
影は、私を見据えている。彼が、見ている。私は、彼を知っている。
そうだ、彼を待っていたんだ。
「待ちくたびれたよ、──」
私は彼の名を呼んで、彼の冷たい手を取り立ち上がった。
第二夜
こんな夢を見た。
真夏の熱気が肌を焼き、立ち上がる蜃気楼が思考力を奪う。そんな8月の日に、誰かが地面を掘っているのを見た。
「おおい。何をしているの」
私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げて、鍬を持つ手を止めた。
「オレの墓を掘っている」
彼は真っ白な肌に細い体、胸元に赤石が埋め込まれている。それにしても物騒なことだ、と近づいてみると、確かに大きな穴が掘られているようだった。
「なぜお墓を?」
彼は首を傾げた。なぜだろう、と言いたげだった。
「いや、これは墓ではないのかもしれない」
これはタイムカプセルだ、と彼は言った。
「思いつきで言ったよね」
「お前には敵わないな」
図星だったらしい。
「カルナ、」私は彼の名前を知っていた。どうやら長い付き合いだったようだ。
「タイムカプセルは埋めた時点で完成なんだよ」
「どういうことだ」
「開けることは目的じゃないということ」
「……そうか」
カルナは地面に座る。私も隣に座る。土は思いのほか冷たい。
「埋めてしまえば、何か残るのではと思ったが。きっと埋めたことすら忘れてしまうのだろうな」
無表情だが、寂しそうに見えた。だから私は続けた。
「消せないものだけ埋めたらいいよ。忘れることはできる」
そうか、と彼はうっすら微笑んだ。そうして、立ち上がり穴を埋め戻した。
どうして、と聞くと「もう埋めた」と彼は答えた。
ヒグラシが鳴いていた。
第三夜
こんな夢を見た。
ギリシャ神話の炎と鍛冶の神、ヘパイストスは不具であった、と彼は言った。
またそのため母神のヘラに愛されず、渇望して娶った女神アフロディテにも浮気され、処女神アテネにも拒絶され、失意のまま暮らしたという。
彼の名はヴァルカン半島の由来として残っている──。
「唐突にどうしたの」
私が問うと、彼は仮面をつけているにも関わらずはにかんだように見えた。
ここは高校の教室で、彼は先生だ。外は夕暮れで、机や椅子を不吉なまでに赤く染め上げていた。金色の、仮初の目鼻すらない仮面をつけたアヴィケブロン先生は、個人授業と称して、私を独り占めにする逢瀬を重ねていたのだった。
「彼はね、人形作りも得意だったそうだよ」
だから、僕と似ていると思ったんだ。
硬質に響いたそれが、耳に残る。
「僕は怖い。君を失うのが、とても怖い」
私はどこにも行かないよ、と彼の手を取る。彼はすがりつく。
「これはきっと夢だ、目が覚めると君はいないんだ」
そんなに怖がらなくてもいいのに。
いつの間にか彼は私のスカートをめくり上げ、隠されるべき場所に顔を埋めている。仮面は外されて床に落ちている。私は未だに彼の顔を見たことがない。
彼は還りたいらしいが、そんなことは一度もできた事がない。
結局のところ、彼に抱かれた私は同じような逢瀬を繰り返すのだ。
第四夜
こんな夢を見た。
月のない一面の星空の下に、白亜の東屋がある。そこからピアノの音が聞こえるので、近づいてみると不思議なことに先程まで見えなかったグランドピアノが設えてあった。
ピアノを一人の男がひたすらに弾いている。私の存在には気がつかないようだ。
美しい旋律だということは分かるのだが、その曲が全く覚えられない。耳に入った瞬間から音符がほどけて消えていくようだ。
男の姿もはっきりとはしなかった。
影のような、というわけではない。印象がブレるのだ。
癖のある長い髪の毛をした尊大な若者に見えても、瞬きをすると細身の神経質そうな顔色の悪い男に代わってしまったりする。
彼ら(と言っていいのか)は対照的に演奏をする。
尊大な若者は楽しそうに華やかに。神経質な男は苦しそうに堅実に。
私は暫くピアノの傍に座って、聞き惚れていた。
星がきらきらと輝いている。星に埋め尽くされて、暗闇がどこかに消し飛んでしまいそうだ。あまりにきれいで、切なくなる光景に私の目が思わず潤んだ。
いつの間にか、私の喉は聞こえてくる旋律を再現する楽器になっていた。相変わらず耳とそれに付随した脳髄は役立たずだが、楽器としての喉は優秀だった。
神経質な男と尊大な若者が同時に私を振り向いた気がした。
そして微笑んでくれた気がした。
彼らの演奏が徐々に変わっていく。
尊大な若者は切なげに、苦痛を官能に変えるような表情を。神経質な男は、優しげに羽毛を撫でるように、また寂しげに演奏していた。
私を時々振り返りながら、彼らはピアノを奏で続ける。
この男たちは、何かを待ち続けているのだろう。
私も寄り添い、歌い続けた。
第五夜
こんな夢を見た。
白い手袋をして、長髪を結い上げた青年と連れ立って歩いていた。
一面の花畑は地平の果てまで続いていて、青い空と融合していた。
「どこに行ったらいいのか分からないな」
私の呟きに彼は、いつもみたいに困ったように微笑んだ。
「僕にも分からなくて……力になれなくてごめんね」
「ううん、大丈夫」
あなたのせいじゃない。
そう答えると、彼はますます困った顔をした。
「君は、強くなったよね」
「あなたのおかげだよ」
「僕は何も」
「そばにいてくれたじゃない」
「……なら、良かった」
長い髪が踊る。花が散る。いかないで、と呟く。
「いかないよ。もうどこにもいけないんだ」
残酷な言葉だ。
「そうじゃない、」ああ、髪の毛が顔にかかって、彼の顔が見えない。
「あなたに会えてよかった、それを言いたかったのに」
ありがとう、と彼が笑う気配を感じる。目の前は滲んでよく見えない。
「これだけは言わせてよ、ねえ聞いて」
「聞いているよ」
彼が頷く。必死な様子に見えて、笑いそうになる。
「私の行き先は私が選ぶ。ロマンを感じられる選択肢を選ぶ。決めたから、そう決めたから。分かった?!」
彼が、何度も何度も頷く。
「待ってて、ドクター」
何度も呼んだはずなのに、二度と呼べない名前を呼ぶ。凄まじい轟音とともに、風が全ての花を舞い上げ、散らし、私の視界を奪った。
第六夜
こんな夢を見た。
船乗りが、大集合していた。
それぞれの船を、気ままに並べて港は大盛況だ。
ウミネコの鳴き声がかき消されるくらいに、船乗りたちの笑い声、怒号が響く。
「じゃんじゃん持ってきな!全部飲みつくしてやるよ!」
居酒屋で昼から酒を呷る女海賊が、叫ぶ。
二人で一組の女海賊たちはそれを横目に分捕った貴金属の品定めをする。
黒い髭を蓄えた大男が、小兵の船乗りを殴り飛ばす。
白髭の老いた船長が、高笑いをして女を侍らせている。
ああまだいた、白い中折れ帽に軍服のアジア人が黒髪の美女を傍らにカードゲームに興じている。
船乗りが一堂に会して、意外にも平和である。
金髪の古き時代の船長も隅の方でいらいらとしているようだが、それはおいておく。
船乗りはみな、気のいい連中だ。
「お前もそうなるか?」
波打つ豊かな髪をいとわしげにまとめた青年が笑いを含んで問う。船乗りの癖に肌の色は白い。彼の目を見つめると、一瞬十字の輝きが見えて、消えた。
「私も船乗りになれということ?」
「そうだ!」
彼がそういうと、おのおの楽しんでいた船乗りたちが「そうだ!」と声を上げる。いつしかシュプレヒコールのようになり、怒号に圧迫されていく。
それはますます高まり、乱痴気騒ぎになっていった。酒瓶が飛び、金貨がぶちまけられる。皿が誰かの頭上で割れて、血が吹き出る。
私の顔に割れた酒瓶が飛んできて、ぶつかる、と目を閉じた。しかし恐れていた痛みは訪れず、おずおずと目を開けるとあの白い肌の船乗りが酒瓶を素手で受け止めていた。手に刺さっていた酒瓶がゆっくりと落ちると、白い肌からだらだらと血が流れ出した。
「怪我は……ないようだな」
私を一瞥すると、何も起きなかったかのような態度で彼は手にハンカチを巻いた。ハンカチは古い木綿のようだったが、みるみるうちに血に染まっていった。
「ねえ、大丈夫なの……ごめんなさい、私のせいで」
「なぜ貴様が謝る必要がある。……そうだな、悪いと思うなら、俺とここを抜け出そう」
返事をする間もなく手を取られ、居酒屋を飛び出す。港は明るい光に満ちて、居並ぶ船が森のようだ。私たちは猫のように駆け、一艘の船に飛び乗った。
不思議と船は操舵手もなしに動き出し、海面を奔り出した。水面が割れた鏡を散りばめたようだ。船の進む先を見つめる私に、白い船乗りが寄り添っていた。
「行こう、どこまでも。お前の望むところへ」
まるでプロポーズみたいだと笑うと、彼は渋い顔をした。
「口付けもせぬうちに、」船乗りは側を飛ぶ鳥を見つめる。
「お前は俺の見えぬ場所へ行くなよ」
青空とは対照的過ぎる深刻な声音と表情に、私は悪いとは思いつつ噴出してしまった。彼はきょとんとして、少ししてから目を背けてしまった。
私たちが置いてきた地上では、未だにドンちゃん騒ぎが繰り広げられている。
第七夜
こんな夢を見た。
夕暮れ時の町並みは、人通りが少ない。家々はことごとく影に染まり、すれ違う人は顔に穴が開いているかのように虚無だ。空は世界中にある赤の成分をごちゃ混ぜにしたかのように重苦しく赤い。間延びしたような、歪んだ終業チャイムが延々と流れている。
私は学生で、紺色のセーラー服を着ている。きっとあの歪んだチャイムも通学している学校のものだろう。
家に帰るでもなく、通りをぶらぶらとしていると、人だかりができていた。
気になって背伸びをして見てみると、誰かが血まみれで倒れていた。
多分死んでいるだろう、あの様子では。
日常で起こりうる些細な出来事のような感想を浮かべて、人ごみを離れる。
歩いていくと、また死体があった。もう少し行くと、また死体があった。その次も、その次も。死体で道ができていた。性別も年齢もばらばらなそれらは、共通点は人間であるということだけだった。幸いにも子供はいないようで、私はそこだけは少し安心した。
死体の道を辿っていくと、男の人が立っているのが見えた。
ぼさぼさの癖だらけの髪の毛を適当に結い上げて、肩脱ぎにした着物を着ている。手には血塗れた日本刀だ。無骨で、鎧や兜すら割り砕いてしまいそうな刀を肩に乗せ、男は私に背を向けている。武士や侍のような格好だが、直感で「悪漢だ」と思った。
ここを離れよう、と足を踏み出したところ、悪漢が振り返った。
殺気立った目が、私を捉える。立ちすくんで、動けなくなった身体が小刻みに震えた。ここにいてはいけない。でも動いてもいけない。なんにしろ殺される。
身体とは裏腹に、心は絶望を受け入れ始めていた。
男は、眼光鋭い眼差しで私を一瞥した。
「われ、何見ゆーんだ」
唾がにちゃにちゃという音が聞こえる。
「わしを見たな。わしを見てしもうたな」
じゃり、じゃりと、草履の音が近づいてくる。
あ、あ、と声にならない悲鳴寸前の呻きが勝手に喉から漏れる。
殺される。殺される。殺される。
ふと、足音が止まった。
「なんじゃあ……?」
方言、恐らく四国周辺の言葉を話す男は何かの物音を聞いたのか辺りを見回す。同時に、私を縛り付けていた殺気が途絶えた。チャンスだ。私は男に背を向けて、走り出した。
「待て!待て言いゆうのに!」
男が、追いかけてくる。つかまるまいと、曲がりくねる路地を駆け抜ける。
軽い足音の後ろから、じゃりじゃりと草鞋の音が近づいてくる。
待て。待ってくれ。
鬼気迫る男の声が、徐々に哀切を含んでくる。
いかんでくれ。行くな。俺をおいていかんでくれ。おまんまで俺を。
「……マスター!」
声に身体を掴み取られた気がして、私は思わず立ち止まり振り返った。目の前、少し先に男の姿があった。彼は息が上がっていたが、眼光は未だ鋭かった。しかし自らの発した声に戸惑っているようでもあった。
私は私で、突然脳裏に浮かんだ名前に混乱していた。
彼の名前は、私は彼を知っている。
「い、ぞうさん」
人斬り岡田以蔵の殺気が霧消した。彼は、涙をこらえるような顔で破顔した。
「……げに、良かった」
私は全てを思い出した。
第八夜
こんな夢を見た。
そこは不思議な食堂だった。よく見知ったカルデアの食堂、縁側のある和室、古城のホール、他にも知らないけれど恐らく食事をする場所が天地を関係なくくっついてどこまでも続いていた。宇宙コロニーの内部はきっとこうなっているのだろうと思わせる、だまし絵の景色だった。私は無重力状態でどの場所に行くことができた。
たった一人ふわふわと中空を漂い、どの食堂に行くか迷う。そして、結局カルデアの食堂に降り立ち、席に着いた。フードコート形式の普段とは違い、テーブルにはメニュー表が置いてあった。
おそば、鮭とバターのホイル焼き、サンドイッチにグラタン、ハンバーグ。冷やし茶漬けまである。他にも色々、家庭的なメニューが並んでいる。
「ご注文はお決まりかな?」
声に振り向くと、いつの間にか傍らに白髪で浅黒い肌をした若いシェフが立っていた。赤い服にエプロンをつけて、微笑んでいる。その笑い顔が迷子みたいで、大きな体とあいまってアンバランスだった。
「まだ迷ってて」
「ゆっくり考えるといい」
好きなものを選びなさい、と彼は言う。頷いて私はメニューに首っ引きになった。
彼がそっと離れていく気配がする。きっと呼べば来るだろうが、私はまたひとりになった。お腹と相談したところ、ハンバーグを注文することにした。
「すみませ──」
「ご注文はお決まりかな」
どこから現れたのか。シェフはオーダー帳を手に立っていた。
「ハンバーグセットください。オニオンソースで。あとコーヒー」
「ドリンクは食前食後どうするかね」
「じゃあ一緒に」
「了解した」
彼は恐らく厨房のあるだろう方向に、まさしく飛んでいった。
実際のカルデア食堂とは違い、厨房は違う場所にあるようだ。ぼうっと待っていると、温かくおいしそうな食事が目の前に用意された。
「お待たせしました、召し上がれ」
シェフに促され、いただきます、と食べ始めると期待以上の味が口いっぱいに広がった。
「おいしい!」
「そうか良かった」
嬉しそうな声。私は疑問をぶつけてみたくなった。
「こんなにおいしいのに、お客さんは私だけなんですか?」
彼は虚を突かれた顔をして、ややあってまた迷子みたいな顔をした。
「そうなんだ。一時期は色んな人が来てくれたけれど」
「じゃあ私が通おうっと。他のも食べてみたいし」
「そうか!」
声が朗らかに明るくなった。本当は分かりやすい人なのかもしれない。コーヒーはアメリカンではなく、丁寧に焙煎したもので飲みやすくおいしい。それも伝えると、シェフの料理薀蓄が始まったので、笑顔で聞き流した。
付け合せにいたるまでとても美味だった食事を終え、私は席を立つ。
「お会計は……」
そういえば財布がない。なによりどうやってここに来たのかも分からない。
「構わないよ、次に来たときに払ってくれたらいい」
「でも、」
「また来てくれ給え、待っているよ」
突然、シェフの笑顔が遠のいた。背中が、身体全体が何かに思い切り吸い出されるように引っ張られている。空間が遠ざかり、私は虚空へと追い出されていく。
シェフが手を振っているのが微かに見えた。
そこで私は「ごちそうさま」を言いそびれていたことに気がついた。
第九夜
こんな夢を見た。
私は入院していた。左腕には点滴がぶら下がり、ベッドに寝ている。
身を起こすと、病室は太陽光でやけに全てが白っぽく見えてどうにも現実感がなかった。それどころか私は6歳か7歳頃の体格になっており、それを疑問にすら思っていなかった。大部屋の窓際のベッドを私は割り当てられており、他に5人の患者がベッドにいた。
私のすぐ隣は、ショートカットで長めの前髪で片目を隠している同世代の女の子だった。彼女も点滴をぶら下げており、私と同じように起き上がってぼうっと座っていた。
私がじっと見ていたのに気がついたのか、女の子がこちらを見た。
ビー玉やおはじきみたいな目だな、と思った。
「こんにちは、」初めて会う子にはご挨拶。お母さんがそう言っていた。
「あなたも病気なの?」
女の子は首をかしげて「びょうき、なの」と言った。
わたしはずっとここにいるの。おそとにでたことがないの。ずっとべっどのうえにいるの。
女の子はぽつぽつと話す。私が自己紹介すると「ましゅ、っていうの」と名前を教えてくれた。
マシュは、本人の言ったとおり病院の内部しか知らなかった。せいぜい散歩をするくらいで、殆どベッドの上で過ごしているというのも本当だった。
私とマシュはよい友達になった。少なくとも私はそう思っていた。病院の中でかくれんぼしたり、お絵かきをしたり、大人になったら何になりたいか話したりしてずっと笑い通しだった。看護師さんにもマシュがこんなに笑うのははじめて見たと言われたくらいだ。
私たちは、病院きっての悪ガキになった。マシュがすぐ疲れてしまうから、走り回ったりとかは出来なかったけど、他の病室を探検したり悪戯をして仲のいい看護師さんに叱られることもたびたびだった。
「ベッドに戻りなさい!戻らないと捕まえて消毒、殺菌しますよ!」
看護師さんに詰め寄られて、きゃあああ!と叫びながら病室に逃げ帰る、その繰り返しだった。
随分長いこと一緒にいた気がするが、マシュも私も退院できる気配がない。そのことに不安はなく、いつまでもマシュと一緒に遊んでいたい気持ちだった。
ある朝、朝食をベッドで食べていると、お医者さんが来てもうすぐ退院できるよと教えてくれた。
「マシュは?マシュも退院する?」
お医者さんは、顔を曇らせて、
「君だけだよ。マシュは退院しないよ」
それから私は手をつけられないくらい泣いた。マシュと一緒じゃなきゃやだ、とか退院しないとかわがまま放題を尽くした。マシュは検査のために朝食の時にはいなかったので、醜態は見られずに済んだ。私は泣きつかれて、とうとう眠ってしまった。
目が覚めると、隣のベッドにマシュが帰ってきていた。
「マシュ」
「退院、おめでとう」
マシュは笑顔で言った。私はせっかく枯れ果てたはずの涙がこみ上げそうになる。
「マシュも一緒じゃなきゃ退院しない」
マシュの笑顔が消えて、泣きそうな顔になる。
「わたしは、退院できないの」
ずっと退院できないの。だから、私が退院できなくても、また会いに来て。
とつとつと語りかけられて、私はついに頷いた。
「絶対遊びに来る。いつかマシュを外に連れ出してあげる」
約束だよ、約束したからね。
勝手に約束を押し付けて、私たちは指切りをした。
いつかそれが叶うように、心から祈った。
第十夜
こんな夢を見た。
自称・完全無欠の至高の天才美女が、部屋の窓から覗き込むようにして私に話しかける。
「元気にしてるかね、死刑囚くん」
「はい、元気です」
そう答えると美女は満足そうに微笑んだ。
何か必要なものはないかね、問いかける声に、何も、と答える。
「そうかね、もうすぐ君は刑を執行されるというのに、何も望まないのか」
「はい」
望んだところで、絶望が深くなるだけだ。次の瞬間には奪われるものを手元に置いてどうなるというのか。
「じゃあ私の話し相手になってくれないかな、執行までは暇でね」
「いいですよ」
自称・美女は尊大に傲慢に、しかし少しのユーモアを織り交ぜて手前勝手に語りだす。それは芸術の話と、美しく生きた人間たちの話だった。
「だが彼らはもう生きていない。私と同じ目線で語れるものもいない」
「でしょうね」
「では死んだ人たちのことでも話そうか」
美女は嬉々として、刑に処された人々のことをしゃべり始めた。
絞首刑になった正義の味方。蜂の巣にされた女スパイ。ギロチンの露と消えた王妃。斬首された人斬り。火炙りにされた聖女。絞首刑ののち火刑とされた騎士。殉教者となった龍殺し。
「さて君はどうして処刑されるんだっけ」
どうも忘れっぽくてねえ。笑う声はどうやら本気のようだ。
「世界を守るために、世界を滅ぼしたからです」
「そりゃすごいや!」
相手は心底おかしそうに笑った。
「ああ、楽しかった。話に付き合ってくれてありがとう。処刑の時間だよ」
美女の顔が消え、扉が開いた。
処刑人が部屋に入ってきて、後ろ手に扉を閉めた。
「君は、本当に死にたいのか」
そういう彼は、自分がシャルル・アンリ・サンソンだと名乗った。
「死にたくはないです、」私は彼の顔を確りと見る。
「でも処刑は覆せないんでしょう?」
私の言葉にサンソンは眉をひそめた。
「正直なところ、君は処刑されるべきではない」
と僕は思っている、と付け加えて彼は唇を引き結んだ。
「自由になりたい」
私は呟いた。
「あなたは脱獄の第一人者でしょう、エドモン」
サンソンが微笑む。悲しそうだ。そして、サンソンの視界から私を遠ざけるように黒い影が目の前に立ちはだかった。
「この男ではなく、俺を選ぶのか」
「うん」
黒い影はきしむような声で笑う。サンソンは、扉を開け放った。
「君は自由だ、マドモワゼル。処刑人は速やかに去るよ」
ありがとう、と伝えると彼ははにかんで姿を消した。
さて、と岩窟王は居住まいを正す。
「長い夢は終わりだ。遣り残したことはないか」
「多分。ないと思う」
そうか、と彼は何度も掴んできた私の手を再び取る。
「お前の行く先は苦難の雨が降り、憎しみの炎が立ち塞がるだろう。凍てつく悲しみが足を絡めとり、お前を地の底へと引きずり込むだろう」
私は彼の目を見つめ続ける。彼は続ける。
「だがお前が俺の名を呼べば、どんな地獄にも駆け付ける。これは契約を超えた、枷だ。忌々しい神にも解けはすまい。だから──」
私は、人差し指でエドモンの口を塞ぐ。ほんの少し、たじろいだ。
「──待て。しかして希望せよ、でしょ?」
エドモン・ダンテスは弾けるように大笑した。
そうだ!そうだ!お前はそれを忘れはすまい!
笑いの隙間に言葉を挟むようにして、彼は笑い続ける。
仕方がないので、私は彼の手を引いて独房を出る。
外は真っ白く、何もない世界だったが、私は既に囚人ではなかった。
これが私のもてる全てだ。呟いて私は前に踏み出した。