夜と花火と【へしさに】 夜は長いものか、短いものか。
刀剣男士の間で時々話題に上るテーマだ。刀という物体から、やわい人間に似た肉体を得ると、付喪神というものでも感覚などが変化するものである。ある男士は、夜は短いと言った。人間の食物や娯楽を楽しむには、一日が足りないとも付け足した。また他の男士は長いと言った。夜の間は、何もかもが静かで、例え仲間と一緒にいようとも胸の隙間に寒い風が通るような心地になるから、朝が早く来てほしいと思うと呟いた。
さて、自分はその時なんと答えたのだったか。
とっぷりと日が落ち、既に星々が輝く頃。日中の熱気は勢いを緩めたものの、じっとりとした空気がたまに吹く風にかき混ぜられる。本丸と呼ばれる本拠地の縁側で、へし切長谷部という打刀は独り酒を酌んでいる。軽装と称される支給された美しい着物姿は、普段の戦装束や内番着とは、人柄すら変えてしまったように見えるものだ。とは言え、裾が割れるほどに足は投げ出すように開かれ、少々無作法だ。素足に履いた下駄の歯が、たまに沓脱石にぶつかってからからと鳴る。
縁側に置かれた盆には徳利と何故か猪口が二つ。一つは盆の上で待つような風情だ。隣には肴としては少しはしゃいだ食べ物が置かれている。彼は少しずつ酒を舐めるようにして愉しむ。彼の苛烈な戦い方や性格を知っていれば、多少驚くことだろう。主の忠犬だの疾風怒濤の鬼神だの二つ名は色々と付けられてはいても、彼に穏やかな面がないわけではない。彼自身は自らの役割を果たしているだけだ。今はその穏やかな時に浸り、酒を友として夜に対しての捉え方の変化をゆっくりと検めていた。酒は旨い。だが、なぜ旨いのかを説明することは難しい。結局のところ、旨いと感じるのはその時その時の心の置き所によるのではないだろうか。そして夜の長短においても。
ふと、待ち人の気配を感じて長谷部はそちらの方に面を上げる。視界の先にはまさしく彼が求めてやまないひとがおずおずと、長谷部の元を目指し歩み寄っているのだった。
※
短刀たちのはしゃぐ声は、心を華やがせる。刀剣男士を部下として預かり、本丸を運営する女主たる審神者は自分自身も浮き浮きとした気持ちとなっていた。主の御付きとして命ぜられた、そして役得である刀剣男士たちは揃いも揃って華やかな軽装姿である。
今夜は万屋街のお祭りなのだ。万屋街は時の政府が構築した審神者と刀剣男士のための商店街であり、現世とは隔絶している故に安全に買い物ができる場所だ。ただの商店街ではなく、多くの万屋を経営する人々の住まいやインフラ、寺社仏閣などもあるため、ここが狭間の世界だと言われなければ分からないだろう。それ程に巨大な都市とも言える姿であった。
この度の祭りの主催は、その万屋街にある主要ポジションの神社が執り行う。
盆踊りに、数々の屋台。2205年には既に廃れた文化として一部が保護されているそれらが、正に本物として体験することができる機会である。
よほどのことがない限り、殆どの審神者たちはこのイベントを楽しみにしていた。現世と隔絶され様々なことが曖昧になる本丸という空間で暮らしていると「ひと」である意識すら境界線が危うくなる。いわば時の政府主催の審神者慰安イベントのようなもので、その時ばかりは只人として楽しむ。審神者自体、様々な地域、世代、場合によっては時代から集められているのだ。娯楽があって悪かろうはずもない。
そして同様に、刀剣男士たちもこの祭りを心待ちにしていた。
主と一緒に堂々と遊ぶことができるし、また人間の文化と心によって育まれた付喪神にとって、伝統に寄り添うことは心地のいい体験であったからだ。夏の夜は短いが、思い切り楽しもうと審神者も刀剣男士も息巻いている。
「主、ご準備は済みましたか」
打刀、へし切長谷部が、審神者と短刀たちが集う部屋へやってきた。彼も軽装姿であり、普段の装束と比べると心なしか穏やかな雰囲気をまとっている。
「ええ、もう出られます」
審神者は、立ち上がり返答する。主の姿を見て、長谷部が息を吞んだ気配がした。
「よく、お似合いです」
絞り出した声と上気した顔を受けて、審神者は、そうかしら、と恥ずかしそうに眼を逸らした。けして派手というわけではないが、端正な女主の面差しに紺色に大振りな花柄の浴衣は際立って似合い、美しく見せた。長い髪は乱藤四郎の手によって緩やかに結われ、きっちりとした普段のイメージよりも、より寛いだ印象を与えている。
「長谷部こそ、改めて見ると、よく似あっています」
顔を赤らめ、主がそう言うと、長谷部の頬も益々熱くなるようだ。ありがたき幸せ、といつもの張りのある声はどこへやら、もごもごと長谷部が礼を言う。しばらく二人がお互いを見たり何か声を重ねようとするのを、ニヤニヤと見ていた短刀たちのうちの乱藤四郎が、ついにしびれを切らして声を上げた。
「主さん!長谷部さん!準備ができたなら出発しようよ!ボク、やりたいこといっぱいあるんだー!」
二人の間に割って入る彼も水色の華やかな浴衣姿だ。一見美少女に見えるが、れっきとした刀剣男士であり、頼りになる短刀である。
「ええ、乱くん、一緒に楽しみましょうね」
「うん!長谷部さんもね!」
「俺は、主の護衛が……いや、主命と仰せなら俺も楽しみますが……!」
得意の渋面から、とってつけたように言い募る長谷部に主も乱もくすくすと笑う。
「では、長谷部。主命です、私たちと一緒にお祭りを楽しみましょう」
「……!はい、主!!!」
そうして、本丸の居残り連中に見送られ、主と長谷部以下数振りは万屋街に繰り出したのだった。
「主君、わたあめ欲しいです!」
「あるじさま、きんぎょをすくいにいきましょう!」
「りんご飴かーわいー!」
秋田藤四郎が自らの頭に似た桃色の綿あめを指させば、負けじと今剣が主の手を引いて金魚すくいの屋台に誘導しようとする。他方、乱藤四郎は愛らしいりんご飴に夢中だ。万屋街の天候は夏日の夕方に設定され、日本らしい湿気を含んだ暑気となっている。
「こら!主がお困りだ、全員バラバラに動くな、まとまれ!」
短刀たちに振り回されておろおろとしていた審神者を見かねて、長谷部が鋭く声を発する。そうすると、流石のこどもたちもスンと落ち着いて長谷部の言うとおりにするのだった。審神者は長谷部の小言を傍目に、周囲の様子を見まわす。居並ぶ屋台をそぞろ歩く審神者とその刀剣男士たちが、楽しげに笑ったり声を上げている。はたまた保護者役の刀剣男士に叱られている姿もよく見られた。幼い審神者だと、短刀と一緒になって叱られている者もいる。彼らはその時はしょんぼりとしているのだが、保護者の怒りが解けた瞬間火が付いたねずみ花火のように雑踏を駆け出していくのだった。それを保護者達はやれやれとばかりに追いかけるのである。女主はつい吹き出してしまった。
「主?いかがなさいましたか」
長谷部が主の方に気が移ったのをいいことに、短刀たちが蜘蛛の子を散らすように駆け出すのが見えた。
「いいえ、何でもないの」
最後に小走りで去る乱藤四郎が、主を振り返りウィンクをした。意図に気づいて、女審神者は薄っすら赤面した。
彼女は、臣下たる刀に淡い感情を抱いている。それはまだはっきりとした形ではないが、本人が自覚でき、気の付く近しい者には悟られる程度の温かさを孕んでいる。
隣で、消えてしまった短刀たちに対して長谷部がぶつぶつと文句を言っている。審神者は、そんな彼の袖を軽く引いた。
「は、なんでしょうか主」
先程まで眉間に寄っていた皺が瞬く間に消え失せ、笑顔になった。主にだけ向けられる思慕に似た表情に、分かっていても彼女の胸は高鳴った。
「あの、短刀たちも楽しんでいるようですし、二人で屋台を回りませんか」
主の言葉にきょとんとした表情を浮かべたが、じわじわと喜びのさざ波が長谷部の顔面を覆うのが目に見えて分かった。
「主命とあらば。完璧な屋台巡りをご案内差し上げましょう」
「いいえ、いいのよ、もっと適当で……」
「そんな!せっかくの主命、この長谷部がこなしてみせます!」
「そういうことじゃないの、そうじゃなくて……なんとなく楽しいことを共有したいだけなんです。私だけじゃなくて、あなたにも楽しんでほしい」
審神者の言葉に、忠臣は一瞬何を言われたのかわからないという顔をし、理解した瞬間、大輪がほころぶ柔らかい笑顔を浮かべた。
「承知しました。ではご一緒に楽しみましょう」
胸が痛い、足元がふわふわの雲になったみたいだ、と頭の中で叫ぶ自分を隅っこに追いやって、審神者は頷き、少しだけ長谷部との距離を詰めて横に並んだ。対する長谷部は、距離の縮まった主の気配にやや体を強張らせたものの、気取られぬように落ち着いて歩調を合わせるのだった。
「主!主!イカ焼きがありますよ!あ!あそこにヨーヨー釣りが!!!」
「ええ、買いましょう食べましょう」
数分後、長谷部はすっかりと祭りの空気に馴染んでいた。それに合わせて審神者も会話を合わせる。女主は、自分が言い出したこととはいえ、ここまで長谷部が己をさらけ出すように楽しんでくれるとは想像もしていなかったのだ。だがそれは不快ではなく、自分自身も上に立つ者の立場をしばし忘れ、長谷部と対等に楽しむチャンスだと思っていた。
気づけば審神者の手には、ヨーヨーとチョコバナナが握られていた。しかし長谷部はそれどころではなかった。戦隊モノのお面を額に引っ掛けて被り、同じ戦隊モノの色違いの綿あめを3袋を手首から下げ、おまけに扇子を根付替わりにして帯からヨーヨーをぶらぶらさせている。はしゃいでいると評される以上の楽しみっぷりであった。イカ焼きをもぐもぐと食べながら、次はあちらに行きましょうと主を急かしている。審神者としては、多少諫めねばならないと思いつつ、長谷部の好きにさせてやりたいという気持ちもある。しかもお祭りの場という、ハレの場においてせっかくならば少しくらい羽目を外したっていいのではないか。審神者自身も、節制・けじめと浮つく心を天秤にかけ、とうとう箍を緩める方向に振り切った。
「長谷部!フランクフルトも食べたい!」
「いいですね、食べましょう!」
万屋街の神社の境内は広大で、屋台の列はどこまでも終わらない。他の本丸の審神者や刀剣男士が入り交じり、異界めいている。実際に現世ではないので異界と言えないこともないが、時の政府の防壁に守られた箱庭で彼らが羽を伸ばしているのは特殊な光景であった。祭囃子と太鼓の音がどこからともなく響き、黒々と社殿が夜空に映えている。屋台を照らすライトが明るすぎるせいか、範囲外の場所はやけに闇が深いように見えた。
そぞろ歩くうちに、射的の屋台に今剣と秋田藤四郎がいるのを見つけた。
主君!と真っ先に審神者を見つけた秋田藤四郎が手を振って招く。二振りは、どうやら取りたい景品があるようだが上手く当たらず難儀している様子だった。
「うわあ、長谷部さん凄い恰好ですね!」
「そうだろう、全て主と共に買ったんだぞ」
「いいなあ、ぼくもたくさんもちたいなあ」
秋田藤四郎と今剣に羨望の目で見られて、長谷部は少々胸を張る。気をよくしたのか、「よし俺が景品を取ってやろう」とコルク銃を手に取った。
お面に綿あめにヨーヨーをぶら下げた姿のいい男が、ちょっと迷うように手に持っていたフランクフルトとイカ焼きの串を主に預けた。
「主にお願いするのはおこがましいのですが、あいつらの両手を空けておいてやりたいので」と言われれば是非もない。喜んで審神者は串を預かった。
長谷部は、スッとコルク銃を構え目を眇める。短刀たちはワクワクと、しかし息をのんで見つめている。彼らの女主も、胸を高鳴らせ見守る。軽装の裾が少し割れ、素足が少し見えるくらいの体勢を取り、照準を定める。ふと長谷部の背中の緊張が緩み、引き金が引かれた。
「おおっ!」
ぽん、と小気味いい音を立ててコルクは銃口から飛び出し狙っていた大きな熊のぬいぐるみを叩き落した。思わず歓声を上げた屋台の店主も「打刀に本気出されると商売上がったりだなあ」と苦笑いをした。秋田藤四郎と今剣は景品を二振りで抱えると、長谷部に感謝し、また尊敬の念を伝えるのだった。
二振りから離れ、主と長谷部は再び歩き出す。
「あの二人、まだ祭りは長いのにぬいぐるみどうするんでしょうね」
「大丈夫ですよ、主。それがわからぬ奴らではありません。きっとうまくやるでしょう」
「それならいいんですが。あの、長谷部」
「はい、どうしましたか」
長谷部の前に、フランクフルトとイカ焼きが差し出された。
「お返ししなきゃと思って」
「ああ、すみません!」
長谷部が赤面しつつ、受け取ると何故か主も顔を赤くしていた。
「長谷部、さっきかっこよかったですよ」
目を逸らしつつ女主人がしっとりとした声音で言うので、長谷部もすぐには返事をできず、ようやっと出た言葉が絞り出したような「ありがとうございます」だった。顔が熱い。お互いに自らの言葉と態度に動揺して、うまく顔が見られない。空気自体が湿度をもって二人の間の空間にあって呼吸がしづらいような、ぎくしゃくとしたものに囚われている。
「あの、長谷部」
それでも口火を切ったのは審神者だった。
「もっと、色々な姿を見せていただけたら嬉しいです。さあ、屋台を回りましょう!」
先に立って歩きだす審神者を、「待ってください!」と長谷部が追いかける。盆踊りの二回目公演が始まるとアナウンスが聞こえる中、二人はまるで心を通じ合ったばかりの恋人同士のように寄り添って歩くのだった。
「長谷部!型抜きやりましょう!型抜き!!!」
昔やったことあるんですよ、と審神者は屋台に併設された椅子に腰かけると腕まくりをして、テーブルの上の型抜き菓子に向き合った。ちまちまと爪楊枝であらかじめ付けてある溝を切り離していく。慎重な作業で、少しの油断や力加減で全てがおじゃんになる難しい遊びだ。審神者に向かい合って座る長谷部も、同じく型抜き菓子と相対する。爪楊枝を構え、慎重にゆっくりと溝を狙い打ち……。
「俺の刃は防げな……ああっ!!!!」
掛け声一発、型抜き菓子は乾坤一擲の一撃により粉砕された。目の前には呆気にとられた主が惨状を見つめている。そして当の本人も、粉微塵になった菓子を前にただ爪楊枝を宙ぶらりんに摘まんだまま、呆然としていた。そして審神者の手元でも、ぱき、と菓子が割れる音がして、二人ともが我に返った。
「あ、あ~あ……」
「申し訳ございません主……俺のせいで……!」
この責はどのような仕置きでも、と大真面目に言う長谷部を見て、審神者はつい笑ってしまった。
「ご、ごめんなさい!別にいいんですよ、これ難しいし。長谷部は凄いですね、粉みたいに失敗するパターンは初めて見ました」
「……お恥ずかしい限りです……」
思いのほかしょんぼりとしている長谷部を励ますために、審神者は言葉を重ねた。
「大丈夫ですよ、私はとても楽しんでいますから。それよりも長谷部がきちんと楽しめているかの方が気になります」
すると長谷部はやはり真面目な顔で、
「主とご一緒できるならば、俺はどこでも快く過ごせるのですが」
と言った。その真っすぐな言葉に、審神者はかえって上手い返答が思いつかず、答えに窮した。普通の男女の関係ならば、淡い期待を確信に変えてしまうだろうセリフに、彼女は否と首を振った。
「長谷部、あなたの忠誠を私は信じています。だからこそ、あなた個人が、主従は関係なく心健やかであるか……それが気になってしまうのです」
失礼な問いでしたら許してください、と付け加えて、審神者はうつむいた。罅の入った型抜き菓子が形を保ったまま、しかし失敗が確定しているそれをじっと見つめた。
対して長谷部は、考えるように首を傾げ、それから眉間に皺を寄せた。
「考えてみたのですが、」思いついた言葉を深く掘り下げもせず放るような口調だ。
「俺は、主従とは関係なしにあなたといると心地がいいようです」
え、と審神者が顔を上げると、少し上気した長谷部が彼女を見つめていた。それって、と意味を問おうとして、遠くから彼女を呼ぶ声に振り返った。
「主さーん!!長谷部さん!おーい!」
乱藤四郎が二人に駆け寄ってくる。彼の姿は長谷部に劣らず祭りを最大に楽しんだ大荷物であった。魔法少女のお面をあみだに被り、綿あめを持つ腕にはじゃらじゃらとブレスレットがいくつも重ねられている。そして何やら大袋を抱えているのだった。
「乱、大荷物だな」
人のことを言えない長谷部が呆れた口調で言うと、乱藤四郎はにっかりと笑った。
「これ花火!!!境内では花火できないけど、本丸に帰ったらやろ!!!」
花火、と審神者と長谷部の声が揃う。乱藤四郎によると、屋台で手持ち花火が売られていて、祭りに来ていない仲間たちとも楽しめるように買ったということだった。
「乱くんはいい子ですねえ」
審神者が感動して褒めると、乱藤四郎は照れ臭そうに笑うのだった。
「じゃあ、秋田くんと今剣くんを呼び戻してそろそろ本丸に戻りましょうか」
主の言葉に、長谷部が「えっ」と声を上げた。乱藤四郎は「わかった!」と満足気である。
「長谷部、どうしたんですか?」
審神者の問いに、いいえ何でもありません、と長谷部は答えると、率先して秋田藤四郎と今剣を探しにかかるのだった。
本丸に帰りつくと、中庭の一角がすぐに花火用に整えられた。万が一のことがないように、歌仙兼定や燭台切光忠筆頭にてきぱきとことは進められたのである。
星が出て、どことなく明るさを感じる空の下、審神者と刀剣男士たちは大量の花火を堪能していた。来年に持ち越したって湿気っちまわぁ、と薬研藤四郎が言ったこともあり、乱藤四郎が買い込んだそれらは今夜中には消費されてしまいそうだった。
「うおーーーナイアガラだぜーーーー!!!」
「危ないからヤメェ!!!」
「ロケット花火やるよー!離れろー!」
「とらくん火に近づいちゃだめです!!!!!」
短刀たちのはしゃぐ声に紛れているが、体の大きな刀たちもニコニコと花火を楽しんでいる。審神者も七色に火花が出る手持ち花火を眺め、周囲の喧騒に耳を傾けていた。夏の熱気は風がある分、和らいでいる。ふと顔を上げると、審神者とほど近い位置にて長谷部がじっと自らの花火を見つめていた。観察するような、何かを考えているような、ただ花火の美しさに心奪われているだけではなく見えた。視線がうるさかったのか、彼が唐突に審神者の方を見て、はにかむように微笑んだ。
ああ、胸が熱い。
審神者は上手く微笑みを返せたか分からなかった。長谷部の態度はすべて主という概念に向かってであり、審神者自身ではないはずなのに。立場も弁えず、生まれてしまった感情が場違いに育っていくのをまざまざと見せつけられてしまう。嬉しい気持ちと泣きたくなるような気持ちで彼女は今、人の形を保つので精一杯の心地だった。
「線香花火やろー!」
審神者の乱れた心を立て直したのは、乱藤四郎の一声だった。彼は希望する者に線香花火をちょこまかと配布し、当人もニコニコと準備をしている。
乱藤四郎に手渡されたそれは長手牡丹という種類のものだった。スボ手牡丹もあるようだが長手牡丹を持っている人数の方が多く見えた。
さて火を付けねばと蝋燭の順番待ちをしようとしたところで、早速火を付けた線香花火を持った乱藤四郎が、審神者の線香花火の先にくっ付けた。
「はい、花火ちゅー」
花火ちゅー、とオウム返しに聞き返すと、乱藤四郎は「おすそ分けよりはちゅーの気分だったの」と笑った。
「主さん、長谷部さんにも花火ちゅーしたげて」
そういう少年に促され、思考停止した状態で審神者は「は、花火ちゅー」と長谷部の持つ花火の先に己の火を近づけた。
「あ、ありがとうございます」
無事に火がついて、ほっと顔を上げると、長谷部の顔が奇妙に歪んでいた。そこで審神者はようやく「花火ちゅー」のちゅーが口づけを意味することに気づいた。
「す、すみません、乱くんの真似なんかして。似合いませんよね」
「いえ、そんなことは……!あ、主。蕾が出始めましたよ」
ゆっくりとしゃがんで、せっかく育ち始めた火の蕾を落とさないようにする。線香花火は燃え方にそれぞれ名前があって、季節の移ろいを表現するのだという。
審神者と長谷部は何も言わず、隣合ってしゃがみながら「蕾」を眺めた。何の変哲もない線香花火だが、皆で揃ってやると厳かな気持ちになる。息をつめて、声も密やかに、しかし楽し気に花火が育っていくのを見守る。その時、強めの風が吹いた。
「やめれ、散ってしまうやんか」
聞きなれない言葉遣いを長谷部が使った気がして、審神者は隣を盗み見る。どうやら無意識の呟きだったらしく、本人は真剣な顔をしたまま、手で囲いを作っていた。そうするうちに、「蕾」から「牡丹」へと移り変わる火花に二人は目を奪われた。
だが、長谷部の方の花火はやけに「牡丹」から「松葉」へと変わるのが早く、審神者がまだ「牡丹」のうちに既に「散り菊」となってしまった。
「あ、ああああ」
そして、ぽたん、とあえなく火の玉は地に落ち、長谷部の線香花火は一生を終えた。審神者はようやく「松葉」になった頃である。長谷部は恨めしそうに、己の花火と審神者の花火を見比べている。
「そんなに落ち込まないで。まだ残っているものがあればやらせてもらいましょう」
「ええ。でも、いいんです」
そう言うと、長谷部は女主人に身を寄せた。
「せめて、風除けに」
「松葉」から「散り菊」になりかけた花火を守るように、長谷部の両手に囲われる。小さな火花であるが、その輝きに照らされた長谷部の手が、顔が、確かに血の通った存在として隣にいることを如実に感じられた。長谷部からは己はどう見えているのだろう、詮無いことを考えながら火花を見守るふりをして長谷部の顔を盗み見た。
「あっ」
そのように集中力を欠いた状態だったせいか、不意に足の力が抜けて彼女の体は唐突に傾げた。だが次の瞬間、隣に侍っていた男の肩口とたくましい手がそれを支えていた。
「ありが、と長谷部……」
「いえ、大丈夫ですか」
息が止まるような思いをしながら、女主人は体勢を整え男から離れた。「散り菊」が、その命を終えようとしている。ふるふると震える最後の輝きが、ぽたん、と落ちかけたその時。
「あるじ、」熱い、切なげな吐息の籠った声が思いのほか間近に聞こえた。
女主人を囲い込み逃がさぬように、男は両手で彼女の手を握っていた。
「おれは、あるじのただの臣下でしかない男ですか?」
熱い、囁きが耳に、体全体に響く。審神者は、長谷部の顔も見られず、主らしい振舞いすら出来なかった。いつしか線香花火は命を終わらせ、寄り添う男女のみが残った。消えてしまった花火を惜しむ短刀たちの声が、遠くに聞こえる。まるで二人だけが夜に切り離された空間の中で、お互いに相手の反応をただ探っていた。
お開きだよ、と沈黙を破ったのは誰だったか。花火を終えた後の火薬の匂いと、さっきよりも暗く感じる庭。そして終わりを惜しみつつ、満足感のため息があちこちに聞こえては消えた。長谷部はいつの間にか審神者を解放し、審神者も無意識に立ち上がっていた。彼女が陶然としたまま母屋に戻る間、長谷部は遠くで仲間とおり、終ぞ彼女の傍に侍ることはなかった。
※
花火の後の星はやけに明るく感じる。長谷部は、待ち人が来てくれた喜びを隠しきれぬまま、隣に座るよう促した。
「来てくださると、信じておりました。あるじ」
熱っぽい口調で、長谷部は隣に座った女に語り掛けた。花火の後、長谷部は主に文を託していた。しかも可憐な伝書鳩は乱藤四郎だった。
想いに応えてくださる気があるならばここに来てほしい、と臣下から主に送るには不躾且つ傲慢な、しかし切実な手紙を受け取った主は決意をもって長谷部のもとに確かに来たのである。長谷部から猪口を受け取り、酒を注がれると緊張した面持ちの女主人は、ほうっとため息をついた。
「長谷部、私」
お待ちください、と長谷部が制する。きょとんとした審神者の目の前に、照れくさそうな顔をした男が言葉を続けた。
「大事な言葉は、俺から言わせてください」
そうして猪口の酒を呷った。審神者もつられて酒に口を付けた。
「臣下の身ながら、主に懸想をしていること、恐れ多きことと思われるかもしれません。ですが、俺の自惚れでなければ、あなたも同じ想いを抱いているはず」
自惚れでなくて良かった、と心底嬉しそうな、姿の良い男が破顔している。それを見ると、主従や付喪神と人間ということが些細なことに思えて、ついに審神者も微笑んだ。
「ええ。私もあなたを想っていま……長谷部、どうしたんですか」
さっきまでの佳い男が、真っ赤になった顔を両手で覆っている。
「すみません、やはり真正面から仰られると破壊力が凄くて」
「破壊力?」
審神者には意味が掴めなかったが嫌がられているわけではないようだったので、長谷部の猪口に酒を酌んでやった。
「主、そんな、申し訳ない」
「では、私にもお代わりを」
素早く、長谷部が酌をする。礼を言いつつ、審神者は盆に置かれた肴に目を剝いた。
「屋台の食べ物がこんなに……いつこんなに買っていたのですか」
「いえ、これは秋田たちが本丸の皆へのお土産として買っていたものを分けてもらったのです。あの、ご一緒に召し上がりませんか」
一転、子犬のような目になった長谷部に笑いかけながら、審神者は「ではいただきます」と手を伸ばした。祭りのさなかに食べるのとはまた違う味わいを感じながら、二人は寄り添い語らう。そして長谷部は、先程の自らへの問いの答えに思い至った。
「主、俺はこの夜が長く続けばいいと思っておりますよ」
酒気だけでなく赤く染まった頬を隠すことなく、審神者はゆっくりと頷いた。
熱を孕んだ風が、もったりと縁側をゆく。寄り添う恋人たちのために、殊更にゆっくりと時を進めてくれと願わずにいられない、そんな夜である。