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    しおり
    13月の花嫁【にょりく】3月のやくそく9月のねがい6月のはなし8月のデート11月のほうよう2月のきもち4月の労り12月の冬景色1月の拒絶5月の嫉妬10月の決意7月の我が儘3月のやくそく

     埃一つない綺麗な白い部屋の中、ぐるりとベッドの周りを囲む無機質の機械は生存維持装置。それらは七瀬陸が生きるために必要不可欠なアイテムだった。
     桜が咲き始めた春の時期。閉じた窓から雲一つない晴天であることを確認する。
     今日はいつもよりも調子が良かった。起き上がり、スリッパを履く。ぺたんぺたんと足音を立てて、陸は病室を出た。
     慌ただしく走り回っている顔馴染みの看護師に手を振り、両親を探す。さすがにぺたんぺたんの足音が恥ずかしくなって、だったら忍び足と変えたことがすべての始まりだったのかもしれない。
     陸の病室から少し離れた面会者の休憩所に二人はいた。白い頬に血色が差す。駆け寄ろうとした瞬間、悲痛な母の声が陸の耳に入ってしまった。
    「陸は……私たちの娘は大人になれないということなの……」
    「お医者様はそうとは言っていないし……わからないだろ」
    「なれるとは言ってないわ! ねえ、どうしてあの子なの! どうして陸ばかり……っ」
     泣き出した母を父が抱きしめる。陸から見えるのは二人の背中で、表情まではわからない。けれど母の泣き声が、父の弱々しい声が、真実を物語っているのだと気が付いてしまった。
    (ああ、そうなんだ)
     残酷な事実は幼い陸の前に落ちてきた。自分でも驚いてしまうほど冷静に、大人になれないのだと受け止めてしまった。
    (ごめん……お父さん、お母さん)
     涙は出なかった。胸は苦しくて、二人に気づかれないようにさっとその場から立ち去った。


     うっかり知ってしまった自分の命の期限。陸は誰にも悟られないように明るく振舞った。
     敬愛する双子の兄にすら隠し、笑顔の仮面をかぶり続けていた。
     期限を知ったところで何も変わらない。陸の生きる場所は広々としたこの個室だ。
     
    「陸さん、変ですね」
    「変、って何?」
     だけどたったひとりだけ、年下の、しかしあまり年下らしくない幼馴染は陸の変化に気が付いてしまった。
    「普通に話しているようですけど、本当は元気ないんじゃないですか」
    「そんなこと、ないよ」
    「別に話したくないなら、それでいいです」
     今日もまた学校帰りの和泉一織は陸の病室を訪れた。小さな花束を握って、重たいランドセルを背負ったまま。陸よりも少し背の低く、並んで立つと聡明な瞳が少し上目遣いになるのが可愛く思っていた。
     優秀な幼馴染は毎日のように陸を訪ねてくる。学校で配られたプリントを持ってきたので、と何でもないように言いながら、本当は自ら陸の担任から受け取っていることを陸は知っていた。
    「なんで、一織は」
     優しいの? そこで言葉を切って、陸はかぶりを振った。
    「何ですか?」
    「ううん、一織は好きな子いる?」
    「……いません」
    「そっかあ……あのね、りくね」
     大人になれないんだって。
     さらりと口にするつもりが、途中喉で引っ掛かってしまった。
     あ、一織も泣いてしまうかな、と慌てて一織の顔を見たが、彼の表情は変わらなかった。
    「それで?」
    「えっと、ええとね」
     両親が話しているのを聞いてしまったこと、看護師が時々悲しい顔をしていること、天には言えなかったこと。胸の中に仕舞っていた言葉は一織を前にして次々と溢れた。だけど涙は出ない。
     淡々と事実を語る自分の姿は、何だか少し恐ろしかった。
    「りく、お姫様になりたかったんだ」
     この間ドラマで見た結婚式のシーンで、純白のドレスを着た花嫁が幸せに笑う姿が強く心に残っている。周りに祝福されて、大好きな人に抱き上げられて幸せに微笑む花嫁になってみたい。
     死ぬのは怖くないけれど、結婚式は挙げてみたかったかもと口にすると一織は立ち上がった。
    「だったら……私がその願いを叶えます」
    「え? でもりくは大人になれないんだよ?」
    「私が十八になったら結婚できますよ。だからそれまでは頑張って生きてください」
    「……無茶言うなあ」
     一織の言葉に確実性はない。陸自身自分が何年生きられるのかわからない。
    「約束してください。結婚するまでは私を置いていかないと」
    「……努力する」
    「だめです。約束して」
    「わかった。結婚するまで、絶対一織を置いていかない」
     仏頂面がゆるむ。珍しく一織が笑ったと思いきや、彼はベッドボードに置いた花束からたんぽぽだけ抜き取った。
    「指切りしますよ」
    「ええ? そこまでする?」
    「わかりました。今度契約書を持ってきます」
    「指切りでお願いします」
     声を揃えて歌う。指切りはもう何年もしておらず途中絡めた小指を解こうとしたら、強い力で搦め取られた。華奢な一織が見せた力強さに陸の方が約束を守れるのか心配になってきたが、だけど不思議と心は軽くなった。
    「婚約指輪です」
    「わあ、手慣れてる……」
     たんぽぽの茎を輪にし、編み込むことですぐに指輪が完成した。手際の良さに他の女の子に贈ったことがあるのだろうかと邪推してしまう。
     陸の疑いの眼差しに気が付かなかったらしい一織は陸の左手を取り、薬指の指輪を嵌めた。躊躇せず、真顔でさっと嵌めこむから、何だかもう可笑しくて声を上げて笑ってしまった。
    「笑うところありましたか」
    「あったよ! でも一番は嬉しいから笑ってるの」
     自分の余命を知って誰にも悟られないように明るく振舞ってきた。本音を語ることも、笑うことも久々だったのだ。
     不安が解消されたわけではない。だけどこの一方的な約束が陸の心を前向きにさせた。
    「ねえ、一織。どきっとするプロポーズ楽しみにしてる!」
    「今したばかりだと思うんですけど」
    「おかわり!」
    「欲張りな人だな」
     幸せな未来は約束されていない。だけどこの聡明な幼馴染ならば、必ず陸に純白のドレスを着せてくれるのだろう。この指に嵌めこまれた指輪の「幸せ」という花言葉通りに。
    9月のねがい
     簡易テーブルの上にはパックに入った三色団子。三個入りで百円のそれは、午前中見舞いに来てくれた兄に買ってきてもらったものだ。
     その横には幼馴染であり、婚約者でもある一織に持って来てもらったススキ──本物は危ないので造花だ──を生けている。
    「いーおり」
    「本当にするんですか」
     笑顔で手を差し出す陸の姿に一織はため息をつく。もう一度名前を呼ぶと、しぶしぶ自身のリュックサックを開けていく。
     開け口から覗いているのは、へにゃりと折れた青色の何か。ゆっくりと持ち上げる。全容が明らかになるぞ、というところで、ぴたりと一織は手を止めた。
    「わかっているとは思いますが」
    「ぎゅっとしない、顔を近づけない、思いきり抱きしめないだよね?」
    「思いきりじゃなくても抱きしめない」
    「はあい」
     ひとつ年下の一織の言葉に陸は手をあげた。すると眉根を寄せた一織の顔がほっと緩む。かわいいなあ、と思ったが、決して口には出さない。ここで機嫌を損ねてしまったら、もう絶対に見せてくれなくなるだろう。
     意地悪で、というよりは陸の身体を気遣って。
    「ろっぷちゃんです」
     青色のうさぎのぬいぐるみを取り出して、一織は照れたようにはにかんだ。
     かわいい、と思わず声に出してしまったがぬいぐるみに対しての言葉だと思ったようだ。ベッドに腰掛けた陸の膝にそっとろっぷちゃんを乗せてくれる。
    「ぎゅっ、てしちゃだめ?」
    「だめです」
    「じゃあ、一織をぎゅっするのは?」
    「っ、それもだめです!」
     小さい頃はよく抱き合っていたのに。
     何故か頬を赤らめた一織の姿に不思議だなあと思いつつ、陸はろっぷちゃんの手をそっと握る。ふわっとやわらかな綿の感触に自然と頬がほころんだ。
    「りくだよ。ねえ、うさぎさん。あなたのお名前はなんて言うの?」
    「ろっぷ、と申します」
     一織は陸の遊びごとに付き合ってくれる。嬉しくてぎゅっと抱きしめようとしたら、すっと遠ざけられた。
     だけどもうおしまいだとは言わない。顔の前に持って来て、まるでろっぷちゃんが話しているようにしてくれる。
    「ぎゅっとされると、その……恥ずかしいので」
    「それなら仕方ないなあ。恥ずかしがり屋なところは一織にそっくりだね」
    「私は恥ずかしがり屋ではありませんが」
     ひょいっと横から無愛想な顔が現れて、陸は声をあげて笑った。
    「あなた、本来の目的忘れてるでしょ」
    「あははっ、ごめん。お月見しよう」
     十五夜である中秋の名月にはまだ早い。それに今は日中で、月は出ていない。そして月が見られる時間帯の面会は出来ず、陸自身もこの病室から出ることを許されない。
     だからこそ気分だけでも楽しみたくて、一織にろっぷちゃんを連れてくることをお願いした。
     呼吸器官系の病気を持つ陸に、ほこりやハウスダストが付着しやすいぬいぐるみは良くないものだ。実際に発作が起きたことで身を持って理解した。一織は陸以上に周りから話を聞いて、病気について理解を深めた。
     今回も陸の両親と兄に説明し、頭を下げたのだろう。
     身勝手な、陸の願いのために。
     パックに入ったままの三色団子。本物は体に障るだろうからと偽物のススキを。
     一緒に月を眺めることは今の自分たちにはとても難しい。だから一織が大切にしているうさぎのぬいぐるみ──ろっぷちゃんを連れて来てもらった。
     簡易テーブルに乗せ、月に住んでいるであろううさぎの代理をしてもらう。
    「肝心の月は見えませんが……あっ」
    「一織?」
     丸椅子に腰掛けていた一織は立ち上がる。窓に近づき、顔を上げじっと目を凝らした。
     探していたものが見つかったのか、ふっと唇がほころぶ。振り返り、やわらかな眼差しを陸へ向けた。
    「陸さん、体調は?」
    「うん? 今日は元気だよ」
    「屋上に行きませんか?」
     行こう、ではなく行きませんか、だ。
     一織は必ず選択肢を与えてくれる。陸がどの答えを選んでも尊重してくれる。
    「行きたい!」
     答えると手が差し出された。迷うことなくそっと握ると力強く握られる。その瞬間心臓が大きく跳ねた。
     視線をどこに置いていいのかわからず、見下ろした先にある旋毛へと向ける。かわいい弟分だった一織が知らない男の子のように見えてしまい鼓動が落ち着かない。
    「陸さん?」
    「何でもないから、ね……行こう」
     熱くなった顔を隠すため、陸は先に足を踏み出した。
     

     エレベーターで一気に最上階まで上がる。下りる寸前のあのふわっとした浮遊感が怖くて、繋いでいた手の力をぎゅっと強めた。
     気付いているはずの一織は何も言わない。
     その代わり黙って握り返してくれるから安心する。どきどきもさせられる。
     出会った頃からひとつ年下の幼馴染のことが好きだった。だけど今初めて気が付いた。
     そういう意味でも一織のことが好きなのだ。
     屋上へと繋がる扉を一織が開ける。涼風がさらりとした黒髪を揺らしていく。続いて陸の頬を軽く撫でていった。
     一歩足を踏み出すと瞬く間に青が映る。うっすらとした白い雲が浮かび、透んだ空気に抜ける空はひどく美しい。
    「きれい……」
    「陸さん、見てください」
     顔を上げ、指さした方向を見る。一体何があるのだろうか、と目を細め、欠けた淡い丸を捉えた瞬間「あっ」と声が出た。
    「もしかしておつきさま?」
    「そうです。昼間でも見えるんですよ」
     夜のくっきりと見えるものとは違う。今にも空にのまれてしまいそうな月はどこか儚い。
     うさぎも見つけられない。
    「ちょっとだけ寂しいね」
    「そうですね。でも、見えないだけで本当にあるんですよ」
     いつもよりも弾んだ声に月から視線を外して隣を見た。落ち着いていたはずの心臓がまた騒ぎ出す。
    「満月じゃないけど、お願い事してもいいかな」
    「……どうぞ」
     胸の前で両手を組む代わり、繋いだ手に力を込めた。
     お願いします。おつきさま。
     たったひとつのお願いです。
     どうか、どうか。一織がわたしのことを好きでいてくれますように。わたしの命が終わるまで、この手がずっと繋がっていますように。

     自覚した想いとともに月に願ったものは、無垢のようで欲深い。
     わかっていながらも、陸は願わずにはいられなかった。
     
    6月のはなし
    「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
    「……宮沢賢治ですか?」
    「そう、永訣の朝だよ」
     命の期限を知ってしまってから一年と数ヶ月。別れと出会いの季節に婚約して一年が経った。
     相変わらず陸は病院のベッドの住人で、隣に住む幼馴染は週三回訪ねてくる。小さな花と、頻度はそう多くはないが美味しそうな焼き菓子を渡されることもある。
     一織の両親は洋菓子店を経営している。そんな彼が持参するものはケーキなどの日持ちしないお菓子ではなく、うさぎやねこの形のクッキーや、日持ちするチョコチップマフィンだ。可愛いそれらに赤色や青色のリボンで蝶々に結んでくれるからそのたびに陸は綺麗に解き、ベッドサイドの引き出しにはたくさんの種類のリボンが眠っている。時々読みかけの本の栞代わりにすることもある。
     双子の兄に髪を結んでもらった陸は珍しく二つ結びのおさげで、青い蝶々がそれぞれにとまっていた。
    「一織は宮沢賢治好き?」
    「好きか嫌いかで言われると、どちらでもないです」
    「わたしはね、結構好きだよ」
    「唐突に変化球投げないでください」
     見舞いに来た一織と特段何かをすることはない。一織は図書室で借りた本を読み、陸は家族に頼んで図書館から借りてきてもらった本を読む。まったく同一の本がこの病室で混ざり合ったとしても、借りた場所が違うのだから困ることはない。
    「注文の多い料理店は去年の教科書に載ってて、すぐ読んじゃった」
    「ああ、疑うことを知らない二人の紳士の話ですね」
    「辛口すぎない?」
    「はらはらするよりも、まず呆れました」
     同じ話を読んでも出てくる感想が違いすぎる。驚いた陸は目を大きく開き、それからころころと声を上げて笑った。赤毛に止まった青い蝶々リボンが左右に揺れる。
    「一織は騙されそうにないよね」
    「そういう陸さんは、あっさり騙されて食べられそうです」
    「ええーっ? ね、わたし……美味しいと思う?」
    「……知りませんよ」
     そんなこと。
     小さな顔が逸らされた。背もたれのない丸椅子に座っているのに一織の背はしゃんと伸びていて、だからなのかいつの間にか目線は同じくらいになっている。
     形のいい耳は少しだけ赤い。もしかしたら照れているのかもしれない。じいっとまるい横顔を見つめているとまた目線は手元の本へと戻っていった。
    「うすあかく、いっさう陰惨な雲から」
     ──みぞれはびちょびちょふってくる。
     陸の手元に本はない。もう諳んずることができるほどに永訣の朝を読み込んで、窓の外を見つめながら呟いた。
     雨が蕭々と降っている。
    「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
     雨雪を取って来なくとも、陸の病室には飲み水がしっかりと備えられている。それだけではない。
     体調が急変した時にはナースコールという、命を繋ぐものがある。定期的に誰かが訪ねて、陸の様子を見に来てくれる。
     それに────。
     ちらりとまた隣に座っている幼馴染を見た。陸の視線に気が付いたであろう、やわらかな頬を赤く染めたかわいい年下の、いずれは陸の王子様となる少年は顔を上げる。聡明な双眸に心配そうな色を浮かべていた。
    「どうかしましたか?」
    「ううん、何か一織のこと、好きだなあって思って」
    「っ! そ、そうですか」
     期限付きの命を持つ陸を花嫁にすると約束した一織は、さらに頬を赤らめて、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
     雨はまだ止みそうにない。空から地上へと降りそそぐ音に耳を澄ませながらも、陸は楽しそうに声を上げて笑った。
    8月のデート

     蝉の鳴き声が響き渡っている。
     テレビをつけるとどの番組でも熱中症というワードが出てきては、間で頻繁に冷房機器や清涼飲料水のコマーシャルが流れる。美味しそうだなあと思いながら陸は氷なしの冷たい麦茶を口に含んだ。
     病室は暑すぎず、しかし寒すぎることなく快適な室温が保たれている。
     珍しく調子がいいため、本日の陸の装いはサマードレスだ。夏を代表する黄色の向日葵がプリントされている。膝が見え隠れするくらいの丈で、白い足がすらりと伸びていた。
     涼しげな恰好をした陸の姿に一織は目を瞠った。彼はちょうど陸の病室に足を踏み入れたばかりだった。
    「どこかへ出掛けるんですか?」
    「うん」
    「そうですか。それではまた明日来ます」
     お大事に。
     お見舞い品を渡した後完璧な回れ右を見せた一織の腕を陸は慌てて掴んだ。
    「違う違う! 一織とデートするの!!」
    「初めて聞きましたが?」
    「だって今決めたもん」
    「……それで、どこに行くんですか?」
     一織の腕を掴んだまま、笑みをさらに深めた陸はもう片方の手を伸ばして麦わら帽子を取った。
     内緒、と内緒話にしては大きな声で告げた幼馴染の姿に、ため息ひとつ。荷物をいつもの場所に置き、掴まれた手を滑らせて繋ぐ。
     少し迷ったが恋人繋ぎはまだ早いと一織は即座に判断した。
    「いいの?」
    「陸さんが決めたんでしょう。従うだけです」
    「そっちじゃなくて……っ」
     もごもごと呟く陸に、手の方か、と気が付いたがわざと力を込める。昔よりも細くなった手が解けないように、痛くない程度にそれでも強く。
     小さな頭に麦わら帽子を被せる。室内にいるため違和感は強いが、真っ赤になった陸の顔を誰にも見せたくない。普段もかわいいのに、照れた顔はもっとかわいい。笑った顔はさらにだ。
    「行きましょうか」
    「うん? 先に歩いてくれないの?」
    「……はあ、内緒ってつい先ほど言われたばかりなんですが」
    「あっ! そうだった。それじゃあ、行こう!」
     半歩先を歩く陸について行く。勿論手は繋いだままで、後ろから見え隠れする耳がまだ赤いことに満足を覚えつつ一織は彼女の後ろを追いかけた。

     
     途中途中出会う顔馴染みの看護師や医師に冷やかされながら、到着したのは中庭だった。
     病院の小さな植物園とも言われるほどしっかりと手入れされており、広いスペースを四分割し、春夏秋冬に分けて季節の花が植えられている。
     東屋がいくつか建てられ、入院患者や見舞いに訪れた来客の憩いの場でもある。
    「陸さん、少し休憩しましょう」
     いつもよりもはしゃいでいる陸の体調に気を付けながら、一織は空いている東屋を指した。
     八月初旬にもなると午前の時間でも陽射しが強く、ひどく暑い。
     何も頓着しない陸が座ろうとするのを一度止めて、ハンカチを置く。どうぞ、と促すと陸はじっと上目で見つめてきた。陸がそこに腰かけるとサマードレスの丈から白い太腿が覗く。一織はそっと視線を外した。
    「パーフェクトすぎない?」
    「それ褒めているつもりなんですか」
     一緒に持ってきたペットボトルのお茶を開けてから手渡すと、陸は真っ赤な頬を膨らませた。
    「なんか恰好良いんだけど」
    「水分補給してください」
    「はあい」
     傾けてゆっくりと飲み始めた陸に一織は安心する。少し歩くだけでも全身から汗が噴き出る暑さだ。外に出られない陸の身体は夏の暑さに慣れていないだろうし、熱中症にもなりやすいだろう。
     もう一枚持ち歩いているハンカチを取り出して額に浮き出た汗を拭う。張り付いた細い髪の毛を指でよけて、湿った髪を手櫛で整えた。
     世話を焼かれることに慣れている陸は最後まで一織にされるがままだった。
    「……一織は、友達とかいないの?」
    「…………」
     とうとう来たか、と一織は思った。沈黙を何と勘違いしたらしく焦ったような言葉が続く。
    「あ、友達いないとか、そういう意味じゃなくて……いつもわたしのところに来てくれるから、一織自身の時間はどうなるのかなって」
     思ったんだよ。
     だんだんと声は小さくなり、やがて俯いてしまった。麦わら帽子のつばがさらに影を作り表情を隠す。
    「私は人と関わるのが苦手なんです」
    「そうかな」
    「その代わり、関わった人には責任を持ちます」
    「責任?」
     細い手を取る。そっと指を絡める形にすると、陸は顔を上げて小首を傾げた。
     遠回しに告げたせいかぴんと来ていないようだ。
    「私は私がしたいことをしています。だからあなたは気にしなくていいんです」
    「それって、一織はりくに会いたいと思ってくれてるってことでいいの?」
    「……まあ、そうです」
     ストレートに返されるのは恥ずかしいが、頷くことにした。
     これ以上この話題で変に拗れたり、陸が遠慮してしまうのは一織の本意ではない。
    「そっか……そっかあ」
     白い頬はうっすらと色づき、ふわりと大輪の花が開くように笑顔が咲く。きゅっと指は絡まって、無邪気に笑う陸の姿に心臓が跳ねた。反射的に顔を寄せ、頬へと押し当てる。一瞬だけ。一秒にも満たないのに、唇に触れた熱は離れた後もじんと痺れたように残っていた。
    「えっと……ちゅーした?」
    「……しました」
    「……っ、ずるい」
     何がだ。問う前にこつんと帽子のつばが額にぶつかり、やがて熱を持った唇にやわらかなものが触れた。一織が触れた時間よりも長く、ん、と鼻にかかったあまい声が間近で聞こえて、カッと頬が熱くなる。
    「っ!」
    「……勝った?」
    「別に勝負じゃないですけど」
    「じゃあもう一回していい?」
    「だめです」
    「えええ!? なんで……っ、ん……」
     今度は頬ではなく、陸に奪われた唇へと口付ける。塞いでしまったことで呼吸が口ではできないので、頭の中でカウントを取った。鼻ですればいいという考えは、おそらく目の前の少女には存在しないだろう。
     七秒数えて、離す。少し潤んだ双眸に嫌悪の色は浮かんでないことにホッとする。ただの接触なのに、またしたいと思ってしまう自分が不思議だった。
    「っは……なんか手慣れてたりする?」
    「っ、手慣れていません!」
     初めてです、とうっかり口を滑らせてしまい、そっかあと嬉しそうに笑うから一織の熱はしばらく冷めそうになかった。

    11月のほうよう
    「昨日ね、三月から一織がそらくんと一緒に寝ている写真見せてもらったよ」
    「……は?」
     文字を追っていた一織は陸の言葉に顔を上げた。聡明な瞳は丸くなって、やがて苦い顔へと変わる。タブレットを取り出し、ほら、と証拠写真を見せると白い頬が赤く染まった。
    「何で持ってるんですか」
    「すごくかわいいよ?」
    「入手経路は兄さんですね」
    「あ、三月は悪くないよ! あんまりにもかわいくてわたしが欲しい、ってねだったから送ってくれたの」
    「それくらいわかりますよ」
    「かわいいなあ一織」
     呟くと一織は複雑そうな表情を浮かべる。珍しい幼馴染の姿に陸はにんまりと笑った。
     
     長い夏が明け、ようやく秋らしい肌寒い季節が訪れた。窓の外から見える背の高い木々の葉は鮮やかに紅葉し、見るものの目を楽しませる。
     黄色や赤色の葉はアスファルト中にびっしりと敷き詰められ、院内を掃除をする女性は大変だと苦笑していた。
     常に快適な温度を保っている陸の病室はあたたかく、寒さを感じることはない。しかし今日は綿のパジャマ、ではなく手触りのいい冬用の部屋着を着用していた。
     真っ白なそれは触れずとも柔らかいのだろうと思わせるほどにふわふわとしている。フード部分には丸い耳がついており、被れば即白熊になれるだろう。もこもこでふわふわな部屋着を着るのは今日が初めてだった。
     久しぶりの外出許可に家族で買い物に出かけたのは数週間前の話。可愛い雑貨屋に置いてあったこれを陸は一目で気に入り、兄である天がプレゼントしてくれた。
     昔持っていた白いくまのぬいぐるみによく似ている。手触りも色も、耳の形すらもくまのうみちゃんと同じだと、運命的なものを感じた。
     そして連鎖的に思い出したことがある。それはまだ自宅で療養していた時のことだ。
     陸の持病を知らない親戚からクリスマスプレゼントとして、くまのぬいぐるみを貰った。白くてふわふわとしていて、抱っこするのもなかなかに難しい大きい子だった。
     陸にとって初めてのぬいぐるみのお友達であり、一織が持っていたくまのぬいぐるみの結婚相手でもあった。
    「あのね、一織。いっこだけお願いしたいことがあるんだけど……」
    「本当に一つだけですか。あとからさり気なく増やしませんか?」
    「……ふたつ、お願いしたいです」
    「私にできる範囲であれば、構いませんよ」
     十歳の子どもとは思えない言い回しで陸は一織のおねだりを聞き入れる。つまり、最初から「はい」だ。陸を甘やかしすぎだと天に苦言しつつも、一織自身陸に相当甘い。一度だって突っぱねられたことがない。
     嬉しくなってベッドからぴょんと飛び降りた。収納扉を開けて、中に入っている服を取り出す。ふわっとした手触りが心地よい。
    「その上からでいいから、これを着て欲しいんだ」
    「これは今陸さんが着ているものと色違いですか?」
    「そうだよ。それとここに座って」
     手渡した後、ベッドに腰かけて隣をぽんと叩いた。毎日取り換えられているシーツから埃は出ない。それでも心配性の一織は軽く眉根を寄せていた。
    「これでいいですか?」
    「うん、やっぱりかわいい」
    「かわいいって、褒めているつもりなんですか」
    「褒めてるよ! フードも被って」
     フードを被ると仏頂面は薄く隠れた。こげ茶色の丸い耳がついたそれは陸と同じ種類の部屋着だ。一織が着用することで彼が持っているくまのぬいぐるみのようで、懐かしく、同時に恋しくなった陸は勢いよく抱き着いた。一瞬だけ一織の身体はぐらついたが、倒れることなく陸を受け止める。
    「うわっ!?」
    「ふわふわで気持ちいい……」
    「っ、くまのぬいぐるみじゃないんですけど」
    「わかってる。ふわふわだけど、一織だよ」
     小さい頃、互いのくまのぬいぐるみを結婚させたことがある。誓いの言葉は知らず、しかし誓いのキスは知っていた陸は手順を飛ばし、そのままキスをした。幼かったため結婚がどういう意味かも分からず、ヴェールを被り、白いドレスを纏った花嫁のことを絵本に描かれたお姫様のようだと思っていた。
    「うみちゃんはそらくんとずっと一緒にいる?」
    「……いますよ。夫婦ですからね」
    「そっかあ。良かった」
     くまのぬいぐるみと一緒にいることで、発作が悪化することに気が付いてしまった。
     すぐさま取り上げようとする天に対して、陸はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて離そうとせず、さらに発作が出て酷い状態になっていた。
    『いおりのおうちで預かっても良いでしょうか?』
     暗いじめじめとした押入れへと仕舞われそうになったぬいぐるみを、陸を救ったのは一織だった。
     それ以来、回数はそう多くないが、陸のぬいぐるみの写真が送られてくるようになった。
     一織のくまのぬいぐるみと並ぶ、陸のくまのぬいぐるみ。寄り添うように、一織の部屋で二匹のくまは座っている。
     うみが越してきてから、一織は一度もそらと眠ることはなくなった。
     昨日三月からその話を聞いて、小さな一織から友人を奪ったことに対して罪悪感を抱いた。けれど、あの申し出があったからこそ、陸は一織にうみを預けることができた。
     小さな陸の身体を心を同時に救ってくれたのだ。
    「ありがとう、一織」
     返事は返って来ない。だが応えるように強く抱きしめられて、陸はそっと目を閉じた。
    2月のきもち

     バレンタインデー間近にもなると面会に来てくれる和泉兄弟からは毎回甘い匂いが強く香る。クリスマスと同じくらいの忙しく、また仲のいい夫婦はお互いにチョコレートや手作りのお菓子を贈り合っているらしい。
    「仲良いことは喜ばしいことですが、見ているこちらが恥ずかしくなりますね」
     と言いながらも、両親の話をする一織の口元は緩やかな弧を描いている。あまり表情をのせない綺麗な顔立ちにやわらかな笑みが浮かび、どことなく甘さを帯びるこの瞬間が陸はとてつもなく好きだ。
    「そう? 羨ましいなあと思うよ」
    「陸さんのところも良好ですよね」
    「そうなんだけど……わたしの病気でお父さんもお母さんも、天にぃも気を張っているから」
     自身の命の期限を知ってから三年の月日が経った。儚い命を繋ぐための部屋から一歩も出られない日もある。
     陸自身それについて、辛いとは思わない。
     病院内なら自分の足でどこまでも行けるし、調子がいい時は外の学校に通うこともできる。
     とうとう身長が並んでしまった一つ年下の幼馴染は、週三日のペースで面会に来てくれる。今日もまた甘い焼き菓子を片手に、学校で配られたプリントと一緒に。
     だから決して不幸でも、辛いとも思わない。
    「あ、美味しい」
    「チョコレートが余っていたので、コーティングしました」
    「普通のも美味しいけど、チョコがけもいいね」
     食べすぎてしまうと夕食が入らなくなってしまうため、一織と半分こにする。綺麗に等分することができず、大きい方を差し出すも一織は受け取らず、結局陸が少しだけ大きい方を食べることとなった。
    「ごちそうさまでした」
     感謝とともに告げると、一織が身を乗り出してきた。身構える暇もなく口元をくすぐられる。拭われたのだと気が付いたのは、離れて行った一織の親指が汚れていたからだった。
    「ついてましたよ」
    「え……あ、りがとう」
     無性に恥ずかしくなり、両手で頬を覆い隠す。ハンカチで拭い取る一織は不思議そうに陸を見つめていた。
    「歯でも痛いんですか?」
    「えと、歯は痛くないんだけど」
    「それなら、どうして頬を押さえているんですか」
    「……顔」
    「顔?」
    「顔思いきり赤くなってるから、隠してるの!」
    「何故?」
     とてつもなく察しが良いはずなのに陸の心情がわからないようだ。心の中で一織の馬鹿と呟いてから、疑問に答えた。
    「年上なのに、一織に世話焼かれてるところとか、恥ずかしくなって」
    「今さらだと思いますが」
    「もうっ! 一織の馬鹿!」
     潤んだ瞳で睨みつけると、一織は白い頬をうっすらと染める。男の子らしいすっきりとした顔立ちが照れるとまだ幼く見えるから不思議だ。一織のかわいい表情に安堵する。
     とうとうこの一年で彼は陸の背を追い越してしまった。病弱である陸と同じくらい華奢だったのに。
     先ほど陸の口元に触れた指先もかたくて、男の子なのだと改めて気づかされた。
    「……かわいい人だな」
    「何か言った?」
    「いえ、何も」
     

     二月十四日。平日でありバレンタインデーでもある。
     陸は緊張した面持ちでスマートフォンを見つめていた。
    「どうしよ……」
     ラビチャのアプリを開き、和泉一織との個別チャットで文字を打ち込んでいるものの送信が押せない。
    『今日は来てくれる?』と簡潔なメッセージを消していく。『会いたい』『来て』『一織』。どの言葉も不適切な気がしてならない。
     今まで陸の方から見舞いをお願いすることがなかった。願わなくても、一織は来て欲しい時に陸のところに来てくれたからだ。
    「昨日来てくれたから、今日は来ないよね……」
     今日は特別な日だ。女の子が好きな男の子にチョコレートを渡す。友だち同士で配ることもあるし、お世話になった人へ日頃のお礼として義理チョコを渡すこともある。
    「一織、いっぱい貰うだろうなあ」
     素っ気ないように見えるが彼は世話焼きで優しい人だ。義理チョコも本命チョコも、きっと多いことだろう。
     ため息をつきながらベッドサイドに置いていた小さな箱を手に取る。赤いリボンのついたそれは病院内のコンビニで購入したチョコレートだった。
    「もし今日一織が来たら……でも来なかったら」
    「はい?」
    「うわあ!?」
     扉は音もなく開き、現れた一織の姿に心臓は物凄い音を立てて跳ね上がった。反射的にチョコレートを隠してしまい、同時にスマートフォンが床へと滑り落ちてしまう。
    「何してるんですか」
    「ありがとう」
     打ち込んでいたメッセージのことを忘れており、受け取った際に指は『送信』の表示に触れてしまった。メッセージが飛んだ音に続いて、間近でメッセージを受け取った時の音が聞こえる。激しい心臓の鼓動が聞こえる。
    「あああ、見ちゃだめっ!」
     届いたメッセージを確かめようとポケットへと触れる一織の手を掴んだ。陸よりも低い体温、骨ばった感触、視覚と触れて知らされる自分と彼の大きさの違いに、心臓がまた一際強く跳ね上がる。
     しっかりとした手の感触はまるで知らない人のように感じる。
    「送信取り消すから、待って!」
    「何を送ってきたんですか……」
     気になるんですが、と強い力で引っ張られれば陸は一織に敵わない。抵抗しながらベッドの中に隠した小箱を取り出した。そのまま硬い手の中へと押し付ける。
     どうか自分の熱でチョコレートが溶けませんように、と思いながら。
    「これチョコレート! 一織にあげる!」
    「ちょっと、角を押し当てないで!」
    「だって、こんな風に渡すつもりじゃなかったんだもん!」
    「だから、角が地味に痛いんですって」
     今さら取り繕うこともできない。想像の中の可愛い女の子みたいに「好きです」と想いを伝えることもできない。恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。
     どこにでも売っている大量生産のチョコレートだ。比べられたら悲しい。
     義理扱いされたら悔しい。
    「陸さん」
    「……なに」
    「……いえ、私も陸さんに渡すものがあるんです」
     陸が押し付けた小箱を一織は大事にカバンへと仕舞う。そして仕舞った場所から取り出したのは青いリボンを結んだ箱だ。既製品でないことは包装紙を見れば一目瞭然だった。
    「……チョコレート?」
    「今日はバレンタインデーなので」
     陸の問いかけに一織は答えない。
    「……好きな子に告白する日でもあるよ」
    「……そうですね」
     両手で丁寧に差し出されるから、陸も両手で受け取った。一織の頬は少し赤くなっているが、完璧で恰好良いのだから嬉しくて、ちょっぴり悔しい。
    「ねえ……他の子にあげた?」
    「あげてません」
    「三月には?」
    「兄さんは味見をしてもらいました」
    「……天にぃは」
    「どうしてここであの人の名前が出てくるんですか」
     だって、と心の中で呟く。
     一人身勝手にヤキモチを妬いていたのだ。察しなくてもいいのに、こういう時ばかりは一織は陸の複雑な心に気が付いて、小さく微笑むからまた頬が熱くなった。
    「一織は、告白しないの」
    「……昔プロポーズしたでしょ」
    「それはそれ、これはこれ」
    「わがままな人だな」
     陸は一織の気持ちを知っている。信じてもいる。
     だけど、時折不安になってしまう陸の心を結んでほしい。箱にかけたリボンのように、ほどけてもすらりとした長い指でしっかりときつくリボン結びにして、何度も繋いでほしい。
    「……一回だけですよ」
    「はあい」
     耳を寄せる。一織の頬がじわっと赤く染まっていることが嬉しくて、自然と笑みが零れた。
    「何笑っているんですか」
    「だって、告白されるのは初めてだから」
     好き、と言われるのも初めてだ。一織の言葉を聞いた後には絶対自分の「好き」を告げよう。
     小さな吐息が耳朶をくすぐった。いつもよりも低い声で囁かれた好きの言葉は、今まで食べたお菓子よりもずっとあまい。
    「わたしも」
     ──一織が好きだよ。
     内緒話のように返した陸の声もひどくあまいものだった。

    4月の労り

    結局真新しいセーラ服に袖を通すことができたのは、入学式だけだった。春風が吹くたびに、淡い薄桃色の花弁は散ってはアスファルトに張りつく。
     大人になれない陸はほとんど通うことのできなかった小学校を無事卒業し、晴れて中学校へと上がった。


     ランドセルを背負った一織は今日も陸の見舞いに訪れた。通う学校は違っているため、プリントや課題を届けに来たという理由は彼の口から一切出てこない。
     体調はどうですか、と訊かれ陸は素直に腹部が痛いことを告げた。
    「何か拾い食いでもしたんですか」
    「ここ病院。そこら辺に落ちてるわけないよ」
     そもそも落ちていても食べないけど。
     ずきずきとした下腹部への痛みで軽口を叩く余裕もない。
     腹部に手を当て時折唸る陸の姿に一織は眉を顰めた。
    「看護師さん呼びましょうか」
    「ううん……そういうのじゃないから大丈夫」
    「顔色悪いですよ」
    「もっと痛くなったら鎮痛剤飲むし……それに二日目だから」
     最後の言葉はぼそりと呟いたつもりだった。聞こえていてもいいし、聞こえなくてもいい。
     一織は男の子だから二日目の意味もよくわからないだろう、と思っていた。
    「ああ、なるほど。それは辛いですね」
    「え!? 一織……今のでわかったの?」
    「はい」
    「もしかして一織もその……なったりする?」
    「なりませんよ!」
     心配そうな顔が一瞬で怒ったような顔に変わった。真顔で頷かれるよりはずっといい。
     一織とは何でも話せる間柄ではあるが、それでも性の話は妙に恥ずかしい。親や双子の兄には聞けないし、同年代の女の子と話す機会はほぼない。
    「わたしの身体、赤ちゃん産めるようになったんだって」
    「そうですね」
    「大人になれるかさえわからないのに、身体は大人になろうとしててね……それが少しだけ」
     ──怖いかな。
     聡明な幼馴染は悲痛な顔をしないから、痛ましい顔をしないから、だからこそ弱音が吐き出せる。
     慰めてほしいのではない。励まされたいわけでもない。表情を変えない一織は陸の良き話し相手だ。
    「っう、いたい……」
    「薬飲みますか?」
    「ううん、まだいい。それよりも話し相手してほしいかも。一織と話してると痛いのも忘れられるから」
    「……わかりました。ただお腹を冷やすのはあまりよくないので、ブランケットを掛けましょう」
     そう言って一織は収納スペースからふわふわしたブランケットを取り出した。お腹周りへと巻き、一緒に取り出したクッションを腰に当てる。
    「どうです?」
    「……ちょっと楽になったかも」
     痛みが引いたということではないが、気持ち楽になったような気がする。
    「うちの母が辛い時はこういう風にして過ごしているんですよ。あとカイロがあったら腰やお腹に貼るのもいいと思います」
    「他にはどんなことをしてるの?」
    「そうですね……生理痛が辛い時ほど父が母を甘やかします」
    「甘やかす……」
     家族ぐるみで仲良くしているため、二人の仲の良さは知っている。しかし人前でいちゃつく姿は見たことがなく、甘やかすの具体的方法が思い浮かばなかった陸は小首を傾げた。
    「ねえ……一織?」
    「完全に甘ったれの顔していますね」
    「想像できないから、実施で教えて?」
    「これは断られないと思っているな……」
     断らないことを陸は知っていた。だめ? と畳みかけると手の甲で口元を隠して「だめじゃないです」と返ってくる。やっぱり一織は甘い、と心の中で呟き一織の手を掴んだ。
    「今からしますけど、絶対セクハラと言わないでください」
    「言わないけど、つまりセクハラみたいな感じなの?」
    「違いますけど!!」
     はあ、と大きなため息が聞こえた。
     今から何をするのだろうか。わくわくしながら待っていれば、「失礼します」と一声かけた一織はベッドに上がってきた。
    「え? ええっ?」
    「少し寄ってください。そのくらいで、ありがとうございます」
     ベッドボードに腰をぴたりと合わせて座る。ここからどうするのだろうかと、どきまぎしている陸を力強い腕が引っ張り上げた。ブランケットがふわりと浮きあがり、また陸の膝を覆い隠す。
     気が付けば一織の脚に座っていた。骨っぽい成長段階の身体は硬く、座り心地はあまりよろしくない。柔らかくもなくて、痛いくらいだ。
     だけど後ろから甘いお菓子の匂いと、低めの体温が服越しに伝わって不思議な安堵感に包まれた。
    「こうやって、甘やかすんですよ」
    「っ、一織……」
     長い腕がそっと陸の細い腹部に触れて、そっと抱き込む。
     何かを逃すような熱い吐息が耳朶にかかってくすぐったい。心臓は早鐘を打っている。それは後ろから聞こえるのか、それとも自分の内側から聞こえている音なのかもわからない。
     だけど決して嫌ではない。むしろその逆だ。
    「もっと……」
     ぎゅっとして。
     抱擁が強まる。壊れ物を扱うように、丁寧に抱きしめてくれるから、痛くて辛いだけの月経も悪くはないのかもしれないと思った。

    12月の冬景色

     ぽつり、と窓ガラスに叩く雨粒の音に、本格的に降りそうだと思った。
     時刻は十七時を少し過ぎた頃。週の真ん中である水曜日、一織が訪れる曜日だ。けれど扉が開くことはない。
    「……わかってはいたけど」
     さみしい。
     ぐっと言葉を飲み込んだ。静かな雨音を聞きながら呟いてしまっては余計寂しくなってしまう。
     一織に勧められた小説を読もうと、本を開いたというのにまったく集中できない。分厚いハードカバーを閉じるとパタンと音が鳴った。一行目で止めてしまったため、後ろ側のページに挟まっているスピンは一度も動かしていない。
     ベッドサイドテーブルへと置いて、代わりに充電していたスマートフォンを手に取る。電池残量七十七パーセント。あっと思ったが、ラッキーセブンが揃っているのに見せる相手がいないことに落胆した。
     今までに寂しいと思ったことは何度もある。
     見舞いに訪れていた家族が立ち上がった時、天が寂しげに笑いながら頭を撫でる時。一織が帰り支度をしている時。けれど、こんなにも強い孤独を感じたことはなかった。
     陰鬱な気分になるのは外が暗く、しとしとと降る雨のせいかのかもしれない。
    「お土産よりも、一織がいてくれる方がいいなあ……」
     学校行事なのだから来られないのは仕方ないことだとわかっている。
     二泊三日の修学旅行は学生が一番楽しみにしているイベントでもあり、陸が参加できなかった行事を楽しんでほしい気持ちもあった。
     たくさんの土産話を聞かせて、とここから笑顔で見送ったのが昨日のこと。寂しくなったら連絡して、と言った陸の方が一織の不在に対して、こんなにも寂しくなるとは思わなかった。
     ラビチャを開き、上の方に表示される和泉一織の名前をタップする。今朝二言三言メッセージのやり取りをした。いってらっしゃい、とうさぎのマスコットを手を振っているスタンプで終了している。
     こんなにも気になっているのならただ一言メッセージを送ればいいのに、それすらも迷ってしまう。
     楽しく過ごしているところに水を差してしまうのではないか。
     他の子と過ごせる時間を邪魔してはいけない。
     アプリを閉じてスマートフォンをテーブルに戻そうとした瞬間、手の中で震えた。和泉一織の名前を目にした途端心臓が騒ぎ始めて、応答ボタンに触れようとする指が震えている。
    「も、もしもし」
     第一声がひどく裏返ってしまった。くっ、と笑いを堪えたような音が聞こえて、恥ずかしい。初めからやり直したい。
    『もしかして寝ていましたか?』
    「っ、寝てないよ! 元気! 一織こそどうしたの?」
    『陸さんが寂しがっているような気がしたので』
    「…………っ」
     さらりと言われて、目の上が熱くなった。つーんと鼻の奥が痛み始めて、泣きそうだと気が付いた。
    「そう、だよ」
    『ははっ』
     いつも来てくれるのに、いないなんて寂しくなるに決まっている。
     年上らしく振舞えず、涙声で一織は? と問いかけて続くのは小さな無言だ。
    『……調子狂うな、と』
    「なにそれ」
     同じ言葉じゃなくてもいいから、もっと寂しがってくれたっていいのに。
     そんな自分を我が儘だと思いながらも、スマートフォンを強く握りしめた。
    『ところでそちらの天気は雨ですよね?』
    「うん? そうだね」
     今も降っているよ、と返すと突如ビデオ通話に切り替わった。綺麗な顔立ちが映る。
     どくんと心臓が跳ね上がった。
    「えっ!? 何いきなり!」
     現在進行形で泣いているのがバレてしまう、と慌てて顔を隠したものの一織からのアクションはない。見えますか?、と聞かれ私の姿が向こうに映っていないことに気が付いた。
     それでもおそるおそる手を外した。
    「わあっ……すごい綺麗……」
     画面の向こう側では青い光がきらきらと点滅していた。別の場所では赤、緑と色を変え、眩しくない光の粒が煌めいている。
     まるで星の海の中にいるようだ。
    『一緒に歩きましょう』
    「え? でも私は……」
     その場にはいない。ベッドの上の陸はどこにもいけない。この病室から出ることができない。
     けれどわかっている一織は微笑みながら手を差し出した。
    『陸さん』
    「ん……」
     差し出された手に自分の手を重ねるとすぐに繋がって、あのひんやりとした体温が触れたように感じた。
     ゆっくりと馴染んで同じ温度になっていく。
    『目を逸らさないで』
     見て、と真剣な一織の言葉はささくれていた陸の中にすっと入ってきた。
     きらきらと光の中を一緒に歩く。小さな歩幅で、景色を楽しめるように止まって、七色の階段を二人で降りる。
     実際に歩いていないのに少しだけ息が切れた。興奮で頬が火照る。
    「すごい……すごいね、一織」
    『見惚れすぎて躓かないでくださいよ』
    「躓かないよ! でも、躓いても一織が支えてくれるよね?」
    『……まあ、そうですね。転ぶ前に対処します』
    「もう、恰好良いなあ……」
     ああ、好きだなあと思った。
     私を寂しくさせるのに、私を喜ばせる。
     空っぽだった器に注がれた想いが揺れて、やがて溢れ出した。
    「好き……っ、一織が好き」
    『……っ』
     逸らさないで、と言われたのに視界がぼやけ光の輪郭すらあやふやになった。ぽつりと落ちた水滴がスマートフォンの画面に滴り、シーツの上に落ちていく。
    「さびしい……っ」
     手を繋ぎたい、抱きしめて欲しい、もっと触れて欲しい。
     もっともっと恋人らしいことをしたい。
     好きって言わなくていいから、好きだってことを教えて欲しい。
    「お願い一織……帰ってきたら、キスしてほしいっ……」
     答えは聞けなかった。終了を押して逃げた陸の心臓の鼓動は激しく、浅い呼吸を繰り返している。あ、と思った時にはもうすでに遅く、それは確実に陸を蝕んでいた。
    「っは……は……ぜ……っ、ぜぇー……っ」
     苦しい。息が吸えない。縋りたいのに縋れる相手はこの場にはいない。
     滲んだ視界の中、慣れたようにナースコールを握った。
     
    1月の拒絶
     急変から一ヶ月が過ぎて、陸が目覚めたときにはすでに年が明けていた。病院から連絡を受けて駆け付けた家族はみんな涙を必死に堪え、その顔を見た陸も思わずもらい泣きしてしまった。
     しばらくの間寝ては目覚め、しかしまた眠りにつく生活を過ごしていた。
     天に一織への伝言を頼んだ。内容は「しばらく会えないことと、それからごめんね」と。
     電子機器を用いてのメッセージは敢えて送らない。
    「はあ……」
     ため息が洩れる。一織のことを思えば思うほど、陸の顔は曇ってしまう。
    「気にしていないといいなあ……、でも、気にしてなさすぎるのも嫌だし」
     発作が出たのは電話をしている時だった。美しいイルミネーションの街並みと、一織との互いのスマートフォンを通じて遠隔のデートに欲が出てしまった。
    「どう頑張ってもわたしは一織と一緒に歩けないのになあ」
     いつ容体が急変するかわからない爆弾を抱えて生きている。けれど外目からはまったくわからない。
     美しいガラスの靴を履いていて、けれどその靴が重すぎて歩けないようなもの。陸の病気を理解しているのは医者と看護師と、家族と陸をよく知っている人だけだ。
     時々お見舞いにやってくるクラスメートたちも、陸の姿を見て不思議そうな顔をする。
     姿見で自分の姿を見ても、どこからどう見てもその辺を歩いていそうな女の子だ。やや痩せ気味の、胸も小さいのだけれども。
     見下ろして、ささやかな膨らみを手で包み込んだ。触れて、山なりの胸、骨がすぐ当たる未発達な身体にため息がまた零れる。
    「……どうせ一織も胸の大きい子の方が」
    「は? 勝手に決めないでください」
    「い、一織っ!? 何で……って、わああっ!!」
    「天さんから目が覚めたと聞いたので」
     薄い掛け布団を勢いよく被って潜る。まさか一織が面会に来るとは思っていなかったせいで、髪はぼさぼさ、しかも寝起きの顔だ。
    「潜らないで」
    「だめだめだめだめっ、髪も編んでないし、かわいくしてないから!」
    「……かわいい反応だな」
     上から降ってくる声に頬がかっと熱くなった。どうしてこんなにもあまい言葉を口にするのだろうか。
    「かわいくないもん」
    「は? どこがですか?」
    「だって……」
     大切にされていることはきちんと理解している。陸がびっくりしないペースで進めてくれるのも。触れ方や距離で伝わってくる。
     だけど、好きって言って欲しいと望みすぎてしまう。
     キスしてほしい。もっと、恋人らしいことがしたいと思ってしまう自分の心が可愛くない。
     我が儘なお姫様。お姫様になりたいけれど、こんな欲ばりな女の子にはなりたくなかった。
    「一織を困らせるつもりなかったのに」
    「……私がいつ困ったんですか」
    「あの時……。わたしが寂しいって言ったら一織困った顔をしてた」
     眉根を寄せるのではなく、眉を下げた一織に困らせたと陸は気が付いた。けれど、好きは溢れて、求めてしまった。
     
     身体の弱い幼馴染と約束などしなければ。
     彼の隣には別の女の子がいたのかもしれないのに。

     ぎしりとベッドが軋んだ。一織が乗っているのだろう。ずんと深く沈んだマットレスと、動くたびに軋む音が何かいけないことをしているような気がする。
    「やっ……」
     顔に熱が上がってくる。見られていないのに恥ずかしい。
     薄い掛け布団ごと強く抱きしめられて、心臓の音が激しくなっていく。
    「困った顔ではなくて……」
     ゆっくりと剥がされる。上から覗き込んだ一織は白い頬を染めて眉根を寄せていた。
    「今も困った顔してるのに……」
    「これは照れている顔です」
     じわりと瞳が濡れていく。恥ずかしさと一織の照れが移って、陸の目は潤んだ。視線の先は小さな唇へと向かい、意識を失う前になにをねだったのか急速にあの日の記憶が蘇る。
     鏡を見なくてもわかる。自分の頬は茹ったように真っ赤になっているのだろう。
    「……目を閉じてください」
    「む、むりぃ……っ」
    「キスして、と言ったのは陸さんでしょ」
    「っ、今度こそ心臓止まっちゃう……」
    「縁起でもないこと言わないで」
     一織に余裕があったのなら、心臓が止まっていたのかもしれない。
     同じくらい余裕のない顔だったからこそ、陸はぎゅっと目を瞑った。
     距離が縮まる。ふっと吐息が乾いた唇を掠め、あっと思った時には重なっていた。
    「ん……」
     熱い息が口の中でとける。舌先に触れたぬるりとした感触に驚いて逃げようとすると、掴まえられて絡め取られた。指同士が繋がって、陸が縋れるのは一織だけだ。
     ほどけて、またすぐにも口づけが落とされる。息の仕方を知らず、酸欠になる手前で唇が離れた。
    「っふ……いおり」
     大人のキスが赤い双眸をとろりと蕩かせる。ふっと洩れた短い呼気に誘われるまま、今度は陸自ら一織の唇へと触れた。押し付けるだけの簡単なものだったが、驚いたように目を瞠った一織に陸は笑う。
    「手が届く距離に一織がいることが嬉しい……っ、ん……」
     言葉途中でまた塞がれる。重なった胸から伝わる心臓の鼓動が、生を知らしめる。
    「……は、いくら理性的な私でも、止められなくなるから困るんですよ」
    「止めなくていいよ」
    「っ、まったく……」
     我が儘なひとだ。
     苦笑とともに一織の口から洩れた言葉はそれでもあまい。
     陸の心臓は激しい音を立てている。けれど止まることはない。
     性急に降ってくる唇を受け止めながら、繋がっている指を強く握り返した。
    5月の嫉妬 中学生になった一織は相変わらず陸の病室を訪ねてくる。
     ひそかに陸のお気に入りであるさらっとした髪と同じ、真っ黒なランドセルを背負った一織はもういない。
     重げな黒色の学ランを着用した幼馴染の姿はひと月経っても見慣れないし、十七時を少し過ぎた頃に鳴るノックの音は陸を緊張させる。一織が来る前に、必ず二回以上手鏡を覗き込んでいることを彼は知らないだろう。
     検査を終え、ぼさぼさになった髪を結い直したところでノックの音が聞こえた。
     壁掛け時計を見上げると、時刻は午後十六時半少し過ぎ。いつもよりも早い。
     ついさっき身だしなみを整えたから、いつ来ても大丈夫だけど心の準備はあまりできていない。
    「ど、どうぞ」
     それでも一織には気づかれないように、声をかける。うわずちゃったな、と思いながら。
    「今日はいつもよりも早いね……え?」
     ほんのりと頬を赤らめ、ゆっくりと振り返る。しかしそこにいたのは見知らぬ男子学生だった。真顔の相手に陸はおそるおそる口を開いた。
    「……こ、こんにちは?」
    「そこはせめてこんばんは、だろ」
     確かにそれはそうだと頷いた陸は必死に記憶を辿る。男子学生が着ている学ランは一織と同じ学校のもので、つまり陸と同じ学校だ。胸ポケットへと視線を向けると校章と二学年を示すバッチが刺さっている。
     完全な初めまして、ではないと思うがそれも自信がない。両手で数えるくらいしか登校できていない陸には彼の名前がわからず、おそるおそる手を挙げた。
    「あの、申し訳ないんだけど名前がわからなくて」
    「おまえ全然学校来てないんだから、そんなの当たり前だろ」
     言葉はぶっきらぼうだが嫌味のようなものは感じない。同じクラスの佐藤だ、と名乗った相手に陸も「七瀬です」と答えた。
     学校指定のリュックサックを肩から下ろし佐藤は中身を取り出す。プリントが入っているのだろう、青いうさぎのイラストが入ったクリアファイルごと渡され、両手で受け取った陸は笑顔でありがとうと告げた。
    「綾瀬に頼まれただけだから」
     綾瀬は陸に配布物を届けてくれるクラスの女子だ。一年の時からずっと世話になっていて、小学校が同じだったということもあり率先して届けてくれる。
    「綾ちゃん、忙しいの?」
    「あいつ生徒会の手伝いしてるんだよ。勧誘を断りきれなかったのもあるけど」
    「そっかあ。頭もよくて頼りになるもんね」
    「まあな」
     目元をやわらげて笑う佐藤に陸はハッとした。多分彼は綾瀬のことが好きなのだろう。好きな人に頼まれたら断れないし、好きな人の手助けをしたいと思ったからこそ、こうしてほとんど顔を合わせたことのない陸の元まで届けてくれたのだ。
     他人の甘酸っぱい感情を想像して、思わず口から零れたのは羨望だった。
    「……いいなあ」
    「何が?」
     聞こえていたらしく、佐藤が不思議がる。誤魔化すのも変だと思った陸は素直に口を開いた。
    「えっとね、わたしも誰かにお世話されるだけじゃなくて、お世話したいなって思って」
    「……ああ」
     プリントを届けてくれた相手に失礼な発言だっただろうか。ちらりと佐藤を見遣る。気分を害したようでもなく、肯定も否定もせず、ただ陸の話を聞いていた。
    「すごいありがたいなって思うよ。思うんだけど、わたしも貰っているものをお返ししたいなって思うんだ」
     何の見返りもなく差し出される手を取る自分は幸せだと思う。だけど、そればかりを受け取ると時々心苦しくなってしまう。
     もしも、いつかその手が差し出されなくなったら。
     受け取ってばかりの自分は、受け渡すべきの時に同じように返せるのだろうか。
    「七瀬、好きなやついるんだな」
    「うん……っ、え!?」
     突然言い当てられて、陸は目を丸くさせた。今の話に好きなひとの名前はいっさい出ていない。勿論好きだという単語も。
    「な、なんでわかったの……」
    「なんか、寂しそうだけど、笑って話してたから」
    「それだけで!?」
     つまり一織への好きが他の人から見ても丸分かりになっているということでは。
    「別に良くないか?」
    「良くはない、わけじゃないけど……恥ずかしい」
     じわじわと頬に熱が集まってくる。隠すために陸は手で覆い、息をついた。
     手のひらにかかった熱い吐息はすぐに冷めていく。
    「でも……うん、すごく好きだよ」
     けれど好きな気持ちは覚めない。むしろ、一度触れてしまえばもっと欲張りになる。
     キスしたら、次の日だってしたくなる。照れなくなったら、その先にあることを一織と一緒にしたくなる。
     飽きることなく、求めて、欲張りになってしまう。
    「好きだから、同じ歩幅で歩きたい」
    「そうか」
     互いに好きな人がいるからこそ、素直に気持ちを吐き出せる。本人に言うのはまた別だ。
     時間を忘れて長々と話し込んでしまったような気がする。壁時計を見ようとするよりも先に荒々しい音を立てながら扉が開いた。
    「一織!?」
     ノックなしで扉を開けたこと、そして強張った一織の表情に陸は驚いた。
     薄灰色の瞳は陸を見て、それから隣にいる佐藤へと向けられる。冷ややかな眼差しに陸は息をのんだ。
    「……お邪魔でしたか?」
    「いや、もう帰るから」
     佐藤は下ろしていたリュックサックを背負った。敵意を向けられたことに臆したわけではないようで、訪れた時と同じく真顔だ。背を向けてそのまま出て行くかと思いきや、ぴたりと足を止めて陸の元へと戻ってくる。
    「七瀬」
     ベッドそばで佐藤は手招きした。来いではなく、耳をかせということだろうか。何だろう、と耳を寄せると佐藤は意外なことを口にした。
    「好きなやつ、あいつだろ」
    「っ、な、なんで……!?」
     言い当てられて引いていたはずの熱がまた戻ってきた。慌てて手のひらで頬を覆いつつ、再び小さな声で「何で」と問うと、佐藤は初めて口を開けて笑う。満足したのか「じゃあな」と背を向け、今度いそ病室から出て行った。
     沈黙が落ちる。どうにかこの気まずい空気を払拭しようと言葉を考えていると、頬を押さえている手を掴まれた。
    「一織?」
    「……すみません」
     どうして謝るのだろう。不思議に思いながら一織の顔を覗き込もうとした瞬間、視界を塞がれた。熱を持った陸には心地よい温度で。そして塞いだ相手は信頼のおける一織だ。恐怖というような感情を抱くはずもない。
    「な、何?」
    「嫉妬しました」
    「嫉妬。……嫉妬って、あのよく耳にするヤキモチ的な?」
    「そうです。そのヤキモチです。」
     一織からの口から一度も聞いたことない単語に陸は思わず聞き返して、肯定されまたもや驚く。
    「一織ってヤキモチ妬くんだ」
    「……当たり前でしょ」
     苦々しい声に陸はふふっと笑ってしまった。そうするとすぐに「笑うところなんですか」と即座に言葉が返ってくる。いつもよりも素直に答えてくれることも嬉しい。
    「だって、ヤキモチ焼くのはわたしばっかりだと思ってたから」
    「私も男なんですよ」
    「知ってるよ?」
    「……これはわかってないな」
     独り言のような言葉ははっきりと聞こえなかった。嫉妬してくれたことが嬉しい。一方通行ではなくて、きちんと交わり合っていることに安心する。
    「ねえ一織。また嫉妬した時は素直に教えて」
    「どうしてですか」
    「大丈夫だよって言うから」
     その後にね、世界で一番一織が大好きだよ、って続けるからね。
     今度は陸の耳に届くくらいの声量で、苦笑交じりに「よろしくお願いします」と一織は囁いた。

    10月の決意


     あたたかな春が訪れて、あっという間に暑い夏へと変わる。涼しい秋だと思いきや、ちらちらと雪が降る冬となった。雪解けとなり、桜が咲き始めたあの約束の日から七年目の秋。
     大人になれないはずだった陸は今年の七月で十八歳の誕生日を迎え、晴れて成人となった。
     しかし未だ一年の大半をこの病室で過ごし、確実な治療法もまだ見つかっていない。
    「どうなっちゃうんだろう」
     ふう、と赤く小さな唇からため息が洩れた。
     この数年で陸の体つきは女性らしいものへと変化した。標準よりも痩せているため胸はあまり大きくならなかった。それでも手のひらで包み込めるくらいなので、良しとしている。慎ましいこれで恋人を喜ばせることができるかは、わからないが。
     陸が悩んでいるのは胸の大きさではない。一織のことだ。
     陸は幼馴染の一織と交わした結婚の約束を覚えている。不意に耳にしてしまった自分の命の期限。大人になれない宣告をされた陸は誰にも悟られないように、普段通り笑って、終わりさえも笑って死ぬのだろうと思っていた。
     ──りくね、お姫様になりたかったんだ。
     ──私がその願いを叶えます。
     好きな子がいる、と答えた一織を巻き込んだ。無意識下で陸は自身の命を天秤にかけてしまった。幼馴染である一織の気持ちよりも、陸は自身の心を優先したのだ。
    「一織はごっこ遊びに付き合ってくれているだけなのに」
     一織は陸の心に引きずられている。あれはきっと親愛や友愛の延長線なのだろう。
     交わした約束を守るために、陸は生きることを諦めなかった。一織もまた陸の希望であり続けた。
    「もう充分だよ、ね……?」
     ぽつりと零した言葉は震えていた。泣いてしまわぬよう必死に堪えた。
     一織は陸に恋を教えてくれた。恋をさせてくれた。
     やさしい恋人だった。今もそうだ。生徒会や受験で忙しくなかなか顔を出せなくなったが、一日一回は必ずメッセージを送ってくれる。筆まめでもないのに。
     道端で見かけたらしい黒猫の写真を送ってきては、『たまたま見かけたので』と素っ気ないメッセージとともに陸に外の世界を教えてくれる。
     見たものを陸にも分け与えてくれる、優しいひと。
     そして一織は幼い頃からとても優秀だった。勿論今も変わらない。むしろ磨きかかっていると言える。
     彼はひとりでどこまでも自分の足で歩ける人だ。その気になれば海外へ、もしかしたら宇宙にも飛び立てることができる人だ。
     自力で飛ぶことができる一織を、いつまでも地上に括りつけてはいけない。ひとりで息ができない陸は宇宙まで着いていけるはずがない。ただただ足を引っ張るだけだから。
     一織は自分の隣を歩ける人を見つけて、可能性を広げるべきだ。
     鼻の奥がつーんと痛む。泣きそうな陸を見て困った顔をする人はいない。
     嗚咽を噛み殺した。押し殺して、堪えきれなかったものが喉から飛び出す。
     そうして、一織への気持ちが溢れる。
    「……っ、う……」
     幸せだった。一織に出逢ってから陸はずっと幸せな女の子でいられた。
     どこにも行けない陸にガラスの靴を履かせ、お姫様にしてくれた。
     ぼやけた視界に手の甲で乱暴に拭う。一織が見ていたらきっと眉根を寄せたに違いない。ふと浮かんだ光景に思わず陸は笑ってしまって、涙が零れた。
    「……一織の手を離したくないっ」
     指切りをほどこうとした時の搦め取られた力強さも、繋いだ手を強く握り返してくれたことも、しっかりと覚えている。
     暑い真夏にくっつけるだけのキスをしたことも、陸からねだって月が替わった後にくれた大人のキスも、ぜんぶ。
    「一織が好き、好き……大好き」
     二度と忘れることはない。一織が与えてくれたものすべて。新しい記憶で上書きされるのなら、この命とともに連れていく。
     会えない時間が想いを大きく膨らませてしまった。際限なく、ふわふわと今にも破裂しそうな風船のように。
     この恋を終わらせるため、陸は密かに胸に刺さっていた棘を引き抜く。
     
    7月の我が儘
     午前六時起床。夏の朝は早く、もうすでに日が昇っている。
     顔をいつもよりも念入りに洗い、化粧水をたっぷりとつけた後に乳液を塗った。
     検温のため訪れた看護師に「今日のデート楽しんでね」と声をかけられ笑顔で頷く。
    「はい、楽しんできます」
     数ヶ月前の時点で主治医と相談していた。体調を崩さないように、自分でも体調管理を心がけた。当日の天気と気温までもしっかりとチェックし、前もって計画を伝えていた兄には服を選んでもらっていた。
     普段通り体温を測り看護師に見せる。診察後、唸る主治医から無理はしないことを条件に外出の許可が出た。
     日焼け止めを塗り、軽く化粧をする。背中まで伸びた髪は高い位置で結んだ。
     引き出しから髪飾りを取り出す。青色のリボンがついたシュシュは十二歳の誕生日プレゼントに一織から貰ったものだ。
     白い頬を赤らめ、「気に入ってもらえるかはわかりませんが……」と珍しくもごもごと喋っていた姿が印象に残っている。懐かしい思い出に口元を緩めながら結んだ髪をさらにシュシュで留めて、手探りでリボンを調整する。
     自分の後頭部は鏡に映せない。だから出来映えはわからない。不格好なら笑顔で誤魔化せばいいだけだ。
     初めて自分自身で記入した外出届を提出する。デートのための外出だと思い込んでいる看護師は、嬉しそうに見送ってくれた。
     ひとりで病院の外へ出た。降りそそぐ太陽光の眩しさに思わず目を眇め、仰ぎ見れば青い夏の空に雲がまばらに散らばっている。出たばかりというのに蟀谷から汗が流れた。
    「今にもとけそうなほど、暑い」
     陸は空調によって過ごしやすい温度が保たれている病室に住んでいる。溶けるような真夏の暑さも、凍えるような寒さも実感したことがなかった。
     じりじりと肌を焼くような強い夏の太陽なんてものも知らない。
    「一織はすごい」
     真夏も真冬も関係なく、ただ陸に会うため病院を訪れる。疲れたような顔なんて一度も見せずに病室の扉を開け、陸を捉えると聡明な瞳をやわらげる。その後にすっと真顔へと変わって、ほんの一瞬だけ見せる素の表情がずっと好きだった。
     今も、好き。
    「あついなあ……」
     暑い暑いと口にしながら陸は駅へと続く道を歩く。見慣れない風景を楽しむどころか、一織の表情ばかりが頭の中を埋め尽くす。時折足を止めてはスマホで地図を確認し、確実に目的地へと進んでいることに陸は安堵を覚えた。
     アプリの地図上では歩いて五分の駅に、陸は十分かけて辿り着いた。案内板を探し、駅員に聞いて切符を買う。
     自動改札機を通るのも初めてだ。吸い込まれていく切符に驚きながら、急ぎ足で改札を通り抜ける。すっと出てきた切符を回収し、先ほど教わったばかりのホームへと向かった。
    「一番ホームだから……こっちのはず」
     何度も電光掲示板を見上げて、握っている切符と照らし合わせる。切符には陸が求めている情報の記載はない。仕舞っているスマホを取ろうとポケットに手を差し込んで、掴む直前ぎゅっと指を折り込んだ。
    「困ったら一織、をやめなきゃ」
     陸には優秀で頼りがいのある恋人に、どんなことも聞いてしまうクセがある。今はまだ恋人ではあるが、明日からは幼馴染に戻るのだから一織頼りも止めないといけない。
     周りを観察して、いくつかできていた列へと並ぶ。陸の前にいる男女はそっと耳打ちしながら顔を見合わせて笑っている。親しげな姿に恋人同士なのだろうかと、少し羨ましい。
     病気でなければ。健康体で生まれていたら。
     今までに何度も考えてきた、もしもという名の可能性。いくら考えたところでどうにもならないことを陸は幼い頃から知っている。
     スピーカーを通じて電車の到着を知らされる。目の前をびゅんと横切った強い突風がおろしたてのワンピースの裾を大きく揺らした。
     
    ***

     ガタンゴトンと音を立てながら目的地へと進む。
     乗車直後はつり革を掴んで立っていたものの、電車が揺れるたび身体も左右に揺さぶられ陸は空いている席に腰掛けた。
     乗り合わせた人々が下車すれば今度は新しい人が乗ってくる。土曜日ということもあり多少の混雑を覚悟していたが、陸が予想していたよりも静かな旅路だった。
     アナウンスによってこの電車の終点を告げられる。そっと後ろを振り向くと横にまっすぐ伸びた海が目に入った。
    「……すごい」
     感嘆がするりと零れた。
     初めて見た海の姿は壮大で、ただただ美しかった。遮蔽物越しの景色ですら陸は目を輝かせる。遠くの方で海面の上で光の粒がきらきらと浮かんでいた。
     すぐに景色は青々とした海から市街地へと移り変わり、やがて駅舎で止まった。
     興奮から腰を上げていた陸の身体は停車と同時に大きく傾く。慌てて手すりを掴み、転倒することは免れた。
     気の抜けた炭酸飲料のような音に続いて右側の扉が開く。改札に向かう人の波を追いかける。汗でへたれた切符を改札口へと吸い込ませて通り抜けた。
     駅から出た瞬間、またもや夏の日差しが降り注いでくる。忘れていた暑さを思い出した身体からまたじんわりと汗が噴き出し始める。
    「海に着いたら、一織に電話しなきゃ」
     メッセージアプリを開いて、一織を選ぶ。目に入ったよくわからないご当地キャラクターの置物を撮り、その画像だけを送信した。
     既読はつかない。本腰を入れて卒業後の進路を考えないといけない時期だ。オープンキャンパスや実家の手伝い、また今年の春から生徒会の業務を手伝っているため忙しいのかもしれない。
     アプリを閉じた陸は歩き始めた。


     十分と少し、海が見える方角へと進み続けて海岸に辿りついた。細かな砂が散らばった階段をゆっくりと下りて白砂の中に踏み出すと、ずぶりと靴が埋まった。おっかなびっくりする陸の髪を潮を含んだ風が笑うように駆け抜けていく。慣れない砂浜をさくさくと歩けるわけもなく、ゆっくりゆっくりと波へ向かって歩く。
     泳いでいる人や砂浜で遊ぶ子どもの姿は同じ場所に立っていても、陸にとっては眩しすぎる光景だ。
     人気の少ない方へ、進路方向を変えようとした瞬間、着信音が鳴った。
     表示された名前を目にして、陸の心臓は激しい音を立てた。
     震える手で通話という文字を押す。
    『陸さん、あなた一体どこにいるんですか!!』
     第一声はそんなふうな、焦りと怒ったような勢いのある声で。一織が慌てていることで、少し冷静になれた。
     カメラモードに切り替える。一織の顔を見ると、覚悟が揺らいでしまうから一方的にこちらを映すだけ。
    「初めてひとりで電車に乗って、ここまで来たんだよ」
     ただただ誇らしい気持ちだった。
     七瀬陸という人間は誰かの手を借りないと、病室の外に出ることはできなかったのだから。
    『一体、何を……』
     顔を見ずともわかる。一織とは長い付き合いだ。
     彼は困惑している。陸が何を考えているのか読めないことに不安を抱いている。
    「ずっと一織がわたしの世界だった。……うん、そうだなあ……結婚を約束してからはさらに一織一色ってくらい、わたしの世界が色づいた」
     大人になれないと知った時、陸の人生は一度終わりを迎えたのだ。
     抗わず、宣告された通り自分の運命を受け入れる。
     不安も不満も恐怖も、悲しいという感情すらも誰にも伝えず、上手く作った笑顔を浮かべ、弱い陸を維持するために用意されたあの部屋で終日過ごすつもりだった。
    『あなたは今どこにいるんですか!』
     苛立った一織の声すらも、愛おしい。機械を通した人工な音ではなくて、本物の声を直接聞きたかったけれど、顔を見合わせれば覚悟が揺らぐから。
    「今までありがとう」
     そして別離は想像していたよりもきつかった。胸が引き裂かれるほどの痛みに、それでも笑おうと必死に頬を上げて、込み上げてくるものを飲み込んだ。
    『……は。何を言っているんですか』
    「あのね、一織」
     ──わたしは大人になれないんだよ。
     自分の身体は自分がよく知っている。
     薬を飲み続けているのは、この身体を維持させるため。検査が多いのは、抱えている時限爆弾の残りカウントを確認するため。
     確実な治療法はまだ存在していない。どうにか誤魔化して維持しているこの身体もいつか終わりを迎えるだろう。
    「昔、わたしがお姫様になりたいって口にしたことがあったよね。結婚しなくても一織が王子様だったから、わたしはずっと一織のお姫様でいられたよ」
     綺麗なドレスにガラスの靴を履いて一度も外を歩けず、一織の隣を歩くことはできなかったけれども、それでもここまで生きて来られたのは一織のおかげだ。
    「学校に行けなくても、普通の子どものように過ごせなくてもすごく幸せだった。それから最後に一番可愛いと思ってもらえる恰好で、ひとりでここに来られたこと……死んでも忘れない」
     瞼の裏は熱を持っている。涙がじわりと浮かび上がりそうになり慌てて瞑った。
    「婚約破棄しよう。今までありがとう」
     最後の最後に泣き顔なんて嫌だなあ、とおそるおそる目を開けるとスマートフォンの画面は真っ暗になっていた。ボタンを押しても明るくならない。
    「あれ……っ、電池切れちゃった……? ほんと、最後まで恰好つかないなあ……」
     力が抜けてその場にしゃがみこむ。
     一織に見えないから泣いてもいいのだと、前向きに考えたら収拾がつかないほど涙が零れた。
     慣れない手つきでほどこした化粧は汗と涙で崩れてしまった。悲惨な顔になっているに違いない、とハンカチで目元を押さえて陸は口を開いた。
     はっ、と息が乱れる。発作時のようで、しかし吸えないのではなく嗚咽が零れた。
    「っ、ひっう……うええっ」
     子どもの時ですら、こんなふうには泣かなかったのに。
     もう結婚できる歳だというのに、小さな子どものように泣いている。
    「っ、い、いおりぃ、」
     好き。大好き。本当は死ぬまで一緒にいたい。

     置いていってしまうわたしだけど、一織の隣で眠りたい。
     我が儘をひとつだけ叶えられるなら。

    「死ぬまでの間でいいから、一織が欲しい」
    「意外と強欲ですね」
    「……え」
     まさか。そんな少女漫画みたいな展開なんてあるはずがない。
     影が落ちる。本物の声を聞きたいと、一織に会いたいと思っていたはずなのに、顔があげられない。
    「なんで、ここに」
    「陸さんに会いに行ったんですよ。だけど病室にはいないし、看護師さんたちにはデートじゃないのと驚かれましたし」
    「そうじゃなくて」
    「詰めが甘いんですよ。あなたは」
     ふわりと何かが飛んで、再び日が当たる。やわらかい声音に導かれるように顔をあげると、一織は笑っていた。厳密に言うと聡明な瞳だけは笑っていなかった。
    「やだっ、怒らないで」
    「好きなひとに一方的に別れを告げられかけたら、怒ってもいいでしょう?」
    「……そうだけど……だけど、だって」
     一織のためだった、なんてことは口にはできない。
     本当はすべて自分のためだった。一織に別れを告げられるのが怖いから、陸から別れようとした。
     あの約束が繋ぎ止めているのだとわかっていたから、想いもいつか変わってしまうかもしれないと恐れた。
    「キスも、ハグも、それ以上のことも……してくれないじゃん」
     不誠実なことをしないと信用している。だけど、恋人らしい接触がないのは一体どうしてだろうと、不安を抱いた。
     飽きた? 身体が弱いから触れることが怖くなった? 他に好きな人ができた?
     結婚という約束は、やっぱり重たくなった?
     一織は献身的だ。これ以上望んではいけないとわかっているから、陸ひとりで心細くなる。聞くことができずに不安が降り積もって、一斉に溢れてしまった。
     顔をくしゃりと歪めて、陸は訴える。
    「わたしが一織を好きでも、一織がそうじゃなくなったら……っ、ん」
     唇が合わさる。二度三度啄まれ、軽く噛まれるそれは陸の言葉を遮るようなものではなくて、衝動というような口づけだった。
     潮を含んだ風がふたりの間を駆け抜けていく。乱れた陸の髪に触れながら一織は顔を覗き込んだ。
    「私はあなたを嫌いだと言いましたか」
    「……言ってない」
    「好きではなくなったと言いましたか」
    「言ってないよ……」
     答えると咎めるようなあまい口づけがいくつも降ってくる。くすぐったくて、唇の内側を舐められるとぞくりとして、熱い吐息がぶつかり合ってしっとりと濡れた。キスを与えられ嬉しい気持ちと、何でしてくれなかったんだろう、という少し面白くない気持ち。
     何よりも一織が恰好良くて悔しいなあ、とやや拗ねた表情を浮かべると不意に腕を掴まれた。
     引き寄せられて、広い胸にすっぽりと身体がおさまる。どくんどくんと激しい心臓の鼓動に自分のものかと思いきや、重なった相手のものだと気が付いた。
     男性の大きな手で腰を抱かれる。さらりとした砂が足首をくすぐった。
    「以前も言ったと思いますが、私も男なんですよ」
    「……わかってるよ」
     陸に触れる手の感触も、骨ばった男性らしい身体つきも、低い囁き声も、一織が男性なのだと教えてくれる。
    「好きな相手には触れたいし、キスやそれ以上のこともしたいと思うくらいには男ですよ」
    「していいよ……っ、う……んん」
     今度は食べるような口づけだった。下で唇を開かれ、絡め取られて唇でぱくりと咥えられる。呼吸に交じって鼻先からあまえた声が洩れてしまう自分が恥ずかしい。
     触れ合う距離で、堪えるような低い声が唇をくすぐった。
    「だから、煽らないで」
    「違うよ。一織が大好きだから、してほしいんだよ」
     首元に腕を回して今度は自らから唇を押し当てる。接触はほんの一瞬だけ。目を見開いた一織にふふっと笑い、真面目な顔を浮かべた。
    「わたし、一織のことおいていっちゃうかもしれないんだよ……っ。一織にバツが一個ついちゃう」
    「つきませんよ。約束したでしょう、結婚するまでは私を置いていかないと」
    「そしたら一織バツイチだよ」
    「いいえ。もうひとつ約束をしましょう」
     陸を抱いたまま一織は軽々と立ち上がった。ふわりと身体が浮き上がり、視線が絡み合ったことに陸は目を丸くする。
    「い、いおり?」
     お姫様だっこではなく子どもにするようなものだったが、陸の顔を覗き込んだ一織は切れ長の瞳をやわらげた。すると端整な顔立ちにあまさが足され、どきりと心臓が高鳴る。
    「陸さん、今度は私のために生きて。私を置いていかないで。私もあなたをひとり置いていきませんから」
     きっぱりと告げた一織の言葉に迷いや不安は見えない。
    「なに、言って……っ、それだと、一織が損しちゃうよっ……今なら引き返せるんだよ」
    「損もしませんし、引き返しません」
     苦笑めいた笑みとともにそっと下ろされ、地に足がつく。さらりとした砂に足を取られ、ぐにゃりと揺らぐ身体を支えたのはやはり一織だった。
     降り注ぐ夏の日差しも、火照った頬を包み込んだ手も熱い。
    「初めて会ったあの日から、私はあなたに恋をしたんですよ」
     一織の告白は陸の心臓を止めた。一瞬のやわらかな接触と、吐息が再び陸の心臓を動かす。
    「まだ足りないんですよ、陸さん。私に恋をさせてください」
     これからの未来もあなたを愛させて。
    「そんなのもう……っ」
     はい、以外の答えがあるのだろうか。言葉が詰まって、涙ばかりが零れる陸を急かすことなく一織は待ち続ける。
     掬う指が、あやすように頬を撫でる指がとてもやさしいから止まらない。ひくっとしゃくりあげる陸を愛おしげな眼差しで見つめている。
    「幸せにします、と断言できませんが努力します。あなたがずっと私と生きていたいと思わせるように」
    「っ、一織も幸せになれる?」
    「当たり前です。あなたという花嫁がいて、初めて世界一幸せな花婿になりますよ」
     保証なんてものは無いはずのに、どうしてだろうか。一織の言葉は希望を与えてくれる。
     大人になれるような気がする。一度決めた終着点を超えて、その先へと続いていくのだと思わせてくれる。
    「陸さん、私と結婚してください」
    「はい……っ」
     
     七瀬陸が生まれた日、新しい約束が交わされた。
     結婚のその先へ。七瀬陸は和泉一織のために、和泉陸として彼の隣で生きることを選んだ。
     
    水無月ましろ Link Message Mute
    2023/10/26 13:31:39

    13月の花嫁【にょりく】

    いおりく/先天性女体化/パロ

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