同棲していないふたりの話 丸一日の休みなんてものはほとんどない。過度なスケジュールをこなし、優秀なマネージャーが取ってきた仕事の打ち合わせを終わらせて、次の撮影スタジオへ移動する。ラビチャをひらき、たまりすぎたメッセージに目を通そうとした途端ぴこんと通知音が鳴った。
『一織、無理しすぎてない? 大丈夫?』
心配そうな顔の王様プリン──王様プリンの表情は無であるが──のスタンプが続いて飛んできては、一織の返信を待つ前に短いメッセージが続く。
『ご飯食べた? オレはおにぎりふたつ食べたよ。鮭ふたつ』
『同じものをふたつ食べたんですか?』
『ううん、ひとつはマヨネーズ入り!』
『私はこれからですね。鮭のおにぎりが食べたくなりました』
『本当? やったあ』
無邪気に笑う陸の姿が脳裏に浮かんだ。電話とは違い感情が読み取りにくい文字の羅列が、不思議とあの朗らかな音で再生された。小さな唇はほころび、アイドルの和泉一織らしくない淡い微笑が顔に刻まれる。
『七瀬さん』
『なあに?』
会いたい、と感情のままに打った言葉を消して違う言葉に置き換えた。
『明日は終日オフにしていますので、ゆっくり休んでください』
『ありがとう。一織も無理しちゃだめだからね』
そこで会話を終了させた。名残惜しいが、それでも互いに次の仕事が迫っている。
続いてたまっていたグループのラビチャを飛ばし飛ばしで読み進め、必要なものには返信した一織はスマートフォンを仕舞った。
再来月発売の雑誌の撮影を終え、次はIDOLiSH7の新しい冠番組の打ち合わせ。事務所に寄り、まだ残っていた万理に企画書を渡すと「顔色が悪い」と心配された。
「明日は午後からなので、身体を休めます」
「そう。忙しい時期だとは言え、無理は禁物だからね」
「はい、ありがとうございます」
一織は今年で二十六歳になる。それに一織は昔から体調管理に置いても優秀だった。子どもに言い聞かせるような口調を素直に受け入れられるのは、デビュー前からずっと見守ってくれた万理の人柄もあるだろう。
「陸くんも心配してたよ」
「七瀬さんが?」
「いつもよりちょっとぼんやりしてる、って言ってたよ」
「そう、かもしれませんね」
「離れている時間が長くても、陸くんは一織くんをよく見てるんだなあって思ったよ」
「そうですね」
わかってはいるものの、人から聞かされると少々恥ずかしいものだ。
(会いたくなるな)
あのあたたかい身体を抱きしめて、やさしい眠りにつきたい。欲を言うならば深く愛しあいたいが、お互いに休息をとる方を優先しなくてはいけないだろう。
「引きとめてごめんね。お疲れ様。ゆっくり休んで」
「ありがとうございます。お先に失礼いたします」
事務所を後にする。
タクシーを呼び、一瞬だけ考えた末に自宅の住所を告げた。カバンから取り出したキーケースのフックにはふたつの鍵がぶら下がっている。
ひとつは一織の部屋の鍵で、もうひとつは陸の部屋の鍵。片一方の鍵を触ることすらなくなってしまった。
(帰宅できてたらいいが……七瀬さんも遅くまで仕事が入っていたな)
寮を出たばかりの頃と付き合い始めた頃は、自分の部屋よりも陸の部屋の鍵を開ける方が多かった。時間が合わないため、鍵を使う。寮生活が長かったせいか、最初の頃はくすぐったい気持ちになったものだ。
『疲れて帰ってきて、部屋の明かりがついてるとすごく嬉しい』
出迎えて「ただいま」の後にはにかみながら陸はそんなことを言った。
入退院を繰り返した幼少期もあってか、ひとりで過ごす時間に慣れているものの陸は寂しがりやだ。グループでの仕事が減り、その反対に個々の仕事が増えた時も「寂しい」と言葉にしていた。
それでも一緒に暮らそう、とは一度も言わなかったし一織もその提案を口にすることはなかった。
(そろそろ提案をしてみてもいいだろうか)
自分がひどく疲れているから、そう思ってしまうのかもしれない。
出迎えなくてもいい。起きていなくてもいい。恋人の寝顔を見るだけで、きっと明日も頑張ろうと思える。
(七瀬さんのためではなくて、私のために)
車窓を軽く開ける。きぃんと鋭く尖った秋の夜風が一織の頬を掠めていった。
マンションの入り口に辿り着いた頃にはすでに日付は変わっていた。運転手に礼を述べ、クレジットで支払い後領収書代わりのレシートを受け取る。
財布に仕舞い、タクシーから出ると車内との温度差に身体が震えた。
ようやく猛暑の夏が終わり、しかしそれでもまだ日中は夏を思わせる気温が続いている。鍵を差し込み開錠する一織が思うことは、陸のことだ。
「窓開けて寝てなければいいが」
エアコンつけなくても過ごせるようになったと話していた。夜に窓を開けているらしく、話しかけようとした途端に収録が始まってしまい、結局詳しく聞けずじまいだ。
空調設備によりエントランスは快適な温度に保たれている。誰ともすれ違うことなくエレベーターに乗り、自分の部屋がある階で降りた。
スタジオ近くのホテルを転々として過ごしていたため、自分の部屋の扉を開けるのも久しぶりだ。
「ただいま戻りました」
独り言に返ってくる言葉はない。しんと静まり返った部屋は不在にしていた時間の分だけひんやりと冷えてしまったようだ。照明を点けて、真っ先に寝室へと向かった一織はそのままベッドへ倒れ込んだ。
「……疲れた」
その場で上着だけ脱ぎ、しかし片付ける体力はもう残っていない。思考は鈍く、掃除はしてあるからとざっとたたんでベッドボードにかける。
「甘えたい……」
思わず出た一織の言葉を陸が聞いたならば、どう思うのか。
驚きつつも思いきり甘やかしてくれるだろうか。昔よく言っていた「一織は年下だから、年上のオレがいっぱい甘やかしてあげる」という言葉が懐かしく思う。
「年上のあなたが年下の私を甘やかして」
今ならすらりと口に出せるのに、受け取ってほしい相手はここにいない。言葉にしてしまったせいか、寂寥感を覚えた一織はそっと瞼を閉じた。
明日天気が良かったら、布団を干そう。
いつ陸がここに来てもいいように。
寝返りを打ったタイミングで冷たい空気が布団の中に入り込んだ。秋というには冷たすぎる。
間近にあったあたたかなものを自分の方へ引き寄せるとびくりと跳ね上がった。さらさらした細い毛のようなものが鎖骨を撫でる。
「……は?」
「おはよ」
鮮やかな赤の双眸が見えた。きらきらと眩い光をしばらく見つめた一織は目を細めて、呟く。
「……なるほど、夢か」
「うん? って、寝ちゃうの」
「はい。夢なので」
わざと少しだけ開けてあるカーテンの隙間から陽はいっさい差し込んでいない。夜は明けて空は白く、そろそろ淡いオレンジに染まるのだろう。
そんな時間だ。まだ始発も動いていないのに、陸がここにいるはずがない。重たげな瞼を下ろし、しかし抱擁は強めた。
「会いたい、と願ったから……都合のいい夢だろうな」
「……会いたいって思ってた?」
「ええ。七瀬さんに会いたかったし、抱きしめて眠りたかった」
「今、現在進行形でしてるよ」
「さすが私の夢。パーフェクト七瀬さんだ」
「パーフェクト七瀬さん……」
返答の解釈が一致している。
首筋へ顔を寄せると石鹸のかおりがした。浴びたばかりなのか、一織にとって都合良すぎる夢だ。
「もしかして甘えたい気分」
「ええ……なので、甘やかしてください」
「いいよ」
ぎこちない手つきで頭を撫でられる。かと思いきや、さらさらーと楽しそうな声とともに大胆な手つきへと変わっていく。
もっと甘えてもいいだろうか。どうせこれは覚めるまでの、束の間の夢の話だ。
「それから好きって言ってください」
「結構欲張り?」
「だめですか?」
「ううん……一織、好きだよ」
はちみつ入りのホットミルクのような、やさしいあまい声で一織への好き、を紡いでくれる。
「キスしてください」
「ふふ、仕方ないなあ」
唇が至るところにふってくる。頬に、鼻先に、額に、首筋にも。くすぐったさと多幸感にくすりと笑うと、拗ねたような声が聞こえてきた。
「こどもっぽいキスだな、とかそんなこと思ってるだろ……」
「いえ。可愛らしいな、と」
「もうっ……目、開けちゃだめだからね」
「はい」
続いて唇にやわらかいものが押し当てられた。軽く啄まれて、舌が遠慮がちに唇を舐めていく。キスにしては少々拙いものだが、献身的な陸の姿に胸があたたかくなる。
「ふっ……くすぐったいのですが」
「それは一織がくすぐったがりやなんだよ」
「他には?」と問う陸に、一織は目を開けた。一織にとって都合のいい夢だとしても、これは彼の顔を見て口にすべきだと思ったからだ。
ほんのりと頬を赤らめた陸が小首を傾げる。頬を撫でていた手を掴まえて一織は口を開いた。
「一緒に暮らしたいです」
「……え?」
陸は困惑した表情を浮かべた。
夢なのにこの件については、自分の思い通りにならないようだ。
「どうして、今言ったの」
赤色の双眸が揺らぐ。同棲が嫌というわけではなく、陸は不安を感じているように思えた。
「貴方と過ごす時間がなくなって、寂しくなったからです」
「寂しく……って、一織が? 一織なのに?」
「過大評価してくださっているようですが、私もただの男ですよ」
陸に触れたいし抱きしめたい。たくさんキスもしたいし、勿論セックスだってしたい。
素直に言葉にすれば、目の前にある陸の顔が真っ赤に染まった。
「朝起きて一番最初に貴方を見ておはようを言いたいし、おやすみも一番最後は貴方がいい」
「い、おり……」
「貴方が先に眠っていたら、寝顔を見つめて同じベッドで眠りたい。次の日には恰好良くない私を起こしてほしい」
これは大きな我が儘だろうか。
同性間の結婚は法律上望めない。ましてや一織と陸は一般人ではなくてアイドルだ。
だからそのうえで望んだ。傍にいて欲しい、と。七瀬陸のおはようとおやすみを告げる、一番最初の権利を和泉一織は望む。
ささやかで慎ましい願いだ。誰にでも愛されるスーパースターを囲い込むこと。とても強欲なことなのかもしれない。
「嫌ですか?」
「……ずるいよ」
そんな聞き方。
見る見るうちに涙の膜が生まれていく。眩い瞳の色をさらに輝かせ、私のスーパースターは泣き顔も綺麗だなと身勝手な満足を覚える。
「嫌な、わけがないっ、でも」
「でも?」
掠れた声が一織の胸を震わせた。
──一織と恋人になれただけでも、すごい幸せだったのに──これ以上があるなんて。
「幸せすぎてこわい」
「ふたりでならどうにかなりますよ」
「一織とふたり暮らしって、贅沢すぎない? 大丈夫?」
「むしろささやかな幸福でしょう?」
零れ落ちた涙のあとをなぞる。陸の身体ならどこも甘そうだが、舌を掠めた塩辛さに現実めいた夢だなと笑う。
「オレもね寂しかったんだ。一織と一緒に眠りたかったし、キスも……えっちも、一織に触れられたかった」
眦に口づけて、少しだけ緊張しながら一織は口を開いた。
「それでは、一緒に暮らしていただけますか?」
「うん」
今のやり取りプロポーズみたいだった、と泣き笑いする陸の唇へ誓いのキスを落とす。
「どうぞ末永くよろしくお願いします」
「ずっと大事にしてね。おはようも、おやすみも一番最初に言うから、オレにも言って」
今度はどちらともなく顔を寄せてキスをする。
ふふっと笑う陸は可愛くて、目が覚めたら現実の彼にすぐに会いに行こうと思った。
「……リハーサルが完璧すぎると本番が不安になるな」
「リハーサル? 本番?」
「なんでもありません。もう少しだけ一緒に眠りましょう」
「はあい。おやすみ、一織」
「おやすみなさい、七瀬さん」
宣言通り一番最初におやすみを告げ、日が完全に昇り切った朝と呼ぶには遅すぎる時間。目が覚めて一番最初に陸からおはようを告げられた一織は即座に覚醒して、大幅な時間差赤面をしてしまうのだった。