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    アベミハSSもうとっくに好きになっていたあの日は今に繋がっているオレンジサイダーふにゃんふやんぼくらの××装着論争三橋廉の場合切ない手、愛おしい手時間差で照れるキミ酒は飲んでも飲まるるな、とは言うもののHOW TO MOSOもうとっくに好きになっていた

     発端は恋愛バラエティ番組だった。男女各四人、計八人をシェアハウスさせて恋愛に発展するのか、という内容のもの。
     たまたまテレビをつけた廉はぼうっとその番組を眺め、隣で昨日の試合のスコアブックを見返していた隆也の肩に自身の頭をのせた。みじろぎするたびすぐそばでやわらかな猫毛がちいさな音を立てる。
    「タ、タカヤくん」
    「どうした?」
     一緒に暮らすようになってからの廉なりの主張だ。かまって、という言葉と同等の意味を持つ。
     視線はそのままに隆也は問いかけると、頭を上げた廉が耳元へと唇を寄せる。

      ──十秒見つめ合うだけで好きになっちゃうんだって。
     
     たどたどしい喋りではなく、はっきりとした口調で言った。
    「は? くだらねえ」
     隆也は一蹴したが、「そんなことないよ」と珍しく廉の方が引かなかった。
     検証したい、と言う廉の主張になんだかんだ甘い隆也はそれを受け入れた。
     十秒間お互いを見つめ合う。
     どうせ、先に逸らすのは廉の方だと思いながら。

     スコアブックをテーブルに置き、向かい合う。
    「た、タカヤくんっ、今から十秒間は、目っ逸らしちゃだめだよっ」
    「おー」
     白い頬を紅潮させじいっと隆也を射貫く廉の眼差しはどことなく力強い。
     マウンドで見せる表情に似ていて、けれど赤く色づいた顔はどことなく色気がある。
     おどおどと挙動不審な姿よりも断然良い。普段からこうであれば、と隆也は思ったが口にしない。何故なら、落ち込むか拗ねるか、もしくは涙ぐむからだ。
    (こいつ、すぐ泣くからな……)
     泣かせたいわけではない。が、廉はよく泣いてしまう。
     大きな目いっぱいに涙を湛えて、子どものように泣かれると隆也はどうしていいかわからなくなる。
     だから今浮かべている強気な顔は隆也好みだった。
    「じゃあ、今から十秒間」
    「見つめるだけでいいのか?」
     廉は小首を傾げた。計算ではなく本当に隆也の言葉の意味が解っていないらしい。
    「十秒間見つめると好きになる、から」
    「手とか繋がなくていいのかってことだよ」
     バッテリーという関係性から恋人という関係性に変化してから二年の月日が経った。
     キスやそれ以上のこともしている。なのに隆也の発言に廉は動揺したように首を大きく横に振った。
    「つ、繋がない、よ」
     触れれば廉が緊張しているのか、安心しているのか一目瞭然だ。
     安心までではなくとも、せめて前者でなければいい。
    (未だにわかんねーとこあるしな)
     観察するように廉の赤い顔を見つめる。すると廉も大きな目を眇めてじいっと見つめ返した。
     隆也のキツイ眼差しを向けられても色素の薄い瞳は揺れない。怯えると視線をあちこち彷徨わせる廉だが、マウンドに立っている時のように隆也を射貫く。キャッチャーマスクで遮られていない分、廉の虹彩がはっきりとわかった。
     四秒。五秒。
     見つめ合っているだけなのに全身がかっと熱くなった。
    (うわ、なんで今さら)
     十八・四四メートルの距離。サイン後は互いの顔をじっと見つめ合っている。
     投げられるか。嫌ではないか。不安に思わないか。
     戦う意思はあるか。
     言葉が届かない距離だから、投手と捕手は目で会話をする。隆也は廉を見つめることに慣れている。廉も同じだろう。
     六秒。七秒。
     なのに何故、隆也の心臓は早鐘を打っているのだろうか。
     目の前の廉から逸らすこともできない。
     十秒という時間がひどく長く感じる。十秒間なんて、あっという間の秒数だ。
     九秒──十秒に差し掛かったところで廉の唇がゆっくりとひらく。音はなく、三文字の何かを形どって、それから嬉しそうにはにかんだ。
     自分の顔だ。鏡を見なくともわかる。
     みっともない顔になってしまったのは、廉の不意打ちのせいだ。
    「……ふへ、タカヤ顔、真っ赤だ」
    「てめー……それは卑怯だろ」
     廉の口はストレートな想いを示した。「好きだ」と。
     それは十秒間見つめ合ったからなのか。
    「そもそも見つめ合わなくても好き同士だから意味ねーよ」
     好き合っている者同士に効果なんてあるはずがない。
     わざわざ検証したい、と言ったのはスコアブックばかり夢中になっていた隆也にかまってのサインだったのかもしれない。
    「も、もっと好きになった、よ?」
     遠慮がちに手のひらが合わさる。初めて合わせた頃はあまり大差なかったが、七センチの身長差ということもあり今では隆也の手の方が大きい。
     投手らしくタコができた廉の手は熱かった。
    「随分余裕あんな」
    「え、オレっ、心臓いっぱいいっぱい……」
    「嘘つけ」
     なんて言った隆也の言葉の方が嘘だ。
     こまった表情を浮かべる廉の手を握って拘束する。びくりと跳ね上げた身体を押し倒して、隆也は悪い顔で笑った。
    「え、あ、き、す?」
    「ああ。もっと好きになったからしかたねえよな?」
     上から低く囁けば色素の薄い瞳はじわりと濡れ、期待するように揺れた。唇がうすくひらく。熟れた赤りんごのような頬を撫でると、濡れた瞳がとろりと蕩けて隆也を誘う。
     ぞくりとした何かによって首筋が炙られる。次の試合とか、練習とか、そういうものが一旦抜け落ちて、隆也の思考は目の前の恋人でいっぱいになった。
    「ん、う、シテ?」
     十秒以上見つめ合ったふたりの唇が重なり合う。
     見つめ合うだけで好きになる、は間違いではなかったのかもしれない。
     一瞬だけ考えて、すぐに隆也は蕩けた瞳とやわらかい口づけに夢中になった。
    あの日は今に繋がっている

     三年間バッテリーを組んでいたものの阿部はあまり三橋のことを理解していなかったと思う。
     噛み合ったり、噛み合わなかったり。その時々で、田島のように彼の言いたいことを素早く察せない。
     無意識下で抱きこんだ腕に力を込める。するとぐくもった小さな呟きが聞こえてきた。
    「タカヤくんにっ、ぎゅっとされるの、スキだ」
     阿部の胸に顔を埋めた三橋の呟きはいつもよりもふにゃっとしていた。あたたかな体温からわかることは彼がリラックスしているということ。
    (成長したってよりも、慣れたって方か)
     あの頃はどんなに阿部が三橋の世話を焼いたところで、今のように彼の本音を引き出せなかった。
     おどおどと話す三橋から尊敬の念は感じていた。信頼もまたあった。だけどマウンドから下りると上手く言い表せない距離感が、阿部と三橋の間にはあったように思う。
     阿部を怖がって、自分の意見を口にできなくて、けれども投げることはやめない。マウンドへの執着は人一倍あった。
     そして自己主張しない投手は阿部にとって都合のいい投手だった。高い制球力に四種類の変化球、それからまっすぐ。捕手の配球次第では金の卵にもできた。
     性格に目を瞑ればいいと譲歩した。三橋の制球力は使える、と思ったし、どうであろうと上手く使う、とも思っていた。
    (今振り返ると傲慢だよな)
     つくしてやりたい、と初めて思った。
     三星との練習試合の前、蹲って泣いている三橋の、凍り付いたような冷たい手を握って、そう感じた。
     努力している三橋を、三橋の努力を理解して、初めて力になりたい、と思った。
    (オレが捕手をやっていなかったら)
     ──三橋廉が投手ではなかったら。
     おそらく交差することはなかった。ただのチームメイトで、会話も最低限だっただろうとも思う。
     そう思うと、現在の自分達の関係は奇跡のようなものだ。
     こうして腕に抱いているのは別の人だったのかもしれない。
    (想像できねえな)
     三橋以外の人間と暮らす自分の姿はまったく想像できない。想像する気さえない。
    「レン」
     背中を軽く撫でるとうひ、と妙な笑い声が聞こえた。恋人の笑い方は独特的だ。
     再度名前を呼ぶも三橋は顔を上げなかった。泣いているわけでも、悲しい顔をしているわけでもない。
     意外と甘えたなところがあって、寂しがりや。
     けれども感情表現が下手で、イライラさせられることも未だにある。
     恋人という関係に変わっても阿部はまだ三橋のことを理解しきれていない。
    「なあ」
     呼びかけると胸に顔を寄せていた三橋がおずおずと顔を上げた。色素の薄い瞳でじっと阿部を見つめる。
     何となく子犬を抱いている気分だ。ふわふわした猫毛がくすぐったい。
    「なに?」
    「退屈じゃねーの」
    「う?」
     ふたりで昼食を済ませた後、阿部はタブレットのアプリを使用して昨日の試合を見返している。だから三橋と会話をしていない。
     三橋はそんな阿部の膝に座り、胸に顔を埋めて黙っている。
     穏やかな休日で、何もしない時間だ。そういう時間を阿部は心地よく思っているが、三橋はどうだろうか。
     かまって、と一言でもねだれば、阿部は見ているアプリを今すぐ閉じて三橋に向き合う。むしろ、何かをしてやりたい気分だ。
    「全然、退屈、じゃないよ」
    「そうなのか?」
     三橋は大きく首を縦に振った。
     おおげさな仕草に阿部は緩みかけた口元を引き締める。
    「一緒にいるだけで、しあわせだ」
    「……してほしいことねえの」
     細くやわらかな髪を梳くと白い頬が紅潮する。ふにゃあっと力が抜けた笑みを浮かべた三橋は甘えるように広い肩に額を擦りつけた。
    「あ、るけど」
    「何?」
    「う……キス、してもいい?」
     あまりにも小さな声なのに、顔を胸に押し付けていたせいでくぐもっていた。掠れた語尾がTシャツに吸い込まれる。しかしぴたりとくっついていたので阿部の耳に届いた。
     タブレットから視線を外した阿部は形の良いつむじを見下ろす。その位置からかすかに見える耳と首筋は真っ赤に染まっていた。
    「レンからしてくれんの?」
     揶揄うように問えば、勢いよく顔が上がった。
    「う、うんっ、オレがする」
     羞恥からか三橋の大きな目は潤み、くらりと倒れそうなくらいに顔が赤い。
     それでも三橋は視線を逸らすことなく阿部を誘う。小さな唇にうっすらとひらき、頭で考えるより先に阿部が顔を寄せると、かたいものが唇に触れた。
    「ダ、ダメっ……! オレがする、から」
     むうっと拗ねたような三橋の表情はまったく怖くない。むしろその逆で、普段従順な恋人が逆らうと従わせたくなってしまう。
     捕手というポジションによる性質もあるかもしれない。
    「お、怒った?」
    「……いや」
     怖がっている三橋を安心させるように腰を抱いた手の力を強める。タブレットへと視線を戻すと、息をつく音が聞こえた。
     熱を持った唇が頬に押し当てられる。耳朶、鼻先、首筋。それから服越しの心臓へと。
     小さなリップ音を立てて、与えられた熱はすぐに阿部の元から去っていく。腕にも押し当てられて最後に触れた箇所は左手の指先だった。
    「この手も、好き」
     たったそれだけの触れ合いなのに、阿部の心臓は三橋の球を初めて捕った時のように大きく跳ね上がった。
     満足したのか、小さく息をついてまた阿部の胸に寄りかかる。ふう、と洩れた吐息は熱い。唇が触れた箇所からじくじくと熱が生まれて、阿部の体温を上げていく。
     いじらしい告白と、肝心なところへと触れない恋人のせいでもう振り返りするどころではなくなった。
     タブレットを机の上に置く。離すタイミングが少し早かったせいで、ぶつかるような音が小さく跳ねた。
    「それだけ?」
     まだどうやら自分たちには相互理解が足りないらしい。
    「それ、だけ……? ……えっ、あ、いっぱいしたよ!」
     満足げにきらきらと目を輝かせる姿はかわいい。
     小動物のような仕草を見せる三橋を怯えさせないように阿部はにっこりと笑った。
    「好きなのは、ボールを捕るオレの手だけか?」
    「え、ちがっ」
    「じゃあ、今度はオレの番だな」
    「え……っ、えあっ、まっ……んうっ」
     時々イライラさせつつも、いじらしくかわいい恋人に理解させるため。それから触れたい、のだと知らせるため。
     少し強引に三橋へと口づけながら阿部は腕に抱いた身体を強く抱きしめた。


    オレンジサイダー
     ふいに飛び出した言葉は三橋自身が制御していた想いだった。
     両手で必死に押さえていたのに。
     なのに三橋の心は身体を裏切った。
     もう取り返しがつかない。目の奥が熱くなり嗚咽とともに上がってくる切なくて悲しい気持ちが、涙とともに零れ落ちた。
     そうしてチームメイトが言っていたある言葉が頭をよぎる。
    『恋は落ちるもの。そして落ちたら自力じゃ抜け出せない』
     そのとおりだと思う。
     みんなで言い聞かせて恋愛禁止にしたのに。気づいていたのに。心の奥底に鍵をかけて仕舞ったのに。
     うっかり恋という穴っぽこに落ちた三橋はひとりで上がれない。


     それは二年目の夏の終わりだった。
     息抜きしようぜ、と田島から夏祭りに誘われた。
     友達と夏祭りなんて初めてで、答えを返す前に母親に確認すると快く了承が出た。ついでに「せっかくだから浴衣を着よう」と父さんが昔着ていた浴衣を取り出し、嬉しそうに着付けてくれた。
     勘違いしていたのかもしれない。友達の中に女の子がいるんじゃないだろうか、と。
     特に母親は篠岡のことを気に入っている。三橋も良い子だと思っている。
     実を言うと三橋は女の子が苦手だった。マネージャの篠岡はそこそこ普通に話せる。だけど応援にくる女の子やクラスメイトの女の子は三橋にとってよくわからない存在だった。
     少し高い声で呼びかけられると身体が硬直した。阿部の怒鳴り声とは違う種類の緊張で、間に入ってくれる田島や泉、あしらってくれる阿部がいてようやく息ができるようなものだった。
     父親の浴衣を着て、下駄も、と用意されては履かないという選択肢はない。
     覚束ない足取りで待ち合わせ場所へと向かう。
     さすがにコケることはなかったけど、何度か躓いた。スニーカーを履いた同い年くらいの子はゆっくりと歩く三橋を追い越して、綺麗な浴衣を着た女の子は動きにくそうに小走りする。みんな楽しそうに歩いていた。
     少し前の三橋なら羨ましく思いながらひとりボールを投げていただろう。
     中学の頃も野球をしていたはずなのに、ひとりで過ごす時間の方がずっと長かった。
     だけど今は違う。三橋の球を捕ってくれて、エースにしてくれる捕手──阿部がいる。
     打たれても守ってくれるチームメイトがいる。点を取られたら、取り返してくれる頼もしい味方がいる。
    (恋愛なんかよりも、野球してる方が楽しいんだ)
    「レン! こっち」
    「レンは浴衣かー、似合ってんな」
    「ユーくん、コースケくん」
     待ち合わせ場所に辿り着くとふたりはTシャツにジャージと動きやすい恰好だった。三橋だけが浴衣で、何だか楽しみにしていたみたいで少し恥ずかしい。似合うと褒められて、とても嬉しかった。
    「はぐれるなよ」
    「う、うん」
    「レンじゃなくて……おいこら、ダッシュするな!」
     屋台へと向かってダッシュする田島を追いかけながらも、不安定な歩行の三橋へと振り返る。
     三橋がふたりに追いついた頃にはすでにたくさんの食べ物をぶらさげていた。
    「レン、タコ焼き食べるよな」
    「おお!」
     焼きそば、タコ焼き、から揚げ、肉巻きおにぎり。ご飯ばっかりを選んでしまうのは、日ごろのクセなのかもしれない。あ、かき氷、と叫んだ田島を止めたのはこの三人の中で兄貴役のやっている泉だった。
    「今買っても溶けるから、今持ってるの食べ終わってからにしろよ。びしゃびしゃになるだろ」
    「それが夏祭りのダイゴミってもんだろ」
    「ダイゴミ、わかる、よ」
    「だよなー」
    「何でもいいから座って食べようぜ」
     休憩できるスペースを見つけてその場に座り込む。いつもみたいな大きな声での「うまそう」はちょっと控えめにしつつ声をそろえていただきます、を述べた。
      少し冷めてしまったものもあったが、祭りという非日常と友達と過ごす時間もありどれも美味しく感じた。
     あっという間に両手いっぱいに抱えていた食べ物は三人の腹の中におさまった。
     一服着く間もなく食べ足りない、と言いながら立ち上がった田島の後を食事ゴミを片付け終えた泉が追う。
     三橋も慌てて立ち上がる。普段であれば問題なく追いついているはずだが、慣れていない下駄とこちらに向かってくる人混みでふたりの姿を見失ってしまった。
    「どうしよ……」
     呆然としている三橋の肩に人の肩がぶつかる。突如脳内に出てきた阿部が「バカっ!」と怒鳴る。急いでぶつかってきた相手に謝って、人混みから離れた。
     ひたすら人の少ない方へと歩く。カランカランと舗装された道によって足元から涼しげな足音が聞こえてくるくらい、静かな場所に出ることができた。
     三橋以外にもちらほら人の姿がある。特に男性と女性が寄り添い合っているのを見てしまい身体が固まる。手を繋いでいたり、抱き合う姿に自分の目を覆う。キスでもしているのだろうか。リップ音と吐息交じりの小さな声に俯いて、目を覆った手を外す。
     気まずい。
     周り一面カップルや友達ばかりで三橋だけがひとりで呆然と立っている。さっきまでの楽しかった気持ちがしぼんで一気に寂しくなった。
    「……あ、携帯」
     連絡手段があったことを思い出して、急いでスマートフォンを取り出すも画面上部には「圏外」の文字。つまり電話もメッセージも送れない。
    「はぐれるなよ、って言われてたのに……」
     しょぼしょぼした気持ちで大きなため息をついた瞬間肩をぽんっと叩かれた。
    「っ、わわあ!!」
    「おわっ! テメーびっくりさせんなよ」
    「た、た、タカヤくん……?」
     突如現れた阿部の姿に三橋は何度も瞬きを繰り返す。
     怒っている顔の阿部にいつもならびくりと肩を跳ね上げるところだが、見知った人に会えた安心感からぼろっと涙が零れた。
    「ど、どうした?」
    「ユーくんと、コースケくんと、オレ、いなくて」
    「あ? まずは落ち着け、でゆっくり話せ」
     たとたどしくもふたりとはぐれたことを説明すると阿部は大きなため息をつく。
     呆れられてしまったのだろうか。
     そう思ったら悲しくなり、一度は止まっていた涙腺がゆるみ、勢いよく崩壊する。
    「オメーに対してじゃねえ……てかレンも迷子になってんじゃねえよ」
     泣き続ける三橋の背をぽんと撫でた阿部がぼつりと呟く。
    「あー……ハンカチとかねえから、悪いけどこれで」
     とん、と顔が何かにぶつかった。
     慣れた手触りのそれの正体がわからず、少しだけ心音が遠くの方で聞こえた。
    (え、えっ……え)
     答えに気が付いた三橋の心臓は聞こえてくる心音よりも駆け足になる。トクンットクンッと鼓動するそれを追い抜くように。
     蟀谷から汗が滴り、阿部のシャツへと染み込んだ。
    「鼻水はつけんなよ」
    「っ、つけない、よ」
     どうしよ、どうしよ、と頭の中で慌てた自分の声が聞こえてくる。慌てているのは自分だけで、最適な答えを出すこともできない。
     誤魔化すように鼻を啜ると、洗剤と混じって汗のにおいがした。吸い込んでしまい、くらくらと眩暈がする。
    (タカヤくんの、におい……スキだ)
     暑い中の練習中、グローブの皮のにおいと混ざるたび、自分は今誰かと野球をしているのだと改めて思う。
     好きな人、だからなのか。阿部のにおいは三橋を安心させ、酩酊にも似た感覚を与えた。
    「レン?」
    「っ、まだ、だめ」
     じわじわと全身に熱が巡る。この暗闇でも誤魔化せないほどに顔が熱い。
     頭に何かが触れる。一瞬だけ触れて、遠ざかったように思えた。
    「……花火上がっちまうだろ」
    「う、うん」
     阿部が身体を離す。すぐに背を向けてくれたおかげで真っ赤な三橋の顔は見られていない。
     離れていく温度にホッとした。
     遠ざかった心音に名残惜しく思った。
     少し距離を取ったまま三橋が歩き始めると阿部が足を止める。
     離れんなよ、と掴まれた腕に心臓がまた大きく跳ね上がった。
     ああ、もうダメだ。
     だってもう隠しておけない。三橋の心はここから出たい、と叫んでいる。
    「ス、キ、だ」
     たった三文字。それでもたどたどしく飛び出した言葉を耳にした途端、破裂音が響いた。
     宵闇を打ちあがった光が阿部と三橋を照らす。
     観客たちは歓声を上げて、間髪入れずに次々と花火が上がる。
     そんな中、まるで夢から覚めたように三橋の熱はさっと引いた。
    (オレは今、何を……)
     しまった、と思ってももう遅い。
     阿部はこんなにも近くにいるのだ。聞こえていない、なんて希望を持てない。
    (落ちないように頑張れなかったから)
     普通に捕手として阿部のことが好きだったら問題なかった。
     だけど三橋は想像してしまった。
     ボールを捕ってくれる手で甘やかされることを。
     投手じゃなくても、好きだと言ってくれた言葉を胸の奥に仕舞っていた。
     阿部に大切にされて、恋に不慣れな三橋はころっと落ちてしまった。
    「は、はなして」
     逃げてしまいたかった。逃げたところで、もうどこにも行く場所なんてないとわかっていても、今は阿部の前から逃げたい。
     恥ずかしくて、悲しくて、情けなくて、切なくて。
     もう二度と阿部に捕ってもらえないかもしれない、という恐怖で涙が溢れた。
     必死に嗚咽を殺しながら、掴まれた手を振りほどこうとする。けれども圧倒的に阿部の方の力が強く、三橋は逃げることすら叶わない。
    「離れんなよって言っただろ」
    「っ、ひ、どい」
     強く腕を引かれ、阿部の胸に飛び込む。後頭部を押えられてTシャツに顔を埋めると、「逃げないでくれ」と弱々しい声が降ってきた。
     三橋の気持ちを知ったうえでの言葉だ。
     慰めるようにぎこちなく髪を梳く無骨な手が憎たらしくて。気持ちに応えないのに、名前を呼ぶ阿部が切なくて。
     
     三橋の初恋はこの夜に終わってしまった。


    ふにゃんふやん

    「ふにゃああっ……べくんっ」
     うへえええ、と阿部の胸に顔を擦りつけて三橋が笑っている。完全に出来上がっていた。
     卓上はすでに空になった缶が転がり、その数は五本。阿部も飲んでいるが、半分以上は三橋が勢いよく飲んでしまった。
    「レン」
     酔った三橋はタチが悪かった。阿部が怒っても笑うし、優しくしても笑う。泣き上戸よりはマシか、と思ったがやっぱりマシでもないと思い直したところだ。
    「阿部くんじゃねーだろ」
    「んうー? ……あっ! タカヤくんっ!」
    「っ……」
    (かわいいな?)
     白い頬を赤らめて三橋ははにかむ。
     酔っているからか阿部にびくつくこともないし、挙動不審にもならない。
     にこにこ笑ったり、ふにゃってして小動物みたいだ。大きい目でじいっと見つめられて、タカヤくんとあまい声で呼ばれるとドキッとしてしまう。
    「タカヤくん、なんか顔赤いよ?」
    「それはオメーの……」
     格好悪すぎて、言えるか。
     すべては警戒心ゼロで完全甘えたモードのせいだった。
     もともと三橋は阿部に甘えない。学生の頃から面倒を見てくれていた田島や泉には甘えたりするが、捕手であった阿部にはそんな態度をいっさい見せない。
     昔も今も一番近いところにいるはずなのに、三橋は阿部を頼りにしても、甘えない。
     三橋に対するイライラは彼のおどおどした態度だと思っていた。
     だが、今思い返せば嫉妬も含まれていたのかもしれない。
    「タカヤくん? 怒った、か?」
     眉を下げたレンはおそるおそると言うように阿部の顔を覗き込む。口が開いていて、まるで雛鳥のようだ。
     かわいい。だが可愛らしさとは裏腹にアルコール臭がキツい。
     まだ未成年に見える彼の酔った姿というアンバランスさに阿部は頭がくらくらした。
    「怒ってねえよ」
    「じゃあ、キスしてもいい?」
    「ああ……あ?」
     肯定したつもりはなかった。
     三橋が普通に喋っていることに驚いたり、水を飲ませようと考えていたせいで、阿部の相槌はあやふやなものになってしまった。
     キスはわかる。なんでキスしてもいい、なのかはわからない。そもそも阿部と三橋は恋人同士ということではなく、阿部は三橋の女房ではあるが、それは捕手の別名のようなものであり、抱き上げたことはあるが、キスはまだしたことがなかった。
    (いやいや、まだってなんだ)
     三橋よりも阿部の方が体格が良い。つまり拒絶することもできた。
     しかし阿部は三橋のことを少なからずそういうふうに好いており、好奇心もあったし、何よりチャンスだとも思った。
    「目ぇ閉じろよ」
    「オ、オレがするよ?」
    「ダメだ。怪我したくないしさせたくねえからよ」
     つまりこの時も阿部も酔っていたため、意味不明の理由を述べていることに気が付かなかった。三橋はもっと酔っていたため「うん!」と頷いて素直に目を閉じた。
     かわいすぎるのでは?
     ときめくどころか逆に不安になる。自分がいない時には絶対に飲むな、と言い聞かせようと決めてから阿部も目を閉じた。
     顔を近づける。だんだんとアルコールのにおいが近くなり、感覚的にもう少しで触れられるとわかる。熱い呼気が唇を掠めた。
    「レン……」
     小さな声で三橋の名前を呼んだ瞬間勢いよく肩に何かがぶつかった。阿部の唇に触れたのはふわっとした柔らかな猫っ毛で、目を開けると三橋は船を漕いでいた。
    「こ、コイツ……」
     無防備な顔で眠っている姿もかわいい。が、煽っては放置するという三橋が憎たらしくもある。
     朝起きて歯を磨いた後、二日酔いで三橋が呻いて涙ぐんでいても、絶対キスをする。
     触れるだけのかわいいものではなくて、それこそ朝に不釣り合いの濃厚なキスだ。そうして「な、なんで」と涙目で困惑するであろう三橋に言ってやろうと思った。
     最初に煽ったのはお前の方だから、と。
     
    ぼくらの××装着論争 オフシーズンと互いに忙しく予定が合わなかったこともあり、ベッドを共にするのは久方ぶりだった。
     風呂上りのミルク石鹸の香りを纏わせてながら、阿部の部屋着をちゃかりと着た三橋を押し倒したのは一時間程前のこと。
     緊張から強張った身体中にキスであやすとくすくすと笑う三橋がかわいくて。鍛えているものの阿部と比べると薄い胸を撫でると三橋はあまやかな嬌声を上げる。
     がっつかないように、怖がらせないように触れていく。
     キスをねだる三橋が自ら口を開いた時は頭が茹だった。舌を差し込んで搦めて、口の端から溢れたふたりぶんの唾液がシーツへと落ちる。息継ぎをすることすら忘れるように互いに貪り合う。
     かたくとじてしまっただろうと思っていたそこは三橋の努力により、ほんのすこしだけやわらかく、阿部を受け入れる前準備がほどこされていた。阿部の指を濡らしたのは風呂場に置いてあったローションだろう。
     くちくちと入れた指を動かしながら何故なのかと、わかっていながらも敢えて指摘すれば「だ、だって……タカヤくんに触れてもらえないのがさびしくて」と喘ぎ混じりの声で告げてくる。
     し迫り上がった何かを唇を噛んでぐっと堪え、冷静になろうと深く呼吸をしたのに続く三橋の「はやくつながりたい」とまっすぐな本音に阿部の理性は飛ばされた。
     触れていない箇所はもうないと思うほどに三橋の身体に触れ、ぐちゃぐちゃになる、と途切れ途切れの声に眩暈がする。
     それでもどうにかベッドボードに置いてある箱を取り出す。ゼロではないが、ほぼゼロに近い薄さのスキンを一枚摘まみ上げた阿部の手は三橋の汗ばんだ手に掴まれた。
     まさかここでやめて、とは言わないだろうな。
     嫌な想像をしつつも阿部は名前を呼ぶ。
    「レン?」
    「つ、つけないで」
     想像とは違う言葉に阿部は一瞬固まる。ゆっくりとレンの言葉を反芻した。
     つけないで。つまりそのままやりたい、ということで。
    「……あ?」
     思っていたより低い声が出てしまった。怯えたように目を泳がせた三橋はそれでも掴んだ手を離さない。
    「ダメだ」
    「ちゃ、んと洗ったよ!」
     綺麗にした、と珍しく退かない恋人に阿部はそういうことじゃない、と首を横に振る。
     潤んだ目で訴えるのはかなりずるくないだろうか。
    「負担がかかるからダメだ」
    「明日やすみ……」
    「そういう問題じゃねえよ」
     阿部は三橋を投手としても、ひとりの恋人としても大切にしている。
     受け身側である三橋の体調を考慮するのは当たり前であり、セーフセックスはふたりで決めたルールのひとつだ。
     三橋もそれを理解しているはずで、普段なら阿部が装着したことを必ず確認する。
     同性だから妊娠という問題は存在しない。お互いの身体しか知らないため性病というリスクもない。
     けれどそれでも受け身の方に負担がかかる。本来入れる場所ではないのに性器を入れられて、射精される。
     女性ならば妊娠するか、しないかだが、男性はそのままにしていると腹を壊してしまう。
    「仮に着けずにヤったとして、オレは外に出す自信ねえぞ?」
     中で出されたくないだろ、と阿部らしかぬ遠まわしの気遣いもふわふわ天然系には通じない。むしろ直訳すれば、掻き出して、と言われてしまい阿部の性器が大きくなった。
     正直めちゃくちゃ辛い。何がというと今の状況である。
     三橋に関してはやや短気ではあるが理性的であろうと努めている。しかし阿部も男だ。好きな子に「着けないで」と言われたら、そのまましたいに決まっている。
    「何でナマがいいんだ?」
     今まで一度も三橋がそのようなことを言い出すことはなかった。
     何か悪い影響でも受けたのではないか。特に田島あたりとかから。
     AVでも見たのだろうか。まさか田島とか泉と一緒に鑑賞していたら、それはもはや浮気である。
     上気した頬、とろりと蕩けた瞳、艶めかしい吐息。こんな恋人の姿を見られたい男はいない。
    「た、タカヤくんが大切にしてくれてるのわかってるけど、オレもタカヤくんをもっと良くしたい」
     掴んでいた手を離し、その代わり阿部の熱へと指を伸ばす。硬い指先で切なげに撫でられて、ぞくりとしたものが首筋に走った。
     あまい色をした三橋の双眸は熱っぽく、阿部だけを映している。
    「だ、だめ?」
    「……くそっ」
     どこで覚えたのだろうか。阿部を煽る方法を。切なげな表情も。
     汗で滑る避妊具を放り投げて三橋の腕を掴む。数回扱かせて離すと三橋の瞳が期待で揺れた。
    「泣いてもやめてやらねえよ」
    「な、泣かないよ!」
     挑むように睨んでも三橋は怯えない。
     にこっと笑う恋人に心の中で苦笑しつつも、押し倒して乗り上げた阿部はそっと三橋の唇を吸い上げた。

    三橋廉の場合
    「っあ、は……オレも着けていい?」
     熱烈に盛り上がった夜の数日後、三橋は自分用に買った避妊具の箱を取り出して小首を傾げてみせた。
    「ああ!?」
    「だ、だめ、デスカ……」
     ドラッグストアで人の目を気にしながら自分のサイズを探して、トイレットペーパーや洗濯洗剤、買う必要のなかった石鹸までカゴに入れてレジへ行ったのだ。
     まさか反対されるとは思っておらず、しゅんと眉を下げた三橋に阿部はしばらく唸り、やがて観念したようにぽつりと呟いた。
    「……つまり、いれてえってことか?」
    「いれ? え……えっ!?」
    「わざわざ買ったってことはそういうことだろ」
     自分の貞操の危機だというのに阿部は意外にも冷静で、三橋の方が困惑してしまう。
    「た、タカヤくんは入れてほしい、の?」
    「んなわけないだろ!!」
     久々に聞いた恋人の怒鳴りに慌てて耳を押さえる。ううっと涙ぐむと阿部はバツが悪そうな顔で三橋の頭を撫でた。
    「まあ……どーしてもってなら考えるからな」
    「タカヤくん……オレはタカヤくんの……ここにあるの嬉しい、よ?」
    「ああ? だったらなんで着けたいんだよ」
     脱線事故からようやく復旧できたものの、三橋の意図がわからない阿部はシーツの上に転がった箱を掴む。
     まじまじとサイズを見られていることに恥じらった三橋は俯き、口を開いた。
    「で、でちゃうのハズカシイ、から」
    「なにが?」
    「せ、せーえき?」
     厳密に言うならば先っぽから漏れるものすべて、ではあるが。
     阿部の引き締まった腹筋を自分の精液で汚してしまうのが居た堪れないし、何より達したことがバレバレなのは恥ずかしい。
     たどたどしく説明すると、阿部は脱力した顔で大きなため息をついた。
    「なるほどな」
    「あと、なんかヘンなの漏れちゃうのが怖くて」
    「……あ?」
     扱かれてイった後に触られると気持ちいいを超えて怖くなってしまう。
     ぐちゅんっと聞こえてくる違う種類の濡れた音に失禁してしまうのではないかと不安になる。
     もしコンドームを着けていたら、漏らしてもそれは自分だけが気持ち悪さに耐えればいいし、阿部やシーツを汚すことはない。
    「えと、だから、着けてシたいなって思ってて」
    「レン」
    「た、タカヤくん」
     耳元で囁かれた言葉は三橋の想像を超えるもので。
     男のスイッチを入れてしまったことを理解していない三橋はいい笑顔の阿部に押し倒され、買ったばかりのコンドームの箱はベッドから落とされる。
     新しい快感の扉を開かされ、恥ずかしさと気持ちよさで泣き続けた三橋は阿部に「一ヶ月の間エッチ禁止」を言い渡したのであった。
    切ない手、愛おしい手
    「っ……ん……あ」
     おかしい。
     だって、触れられているのは右手だけなのに。
    「う……っは、んっ、あ」
     ごつごつしたかたい手が後ろから抱き込まれた三橋の手の甲を滑る。投球後のマッサージとは違う力加減で触れるか触れないか。のもどかしい接触なのに剥き出しの神経を触れられている感覚がずっと走っている。脈を打つ心臓が内側から胸を叩いているから痛い。走り込んだ後のように息が切れて、酸素を吸う為にきつく結んだ唇がゆるんだ。
    「ああっ……ンッ」
     そうしてみっともない声が零れる。こっそりと田島に見せてもらったアダルトビデオとは違う種類の嬌声だった。
     毛足の長いやわらかなラグにつけていた左手がずるりと滑る。それでも身体が崩れ落ちないのは後ろにいる阿部のおかげだ。
    「っ、唇噛むなよ……」
    「ん、んああっ」
     自分だけではないのだと、うなじにかかる吐息が知らせていた。生え際の産毛をくすぐりやがて湿る。
    「は……っ、レン」
     親指の付け根、隆起した骨の形を確かめるように触れた阿部の指がふたりぶんの汗で指の股を擦り上げる。
     阿部も三橋も、言わば年頃の男だ。性欲だって人並みに存在していて、けれどそれよりも大事なものがあるから最後まで踏み切れない。
     恋人の足の間にある同じ熱へと手を伸ばしたことも、まだない。
     合宿中や埼玉の銭湯では彼のものを軽く目にしたことはある。けれども恋人らしい触れ合い最中ではまだ一度も目にしたことがない。
    「くそっ……」
     悪態をついた阿部の口が、続いて三橋の口へと触れる。振り向かされて、ちょっと苦しかったが舌が差し込まれればもうそんなことを考えている余裕は三橋から消えた。
     窓を閉じているというのに外から蝉の大合唱が鳴り響いている。冷えすぎない、けれど暑すぎないように空調を設定してあるのに蟀谷から頬へと汗が伝った。水分補給に、と氷をいっぱいに詰めて注いだ麦茶のグラスがカランと鳴る。薄目でテーブルを見ると結露で表面が濡れていた。
     まるで今の自分たちを示唆しているように。
    「っあ……」
     かっと体温が上昇した。べったりと肌に張り付いたTシャツが不快だ。
     汗でびっしょりと濡れるのなら裸で抱き合いたいとも思う。
    「オレ……ぬ、ぎたい」
     触りたい。阿部に触りたいのだ。
     同時に触ってほしいとも思う。
     振り返り、潤んだ目で見つめて今度は直接的な言葉でねだった。
    「っ! 馬鹿っ……」
     駄目だというようにうなじに軽く歯を立てられる。それにすら感じた三橋は艶めかしい息を洩らした。
     じりじりと焦がすように、けれども明らかにそういう目的だと感づかすように触れ合いはいつの間にか終わりへと向かい、捕手らしい大きな手は繊細なピッチングをする手を搦め取る。
     レン、と今日一番の甘い声で呼ばれた。
    「夏が、終わってからだ……」
     もどかしさに涙が零れる。切なくて、苦しくて、けれども野球を一番に考える阿部が愛おしかった。
     応えるように、隙間なくぴったりと繋がれた手に力を込めた。


    時間差で照れるキミ 恋人に対して、末恐ろしと感じる場面が多々ある。
    「スキだ」
    「あ、ああ」
     彼の持ち味である『まっすぐ』と同様言葉もまっすぐ勝負に捕るべき阿部の方が照れてしまう。
     返球のように返せればいいが、恋愛は野球とは違う。ストレートとも違う、三橋特有のまっすぐは簡単に阿部を翻弄する。
    「タカヤ君?」
     すぐ涙を浮かべる泣き虫に、不安そうにきょろきょろと目を泳がせての挙動不審。かと思えばにかっと可愛く笑って、そうこうしているうちに耳まで真っ赤に染め上げていたり。
     出会った頃はびくびくと怯えていた小動物のような投手が、蜂蜜色の瞳にいくつもの表情を浮かべて隣に居てくれることを阿部は思いもしなかったし、考えてすらいなかった。
     高校野球三年間だけのバッテリー、高校二年目まではそういうものだと思っていた。
    「オレ、ちゃんとタカヤ君、スキだよ?」
    「おー……」
     あまり心の裡を晒さない阿部に対して、三橋は素直に気持ちを伝えてくる。前は絶対に自分の気持ちや考えを、一緒に野球している時ですら言わなかった。
     けれどバッテリーとして、間違えつつも少しずつ三橋は阿部に対して自分の考えを口にして、やがて怯えることもなくなった。
    (オレもレンみたいに好きって言うべきか?)
     少し気恥ずかしいが、恋人が喜ぶなら言ってやりたいと思う。しかしもう少しだけひたむきなまっすぐを黙って受け止めていたい。
     何が楽しいのかふにゃふにゃと笑う三橋の頬を摘まむ。そのまま伸ばすと大きい瞳をきょとんと瞬かせた。
    「……えへへ」
    「抓られて笑うのかよ」
    「タカヤ君にさわってもらへるの、うれひいから」
    「っ、……くそかわいいこと言うなよ」
     好きとか嬉しいとか、簡単に言わないでほしい。
     無防備に笑わないでほしい。
    「タカヤくん」
    「……襲うぞ」
    「え!」
     だから目を輝かせないでほしい。
     三橋にとって阿部に襲われることは嫌悪対象や恐怖ではないのだとわかってしまったから、阿部は三橋の頬から指を離した。
    「喜ばれると反応に困る」
    「ご、ごめん……?」
     しゅんとする姿にも可愛いと思ってしまう自分は重症である。ぐずぐずと泣かれるのは苦手だが、阿部の些細な行動で一喜一憂する三橋に征服感が満たされる。
     笑わせたいし、泣かせたい。
     他の奴には渡したくない。
    「謝ることでもねえよ!」
    「え、えーっ……あっ!」
     目の前で勢いよく赤らむ三橋の頬に気が付き、阿部の顔にも熱がうつる。
     蜂蜜色の瞳がじわりと濡れて、けれども視線は泳がない。投手らしい指タコができたかたい手を伸ばして阿部の手を握った。
    「お、襲ってほしいよ?」
    「お、おめーな!!」
     いっそ無防備な恋人にわからせてやるべきか、それとも紳士らしく堪えるべきか。
     繋いだ手から伝わる熱と、恥ずかしそうに、しかし何かを期待するように蕩けた蜂蜜色に阿部は考えることを放棄した。

    酒は飲んでも飲まるるな、とは言うものの
    「タカヤくんっ……ええとね、オレね、タカヤくんのこと」
     好きだ、と三橋からの告白に阿部は「おー」と軽く返した。
     もしこの場に三橋と仲の良い田島や泉がいたのなら、「返答が軽い」「もっと喜べ」「キスぐらいしろ」などと野次が飛んでくるのだが、本日の宅飲みは現在もバッテリーを続けている阿部と三橋のみ。
     西浦時代分担していたツッコミ係、フォロー係もいない。酔った三橋を世話するのは阿部だ。
     告白も三度まで、と言ってもいいだろう。三橋からの告白数が指の数を超えたあたりから阿部は数えるのをやめた。
    「ほら、水飲め」
    「やあだ……もっと言いたいもん」
     やあだ、って。もんって何だ、もんって。
     違和感なく受け入れてしまうからこそ恐ろしい。
     普段のたどたどしい喋りも幼いが、一気に幼い口調で話し出した三橋に阿部はため息をつく。
    「言いたいって何を? 愚痴とかか」
    「ちがうよ、タカヤくんの好きなトコとか……カッコいいトコロ」
     タカヤくんに不満なんてないよ、と頬を膨らませて目を吊り上げる三橋に阿部は思わず顔を覆った。
     何だこの生き物は。
     理解不能で、いともたやすく阿部の思考をショートさせてしまう。
     顔が熱いのは酔いのせいか。それともこの可愛い恋人のせいか。
    「本当に不満とかねえの?」
    「だってタカヤ君、いつもオレのこと考えてくれてるから」
     あざといように思えるが、恥ずかしげもなく人のことを褒める三橋だ。味方だろうとライバルだろうと関係ない。
     酔っていてもこの口から出る言葉はすべて本心なのだろう。
    「タカヤくんの好きなトコ、言うよ」
    「おー」
    「ええと、すごくカッコいいところでしょ。それからオレの手をぎゅっと、でも手加減して握ってくれるトコ」
     投手らしいタコのできた指をひとつずつ折り曲げていく。足りなくなったら左手も使い、十一個目に差しかかったところで阿部はストップを申し出た。
     これ以上聞くのは阿部の身が持たないからだ。
    「わかったから」
    「まだあるのに……」
    「一気に聞くのはもったいねえからまた今度な」
     酔っ払いに通じるか、と思いつつ頭を撫でながらそう言い聞かせれば、三橋はさらに頬を赤く染めて嬉しそうに笑う。初めて笑った顔を見たときよりも大人びた顔つきで、それでも変わらず花が咲くような愛らしい笑顔だった。
    「うん」
     約束、と一方的に小指を絡めて歌い出す。指きった、と言い終えて、しかしいつまでも小指は離れる気配がない。
    「レン?」
    「もうちょっとだけ繋いでいたい……」
     酒の力恐ろしい。
     普段まったく甘えてこない恋人が甘えてくる状況に夢でも見てるのかと自分の頬を抓った。
    「……夢じゃないな」
     ちゃんといてえし。
     酔っていても痛覚はきちんとあるらしい。通常よりも弱く感じる痛みが夢ではないと阿部に言う。
    「タカヤくん……っ、んう」
     とろりと溶けた蜂蜜が近づいて頬に押し当てられたやわらかな感触と吐息の湿りが、触れたと同時に漏れた声が、これが夢ではないのだと教えた。
    「いたいの、とんでった?」
    「……ああ」
     カッと熱が上がった。頬とはいえ、三橋からのキスに阿部の気分が高揚する。
     もっとしてほしくて、三橋の手を掴み自分の唇へと導くと小さな唇がおそるおそるというように開いた。
    「して、いいの……?」
    「レンからのキスがほしい」
     投手の指を噛むことはできない。その代わり軽く咥えて吸う。
     指先にも痕を残せたら、シルシをつけられたらいいのにな、と思いながら。
    (そうしたら鈍いコイツも自覚してくれそうだ)
     阿部がどれだけ三橋を好きでいるのか、を。
    「は、恥ずかしいから目、閉じてて」
     見ていたかったが仕方ない。瞼を下ろすとゆっくりとではあるが三橋の気配が近づくのを感じた。
     戸惑っているのか、それとも踏ん切りがつかないのか。
     吐息がかかる距離まで近づいているのに縮まらない。
    (こういうところもカワイイけど……ん? 酒の匂いがしねえ?)
     自分も軽く飲んでいるせいか、と思ったが、あれだけ酔っている三橋からまったくアルコール臭が感じられない。
     うっすらと目を開くと同時に唇が合わさった。やわく食まれ、舌を差し出すと三橋の舌がちろちろとくすぐってくる。
    (真似してるつもりか? ぎこちなくてカワイイな)
     子猫のような愛撫に喉だけで笑う。舌をくっつけても三橋からアルコールの味がしない。
     桃のような果実の甘さだけだ。そのまま舌先をしゃぶるとびっくりしたように跳ねてキスがほどける。
    「……気持ち良くなかった?」
    「いや……」
     空き缶や飲みかけの缶やつまみで散乱したテーブルへと視線を向け、三橋が飲んでいたものを捉える。
     パッケージに書かれているノンアルコールの文字を見つけ、頬と口の端がゆるんだ。
    「ほんとカワイイな」
    「え、どういう、んんっ……」
     小首を傾げた三橋は気づいていない。
     酒の力を借りたつもりなのか、それともわざと酔った振りをしているのか。
     どちらにせよ、すべてが三橋の本心で、願望で。
    「もっとしていいか?」
    「ん……タカヤくんにキスされるのスキ、だよ」
     答え合わせはまだしないでおこう、とカワイイ本音を洩らす三橋の唇を塞いだ。
    HOW TO MOSO
     先輩から押し付けられた成人向けの雑誌──つまりエロ本──がよりにもよって恋人に見つかってしまった。しかも運が悪く雑誌の表紙は昔三橋が好きだったナースもので、エロカワイイナース服の女性が微笑んでいた。
    「へーえ?」
     そして三橋の目の前に立っている阿部の唇は弧を描いているが、目が笑っていない。イライラだったらまだ良かった。説得の余地がある。けれどこれは完全にキテイル。
    「ええと、これは……」
     阿部と付き合って二年は経っている。バッテリーだった頃よりも阿部の感情が読めるようになっていた。
    「オメーも男だしなァ……」
     パラパラと雑誌をめくる阿部の姿にとても嫌な予感がした。嫉妬心は感じない。そこまで怒っている風でもない。だけどこういう時の三橋の勘はよく当たるのだ。
    「そーいや、レンも妄想すんだよな」
     いつもどうやってやんのか、教えてくんない?
     

     妄想のやり方について説明するのに、何故かベッドに寝かされてしまった。逃げられないようにか、そのままのしかかられ脚の間に膝を入れられる。逃げたらどんな目に合うか、想像は容易い。
    「あの……キモ、いと思うよ」
    「あ? そんなん当たり前だろ」
     妄想不要派の言葉に若干へこんだが、確かに気持ち悪いのかもしれない。
     脚の間にある熱をごまかすように腿をすり合わせる。
    「ええと、まず夜景がキラキラしてるホテルで」
    「っく、そこからかよ……」
    「ふたりでもジュウブン広いベッドがあって」
    「まァ、そーいうとこはシングルじゃねーな」
     旅行雑誌の恋人と泊まりたい部屋を頭に思い浮かべる。広い窓に近づいて美しい夜景を眺めて、そのままキスをする。最初は軽く、ゆっくりと舌同士を絡めて合わせて息が乱れてきたらベッドへと導かれる。
     ああどうしよう、と三橋は心の中で息を吐く。
     見下ろされているだけなのに、身体が疼き出している。
    「……いろんなとこにキスされて、服を脱がされてて」
    「されて……? てか受け身スギじゃね?」
     三橋の妄想に阿部は小首を傾げる。妄想の相手は自分ではないと思っているのだろう。
     付き合う前の妄想の相手はかわいい女性だった。
     だけど今はずっと骨ばった大きな手で三橋の髪を梳き、頬を撫で、身体の状態を確かめるようにそっと肌に触れる男の姿を描いている。
     自然と顔が熱くなるのは、三橋がされたいと思っている妄想を恋人に聞かせているから。
    「時々、スキって言ってくれて」
    「…………」
    「大切なものに触れるみたいに、そっとやさしく触って」
     阿部の手を掴む。少し汗ばんでいる人差し指をぱくりと咥えて、そろりと舌を這わせた。
     しょっぱさすらも興奮材料だ。たまにしかさせてくれない、アレに見立てて丁寧に舐めしゃぶる。
    「いつもキモチよくしてくれるから、オレも、こうやってキモチいいこと……んんっ」
     ぶつかるような勢いで口づけられた。歯が当たらなかったのは三橋が口をひらいていたおかげであり、ひらいていたからぬるりと舌が差し込まれる。
     やさしいキスじゃない理由はきっと、三橋の妄想に煽られたから。
    (それこそオレの妄想だけど)
    「……は、こういうこと、オレにされたかった?」
    「さ、れたいよ……引かれるかも、だけど、もっと強引にされたい」
     大切にされたい。でもいじめられたい。
     もっと触られたい。でも触りたい。
     額同士が合わさって、真っ黒な獣のような瞳が三橋を射抜く。
     今だ、と思った。今ならきっと阿部の心へと三橋のまっすぐが届く。
    「エッチなの見ても、もうぜんぶタカヤ君だよ」
     エッチな本も、ビデオも、何を見てもタカヤ君にされたいこと、になる。
     そうやって妄想をするんだよ、と素直な言葉は三橋の想像以上に恋人へと響いてしまい、やさしくあまく、時には意地悪に抱かれてしまうのだった。
    水無月ましろ Link Message Mute
    2025/08/17 1:37:25

    アベミハSS

    #アベミハ

    R15みたいなものもある。

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