SS詰め合わせ8【いおりく】20251117 朝のモーニングショーでの番宣をふたりで終えて、ようやく一週間のスケージュールが完了した。
三か月ぶりの一日半という、一般企業勤めであれば確実に労基直行ではあるが、大人気スターなのだから甘んじてブラックに浸かっている。
人気商売も大変だ、とどちらかと言えば一般的知識を持ち合わせている和泉一織はため息をつく。しかし人気アイドルグループのセンターの七瀬陸は「それだけ望まれているんだから、嬉しい以外ないよ」と笑顔を絶やさないのだから、こちらが彼をよく見てコントロールせねばならない。
自宅へと向かうタクシーの中、陸は一織の肩に頭を乗せてうつらうつらとしていた。反対側に倒れないように、一織は時折彼の頭に触れて調節する。スモークガラスによって車内は程よく薄暗く、眠気を誘った。
赤坂のスタジオから運転してくれるタクシードライバーの腕が良いことも、要員の一つだろうか。
マスクの中であくびを噛み殺した一織は、そっと目を瞼をひらいた陸に気が付いて囁いた。
「まだしばらくかかりますので、眠っていてもいいですよ」
「……ねえ、一織」
潤んだ瞳は車窓を見つめている。視線を辿るように一織もまた同じ方向を見つめると、街路樹が赤く染まっており、歩道には赤に染まりきらなかった枯れ葉が散らばっていた。
あまえたような表情、いわゆるおねだり率百パーセントの顔をした陸が、じいっと一織を見上げた。
「外、歩きたいね」
「……疲れて眠たいのでは?」
「疲れはあるよ。でも、今すぐ倒れるってわけでもないし」
お願い、とは口にしない。何故なら長い付き合いで、言葉にせずとも目線ひとつ、それだけで一織に自分の気持ちが伝わると知っているからだ。
「……仕方ないですね」
そうして一織も陸に甘いことを自覚している。
このやり取りを十年前の自分が見たら、一体どう思うだろうか。
甘やかしすぎるとその人、一生甘えつづけて私から離れられなくなりますよ、だろうか。
(仕方ないだろ……嫌ではないのだから)
タクシードライバーに声をかけると、彼は快く頷き車を止めてくれた。
会社から支給されているタクシーチケットを渡す。お気をつけて、と人好きする笑顔で口にして、タクシーは走り去った。
今日は平日で今の時刻は昼をそこそこ過ぎた頃か。整備された歩道に点々と植えられた街路樹は、ほとんどが赤に色を染めている。足元には大量の枯れ葉が敷き詰められて、踏むたびにカサッ、クシャッと、秋ならではの音を立てた。
自然な動作で車道側を取った一織は、自分の無意識な行動に心の中で苦笑した。
「秋だね」
「比較的暖かいので良かったです」
念のため、自分が巻いていたマフラーを陸の首に巻いておく。
過保護、と言った彼は、おそらく、いや確実にマスクの下で唇を尖らせていることだろう。
嫌ではないでしょう、と笑顔で畳みかけるとわずかに見えている頬が、街路樹と同じ色に染まった。
「キザっぽい」
「口喧嘩しますか? 私の方が優勢ですけど」
「そういうところが嫌味ったらしいんだよな……まあ、好きだけど?」
手繋ごう、と疑問符ではなく確定の響きで陸は言った。
はい、いいえの返答を待たず一織の小指を取って、自分の小指を絡めた。
「可愛いことをしますね」
「もっとオレのこと、好きになっただろ?」
誰にでも愛される笑顔で、自分の魅力を存分に引き出す天真爛漫な微笑みを彼は浮かべた。
もしここにカメラがあったのなら、百点満点の正答だ。
少女漫画のヒーローのような、華のある表情と台詞に、一織はマスクの下でひそかに笑みを深める。
「ええ」
立ち止まり、顔を覗き込む。
紅葉した街路樹よりもずっと色鮮やかな虹彩はひらき、かすかな動揺をそこにのせてしまう。
(七瀬さん。私も、抱かれたい男にランクインしているんですよ)
「毎秒毎に、貴方への好きが増えていますよ」
つまり今十七秒の間があったので、十七秒分。
正常な心臓の鼓動が一秒毎に一回ならば、鼓動した数と好きが増える数は一致する。
「……っ、ず、るい……パーフェクト高校生の時の一織は、そんなんじゃなかったのに」
「十年分の成長がありますので」
繋いでいた小指同士が離れて、喪失を感じるよりもさきに十指すべて絡め取られる。
少し汗ばんだ手の感触と、恥ずかしそうに、けれどもそれ以上に好きが伝わる表情に、一織は心臓を撃ち抜かれた。
「たったひとつの動作で、仕留めてくる七瀬さんの方が相当タチ悪いですよ」
「っ、……ふふっ……耳が赤いね、一織」
「黙ってください。なんならここでキスしますよ」
「脅しにしては、オレが嬉しいだけなんだけど」
オレにとって都合の良いことばかり、と陸がぽつりと零した。
その言葉には、本当にそれでいいの? と尋ねる響きすらあった。
(いいも、なにも)
あなたが私に、そうさせるのだ。
訴求力? いやそれ以上にもっと強い力で。
秋の穏やかな日差しを木々が遮っている。それでも木漏れ日に照らされた赤が眩しい。どんな美しい紅葉があっても、一織にとっては煌めくこの赤が恋しい。
恋情にも似た感情を抱いているのだから仕方ない。
強い光を見つけて、恋焦がれてしまったのだから、どうしようもない。
離せない、とわかったから、離れられないように目論んだ。
陸の欲しいものの中に、和泉一織の存在があったことは、幸いだった。
「完璧に見えるでしょうが、あなたを存分に甘やかし、私から離れられないようにしてるんですよ」
愛というにはおぞましく重い台詞を、たくさんの人から求められているスーパースターは受け止めた。
「オレはそれも愛、だなあって思うけど」
だってそれほどにも、オレのことを想ってるだろ?
形や質量、温度は違うけど、自分だってそうだよ、と陸は笑う。
「例えば、いつも車道側を歩いてくれているとか、スケジュールとにらめっこして、どうにかオレの負担を減らそうとしてるとことか、自分の巻いていたマフラーをオレに譲るところとか」
アピールしない、そういうところも、愛してる。
ごめんね、オレの方が一織を離せないんだよ。
「あと、欲張りなのはきっとオレの方」
繋がっていない手が一織のマスクに触れて、下げる。風が通り抜けふわっと秋の匂いを運んできた。
いつの間にか素顔を晒していた陸が顔を寄せて、ほんの一瞬だけやわかくカサついたものが、確かに触れた。
「……帰宅する前にリップクリーム、買いましょうか」
「絶対に、家にいっぱいあると思うけどな」
ホストごっこをやるいおりくの話
「一織、ホスト役やるからお客さんやって」
陸から到底出るはずのない単語を耳にした一織はフリーズした。
ホスト役。接待側の主人役であり、馴染みがあるとすれば留学の際に世話になる『ホストファミリー』だろうか。女性客を対象に接待する男性『ホスト』という単語も、同時に一織の脳内検索エンジンからヒットしたが、解釈違いなのでその検索結果は隅に寄せた。
接待をする機会があるのだろうか、とようやく動き出した一織は促されるまま、リビングのソファーに腰掛ける。
「失礼します」
飲み物や食事を提供することなく、何故か同席──しかも近い、風呂上がりの匂いがする──した陸に一織は再びフリーズした。
七瀬陸と会食したいと申し出るスポンサーは多い。その中でも人柄に問題なく、酒癖の悪くない、評判の良い者だけをピックアップしているつもりだが、よろしくない相手でも引いてしまったのだろうか。
(というか、まず七瀬さんが接待される側だが)
うちのセンターは招かれる方、つまり招待客側である。デビュー前のようにぺこぺこする時代は疾うに過ぎ去ったのだ。
「あの、七瀬さん」
「一織君……うーん、ごめん、一織は今日から女の子ってことで」
「は?」
無茶ぶり大魔神の一言により、一織は性別が反転した。
つまり今は女の子、十七歳の女子高生である。
(一体私は何をさせられてるんだ!?)
「一織ちゃんって可愛いね。ねえ彼氏とかいるの?」
「アイドルなのでいません。というか、ちょっと馴れ馴れしいんですけど」
一織もまたプロ意識が高かったため、意味の分からない茶番に付き合うことにした。
設定は女の子、だけでいいのならアイドルは継続していても問題ないだろう。
「アイドルなんだ。一織ちゃん、かわ……綺麗だもんね!」
「なんで言い換えたんですか。よく言われます」
「よ、よく言われるんだ……。肌綺麗だもんね」
「今のはセクハラですよ。あと七瀬陸の解釈違いなのでやめていただけますか」
さすがに見過ごせなかったので早口でたたみかけると、きらきら笑顔の陸はたちまち表情を曇らせた。しゅん、としたその顔は、まるで叱られた子犬である。かわいいひとだな、ならぬ、かわいいこいぬ、だな……と口癖は一織の脳内を音速で流れていった。
それは一筋の流れ星でもあった。
「ご、ごめん……オレ、そういうつもりじゃなくて」
「わかっていただけたのなら、大丈夫ですよ。アイドルである以上肌のケアはしっかりと行っています」
「そうなんだ……あのさ、一織ちゃんって」
顔を上げて、いつものように一織の肩を寄せようとした陸は突如肩に触れていた手を外した。
セクハラというワードが効いているのか、それとも一織を女の子だと認知しているか。
(あまり気持ちのいい感情ではないな)
寂しい、とまではいかないが、やや複雑な気分だ。
じっと陸の動向を見守っていたが、困っていた顔が何かひらめいた、というような嬉しそうな表情につられて一織はくすりと笑った。
「一織、耳貸してー、じゃなかった、一織ちゃん」
「カメラ回ってたら完全にNGですし、NG大賞に入選くらいはしてますよ」
内緒話だなんて、可愛らしいことでも言うのだろうか。
緩む口元を引き締めながら軽く小首を傾げると、囁き声が耳朶を撫でた。
「ドンペリコール、興味ある?」
「……は!?」
ドンペリコールとは。ホストクラブで高級シャンパン『ドン・ペリニヨン』が注文された際に、ホストたちが集まって感謝の意を込めて行うパフォーマンスである。
華やかで派手なイメージが強いパフォーマンスであり、一織なりに考えてみたものの、愛されセンター七瀬陸が口にしていいものではない。
「興味ありませんし、七瀬さんは禁止です」
「え!? じゃあシャンパンコールは」
「だめです。というか引き下がるラインおかしいでしょ……未成年なので禁止です」
「未成年関係ある!? ごっこ遊びなのに!!」
もしかしたらホストの役を演じるかもしれないのに、と食い下がる陸は知らない。
IDOLiSH7の裏のプロデューサーが隣にいる和泉一織であることを。
「一生ありません。ホスト役NGで」
ごっこ遊びではあったが、一織は七瀬陸NGリストに『ホスト』を追加することができ、たまには遊びに付き合うのもいいかもしれない、とひそかに思った。
スカートは脱がせない。2024年ハロウィーン【屑シリーズ】「あっ、もう悪趣味……」
「あなたが先ほどまで楽しそうに話していたことを、実践しているだけですが?」
楽しく酒を飲んでいただけだったのに。
とある話題を振った瞬間一織の目の色が変わった。
飲んでいた酒を奪われてネクタイをほどかれ、それで腕を縛られた。ジャケットはこの部屋に上がった時点で脱いでいたため、シャツとスラックスのみ。けれどもその上から一織の私物であるスカートを履かされ、スラックスはあっさりと男に剥ぎ取られた。
やや乱暴にベッドに転がされ、あとは一織にいただかれるだけの状態だ。
「酔いも百年の恋も冷めるけど!?」
恋などという可愛らしい単語は自分たちのような人間には似つかわしくない。一織もそう思っているのだろう。胡乱げな目つきをしていた。
「百年の恋をされているんですか?」
「いや、してないけど」
それじゃあいいですよね。
怪しく笑いながら、掴んだ足首からゆっくりと這い上がっていく。スカートはめくらずにゆっくりと、わざと見せつけるように触れるから、吐息が乱れた。
似たようなことを何度もしたことはある。けれど一度たりともされたことはない。
「セクハラくさい……」
「すらっとした脚から徐々に攻めていくのって興奮しない? と、あなたが言ったんですよ」
「それは男視点での話だから!!」
「つまり七瀬さんは常にセクハラをしていたことになりますが」
「合意だからセーフですっ、は……」
手の動きが見えなくても、触れられているのだからわかってしまう。
腿を撫でさすり、膝は手のひらで包み込まれる。際どい箇所を指先が引っ掻いて、敏感なところは敢えて避けていく。力強い手で足を掴まれ、容赦なく開かされた。
綺麗な顔立ちがゆっくりとスカートの中へと潜っていく。視覚から伝わる情報に陸の脳はパンクしそうだ。
抵抗する陸をあやすように小さな唇が脚の付け根の皮膚を吸う。思わず洩れそうな嬌声を誤魔化すように、罵声を口にした。
それは普段から言っているような、他愛無い言葉のつもりだった。
「へ、へんたいっ~」
「はあ……わかりました。今から捲り上げます」
「えっ、やだやだやだあ!」
「どこに恥ずかしがる要素があるんですか……」
じだばたと暴れる脚を難なく捕まえて、身体を差し込まれてはもうこれ以上抵抗ができない。
女の子じゃないのに、いつも履いている下着を一織に見られるのが恥ずかしい。
「もう濡れてますね」
知っている事実をさらりと教えられる。カッと頬に熱が上がった。
「おまえが、そうしたくせに」
「七瀬さんは私に触れられただけでこうなっているんですよ」
やけに赤い唇が膨らみの中心へと触れる。色濃く変化している下着越しでは感触がわからない。
なのに、先端からじんわりと濡れて染みの範囲を広げていく。
「や……意地悪するなよ」
「お菓子を持ってない七瀬さんが悪いでしょ」
「そんなの」
人のせいにするな、と続くはずだった言葉は冷ややかな眼差しによって飲み込まれた。臆したのではない。長い睫毛の奥、冷めた灰色の瞳に嫉妬の色が見えたからだった。
「他の人は渡したのに」
「……一織」
「二階堂さん、兄さん、六弥さんに渡しておいて、あなたの近くにいるはずの私の分はない」
舌打ちが耳を打った。
悔しそうな表情を浮かべた青年の顔を陸は知らない。初めて見た年下らしい一織の姿に、アルコールで酔っても言えなかった本音がするりと零れた。
「ごめん、一織。一織に悪戯されたかったんだよ」
見えるところで煽れば、きっと問いかけをするのだろうと思っていた。「一織の分は無いから」と先に教えていれば、きっと悪戯という態で少々過激なセックスが始まるのだろうと期待していた。
「考え方、屑すぎませんか」
「それ、のしつけて返すけど」
そもそも自分たちの始まり自体、褒められたものではない。そんなの今さらだろ、と頭を撫でれば唇を噛む勢いで塞がれる。
妬いていたくせに、キスが上手すぎて可愛くない。
だけど嫉妬に駆られたキスはものすごく気持ちが良かった。口腔を舐め回す舌に絡みついて、しゃぶって、腫れるまでで唇を貪り合う。一織の唇の赤が移った頃にはスカートはぐしゃぐしゃに引きずり下ろされ、いつものようなセックスが始まっていた。
初めてのキス2021年作品
初めて、は稀少なものだ。二度目、三度目と回数を重ねれば、感動も衝動も半減しいずれ当たり前になってしまう。始めが大事、ということわざがある。何事も最初が肝心であること、最初に取った方法や態度があとあとにまで影響するので、よく考えて事を始めなければいけない。
つまりそれは恋愛においても変わらない。と、一織は思考を巡らせつつ隣に座っている七瀬陸に視線を向けた。「どうしたの?」とこちらが考えていることなど露知らず、ふにゃふにゃと笑っている。締まりのない顔に「どうしたんですか」と問うほど一織は無粋ではない。何より久しぶりの、二人きりの時間に浮かれているのは一織も同じだった。
(今日こそは……)
キスくらいは進みたい。手を繋ぐ、はすでにクリアした。抱きしめるという少々ハードルの高い行為は、元々積極的に陸から抱き着かれることが多く、それは付き合い始めても変わらない。今日もぎゅっうううと言いながら、本当に言いながら抱き着いてくるので、可愛さのあまり、どうしたものかと一周して真顔になってしまった。
「な、七瀬さん」
「うん?」
ひっくり返った自分の声に、やり直したいと思ったが陸は気に留めていなかったようだ。小首を傾げて「なあに?」と訊ねる陸に一織は頬に熱が昇っていることを自覚した。
「目を、閉じてくれますか」
「っ! うん!」
嬉しそうにはにかんで、いそいそと目を閉じる陸に一織は思わず顔を覆う。何だこの可愛さは。おそらく陸は今から一織に何をされるのか気づいているのだろう。嫌がらず素直に目を閉じて待つ、献身な姿に口元がにやけそうになった。
肩に手を置いてゆっくりと顔を近づける。睫毛の長さがはっきりと分かり、吐息がかかる距離まで縮めて一織もまた目を閉じた。あとはこのまま顔を近づけて、触れるだけ。ん、と陸から漏れた小さな声がただただ可愛い。ちゅっと唇が触れたやわらかい感触──と一織が思っていたよりも硬くて冷たいことに驚く。不思議に思って離れようとしたが、触れている唇が震えた。
「一織、そこじゃないよ……ふふふっ」
声が下の方から聞こえて、ようやく到着地点を間違えていたことを知る。慌てて離れ目を開く。口元を両手で覆ってくすくすと笑う陸と目が合って、一織の顔は真っ赤に染まった。
「す、すみません」
「ううん、むしろオレは良かったと思った」
「何故ですか?」
失敗したことに対してなのか? いたたまれなく視線を逸らすと、陸はそんな一織の手を取ってふにゃりと微笑む。
「だって、一織も初めてってわかったし、鼻にちゅーも、くちも、全部オレが初めてだなあと思ったら」
嬉しくて。
本当に嬉しいのだと、溢れんばかりの喜びを表情に、仕草に滲ませる。見ている方もつい釣られてしまうような幸せそうな笑顔に、初めてにこだわっていたことなどどうでもよくなった。
「全部七瀬さんが初めてです」
「うん、さっきの鼻ちゅーで分かったから大丈夫」
「……やかましいです」
「一織照れてる。可愛いなあ」
「可愛いのはあなたの方ですけど!!」
未だにくすくすと笑う口をそっと塞ぐ。ようやく柔らかな感触と温度を知り、一度だけ啄んで離れる。目を大きく開き、続いて真っ赤になった頬を見て一織は口元を緩めて笑った。
噛みたい
2021年作品
今年の冬は例年に比べてかなり冷え込むのだと、どのワイドショーにも取り上げられていた。だから普段着用しない首元までしっかりと覆い隠せるタートルネックを重宝したとしても何も言われないし、疑問にすら思われない。
(でも……これは問題あるだろ!)
誰もいない寮の洗面所でそっと首元をずらす。そこには薄くはなってきたが大量のキスマークと、形のいい歯型がついていた。一部色濃いものもあるがそれは昨日のもので、ほとんどは数日前の情交でつけられたものだ。
今はもっぱら歌メインの仕事が多く、またグラビア撮影はないとは言え、少々どころかやりすぎではないか。
激しい独占欲の痕をまじまじと観察して一人で顔を赤らめる。これらをつけた男は陸と同じオフではあったが、涼しい顔で学校へと出かけた。
「一織のばか……」
久しぶりの二人きりのオフを期待していたのに。
鏡に映る陸の顔には小さな落胆と、あまやかな表情を映し出していた。羞恥に頬を淡く染めている。
脳裏に浮かぶのは数日前の夜の一織だ。
いいですか? と一織は訊き、嫌だと答えているのに、薄い皮膚へと舌を這わせ丁寧に舐められてから強めに噛まれた。吸うのならまだしも、噛まれるのは気持ちいいわけでもなく、ただただ痛くて好きではない。しかし血が出たんじゃないだろうかと思うくらい強く噛まれたあとの、痕をなぞりながらうっそりと笑う一織の表情は好きだ。冷静な一織がぶつけてくる独占欲を含んだ強い感情に、胸の奥があまく疼く。
(オレって実はMだったのかな……)
痛かったはずなのに、嫌だったはずなのに、今では一織に噛まれたいと思ってしまっている。痛々しいくらいの一織の所有痕を見ては、嬉しいと感じている。何より身体が火照ってしょうがない。
噛まれるようになってから陸は首元までしっかり隠せる服を購入するだけではなく、今では普段よりもワンサイズ大きめの、下ろしやすいものを着用するようになってしまった。
「いおりのばかっ……」
「人がいないときに悪口とはいい性格していますね、七瀬さん」
「うわあっ、一織!?」
「見られたら困りますから、むやみに晒さないでください」
待ちわびた相手はそんなつれない小言を口にして、タートルネックを上にあげる。むっと目を吊り上げて睨むと一織は首を傾げた。
「なんですか?」
「見て。これを見てなんとも思わないのか」
ぐっと強めに引き摺り下ろして、薄くなった歯型を指さした。噛みやすいように少し首を傾けたが、一織は顔を近づけることも、口づけることも、まして噛みつくこともない。涼しい顔で自分がつけた傷跡をやさしく撫でるだけだ。
「薄くなってきましたね」
(……ほしいのは、オレだけ?)
舞い上がっていた自分が恥ずかしい。余計な恥をかくくらいならいっそ笑ってやり過ごせばいい。だが疼いてしまった身体は、一織に教えこまれた身体は、目の前の恋人に噛まれることを望んでいた。ブレザーの袖口をそっと掴む。
「ねえ一織、噛まないの……?」
真っ赤になっているであろう顔を背けてしまいたかったが、一織をじいっと見つめて素直な気持ちを口にした。
灰色の双眸がほんの少し大きく開き、しかしすぐに眇める。距離を縮められ、思わず一歩二歩後ろに下がると陸の身体はとんと扉にぶつかった。
「してほしいんですか?」
低い囁き声に耳の中に吹き込まれ、ぶわりと身体中の産毛が逆立つ。あ、と言葉にならない音を洩らした陸に再度一織は問う。
「七瀬さん、してほしいですか?」
甘さを煮詰めた声に理性が溶けていく。臍の中心に熱が灯って、じわじわと胸まで昇ってくる。火が付いたように身体が熱い。
「し、して……。噛んで、いおりっ、んんー……っ、んんっ」
ねだるとすぐに荒々しく舌が入ってきた。じゅっと吸われて、絡め取られて、いろんなところを舐められて、混ぜ合わさった二人分の唾液が陸の口腔に溢れてくる。一織の舌はぬるりとして気持ちがいい。硬口蓋を尖らせた先端で叩かれて腰が疼いた。
ぐちゅりと卑猥な音が耳の奥でこだましている。飲み込むこともできず口の端から溢れ、陸の足元と洗面所の床を汚した。
「あっ、んんっ、まって、いおっ」
「七瀬さん、飲んで」
初めての要求にかっと顔が熱くなった。迷っているうちにも一織は深いキスを止めず、息継ぎする間に離した唇で再度「飲んで」と囁く。切なげな声色に逆らえない。
んっ、と声を上げながらゆっくりと飲み込む。混ざり合ってはいるが、喉を通り抜けたものが一織の唾液だと思った瞬間アルコールを摂取したように、全身が熱い。
「よくできました」
親指で陸の濡れた首元を拭いながら一織は微笑む。小さな子どもを褒める言葉はいつもなら癇に障る。かわいくない、と返すべきだ。なのに今ばかりは酔ってしまったかのように陸は一織の言葉に頷いた。
「はあっ……噛んで、お願い」
「噛んでほしいところを自分で下ろして」
「……うん」
人差し指を引っかけて、自分の首筋を露わにする。先ほどよりも一織が噛みやすいように頭を傾けて、とろけた瞳で一織を見上げた。
「いっぱい噛んでね」
「はい」
嬉しそうに一織は笑う。鏡に映る自分の姿ははひどく淫猥で一織と対照的なことが何だか可笑しかった。
2022/2/22(黒猫いおりんと赤猫りっくん)
獣人、猫設定
「いーおりっ!」
「にゃっ!! ななせさんっ」
突然後ろから飛びつかれて美しい黒の尻尾がぶわりと膨らんだ。くるりと振り返ると、まず目に入るのは赤い首輪。後ろがリボンになっていて、風でゆらゆら揺れると本能的にじゃれたくなる。目を皿にして赤く揺れるそれを凝視していると、ごめんねというように頬をぺろりと舐めてすりすりと頬ずりされた。
「ちょっと! くすぐったいんですけど」
「いや、だった……?」
珍しく猫らしい俊敏さで一織から飛び退いて、赤い耳はしゅんと垂れ下がる。つやつやの赤い尻尾も下降し、その代わり大きな瞳は一織を見上げている。はあ、とため息ひとつ。びくりと肩を跳ね上げさせた陸の手を取ってぎゅっと握った。
「べつに、いやじゃないです」
さらに細かく言えば陸に抱き着かれるのは好きだ。環やナギは一織よりも一回り大きく重いこともあり、それ以上に本能的に避けたくなるが陸だけは別だ。陸は一織にとっての特別なのだ。
しかし陸は一織にするようなことも環やナギにもする。抱き着いたり、じゃれついたり、毛づくろいをしてみたり。彼の飼い主である九条天にはさらにこれ以上の甘えを見せる。それが、一織は気に入らない。
(わたしがもっと大人だったら)
陸よりもひとつ年下の一織はどうあがいても年上にはなれない。あなたが一番好きだとも言えない。自ら親愛を見せることもできない。
俯き唇を噛む。せっかく陸が会いに来てくれたというのに、これではいけない。
意を決して顔をあげると、かわいい顔は一織の顔のすぐ間近まで迫っていた。
「あ」
「え」
小さな唇同士が触れる。ぱちぱちと同じタイミングで瞬きをして、震える睫毛がくすぐったい。ほんのすこしの間触れあった陸の温度はとても心地のいい温度だった。
しばらくして、にゃあ、と鳴いたのはどっちだっただろうか。これ以上もないほどの真っ赤な頬を見つめながら、自分もきっと同じくらい赤いのだろうと思った。
「……いや、だった?」
「べつに、いやじゃなかったです」
驚きと動揺で陸の瞳は大きくなっていた。一織の返答に耳をぴんと立て、ゆらゆらと大きく揺れる尻尾に陸が喜んでいることを知る。
「そっかあ、うれしい」
「っ、そうですか」
ふにゃりと笑う陸に一織も口元を少しだけ緩める。気分が高揚してきたのか、片手は繋いだまま陸は一織の周りをぐるぐると回った。目を回しますよ、とはらはらして見守っていれば、今度は正面からぎゅっと抱き着いてきた。不意打ちではないので、しっかりと抱き止めればさらに赤い尻尾はぶんぶんと揺れる。そんな子どもらしい──まだ彼らは子どもではあるが──仕草がかわいくて、耳に軽く口づけると陸の髪からは、お日様のようなあたたかいにおいがした。
「あのね、いおり」
「はい」
「これいおりとおそろいにしたの」
陸が示したのは首元。一織も陸と同じ青いリボンの首輪をしている。新しい首輪を身に着けて外を出歩いた日、興味津々というように陸は駆け寄ってきた。風でなびく青いリボンの端っこにしばらくの間じゃれたあと「いおりのリボンかわいいね!」とにっこりと笑ったのだ。
「でね、えっとね」
そわそわと期待半分少しの不安を混ざり合った瞳で、一織と一織の首輪へと視線を彷徨わせる。にゃあ、と弱々しく鳴く。意を決したかのように自分の首輪に手をかけた。
「いおりのとりくのとりかえっこしたいなあ……って」
いや……? と不安げに訊いてきた陸に一織は思わず喉を鳴らした。いやじゃないです、と口にしようと思ったが、声が震えそうだったから即やめた。代わりに自分の首輪に手をかけて、外した。
「ななせさん、後ろむいてください」
「うん」
かちっと音が鳴ったのを耳にしたあと彼の手を引いて振り向かせる。細い首には青い首輪。後ろの方で少し長いリボンの端がゆらゆらと揺れていて、飛びついてしまいたくなった。陸が着けてあげるという言葉には首を横にふるう。わざとではないとしても首を締められると、何故か締めた本人が涙を浮かべるから、結局のところ一織が困るのだ。急いで赤い首輪を身に着けて、再度陸の手をぎゅっと強く握った。
「とても、似合っていますね」
「っ、うん! いおりもすごくいい!!」
嬉しいのだと気持ちを表すように繋いだまま頬を擦り合わせた陸は小さく鳴く。
お互いの首輪を交換する意味を知っているのか、知らないのか。陸に聞いてみたかったが、幸福そうに目を閉じる陸に一織もまた目を閉じた。
例え今はごっこ遊びだとしても
2022/2/22(黒猫いおりんと赤猫りっくん)と同シリーズ
小さな頭がすっぽりと隠れるほど大きな麦わら帽子を被らせると、女の子に見えなくもない。大きな目をまんまるに見開いて、ふらふらとすぐさまどこかへ駆け出してしまいそうな彼の手をしっかりと握った。
「ころびますよ」
「ころばないよ!」
履いていたスリッパを行儀悪く蹴った陸は、夏の陽光に照らされた砂浜へとジャンプする。着地すると熱を持ったさらっとした砂が飛び散って、二人の頭の上に降りかかった。
「ななせさん!」
「あはは! いおりの耳ぴくぴくしてる。かわいい」
「……言っておきますけど、あなたもですよ」
耳を通すため麦わら帽子に開けた穴からぴょこんと飛び出した赤い三角耳は、砂を振り払うようにぴくりと震えている。潮風で青いリボンがゆらゆらと揺れてじゃれたくなって、もう一度しっかりと手を繋いだ。
「ねえ、もっと海の近くに行きたい」
だめ?
小首を傾げたあと陸の目が期待できらきらと輝く。一織がこの顔に弱いことを学んだらしく、最近甘える時にもっぱら近くで使ってくる。「かわいい」も「いいですよ」も素直に言えなくなった一織はこほんと咳払いをした。
「仕方ないですね」
「わーい! いおり大好きっ!!」
「っ……そうですか」
素直に受け取れない一織に対して陸は素直に好きを伝える。耳の動きも尻尾の動きも、表情さえもすべてにおいて雄弁だ。つまらない一織の返しに陸は気分を害することはない。彼から与えられる絶対的な信頼は、いつでも一織を安心させるのだ。
ゆらりと絡みついてきた尻尾を叩き落さないように、一織もまた自分の尾を添わせる。気が付いたのか、えへへと頬をふにゃりと緩めて陸は笑った。じいっと見惚れていれば、ほんのりと赤い頬が少し汚れていることに気が付く。
「頬に砂がついてます」
「いおりとって」
「目を閉じてください」
ポケットから取り出したレースの飾りがついたハンカチで陸の頬をやさしく拭う。白いためすぐに汚れが目立ち、帰ってすぐに洗わないといけないなあと一織はそんなことを思った。
「取れた? あ……ハンカチよごしちゃって、ごめん」
ぱちりと開いた赤い目が見る見るうちに悲しげなものへと変わる。普段から甘えたで無茶ぶり大魔神なのに、変なところで遠慮を見せることがある。そういったところもかわいいものだが、元気を失くされるのは大変困る。
「洗えば汚れなんてすぐに落ちますから」
「でも……すごくきれいなハンカチなのに」
絡まっていた尻尾も見る見るうちに垂れ下がり離れていく。馴染んでいた温度が消えていくのが寂しくて、今度は一織の方からそっと繋いだ。
「波際歩きましょうか」
「うん」
しゅんと垂れた耳を撫でて、波際へと歩く。波の音が近づくにつれ、色濃い砂のかたさと冷たさが足先から伝わってくる。振り向けば二つ分の足跡がしっかりと残されている。二人で歩いているのだから当たり前のことだが、当たり前の事実が嬉しく思えた。
寄せては来る波に陸は少し怯えているのか、耳がぺたりと折れている。波が足元にじゃれるたび逃げ出して、手も尻尾も繋がっているためその度に一織は振り回されてしまう。どうして陸は一織を海に誘ったのだろうか。
「なんで海来たいと思ったんですか?」
「んーとね、この間一緒に見たテレビで、浜辺で結婚式してたのあったよね?」
「ありましたね」
頷くと何故か陸は目をきょろきょろとさせた。内緒話するように一織の耳に唇を寄せる。
「えっとね……話しても笑わない?」
「ここまで話して今確認するんですか。笑いませんから続けて」
吐息が少しくすぐったかったが、話の続きが気になって我慢しながらも促す。
「いおりと結婚式はできないけど、もし一緒に来たら、ずっといられるかなって」
「なっ……」
頬が熱いのは決して海へと沈む西日だけのせいではない。繋いでいた手を外し、陸が被っている麦わら帽子を除ける。不思議そうに首を傾げた陸の頭に先ほど汚れを拭ったレースのハンカチを被せた。小さすぎてヴェールの代わりにもならないが、顔が隠れていないことで陸が嫌がっていないことがわかる。
「いつかしますよ。今日は約束をしましょう」
陸の左手を掴み、ポケットからシロツメクサで作った指輪を取り出す。将来には青い箱に入った本物を贈るつもりだ。萎びれた指輪は今の自分たちの身の丈にぴったりと合っていた。
神様に誓わなくてもいい。誰かに認めてもらいたいわけでもない。目の前にいる、この世で一織が一番好きな相手に誓うことができればいい。
「健やかなるときも、病めるときも」
「うれしいときも、かなしいときも」
「これを愛し、敬い、慰め、ともに助け合い」
「この命がある限り、ずっといおりに心を渡すことを誓います」
形通りではない言葉は型にはまっていない自分たちらしい。無邪気な笑顔で、だが一織が一番だと雄弁に語る瞳を覗き込んで一織は唇を開いた。
「私の心は常にあなたにへとあることを」
誓います。
茎の輪が折れないようにゆっくりと薬指へと嵌めていく。ほんの一瞬揺らいだ赤い瞳は閉じられて、一織もまた倣うように目を閉じた。二度目の口づけは初めてしたときと比べると圧倒的に長い。ただの接触なのに、離れるのが名残惜しいと思ったことに一織は驚いた。
「ねえ、ずっといようね」
「勿論です」
いつか、なんて不確かなものを一織は願わない。
必ず私はこの人を手に入れてみせる。この人と共にいられるための道を作ってみせる。
繋いだ手に力を入れると、同じだけ強く握り返された。
陸に膝枕される一織の話
経年いおりく
ようやく一区切りついた。
ここ三週間、丸一日のオフはなく、ただひたすらあちこちへと駆けまわっていた記憶がある。IDOLiSH7のグループ活動よりも、個人の仕事が多かったせいで余計に疲れたというのもあるのだろう。
明日は久しぶりのオフだ。
自宅に帰り着くまでは仕事だ、と自分に言い聞かせ、マンションのエントランスに入った記憶はある。
だがその後の記憶はぷつりと途絶えた。
自分の頭が何かに乗っている感覚はある。軽く身じろぐと節々が軋むように痛んだが、どうやら床の上ではないようだ。
しかしベッドではない。やや硬めの感触から考えて、自分の身体はソファーの上にあるのだろうか。
なら頭は? 鞄を枕にしたとは思えない。
寝返りを打つと、接面箇所が微かに震えた。
「一織?」
七瀬さんの声が聞こえてきた。真上から。
昔と比べると少し低くなった彼の声は、私の名前を呼ぶ際にとても甘くなる。
ゴシップ記者に聞かれでもすれば、次の日には熱愛記事が書かれそうなくらいに、甘いと思う。
「ごめん……起こしちゃったかな」
惚れた欲目もあるが、それほどに私に対する七瀬さんの声は甘い。
遠慮がちに前髪を梳かれる。くすぐったさに思わず口元を緩めてしまい、「あ、これは起きてるな」と、今度は少しばかり拗ねた響きを含んだ声が降ってきた。
「起きてません」
「なあに? じゃあ、今のは寝言?」
「寝言です」
「さすがオレのプロデューサー。寝てても返事をくれるんだ」
「まあ、パーフェクトプロデューサーなので……」
「今の状態で格好つけられるの?」
七瀬さんは笑っているのだろう。振動が伝わって妙な心地だ。
眠気に抗いながら瞼を開くと、薄暗くも鮮やかな虹彩が飛び込んでくる。睫毛の震えすらもわかるほどの距離間に、思い浮かんだことと言えば七瀬陸の睫毛の長さについて。
六弥さんほどではないけれども、この人の睫毛も相当長い。
「近すぎますよ」
「眠り王子にキスしようとしてたところだったの」
そう言ってお姫様は頬を膨らませた。距離感はそのままで、わずかだが唇も尖らせて。
「だったら、キスで起こして」
「なんか偉そうだな」
ひとすじだけ長い髪に頬をくすぐられる。決して引っ張らないように、人差し指に巻き付けて遊ばせると、明るい瞳は不満げな色をのせた。
「もう……完全に起きちゃってるじゃん」
「子守歌で寝かしつけてくれますか?」
鮮やかに彼の感情を映し出す瞳は、今も健在で、理由を理解していても未だに引きずられてしまう。
彼が嬉しそうに笑うと私も嬉しくなり、悲しい顔をすると胸を締め付けられ、時には痛みすらも感じる。
私の軽口に七瀬さんは目を眇めた。嫣然に微笑むと、九条さんに似ているなと改めて思ってしまう。けれども、あの人の笑い方よりも甘く感じてしまう。これも惚れた欲目だろうか。
「スーパースターの子守歌は高いよ」
「払えるだけの甲斐性はあるつもりですが」
「……オレ、一生おまえに敵わないかも」
薄暗くても彼の表情で気が付く。そっと頬に触れると、手のひらを通じて熱が伝わってきた。
「照れたんですか? かわいい人ですね」
「もー……今からキスで黙らせるからな」
私を驚かせないように宣言するところもかわいい。訴えるような強い眼差しに仕方なく目を閉じた。七瀬さんの表情を見られないことが少しだけ残念に思う。
「いい子」
甘くも色をたっぷりと含んだ声。私が瞼を上げるよりも先に唇が触れた。
ん、と漏れた声に煽られるがまま舌で軽く舐めると、閉じていた唇が開く。素早く差し込むと、抵抗を諦めたように七瀬さんも舌を絡ませてきた。
濡れた唇を吸うと、ぴくりと震える。流れ込んできた唾液を嚥下して、目を開くと真っ赤な顔をした七瀬さんが映った。
「っう……ん、ふっ、は、あ……もう、がっつきすぎ……」
「もう一度キスしていただけますか?」
じっと目を見つめてねだると、七瀬さんは視線を泳がせたのち、観念したように息をついた。
「ん、いいよ」
一織が頑張ったご褒美だから。
砂糖菓子のような甘い声に続いて、同じくらい甘いキスが降ってきた。
無条件に甘やかされるのならば過密なスケジュールも、案外悪くはないかもしれない。
とあるふたりの昼の出来事
元々病気がちで入退院を繰り返していた七瀬陸は、朝に強い。さらにアイドルという業種のおかげか、起床の時間も一般企業勤めの社会人よりも早い。
同グループの和泉一織は、遅刻はしないものの少しばかり朝が弱く、すぐ覚醒とはいかない。
だから同じベッドに入りおやすみを言い合って眠りにつき、先に起きた陸はふにゃふにゃの一織の頬に口づける。これがいつもの習慣だ。
だけど、今日は違った。
昨日はオフの前日で、今日は久方ぶりのオフだ。一織と恋人になってからは五年ほどの付き合いで、双方二十代半ばになったが、恋人らしく濃密な時間を過ごすこともある。
陸はいつも以上に時間をかけて風呂に入り、一織は黙ってベッドを整えた。
必要なものを枕の下に隠す必要はあるのだろうか。そう問いかけると、「あなたに幻滅されたくありませんので」これまたスマートに回答するものだから、陸の方が照れてしまった。
「今ので惚れ直した」「それでは私はずっとあなたに惚れているということで」「えっずるい。オレだって、ずっと一織ひとすじなのに」「嘘ばかり。あなた惚れっぽいでしょう」「好きなひとはたくさんいるけど、ラブは一織だけだよ。こういうことをしたいのは、一織だけ」「完璧な口説き文句ですね」
言い合いながら、いつも使っているベッドに沈み込み、キスをしながら服を脱がせ合う。
お互いアイドルで、頭の上から足の先まですべて商売道具であるため、ひっかき傷や、数日には消えるキスマークすら残せない。
お互い理解しているから求めず、しかし久々の行為ということもあって、一織の唇は陸の身体のすべて、それこそこめかみから足の指まで触れた。
言葉通り心と身体は一織によって蕩かされ、ぐずぐずになった陸を繋いだのもきっと一織。
普段は眠っている時間なのに、シーツの上で上気した肌を重ねて、窓の外が白み始める頃まで、一織とひとつになっていた。
だから設定しているアラームが鳴っても、陸は起きることができなかった。
意識が覚醒したのは、甘い香りと恋人のやわらかな声だ。
「おはようございます」
「んー……おはよ……」
そう言えば、キスがない。
同じベッドで眠って、朝を迎える時は必ず頬にキスをしていた。
まだ半分夢の中だったので、ちゅう、とふにゃふにゃした声で呟くと「かわいい人だな」と甘い声が降ってきた。すぐに頬にやわらかい感触が触れて、陸は不思議に思いながら瞼を持ち上げた。
「あ、れ? ちゅう……?」
「おかわりということですか?」
「んんっ」
ふっと笑う声に続いて、また頬にキスされた。とろりとした目で一織を見つめる。彼は白い頬を赤らめて「歯止めが効かなくなるな」と言った。上体を起こして、陸は手招きする。
「一織、耳貸して」
「ふたりきりなのに、内緒話でもするんですか」
呆れながらも顔を寄せた一織の頬に唇を押し当てる。普段は眠っている恋人への習慣づいた挨拶だが、今日ばかりは仕方ない。これでようやくすっきりした、と陸は頬を緩めた。
「わあ、一織の頬、熱いね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「でも頬へのキスは、いつもしてるもん」
一織は知らないと思うけど。
内緒話のようにひそやかに告げて、もう反対側に唇を押し当てると先程よりも熱かった。
ぐっと身を乗り出した一織のせいで、陸の身体は再びベッドへと倒れ込む。
「えっ、待って朝だよ」
「……かわいいことをするから」
「せめて朝ごはんの後! 食べさせてよ」
「我儘な人だな」
「ええっ……今のは我儘じゃないだろ」
両手で厚い胸を押し返すと、しぶしぶというように一織が退いた。そのまま片手を掴まれ、もう片方は背に触れて、起こされる。
「もしかしてオレ、今介護されてた?」
「失礼だな。エスコートですよ」
「だったら、もうちょっと優しくしてよ」
わざと頬を膨らませて目だけで見上げると、一織の視線は宙へと移動する。しばらくしたのち、アイドルスマイルを浮かべた。
「お手に触れても?」
「はい」
軽く指先が触れる。手を引かれ歩き、わずか三歩で扉へと辿り着いた。一織がドアノブを掴んだタイミングで陸は口を開く。
「朝ごはん……あ、もうお昼ご飯か……ねえ、今日はホットケーキだろ?」
「正解です。匂いでわかったんですか?」
不思議そうな一織に、陸はにんまりと笑う。答えを言うと、次からメニューを変えてきそうだ。だけど、また新しい楽しみを見つけるのもいいだろう。
少しだけ背伸びをして、そっと耳打ちした。
「激しいなあって思った次の日は、いつも一織お手製ホットケーキだから」
「っ!」
「だから、怒るに怒れなくなっちゃった」
機嫌取りのような朝食を用意する一織のことが好きだよ。
真っ赤に染まった耳朶へと口づけて、陸は幸せそうに笑った。
人酔いて本心を現す
タイミングを誤った、と和泉一織は少なからず後悔していた。
「っ~、浮気者め……っ」
「……は?」
恋人の薬指に指輪を嵌めた。ただそれだけで、一織は浮気者と言われてしまった。そもそも浮気という言葉の使い方が間違っている。酔っ払いに言ったところで仕方ないことではあるが。
「浮気の意味、わかってます?」
「いろんな女の人の指に、指輪嵌める人のこと!」
「間違ってはいないような、具体的すぎるような……面倒な人だな」
恋人である七瀬陸は本日をもって、二十歳を迎えた。節目ということもあり一織は彼に二種類の誕生日プレゼントを用意した。
まずひとつめは、最近陸が購入を悩んでいた靴だ。箱に結んだリボンをほどく姿は可愛らしく「何だろう?」と「結構大きいよね……まさか爆弾じゃないよね」と箱に耳を押し当てる時は、いったいどうしてくれようか思った。
箱の中身を開けた瞬間、二十歳らしかぬ無邪気な歓声を上げた。とても嬉しかったのか「今日はこの靴と寝る」と言い出したので、一織はありとあらゆる方法でなだめた。
IDOLiSH7センターの誕生日となると、祝わう人の数も多い。また誕生日企画において、ファンへのコメントの収録もあり、プライベートな時間を確保できたのは午前二時を過ぎた頃だった。
そして時計の針が三時を少し回り、もうひとつのプレゼントであった指輪を彼の薬指に嵌めた瞬間、浮気だと言い出した。
勿論生まれてこの方、一織は浮気という行為や、恋愛においての心移りを一度もしたことはない。
IDOLiSH7としてデビューして早三年の時が過ぎたが、自グループが一番のアイドルグループだと確信しているし、そのセンター七瀬陸のことも、世界一のスーパースターと思っている。きっぱりと公言もできる。なんなら単独ライブのMCでは毎回、ニュアンスは少し変えているが「うちの七瀬さんが宇宙一です」とも言っている。
それほどに一織は一途だ。
グループの仲間ではなく恋人として、指輪も用意した。プライベートで着けることは認めないが、一織なりに陸が恋人であることを示すものでもあり、決意表明でもある。
それなのに初めてのお酒でペース配分もわからず、出来上がった陸に浮気者となじられている。
浮気した記憶はいっさいないこと、陸の発言は酔っぱらいの戯言なので、苛立ちや不快さはひとつも沸き上がってこなかった。
むしろ面白くもあるので、動画を撮ろうと素早くスマートフォンを操作した。
身内限定ではあるがゲーム実況動画を配信することもあり、この部屋にも撮影用の道具は揃っている。机の上に顔を伏せて、ふにゃふにゃと文句を口にする陸の相手をしつつ準備を整えた。
「七瀬さん」
「ふああい」
「っ、かわ……いえ、何故先ほど私が指輪を嵌めた時に、浮気者となじったんですか?」
「だって、オレは初めてだけど、一織は初めてじゃないもん。仕事だから仕方ないけどさあ、拗ねてるの」
「はあ……」
主語が一切ない陸の言葉を拾い集めた一織は大体読めてきた。
「NG出してたら、何回!? 何人の女性の指に嵌めたの?」
「……少なくとも、五回はありますね」
「うわあんっ、やっぱり浮気者だ……っ」
どうやら最近見たドラマに感化されているようだ。
一織が出演した各週のドラマで、主人公の親友ポジションを演じたが、そのキャラクターが一癖も二癖もあった。
女好きの、本人は真面目に結婚相手を探しているため、いつでも指輪を持ち歩いては一目惚れするたび、女性の指に嵌めてプロポーズをする。
放送当時ファンからはキャストミスと辛口なコメントも多かったが、放送終盤を迎える頃には予想以上に好評価がついた。
指輪を嵌めるシーンはコミカルに演出されているものの、ドラマチックな展開も多かったこともあり、陸は視聴しながらわかりやすいヤキモチを妬いていた。
つまり今回の発言もヤキモチの延長なのだ。
「七瀬さんって、酔うと嫉妬深くなるんですね」
「なっ、嫉妬してないもん! 気に入らないだけだもん……。ドラマだとしても、やだもん……」
だって、オレの恋人なのに。
顔を上げてぐずぐずと泣きべそをかく陸は、物凄く可愛かった。理性的な自分が思わずベッドに連れ込もうかと、考えてしまうくらいには。
「プライベートでは初めてですよ? それに、私の意思で選んだ指輪です」
撮影のために用意された小道具よりも、ずっと魅力的だと思いませんか。
セレブ御用達と謳い文句のティッシュを掴んで陸の涙を拭っている今の場面には、とことん合わない口説き文句ではあるが。
「鼻、ちーんしてください」
「んーっ……じゃあ、一織……オレを」
オレを最後の男にしてね、と直球の口説かれた一織は当たり前です、と答えた。