SS詰め合わせ9【いおりく】寂しがりや。
じわじわと身体中に熱が回り、ぜえぜえとひりついた喉が酸素を吸う。瞼を下ろせば視界は黒でないといけないのに、暗闇の中で光の点滅が花火のように散っては新たに開いてはちかちかとする。身をよじれば、引き攣った身体が痛みを訴えた。
体中が熱い。直接火で炙られているのではなく、自分の内側からじわじわと込み上げてくる熱さだった。汗で濡れたパジャマが気持ち悪い。皮膚すべてに張り付いて重さと不快感に呻く。荒い呼吸も、激しい咳や呻き声も、熱に魘された陸だけにしか届かない。療養している間彼はずっと孤独だった。
苦しいときは宇宙服無しの身一つで放り出されるような心細い気持ちになる。ふわふわと浮いて、足も着かずどこにも辿り着けない。周りの星々は明るく煌めき、それはとても美しいものだが、果てのない宇宙で迷子になっているような不安に似ている。
大好きなメンバー七人で住んでいるはずなのに、声も気配もなくてただただ寂しい。
しんと静まり返っているのは具合の悪い陸を気遣っているからだ。理性的な頭ではわかる。だけど熱に魘された頭では、この寮にいるのは自分一人だけだと、皆は仕事だと考えてしまう。寂しさと悲しさだけがぐるぐると巡ってじわりと枕が濡れた。
「っ……う」
瞼が熱くて、気が付けばぽろぽろと涙が零れていた。せっかくこまめに水分を取っているのに、これでは意味がない。急いで手探りでスマートフォンを見つけ掴む。ひんやりとした端末の温度が熱っぽい手のひらに心地よかった。
ラビチャを開き、和泉一織を選んでメッセージを送る。
『さびしいよ、一織』
既読はつかない。けれども構わずメッセージを送る。
『オレに会いにきて』『ごめん』『うそ』『一織が好き』『これは嘘じゃないよ』
『ぎゅっとしてほしい』『風邪うつっちゃうからだめだよね……ごめん』
最後におやすみを告げるスタンプを送る。やはり既読はつかなくて、孤独を払拭させるための行動は結局さらに寂しさを抱くだけになってしまった。
──一織の声が聞きたい。
せめて機械的な通知音でもいい。今はただ一織からの言葉が欲しかった。
『ちゃんと寝てください』『あなた年上でしょう』『仕方ないな』
優しい言葉じゃなくて、小言交じりでもいい。
苦しいときほど、双子の兄に置いて行かれた記憶が鮮明に蘇り、寂しさに取りつかれる。心が病めば身体も自然とついてくる。ひゅっと喉を締め付ける音に慌てて涙を拭った。
既読のつかないラビチャを閉じた陸はボイスメモを起動する。一織と名前がついたフォルダーを開いて、順番に再生しはじめた。一言一句一織の声を聞き漏らさないように、布団へと潜る。暗い世界ではディスプレイの明かりが唯一の光源だった。
『……聞いていますか、七瀬さん』
「聞いてるよ」
『ですから、何度も言ったでしょう。初めて作る料理では必ず私を呼ぶように、と』
「うん……」
端末から一織の声が聞こえてくる。これはお説教時にこっそりと録音したものだった。小言が多いのだが一織の言葉には心配という感情が現れている。くどくどと叱るのも結局のところ陸が心配だからなのだ、とこっそりと三月に耳打ちされたこともある。
五分ぐらい経ってようやくお説教の終わりが見えてくる。最後にぼそっと、聞き取れない程度の声量で「しゅんとしている……かわいい人だな」という呟きが聞こえ陸は笑った。
次のボイスを再生していく。淡々としながらも陸に向けた言葉の数々はあたたかい。『好き』や『愛している』『かわいい』など恋人に向ける言葉はないが、その代わり七瀬陸に期待する言葉は多かった。
例えば歌番組の収録前に弱音を吐いた陸に対して『流れ星を降らせられますよ』と随分昔のことを持ち出したり『あなたが一番ですよ』と聞いている方が恥ずかしくなることをさらりと述べたり。そして必ずと言っていいほど、一織は確信した瞳で陸を見つめている。
絶対的な信頼をぶつけてきて、さも返すことのは当然でしょうという顔をする。だからこそ陸もまた気持ちをぶつけるように歌うことが出来た。
「一織……」
「はい」
掠れた声で彼の名前を呼ぶ。返ってくるはずのない返事は小さな空洞の外から聞こえた。
(まさか。そんなはずは……)
通知を知らせる音はなかった。この空間にあったのは陸が密かに録音した一織の声だけだ。
ボイスメモを閉じて、ラビチャを開くよりも先に光が差し込む。眩しさに目を細め、しかしぼんやりとした視界でも見覚えのある仏頂面が見えた。
「一織?」
「寂しいのなら、メッセージではなくて電話をかけてくればいいでしょう」
ひんやりとした手が火照った頬を包み込む。体温は低いとは言え普段はあまり温度差を感じない。しかしひどく冷たく感じた一織の手が心地よく、止まっていたはずの涙が零れた。
「だって」
「ああもう泣かないでください」
眉を下げて一織は困ったような顔をした。くたりと脱力した身体を力強い手が抱き上げる。ベッドボードに背を預けた一織の上に乗り上げるような体勢となり、発熱した身体が触れ合った。後ろから掛け布団を掛けられて、その上からぎゅっと抱きしめられた陸は慌てる。
「……っ、だめっ、オレ汗いっぱいかいてるから」
「今さらですし、気にしませんが」
セックスをしたことあるでしょ? というニュアンスが含まれていたことを陸は即座に察知した。さらりと口にした照れもしない言葉に熱が上がる。
「ばか……」
「それはこちらの台詞です」
頬に張り付いた髪を耳にかけ、長い指は再生中の端末を指す。
「あんな過去の私の言葉で満足できるんですか?」
面白くない顔はおそらく嫉妬から出てきた表情だ。澄ました顔で陸をリードするのに、こういうところは案外と年下らしい。かわいいなあ、と頬を緩めていれば白い頬がわずかに赤らんだ。視線が逸れる。
「ううんっ……ほんものがいい」
「当たり前です」
「あは、一織だ……けほ……っは、」
「無理に喋らないで」
ゆっくりと拘束が緩んだ。代わりに大きな手があやすように背中をさする。もっとしてというように、肩口に顔を埋めて額を擦り付けると控えめな笑い声が陸の耳朶をくすぐった。
「一織、ありがとう……それとね」
だいすき。
吐息交じりの舌足らずな言葉のあと、大きなため息が聞こえた。
「どうしてこのタイミングでそういうことを言うんですか」
「言いたかったもん」
顔を上げようとしたが、後頭部に手を置かれ軽く押さえつけられてしまった。耳が赤くなっているのはばっちりと見えた。
「病人に手を出すわけにはいけないのに」
「いいよ」
「駄目です」
「いおりのけち」
「……覚えていてくださいね」
低い囁き声にぶわりと背筋が震えた。これは悪寒ではない、期待だ。治ったらきっと一織に抱かれるのだろう。激しく、甘く、とけるような熱を与えてくれる。
ふわふわとまるで宙を飛んでいる気分がした。相変わらず体の内側で発熱していて、骨は軋むように痛い。すでに陸の熱が移ってしまい、一織の身体からは冷たさを感じない。むしろ熱いくらいだ。
けれども、寂しくなることはもうなくて、陸の身体と心は安心感と穏やかな眠りに包まれていた。
すいーとふれんどしっぷ。 真上に位置し灼熱の陽光を降りそそいでいた夏の太陽は西の空にその身を沈めようとしていた。ぬるい風から涼しげな温度へと変わった風は汗で湿った黒髪を揺らす。吹き上げた風が麦わら帽子のつばをすくい、飛ばされないように慌てて手で押さえながら少し前を歩く一織を追いかけた。
「一織」
「はい」
好き、の言葉を飲み込んだ陸は代わりの言葉を口にする。
「ひまわり畑きれいだったね」
「そうですね」
当たり障りのない会話でも振り返った一織の口元が緩んでいるのを見つけて胸がきゅっとなる。顔を少しだけ横にずらせば遠くにあざやかな黄色の丘が見える。夏の青空にしっくりと合う花は、橙色の空では混ざりそのまま溶け込んでしまいそうだった。
七月の誕生花である向日葵を見に行こうと言ったのは一織だ。
変装、そして熱中症対策用に麦わら帽子を陸に被せ、自分は伊達眼鏡だけ。ふわっと浮き上がろうとする陸の頭を押さえ、一本の日傘を二人で使いひまわり畑へとやってきた。
力強い花々に陸は暑さを忘れて駆け出してしまい、転びそうになる陸を一織が支える。それはいつもの光景で、腕を掴んだ一織の手は少しだけ湿っていた。
眉根を寄せたしかめっ面にどきっとする。危ないから走らないでください、と叱られているというのに心臓は駆け出して陸の頬を赤く染める。顔の見えない自分でも、今の状態がどんなふうに一織の目に映っているのかわかっている。
さりげないやさしさから、好きが溢れてしまいそうだ。
それでも心地よいこの関係が壊れてしまうなら素直は飲み込んでしまう方がいい。
「じゃあ、ゆっくり歩くから」
自ら手を伸ばせない。一度閉じた日傘を指さした陸は笑う。
「隣で一緒に歩いてて」
どこまでも青い夏の空は二人で広い向日葵畑を歩いているうちに色を変えてしまった。帰ろうと口にしたのは勿論一織だ。あと少しだけ、と陸はねだり二人きりの時間を延ばしたが、橙色へと変わりとうとう時間切れになってしまった。
二つ並んだ影法師の手は繋がっているのに、現実は違う。少し先を歩く一織を早足で追いかける。麦わら帽子のリボンがひらりと揺らいだ。
夕焼けよりも色濃い赤のリボンがついた麦わら帽子は一織が選んだ。本当は隣にあった青いリボンの方が良かったのに、一織にあなたはこれだと被せられ、文句も言わせてくれない。火照った顔が冷めるのも待っていれば、一織よって会計が終わってしまった。
「ねえ、一織」
「はい」
「また来年も連れてきてくれる」
「はい」
やっと追い付いて、つま先半歩先に出た陸は覗き込む。隣にいる一織が笑って頷くのだから、今はまだこの心地よい関係で居ようと思う。いつかの未来、この曖昧な関係を一織とともに笑えられることを願う。
さらに沈んだ夕日によって、二つの影法師は交わり合っていた。
夏の恋人。
一番暑い時間帯を超え、それでも日差しはきつい。片手には遮光百パーセントの日傘。もう片方の手は陸に繋がっている。ぬるい温風が汗ばんだ頬を撫で青いリボンが視界の隅でひらひらと揺れる。赤い方は一織が被って、と無茶ぶり大魔神により無理やり被らされ、一織が購入した青いリボンのついた麦わら帽子を陸はご満悦の表情で被った。
だからなのか陸はずっとにこにこしている。それがあまりにもかわいいものだから一織は彼の顔が見られず、けれども繋いだ手は絶対に離せない。
「ねえ、一織」
「はい」
「今年も連れてきてくれてありがとう」
「……まだついていないでしょ」
振り向かなくてもわかる。ふにゃりと緩んだ頬は真っ赤になっているのだろう。赤色の髪の毛先はぎゅっとくっつき、そこに溜まった雫は地面へと落下する。それほどに暑いのだが陸は不満どころか、むしろ一緒に居られることに対して幸せそうに笑う。
「もう少しで着きます」
「はぁい」
はぁいってなんだ。はぁいって。
甘えを隠さない返事に緩みかけた唇を引き締める。無意識に力が入ってしまったらしい。繋がった先方から無言の文句が届く。さらに深く指が絡まるように繋ぎ直すと抵抗はあっさりと止んだ。
「一織、見て」
少し顔をあげればあざやかな黄色が目の前に飛び込んできた。青い空に真っ白な入道雲。青と白のコントラストに向日葵の黄色と緑はひどく馴染んでいる。目を瞠るような色鮮やかな景色を目の前にしながらも一織の視線は隣へと注がれた。想像通り頬は赤く、大きく開いた瞳はきらきらと輝いている。遠くの景色よりも隣にいる存在の方が強烈で眩しい。だけど目は逸らせない。閉じる、という選択肢も存在しない。
「わあっ……今年もすごいね」
「そうですね」
「はやく行こうよ」
「ちょっと、日傘から出ないで!」
駆け出した恋人の行動は繋いだ手によって防ぐことができた。代わりにむうっと頬を膨らませ上目遣いに睨むものだから、それ以上一織は顔を合わせられない。走らないように、けれどいつもよりも早い速度で半歩先を歩き、陸を促す。
石造りの階段を一段ずつ降りては陸を待ち、手を差し出せば「女の子じゃないよ」と。後ろから聞こえた小さな呟きにしれっと「恋人扱いです」と答えた。
コンクリートは違う柔い土の感触を珍しく思いながら、ゆっくりと歩く。まばらではあるが人の姿は見える。けれども一織たちよりもずっと背の高い向日葵たちに囲まれているため、小さな二人きりの空間にも思えた。群生する向日葵が壁となり、人は埋もれて誰も一織たちの姿を見つけられない。
「一織」
「はい」
振り返るとまだ赤みの抜けていない陸が照れたように笑った。片手で帽子のつばを持ちぐいっと下ろす。
「あ、ええと……ちょっと顔と傘こっちに傾けて」
「はい?」
小首を傾げた陸と同じ方向へと顔を傾けると、唇が少しだけ尖る。かわいいな、とぼんやり見つめていれば、距離は縮められて唇にやわらかな感触がぶつかった。
「っ、な、七瀬さん!?」
「なんか今すごくしたいなって思って……怒った?」
顔が熱いのは、暑さだけのせいじゃない。
してやられたという気持ちと、たまらなく好きだという気持ちが綯い交ぜになる。上目で一織の機嫌を伺う陸がただただかわいくて仕方ない。
「七瀬さん」
「いお、ん、ふっ……」
皆顔を上げて夏の空に浮かぶ向日葵を見るだろう。普段の一織なら絶対にしない言い訳を心の中で述べて、日傘を深く傾けた。
雨
その日は雨だった。和泉一織が恋を自覚したのは、夏のぬるい雨に濡れた陸のせいだった。
元気よく跳ねた髪はぺしゃりと垂れ、みるみるうちに毛先へと伝った水の雫は膨れ上がり、靴先に水たまりを作る。白いTシャツは身体に貼りつき、肌は薄く透き通り、うっすらとついた筋肉すらも浮かび上がらせた。それほどにひどい有様で、同時に一織の眉間の皺が深く刻まれていく。
強い香りは陸の身体に作用するため、寮で使われている柔軟剤は無香料だ。香りの弱い洗剤で洗濯したふかふかとしたタオルを頭に被せて、大粒の雫を拭い取っていく。
「ちょっ、一織痛いよ」
「黙って」
痛いという割に拭われている陸が嬉しそうな声を出すものだから、この後の説教がしづらくなる。たとえ誰に訊ねたとしても、雨脚が弱まるまで待つ、と答えるであろう。そんな激雨のなかを、駆けて息を切らして帰ってきた陸を一織は叱らなくてはいけない。メンバーは皆、陸に甘いせいで、いつだって年少である一織が陸を叱る。そういう役目だ。くるくると表情を変える大きな目を伏せてしゅんとされると、一織ですら心臓がぎゅっと痛むこともある。だが陸が、一織以外の(敬愛する兄は除く)誰かにしゅんとさせられるのは面白くないので、結局のところ、憎まれようが拗ねられようが一織がすべきことなのだろう。
たっぷりと水気を含んでいたサイドの髪をしっかりと拭き取り、最後に前髪をタオルで軽く撫でる。俯いていた陸が顔を上げ、ようやく今日初めて一織は陸の顔を見た。
「ありがと、一織」
今から説教をされることを陸は知っている。なのにしかめっ面の一織に、ふにゃりと笑いかけた。湿ったタオル越しの手に触れて、控えめにきゅっと指先を握る。普段は思いきり抱き着いてくるくせに、こういうときばかりいじらしくなる陸にずるいと思った。
心臓がうるさい。薄く息を吐きながら、一織は口を開いた。
「どうして雨宿りしなかったんですか」
「早く帰りたかったんだよ」
「何故?」
「久しぶりに一織とオフが被ってるんだよ。一緒にホットケーキ作りたくて」
そう言いながら大事に胸に抱えていたものを見せつけるように前に出す。ホットケーキミックスと可愛らしいフォントで書かれたポップな箱だ。「あ、ちょっと濡れちゃってる」としょげた声で呟く陸に、一織は脱力してしまった。
「そこまで大事なものじゃないでしょ」
「大事だよ! これでホットケーキ食べてるときの笑顔の一織が見られるんだから……っ、あ」
「は、い?」
うっすらと赤みがのっていた頬が勢いよく色づく。今のなし、今のなしと陸は真っ赤な顔で両手をぶんぶんと横に振って、頬を押さえながらその場に蹲る。伝染したように一織の頬も熱くなった。
「何、言ってるんですか」
「だって……せっかく一織と一緒のオフなんだから、一織の笑ってる顔見たいじゃん……」
思わずつぶやいたひとりごとに、陸はしっかりと答えてしまう。あーだとかうーだとか唸る陸の姿にかわいいなと無条件にそう思い、もう説教どころではない。
早鐘を打つ心臓の理由を、聡い一織は気が付いてしまった。
陸が帰ってくるのを玄関先で待つという、非効率的な自分の行動を不可解に感じていた。けれども今ようやくすべて理解してしまった。
些か気恥ずかしさはあるが、今の自分がすべきことは、陸を笑顔にすることだろう。
咳払いをひとつだけした一織は蹲った陸に、手を差し伸べる。
「ほら……ホットケーキ作るんでしょう?」
「うん……」
直接触れた体温は暑くて、それでも自覚した身体に驚くほど馴染んでいた。
すきスキ好き隙あり攻防戦
七瀬陸の場合
「今日の一織も恰好いい!」
「ありがとうございます」
「すっごく、好き!」
「では来週の現場はこのコーディネートでいきますね」
十六回目の好きも一織には伝わらない。心の中でがっくりと肩を落としながらも、珍しい一織の笑顔に陸はふにゃりと頬を緩ませた。
(ううううううっ、もうっ……このにぶちんめ!)
分析力に優れ大抵のことはそつなくこなせるパーフェクト高校生なのに、陸が抱いている好意には気が付かない。陸が伝える好きを否定するわけではなく、受け取ってくれるものの友愛だと思っている。一回目の「好き」を告げたときは目を丸くして驚き、心なしか頬も赤らんでいたというのに今は平然と受け取るようになってしまった。しかしそれでも一織のことが好きなのだから仕方がない。
過去にはラビチャで告白したこともある。しかも一味違ったものにしようとあいうえお作文に挑戦した。なお結果は現在の一織の様子から察してほしい。
(好きって言葉じゃなくて、もっとストレートな方がいいのかな)
隣に座ってスマートフォンを見ている一織の横顔を見つめる。おそらくSNSをチェックしているのだろう。時折唇がふっと綻んで嬉しそうな顔をする。
視線に気が付いたのか、一織は顔を上げ陸を見つめた。
「七瀬さんがカバーした曲、ダウンロードサイトで一位だそうで」
「そ、そうなんだ。なんだか恥ずかしいな」
「聞いたときから予想は出来ていました。分かっていてもファンの言葉を見ると嬉しいですね」
「そうだね」
そんなに喜ばないでほしい。陸は心の中でもうっと憤る。
(一織のばかああっ! もっと、もっと好きになるじゃん)
「七瀬さん?」
真っ赤になっているであろう頬にひんやりとした手が触れてきた。火照った温度に気持ちいいと思う反面どきどきと心臓がさらなる早鐘を打つ。覗き込まれてもう少しだけ、勢いをつけたら唇が触れそうなほど近い距離なのに、この鈍い男はわかっていない。
(いっそ、き、きす……ちゅーしてやろうかな)
そうすれば、一発で陸の気持ちがわかるはずだ。好きよりも効果的で、触れた瞬間心臓が爆発するかもしれない。じいっと唇を見つめる。薄く小さな唇がゆっくりと開く。妙に色っぽくてそのまま重ねたくなるそれをもう見ていられなくなった陸はぎゅっと目を閉じた。
(あ、やっぱり!!)
「すき、は無理ぃ……」
「……は」
和泉一織の場合
「今日の一織も恰好いい!」
「ありがとうございます」
「すっごく、好き!」
「では来週の現場はこのコーディネートでいきますね」
通算十七回目の陸からもたらされた「好き」の言葉を今日も耳にして、一織は表情を緩めた。少し膨らんだ頬がふにゃりとほころぶと幼さが増す。普段から陸はかわいいが可愛さの種類が違う。人懐こい子犬のような愛らしさに表情筋を引き締めながら一織は心の中で叫んだ。
(ああ、もう……これ以上勘違いさせないでほしい)
ただでさえ厄介な訴求力もあるというのに、無自覚に人を誘惑するなと言いたい。同時に自分が理性強くて良かったと思う。
陸は好きを素直に伝えられる人だ。いいなと思うものを見ても「好きだな」と口にしたり、環やナギとゲームをしているときは三十分に一回「環、好き!」「ナギ……! 大好き」と好きの大安売りをしている。
(あれは蘇生してくれてありがとう、好きの意味なんだろうが……あれではストーカーを大量に生み出してしまう)
一織に対して好きと言うのは、他のメンバーと比べると少ない方だった。が、何故か最近一気に与えられる好きが増えてしまい、一織自身嬉しいと思いながらも困惑している。
一番面白かったのはラビチャで送られてきたあいうえお作文での好きだ。感心するよりも先に吹き出してしまった。そのあと続いてきなこのどや顔スタンプもかわいいもので、全文が入るようにスクショした。
一織がソファに座ると少し遅れて陸も隣へと腰かける。
(くっ……かわいいっ)
こっそりと見続けていたいがそうもいかない。心を落ち着かせながら、SNSアプリを開きタイムラインにざっくり目を通す。あらかた情報を得たのちに七瀬陸の単語を打ち込んだ。すると七瀬陸への愛を叫ぶコメントから先日発売した陸のカバー曲の感想が流れてきた。先ほどよりもしっかりと読み、好感が高いコメントには自然と笑みが浮かんだ。
隣からもの言いたげな視線に仕方ないと顔を上げる。
「七瀬さんがカバーした曲、ダウンロードサイトで一位だそうで」
「そ、そうなんだ。なんだか恥ずかしいな」
「聞いたときから予想は出来ていました。分かっていてもファンの言葉を見ると嬉しいですね」
「そうだね」
(何故そんなに顔を赤くする? 今の会話可笑しかったんだろうか)
じわじわと赤みを差す頬に不思議に思い手を伸ばす。触れた瞬間びくっと陸の肩が跳ねて、だが拒絶する素振りは見せない。あ、と薄く開いた唇が困ったように動き、訴求力の核でもある大きな瞳には水の膜が張られていた。ゆらゆらと揺らぐ赤い瞳が「好き」だと思う。
切ない顔をした陸はずるい。締め付けられたように胸が苦しい。触れたい、と訴えてくる瞳に引き寄せられるように、距離を縮めた。
(あ、まずい)
ふうと微かな隙間から洩れる吐息に唇をくすぐられる。いっそ塞いでしまおうか。そうすれば、この無邪気な好きもあっさりと止まるのかもしれない。
(いや、そんなことよりこのままだと)
キスしてしまう。そしてきっと歯止めが効かなくなるだろう。
前髪が触れるまで距離が縮まった瞬間陸の目がぎゅっと閉じられた。惹き付けられていた一織はぴたりと止まる。すぐに続いた弱々しい声に思考が停止した。
「すき、は無理ぃ……」
「……は?」
あんなに好きだと言っていたのに?
想像よりも低い声が出たことにも驚いたが、それよりも今は陸の言葉の真意が知りたい一織は攻めることを決めた。
えくすとら
「七瀬さん?」
「あ、ええと、ちがっ、むり、じゃなくて、一織とキスしたら心臓止まっちゃうから」
「は」
「……っあ、声に出てた……? い、今のなし!? 忘れて」
(いやいやっ、忘れませんけど、というか私とキスしたら心臓が止まるってことは、それならいっそ)
「七瀬さんとキスしてみようか」
「ええっ!?」
(まって、まって、つまり一織ってオレのこと……)
「……っ!? ちが、違います!! 今のは間違いです」
「今のどうやって間違えるの!?」
(だからそんな顔を寄せないで。キスしたくなる)
「あなただって間違えていたでしょ!」
「なっ! だってそれは一織が」
(一織が鈍いからで)
「ちゅーしたら、オレの好きが伝わるって思って」
「はあ……は?」
(つまりそれは)
「あ! 気のない返事、信じてないな!! じゃあ今からキスする」
(一織が隙だらけだから、いけないんだ)
「待って下さっ……い……ってこれキスじゃないでしょ! ずれてましたけど」
「うううううっ、だ、だって初めてだもん! そういうなら一織からしてよ」
「わかりました。目は瞑って」
「……ん、やさしくしてね」
(これだから無自覚は!!)
「無理です!!」
「いおっ、んんんっぁ……」
陸から数えて十八回目、一織から数えて十七回目の好きは相手の唇に溶け込んだ。
やっと気持ちが通じ合った二人ではあるが、日常茶飯事にもなった好きは続いていくし、そのたび一織は表情を引き締めては心の中で悶えているのであった。
和泉一織
一織ー!!!!!!ちゃんと読んでね!!!
い いつでもクールの
お オレのプロデューサー
り 理由なんていらない
す 好きと思った
き 気のせいじゃないよ
【どや顔しているきなこのスタンプ】
ちょっと笑わせないで。
爪先立ちの恋 これは爪先立ちの恋だった。
相手は一つ年下なのに陸よりもずっとしっかりしていて、何でもそつなくこなすことができて、彼は陸と同じ男だった。
最初はいけ好かない奴だと思っていた。年上を敬わないし、すぐに言い返してくるところは可愛げがない。一いえば十で返り、最終的にそっぽを向けば笑う。喧嘩できる相手なのは少しだけ嬉しかったけど、一つ違いの一織との仲直りの仕方はどうしてもわからない。年長たちに宥められてしぶしぶと和解することの方が多かった。
喧嘩の数が減って代わりに内緒話が増えたのは、嵐のライブよりも少し前だ。誰よりも先に陸の持病に気が付いた男は陸を爆弾だと評した。冷静に振り返ればその言葉は失礼ではないだろうかと思うけれども、真っ直ぐな一織の言葉はいつだって陸の心臓を貫いていった。
一織は陸の少し上にいたような気がする。ミューフェスの失敗を恥じて涙する一織を見たときは胸が痛くて、泣かないでと思った。同時に可愛がりたいと思った。照れながらも兄に甘える一織の姿に陸は三月が羨ましかった。そうしてやっと同じラインに立てたと思ったのに、一織は再び陸の半歩前を行く。
仲直りの仕方もわからない喧嘩相手は、いつしか信頼できる好きな人へと変わってしまった。
友情と恋情は違った。友情だった頃はマネージャーの紡と居る一織にヤキモチのようなものを妬くこともあったが、今は逆だ。紡に妬いてしまう。一織と紡は、アイドルとマネージャーという関係でなければ、お似合いの二人であり、男と女でもあった。陸がどう努力したところでその溝は埋まらないだろう。一織が自分の歌声に心酔していたとしても、それは安心材料にはならない。友情なら簡単に言えたはずの、たった二文字の言葉も口に出来ない。
以前は恋とは歌のようだと思っていた。そして今陸にとって歌はIDOLiSH7の七瀬陸を形どるもの、一織が向けてくれる好きの対象。ならば口を開くことすらできなくなった想いはもう歌などと陸は言えない。
胸の奥に存在していて、喉まで出かかるのに音にならない想いは陸を蝕む。飲み込んで作り笑いする陸と、そんな陸に期待の眼差しを向ける一織。どうして差は開いてしまったのか。
必死に爪先で立っているのに。
一センチしかないはずの一織が遠い。
これは爪先立ちの恋だった。
一織が望むコントロール権の代わりに陸は一織をある言葉で縛る。それはもう恋なんていった可愛らしいものではない。ちょっとした衝撃で壊れてしまう綺麗なガラスケースのそれはどことなく歪んでいる。自覚しつつも、小さな子どものような言葉を口にした。
──置いていかないで。
訴求力VS理性
(じっと見つめているな……)
無言で私の隣に腰かけ、テレビを見るわけでもなく、スマホをいじるわけでもなく七瀬さんはただじっと私の顔を見つめている。目を細めて睨むとは違い、動物が大きな目でじいっと見ているのと似ている。例えばこれが私ではなくて、私を通り過ぎて斜め後ろにいる何か──夏になるとわりとある。そして四葉さんが逢坂さんの後ろに隠れる──だったらもはやホラーだ。
「七瀬さん、何か言いたいことがあるんですか」
「…………」
返答は返って来ない。喉の調子が悪いのだろうか、それとも私に言いづらいことがあって無言を貫いているのか。いろいろな考えを巡らせていれば、不意に私の服の裾を遠慮がちに掴み、身体を寄せてきた。
(なんだこのかわいい生き物は)
あまりのかわいさに思考が飛んだ。そしておそらく調子は悪くないことがわかった。
いつもなら、いおりーっ! と間延びした声で名前を呼んでダイブするように抱き着いてくる七瀬さんが、いじらしく裾を握って時折つんと引いている。うすくやわらかな唇は突き出されて、拗ねているような甘えているようなものへと変わった。音にすればむぅ、と唸るような表情だ。既視感を覚える。
(子犬だ。細かく言うなら犬種はパピヨン)
小さな前足をたしっと膝に乗せてくるところなんてほぼ同じだ。と言っても七瀬さんは成人男性寄りになるので、片手でも体重をかけられると痛いが。
大きな目でじいっと見つめている。眉が困ったように寄っていて、何だかかわいかった。
(私に通じてなくて七瀬さんが困っている)
口では言いたくないが、察してほしい。何で察してくれないの、と面倒くさい彼女のようだが、普段ストレートに物を言う人だから言いにくいことなのだろう。
(キスして……か?)
七瀬さんはキスが好きだ。触れるだけのものでも、ふにゃっと笑って頬を赤らめる。情交を彷彿させる深いキスだと目をとろんと蕩かせて、はふはふと呼吸を繰り返す。本人の口から確認してはいないが、表情がすべてを物語っている。
仕事を頑張ったから、キスしてほしい。
つまり七瀬さんは無言で訴えているのだ。
(いつ誰が入ってくるかわからないし、ここでするのは危険だな)
口づけるだけの、三秒で終わったとしても持ち前の訴求力で、これだけ……? もっと。とおかわりを要求されれば、逆らえない自信がある。そもそも最近ようやく七瀬さんはキスの合間鼻で呼吸をすることを覚えたのだ。唇にほんのすこし触れるだけの易しいキスで満足できるのか。いや、しないだろう。
私が必死に策を巡らせている間にも、じいっと見つめてくる訴求力や裾を掴む力が強まっている。唇なんてもうキス待ち顔くらいにつんと尖って、簡単に出来てしまう。まるで海水の温度が高ければ高いほど発達する熱帯低気圧だ。そもそも七瀬さんの存在が台風のようなものだから、いくらパーフェクト高校生の私でも抗うのは難しいだろう。
これで「いおり……」と拗ねたような声色で名を呼ばれでもすれば、発する言葉ごと飲み込む自信がある。改めて七瀬さんが無言でよかったと思ってしまった。
だが未だに七瀬さんの訴求力は勢力を増している。瞳だけではなく、とうとう鮮やかな唇に視線を向けてしまっていた。きちんとケアしている唇はいっさいのかさつきもない。女性のような艶やかさではないが、触れると心地よいものだと私はすでに知っている。七瀬さんの唇の感触を知っている。温度を覚えている。見てしまえば、触れたくなる。
ならばいっそ、目を閉じればいいのだと行きついた答えの先にあったのは、くすぐったさと一瞬の熱だった。
「……は?」
きょとんとした顔がすぐ傍にあった。何故、と問うと七瀬さんは不思議そうに小首を傾げた。
「え、だって一織ちゅーしてほしかったから、目閉じたんだよね?」
素直に白旗を上げることもできず、私はその場に崩れ落ちた。「えへへ奪っちゃった」と甘い声に、追い打ちをかけられて。
恋人からクレームを受けた和泉一織の話。「一織、オレおまえにクレーム言っていい?」
「……は?」
クレーム。辞書で調べると、貿易で売手が契約違反をした時、売手に損害賠償を請求すること、と書いてある。同じだと思われがちであるが、クレームは苦情とは別物だ。クレームは商品やサービスに関して、直接的に損害を受けた場合の請求行為。苦情は、何らかのトラブルに不満を感じた顧客がその不満を表す行為だ。
本当に陸は一織にクレームを言いたいのだろうか。
言っていい? と上目で見つめてくる恋人はクレームというよりも、一織におねだりする十秒前の顔をしていた。
「……はい、どうぞ」
促すと、陸はほっとした顔を浮かべた。瞬時に顔を赤らめ、指先同士をくるくると回している。
「ええとね……昨日の夜、一織と……そういうことしただろ?」
そういうこと。あまりにも婉曲すぎるが、一織はすぐ答えに辿り着いた。
昨日の夜に二人でしたものと言えば、セックスだ。
(かわいいな)
敢えてとぼけた振りをして「そういうことって何ですか? もっと具体的に言ってください」と訊くこともできるが、そうすれば二重クレームに繋がってしまう。
クレーム対応で大事なのは、まずは相手の話を聞くこと。緩みそうな口元を引き締めながら、神妙な顔で頷いた。
「一織にいっぱいいろんなとこ触ってもらって、すごい気持ち良かったんだけど……」
(物足りなかったか?)
今ここで口を挟むのは早計だ。
うーだの、あーだの、唸った陸は蚊の鳴くような声でぽつりと零した。
「オレも、いおりの……舐めたい」
「んん!!」
あまりの衝撃に声が出てしまった。爆弾発言を落としていった本人は耳朶まで赤くして「だって……気持ちよくしたいんだもん」と追い打ちをかけてくる。
「舐めちゃだめ……?」
上目プラス潤んだ瞳。さらに熱っぽい吐息を洩らしながら、一織の手の甲を撫でるのだから首の後ろが粟立った。
お願いします、と口にしなかった自分を褒めたい。ほんのすこしだけ尖らせた唇に目を奪われながら、一織は必死に理性を保つ。
目を逸らさなければ負ける。だけど、淡い唇から目が離せない。
陸の訴求力の恐ろしさを身をもって実感する。
「気持ちは嬉しいのですが、その……私ので七瀬さんの喉を傷めるといけないので」
痛めるってなんだ。
即座に心の中でツッコミを入れた一織は陸からの返答を待った。
「……さきっぽだけぺろぺろしたり、ちゅってするから」
「っ、そういうことじゃなくてですね!?」
「オレできるよ?」
「ちょっと、まってくださいっ!!」
一織の手を掴み、ぺろりと舌を出した陸は舐める振りをする。果てには「一織にされて気持ちいいから、気持ちよくしたい」と潤んだ瞳を向けた。
「……お風呂に入ってきます」
負けたのは一織だった。興奮を悟られぬように立ち上がると、陸も立ち上がった。
「オレも入る!」
「は? あなたもう入ったでしょ!」
「だって、一織と入りたいし……それに」
言葉を切った陸は脚の間に不躾な視線を送った。
洗って、舐めて、咥えたい。
ストレートな要望に一織は言葉を失い、陸はそれを肯定だと捉える。
(今日は本気で七瀬さんを泣かせる。泣いても止めるものか)
クレームに負け、広い浴室で愛撫されることが決定した一織は、せめてベッドの中で逆転してやろうと覚悟を決めた。
ドントタッチミー!
「一織はオレに触っちゃだめ!!」
「…………は?」
ドントタッチミー!
陸の口の端についた食べかすを取ろうとしただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。何か含みがあったわけでもない。ただ親切心から手を伸ばしただけだった。
一織の指に気がついた陸が顔を真っ赤にして叫び、あまつさえ後ろに下がってしまった。
「どうしてですか」
「えと……内緒!」
「は?」
思ったより低い声が出たが、陸は気にしていないようだ。確実に一織から距離を取っている。
陸の態度があからさますぎて傷つく、ということはなくただただ苛立った。
「普段は七瀬さんの方から、べったり引っ付いてきますが?」
「それは……気分で! 今は一織と引っ付きたくない気分! ドントタッチミー!」
埒が明かない。
はあ、とため息をつくと陸の肩がびくりと跳ね上がった。こちらの機嫌についてはどうやら意識しているようで、一織は自分の口の端を撫でた。
意図がわかったのだろう。はっと目を開いて、しかし食べかすがついていないところを陸は真面目に擦る。その姿はかわいいものだが、これではスタジオに戻ることができない。
九条さん甘やかしすぎです、と自分の過保護は棚に上げた一織は口を開いた。
「反対側です」
「……っ、ありがとう」
次の日になれば陸は自ら寄ってくるだろう。それだけではなく、反動で抱きついたり、いつも以上に甘えてくるはずだ。
今日だけは触られたくない気分なら、ここは一織が我慢するところだろう。
(仕方ない人だな)
陸の行動をシミュレートして、予測できる反応に一織は口元をほんの少し緩めた。
「一織……なんでにやけてるの?」
「にやけてませんけど!!」
しかし元凶はすがすがしいほどに失礼な人だった。
だが一織の予想とは裏腹に、次の日になっても陸は近づいてこなかった。
朝起きて身支度をしているときに遭遇すると、陸はささやかな接触を仕掛ける。洗面所が空くまで小指同士を絡めたり、後ろから抱き着いては背中に顔を埋めて唸ることもある。
だが今日は「ごゆっくりどうぞ」と普段ならあり得ない気遣いの言葉とともに出て行ってしまった。
「いおり~早く」と陸に急かされないと妙に気分が優れないことに気がつき、さらに複雑な気持ちになった。
朝食時も一織の隣の席が定位置の陸は対角線上の席に座った。
おかげで周りからは喧嘩でもしたのか、と心配され一織が誤魔化すよりも先に陸が「そういう気分なだけ」と返答し、ますますいろいろな視線を集めることになった。主に自分の方に、だ。
そんなことが降り積もり、一織の機嫌はものすごく悪い。さらに陸は話しかけてくるが、近づいて来ない。
機嫌はますます低空飛行を極め、環は「なんか今日寒い」と腕を擦った。
勿論表面上では完璧に仕事をこなしアイドルの顔を前面に張り付けながら、何故陸がよそよそしくなったのか、原因を追究していた。
五日前は陸とオフが被っていたので、前日と次の日にかけてお互い求め合った。忙しさと二人きりになりづらい環境が二人を燃え上がらせ、結果陸の声は掠れてしまうこととなった。
無理をさせすぎたと一織は謝ったが、陸は幸せそうにかすれ声で笑い、汗ばんで汚れた身体をくっつけ合って一日を過ごした。
(あの日が激しすぎたか……?)
受け身である陸にかなりの負担を強いる行為だ。気遣う余裕のなかった一織に嫌気がさしても仕方ないことだろう。
(しかし三日前は甘えてきたな)
突然一織の部屋を訪ねて、ぎゅっと抱き着いてきた。肩口に顔を埋めてちょうどいいポジションを探して、小さな呼気を吐いて、まるで飼い主に甘えたい子犬のようだった。
キスやそれ以上のことは要求せず、ただ純粋に甘えただけの陸に一織の方が堪らなくなった。
そのため欲求不満も重なって、一織の苛立ちは頂点をとっくに超えている。
(だめだ、今日は理由を聞き出さないと)
反動が恐ろしい。無理やり連れ去って、嫌だと言われても、泣き出しても、抱いてしまうかもしれない。
(はあ……抱きたい)
一度灯ってしまった情欲を抑え込むことは、さすがに一織にも無理だった。
欲求不満と苛立ちと、陸不足に陥りながらどうにか仕事をこなした。そんな一織に追い打ちをかけたのは、普段なら微笑ましいはずの光景だった。
「は?」
「ちょっ、環苦しいよ~」
「りっくん動くなって」
「二人とも、もっと近づいてください」
頬が密着するほどの距離で抱擁された恋人と抱擁している環。少し離れた場所からナギが二人にスマートフォンを向けている。カメラアプリでも使用しているのだろうとは推測できるが、もう一織に余裕などなかった。
「七瀬さん」
「うわあっ!?」
「おわっ! なんだよ、いおりんびびっただろ!」
「イオリ、おかえりなさい」
地を這う低い声に様々な驚きの声が上がった。返答せず一織はずかずかと陸へと近づき、きつく陸の腕を掴んだ。
「あ、ちょっ、一織っ! ドントタッチミー!!」
「うるさい」
表情を消した一織に陸は赤くなった顔を青くして、困ったように視線を環とナギに送る。
それすらも腹立たしいもので、一織の苛立ちが加速した。
下手くそな英語はナギにでも教わったのだろうか。イライラしてしょうがない。
「七瀬さんを連れて行きます。いいですね、二人とも」
「お、おお……」
「イオリ……ほどほどにですよ」
「……言われなくても」
これではまるで悪役の台詞だ。心の中で自嘲し、一織は引きずるように陸の手を引く。
「やだー! 助けてっ、環っ、ナギ!」と彼らの名前を呼ぶうるさい口を、この場で塞がなかっただけ理性的だと思った。
押し込むようして自室へ陸を連れ込み、逃げられないように後ろから羽交い絞めにする。口ではうるさかったのに抱きしめれば、陸は抵抗を見せない。
かわりに熱っぽい吐息を洩らし、耳朶まで赤く染めて陸は切なげに「だめ……」と呟いた。
「どうして?」
少し熱い耳朶を軽く食みながら、陸の指を一つずつそっと撫でていく。爪から付け根まで触れて、もごもごと口を動かす唇を親指で開かせる。
「ん、だって……」
「どうしても、私には言えないですか?」
出来るだけ優しい声で耳の中へと吹き込むと、ひゃんっと陸は鳴いた。
「あ、んっ……あのさ、言ったら嫌いにならない?」
「なりませんよ。……ならないとは思いますが」
「なんだかはっきりしないなあ」
「仕方ないでしょ。理由を訊いていないんですから」
顎をすくい、振り向かせる。潤んだ瞳が一織だけを映し、たったそれだけのことが一織の苛立ちをやわらげた。独占できることに優越を、満足感を覚える。
嫌がる素振りはない。むしろ触れられて嬉しそうなのにどうして触れないで、と言ったのか。
「……しちゃう、から」
「肝心なところが聞こえてませんが」
「だから、一織に触れられると発情しちゃう……から!」
「は?」
発情。聞き慣れない単語に一瞬思考がフリーズした。優秀な頭脳が再読み込みしているところで、半泣き状態の陸が再度口を開く。
「むらむらするってこと! えっちな気分になるの!! もっと、いろいろなことしてほしくなるから!」
「あ、はい……いえ、それはわかりますが」
むむむ、と頬を膨らませる恋人の姿に無理だった。緩んだ顔を見られないように肩口に埋めると、怒ったような泣きそうな声が聞こえてくる。
(か、かわいすぎるだろ……)
「ほら絶対呆れられた……だから嫌だって言ったのに!」
つまりむらむらするから、一織に触らないでと言った。根本にあるのは、一織に嫌われたくないという、いじらしい想いだ。解答を知り、ようやくここ数日の苛立ちが少し治まった。
「呆れていませんよ」
「嘘だぁ……」
「あのですね、七瀬さん私も男であること忘れていませんか?」
「……あっ……」
すでに兆していた高ぶりを内腿に押し付けて、無理やりわからせれば腕の中の温度が上昇した。
「つまり、一織もオレに触るとむらむらするってこと?」
「……は?」
「えっちな気分になるけど、一織は困らない……んんんっ!?」
的外れな発言を噛みつくようなキスで塞ぐ。ちょっと、いやかなり苛立ったので今日は絶対やさしくしないことに決めた。
Don't touch me?
避けられて、逃げられて、あまつさえ最後の無神経な発言に、我慢している自分の方が馬鹿だったのだと気がついた。
「……んあ、ま、待って」
「駄目です。待ちません」
後ろから抱き込んだまま熱烈なキスを仕掛け、立っていられないと陸とともにその場に座る。陸の唾液で濡れた唇を頬や首筋に押し付けて、襟足をかき上げて無防備なうなじを舌で濡らしてからきつく吸った。
「あ……一織、それはだめ」
「いつもはあなたから付けて、ってねだるくせに?」
(私がどれだけ我慢しているのか、身をもって知ればいい)
言葉よりもずっと情熱的に無自覚な身体に教えこむ。薄く浮かび上がった痕を舐めて、一織は笑った。
裾をたくし上げ、手のひら全体で胸をさする。すでにぷっくりと立ちあがっている胸の尖りを直接摘まみ、もう片方は服越しにひねった。
「はは……えろい」
「っあ、やだっ」
見せつけるようにたるんだ生地を伸ばせば、淫蕩な突起がはっきりと浮き上がる。綺麗に整えた清潔な爪先でくぼみを突けば、いやいやというように陸はかぶりを振った。
「いおりぃ、ちゃんと……」
「聞こえませんよ」
耳朶を齧れば、それにすら感じるように閉じ込めた身体がぴくりと跳ねる。丁寧に舌で愛撫し、いやらしく水音を立て、まだ羞恥を抱いている陸を溶かしていく。
乳輪の周りをくるくると弧を描くように指を滑らせて、あまやかな吐息を洩らす唇には触れるだけのキスを送った。
「どうしてほしいんですか?」
「ここ……一織の指で」
ぎゅっと指を掴まれる。
そのまま震える手が触れてほしい箇所へと一織の手を導いた。指の腹を使い押し込んで、潤んだ双眸が一織を射抜く。
言葉よりも雄弁な赤い瞳に飲み込まれないよう、一織は目を眇めた。
「ん、んっ、さわって」
「これでいいですか」
「あ、もっときつく……ぎゅって、つねって……ああっん」
少し強く摘まむだけで気持ちよさげに陸の目は細まった。もっと、してというように頭を擦り付けて甘えてくる。
後ろから抱きしめていてよかったと思う。ゆるみきっただらしない顔はさすがに恋人にも見せられない。
「触らないで、って言っていたのに?」
「ちがっ……ちゃんと、さわってほしい……んっ」
「たどたどしい発音でドンドタッチミーとも言っていましたね」
「も、意地悪言わないで、もっとして」
一織の指で乱れては、泣きそうになって、欲しい欲しいとねだってくる姿に嗜虐心が煽られる。顎をすくっては唇へと噛みついて、嬉しそうに擦り寄ってきた舌を啜った。
「いおりとのちゅー、きもちいい……」
「っ!」
混ざり合った唾液が垂れるのも構わないのか、陸は蕩けた目を細めてにこりと笑った。口元はべたべたに汚れ、胸の尖りは薄いTシャツを押し上げて、首筋からは石鹸の清潔な香りがする。ひどく卑猥なはずなのに、陸は無垢だった。
してはいけないことをしているような、背徳感と同時に凄まじい高揚感が一織の背筋に駆け上がり、しまったと気がついたときには陸がぼんやりと目を開いた。
確かめるように腰を揺らして、ゆっくりと俯いた。
「あ……」
「…………これは」
陸が触るな、と言ったからだ。
キスも抱きしめることも、柔らかな髪に触ることすらもできなかった一織は飢えていた。
仕方ないでしょ、と口に出すよりも先に腕の中にいた陸がもぞもぞと方向を変えた。伸び上がり濡れた唇で触れるだけのキスをして、べっと控えめに舌を差し出す。
「ね、一織……これ触っていい?」
縫い目をなぞった指は固く張り詰めた一織の膨らみをそっと撫でる。
「……don't touch me」(触らないでください)
思わず英語になってしまったのは、連日ヘタクソな発音を聞いたせいなのだと思いたい。決して、決して陸の訴求力に飲まれてしまったことは認めたくなかった。
「だめだよ一織。触るし、舐めたい。もっと大きくしてから」
よいしょっと艶めいた唇から出たのは色気のない言葉。けれど繋がるための箇所に擦りつけて、ふふふっと嬉しそうに笑った。
「一織でいっぱい気持ちよくなりたい」
「っ……はぁ……。分かりました、もう知りません。泣かせます」
うん、と嬉しそうな唇を塞ぐとすぐに舌先が絡み合う。
数日間の欲求を充分に満たし、濃密な時間を過ごしすぎて、次の日のオフがまるまる潰れてしまうことをまだ一織は知らない。
好きな人から大嫌いと言われて、ぽんこつになる一織くんの話。
「もおおおっ!! 一織なんて、一織なんてだいっきらい!」
「なっ……わかりました! 七瀬さんなんて、もう知りません!!」
事の発端はテレビに映るTRIGGERのCMだった。双子の兄であり九条天が画面に映った瞬間、陸はテレビにかじりつくように前に出た。しかも「天にぃ」と恋する乙女のような黄色い悲鳴を上げて。
手に持っていたお菓子は箱から零れてしまい、床に散らばる。それに気がつかず陸は「天にぃ恰好良い」とめろめろな声で、ふにゃふにゃと表情をゆるめて笑うのだから、一織は面白くなかった。
「七瀬さん、落ちてますよ」
「ちょっと一織静かにして~! 天にぃの声が聞こえない!」
「は」
落ちてますよ、と静かにただ淡々と事実を述べただけだ。それに対して「静かにしては」まるで一織が騒がしくしているようではないか。
「七瀬さん」
低い声で彼の名前を呼ぶ。こちらに顔を向けず「何」と返ってくるのだからますます苛立ちが募っていく。
『もう……はしゃぎすぎ』
とどめを指すようにテレビから九条天の甘い声が聞こえて、一織の我慢は頂点に達した。
「このブラコン! さっきからぼろぼろ床に零れているんですよ!」
すかさずテレビのリモコンを掴み、電源ボタンを押す。ぷつんと真っ暗になり、黒い画面に映ったのはへにゃりと眉を下げた陸と反対に眉を上げて目を吊り上げた一織の姿だった。しばらくの間沈黙が続き、小さな呟きが一織の耳に届いた。
「ば…………か」
「聞こえませんが。言いたいことがあるなら、大きな声で言ってください」
「もおおおっ!! 一織なんて、一織なんてだいっきらい!」
喧嘩はよくしている方だと思う。兄や最年長から見れば、それは猫のじゃれ合いのようなものだとも言われる。
普段なら三十分もすれば陸の機嫌は治まって、喧嘩したことすら忘れたようににこにこと笑顔を浮かべて近づいてくる。
けれども今回のは長く尾を引いているようで、目が合った瞬間頬を膨らませてそっぽを向かれた。
寮を出るときの見送りはなく「いってらっしゃい」も「気を付けて」もないのだから、なんだか調子が狂う。
(別に、静かでいいですけどね)
見送る時にうっかり足を滑らせる光景がないことを、寂しいと思わない。
「なあ、いおりん」
「なんですか」
「もしかしてりっくんと喧嘩……って前前!!」
「何が……っ、い、た」
「間に合わなかったか」
目の前にあった電柱へと軽くぶつかってしまった。「りっくんみたいなドジすんの珍しいな」と環の言葉に一織は唇を噛んだ。かすった鼻先がじんと痛む。
「……続きは」
「りっくんと喧嘩したんだな」
「しみじみ口にするのやめてください」
「ほんといおりんが調子悪い時は、りっくんと何かあった時だよな」
「それは、あなたたち、MEZZO”に言われたくない台詞一位ですが」
人のこと言えるのか、と言外に含ませれば環はばつの悪い表情を浮かべた。
「まあ、頑張れいおりん」
「……ありがとうございます」
気を付けて過ごせば、陸の代名詞であるうっかりドジはしないだろうと思っていた。
しかしその後も一織によるうっかりドジは続いた。
授業中一瞬だけ上の空になってしまい教師に呼びかけられていることに気がつかなかったり、昼休みには手が滑って箸を床に落としてしまったり、何もないところで躓いたり。(さすがに転ぶことはなかった)
りっくんみたいだな、と言われてはもう返す言葉がない。
「なんだっけ」
「何ですか……」
「夫婦はよく似るって言うよな」
「誰が夫婦ですか」
ツッコむ気力もない。散々一織を揶揄っていた環も最後の方には「大丈夫か? 寮までおぶってやろうか」と優しさを見せた。その気持ちだけ受け取ることにした。
「人のことよりも、四葉さんは出された課題をやってください」
「おおっ……いつものいおりんだ」
普段なら多すぎるほどのラビチャも、電話もない。
一織を見つければ、飼い主に気がついた子犬のように駆け寄ってくるのにそれもない。
一瞬だけ絡み合った視線は不安定に揺れ、外れた瞬間に別の人へと向かう。思わず釣られそうな笑顔は、結局最後まで一織に向けられることはなかった。
「ええと……もしかして喧嘩中か」
「……わかりません」
あれが喧嘩だったのかもう定かではない。争う前に陸は一織を「大嫌い」と言った。馬鹿でも意地悪でもなくて、嫌いの最上級だ。
もしこのまま会話することすら許されなかったら?
ああ見えて陸は芯が強い。テレビの前では仲良く振舞いつつも、普段の生活からは一織を遠ざけるだろう。
まさか、と思いながら自分の考えにひやりとした。
「ちゃんと話してみろよ。陸は一織の話を訊かない奴じゃないだろ?」
そうだ。あの人は嫌味すらも受け止めるから喧嘩ができる。
一織と喧嘩をすることを、楽しいと言った人だ。
「そうですね。今日の夜ゆっくり話してみます」
陸が好きなホットミルクを淹れて、彼の部屋を訪ねようと一織は決めた。
鍋には牛乳二人分。弱火で温めて最後に蜂蜜を少し入れる、つもりだったが一織は湯を沸かしていた。
間の悪いことに牛乳が足りなかった。最後に飲んだ犯人はこの寮の中で一番背が高く、文句を言えば「ミルクなければ、ココアを飲めばいいんじゃねえ?」と某王妃のセリフを口にした。
(果たしてこれで七瀬さんの機嫌は直るんだろうか……)
ぐつぐつと沸いた湯をあたためたマグカップに淹れる。流し込んで、透明な水は白い湯気を立てるだけで、一向にココア色へと変化しない。何かが可笑しいと思い、ふと視線を横に動かせば、そこには未開封のスティックが二本。
「あ……中身を入れてない」
無を作り出してしまった。
虚無感を抱きながら湯を捨てようとした瞬間、何かが勢いよくぶつかってきた。
「一織、捨てちゃだめえ!!」
「な、七瀬さん!?」
「一織が淹れたものなら苦いコーヒーでも飲むから、それ捨てないで」
喧嘩などしていなかったように陸はひしっと一織の腰に抱き着いて、顔を上げた。
心なしか目がうるうるとしているように見えるのは気のせいか。
「これは……ただのお湯です」
「……へ?」
「淹れ直すので待っててください」
湯を捨てるので、と言っても陸のぎゅうぎゅうとした拘束は解けない。どうしたものか、と形のいい旋毛を見下ろしていれば、ぐりぐりと額を押し付けられた。少し痛い。
「一織、今日ぽんこつになってたって本当?」
「っ、ぽん、こつ……まあ、調子は良くなかったですね」
認めたくないが事実だ。おそらく環がリークしたのだろう。
あとで壮五に課題のことを教えてやろうと思った。
「オレが大嫌いって言ったから……?」
「そうです」
腹のあたりでひゅっと息を呑む音が聞こえる。どうすれば陸が泣かずにすむのか、必死に考えていれば鼻声のような声で名前を呼ばれた。全意識が陸へと向かう。
「……っ、あのね、一織」
「はい」
何かを覚悟した顔だった。
頬が少し赤いな、風邪か? と一織はそんなことを思い、痛いくらいの拘束が解けた。服越しの体温が去って、寂しいと無意識に感じた一織は手を伸ばす。掴んだと同時に頬にやわらかな感触を感じた。
「……は?」
「大嫌いって嘘。本当は大好きだよ、一織」
大嫌いは嘘で、本当は大好きで。
頬に触れたのはいつも一織がリップを塗って保湿している唇であり、それは一織が好きな歌声を奏でる部位。
そして今一織を大好きだと言った。
「っ……!?」
熱湯はぬるま湯へと変わっており、一織の肘がぶつかったマグカップはカタンとシンクに落下した。
兄の教え
「結婚しましょうか」
「へ……え、え!?」
突然のプロポーズに食器を片付けていた陸は手を滑らせた。足元で陶器が割れる音、ではなく軽い音がする。落ちたプラスティック製の皿を一織が拾い、何事もなく洗い始めた。
「ありがとう?」
「どういたしまして」
同棲を決めた時点で食器は絶対に割れないプラスティック製のものと、割れものに分類されるが割れにくい素材のガラスや陶器を半々にしていた。うっかりで皿を割り、初めの頃よりも減ってはいるものの、今のところ困ることはない。
「えーと、オレなんか聞き間違えたのかも」
今日は二人揃ってのオフだった。地方ロケや生放送でスケジュールは圧迫し、ここ数週間で溜まりに溜まった洗濯物を洗い、洗濯が終わるまでの時間に手分けして掃除もした。
少し遅めの昼食を二人で分担して作り、向かい合って食事をし、そして現在横に並んで食器を片付けている。
ベランダに干した掛け布団もそろそろ取り込まなくてはいけない。ぬくぬくした布団で昼寝したら気持ちよさそうだと話していたのもついさっき。
恋人と穏やかな時間を過ごしながら、談笑していたはずだった。
「結婚しましょうか、と言いました」
「なんで、いきなり」
例えばこれが夜景の見えるレストランで、緊張した面持ちの一織がどこからともなく小箱を取り出したのであれば、何も可笑しくはなかった。
「あ、待って。袖が落ちそう」
「捲ってください」
「これでいい?」
「ありがとうございます」
にこりと微笑んだ一織に緊張の色は見えない。
やわらかく笑う一織はカメラの前の和泉一織とも違う。安心しきった顔で、当たり前のような日々を過ごしていて、また照れた様子もない。
「いきなり、ではないのですが」
「どう考えてもいきなりだろ。パーフェクト高校生だった一織なら、夜景が見えるレストランを貸し切って、いきなり店の電気が消えて……そうだな、灯りとともに目の前に指輪がぱっと現れて……」
「それは、ハードル高すぎますね」
「一織なら出来そう」
予想できない方法で、意外とベタなサプライズを仕掛けて、一番のキメ顔で「結婚してください」と言いそうだ。なのに、さらりと、しかも結婚しましょうか、なんて言うのだから陸は都合のいい夢を見ているのだと思った。
「そろそろ呼べそうだなと思ったのと」
「呼べそう? 何を」
「……陸さんと」
心臓が一瞬止まった。動きを再開した心臓はどくどくと凄まじい速さで鼓動する。もう顔が熱い。
今までどんなにねだっても名前で呼ばなかったのに。
嬉しさと悔しいが綯い交ぜとなり、どういう顔をしていいのかわからない。
「っ、う……不意打ちすぎる」
「今が最高のタイミングでしょう」
「そうだけどさ」
今陸が手に持っているのは、先ほど驚いて手を滑らせて床に落とし、一織が洗った皿だ。
再び落としたとしても割れることはないが、何度も洗わせるのは申し訳ない。
「今度はお皿落とさなかったから、褒めて」
「さすがですね」
「んんっ? なんか違うな」
「もっと褒めてほしいんですか?」
かわいい人だな。
ふっと顔を綻ばせ、陸だけが知っている甘やかな笑みを浮かべている。
この言葉がリップサービスでないことを、ずっと前から分かっている陸は皿を置いて、そっと自分の顔を覆った。
「あう……直視しちゃった」
「太陽じゃないんですから」
苦笑しつつも、一織の声は甘い。
夢にしてはすごい破壊力のある一織だなと呟くと、顔を覆った手を外された。
頬が熱い。恥ずかしくなり、目の奥に熱を感じた。じわりと滲み、視界いっぱいぼやけても、一織がどんな顔をしているのか陸には分かってしまう。
「録画していたFriends Dayを見たんです」
「オレたちがメインパーソナリティーを務めた回の?」
「いえ。Re:valeさんと、本来ならTRIGGERともパーソナリティーを務める予定だった回です」
「十年前の……」
きゅっと蛇口を閉める音とともに水が止まった。手を拭いているのだろう。
陸が乾かした食器を手早く定位置に片付けていく。
「私は六弥さんとFriends Starを担当していたのですが、最初の参加者の方たち……確か女子高のダンスチームの皆さんが緊張されていて」
「その地域の有名人や一般の人が出演するコーナーだったっけ?」
「そうです。テレビしてない人たちばかりですね。六弥さんは緊張を解すために、投げキッスしたんですよ」
「ああ、ナギらしい」
簡単に想像ができてしまう。ふふっと笑うと何故か一織の眉根が寄った。
「その後私も、と振られて」
「え!? 一織投げキッスしたの!」
本日二度目の驚きで涙も引っ込む。
ライブですらしない一織が緊張を解すために投げキッスしたのかと思うと、少し、いやかなりもやついた。
「できませんでした、というよりも控室に入ってきた兄さんがさり気なくしていきまして。男ならファンサとプロポーズはちゃっちゃとやれよな、と言われました」
「あー三月ファンサ上手だもんね。ってもしかして、そういうこと?」
三月の言葉を思い出したから、ちゃっちゃとプロポーズをしたのだろうか。
じいっと一織を見つめると、彼は困ったような照れたような笑みを浮かべた。
「それもありますが、久しぶりにあなたとゆっくりと過ごせているでしょう。何でもないオフが、いいなと思ったんです」
「いいなって?」
「あなたが私の隣にいる日々を。何気ない時間を二人で過ごしたり、私の言葉で一喜一憂する陸さんにかわいいと思ったり」
「っ、そんなの……。いきなりずるい」
ただでさえ好きなのに、恰好良くなるから困ってしまう。顔が見られなくなり視線を外せば、頬を包み込まれる。やけに一織の手がひんやりと冷たいのは、水に触れていただけではない。再び上昇する熱は、一織へと伝わる。同じ温度となる。
「いきなりって、ちゃんと手順踏んでますよね?」
「そうだけどさ、そうだけどさ!」
「夜景の見えるレストランがいいなら、仕切り直しますが」
ずるい恋人は陸の返答すらも見抜いている。だから一織は自信満々で、幸せそうに笑っていて、そのせいで陸の心臓にどれだけの負担がかかっているのかは忘れているのだろう。
「仕切り直さなくてもいいからさ」
もう一度言って。
言葉足らずの願いすら一織は簡単にくみ取って、そうして唇にやわらかな感触が触れた。
「これからも、あなたの幸せをキープし続けますから」
──どうか、私と結婚してください。