恋も二度目なら恋も二度目なら
生徒と情を交わした上、あろうことか、泊めてしまった。
相手は、自分が副担任をしている生徒だ。元々は授業中授業外を問わず、無駄口軽口を叩き合う程度だった。
男同士の気やすさもあったのだろう。奴の方から、のこのこと俺をからかいにきては、その実、構って欲しそうだった。小狡い俺は、体育倉庫の片付けを手伝わせたり、奴が留年を繰り返している分、根は大人びて話しやすい部分があるので、クラスの内情をそれとなく聞いてみたりと、利用していた。
対価を払わねばと思い声をかけたのがきっかけで、それならばとあいつは飯を要求した。どうせリーダーをやってる奇面組の連中を引き連れてくるのだろうと思いきや、奴は単身でやってきて、「先生の部屋でなにか食べたい」などと言い出したのだ。下手くそな焼きそばを二人で作って、二人で食った。それ以来、休みの前日は俺の部屋を訪ね、俺も人恋しいからか、奴を部屋に入れるのに、なんの躊躇いもなかった。
身体の関係に至ったのは、どちらが誘ったのかは曖昧だった。休みの日のやたらに綺麗な夕陽を二人で部屋から一緒に見た日だった。薄暮が窓の上からゆっくりと戸張を下ろし出し、西陽の暑さが嘘のように消え出したころに、奴が「じゃあ、私、もう帰りますね」なんて言いだし、俺は俺で、生徒と一日の終わりを一緒に迎えるわけにはいかないので、奴の家のすぐ近くまで送るつもりで、玄関の扉を開けると、そこはもう、紺色に染まり出した夜の入り口だった。
「また来いよ。どうも最近人恋しくてな」などと、玄関先で俺が思わず口走ってしまった。
そしたら。
なんのスイッチが、奴に入ってしまったのか、俺が開けた玄関の扉を閉め鍵をかけ、俺の体を抱きしめると、首筋に唇を当てた。
部屋の中は、差し込む日の光も薄まり、月明かりも心許ない。壁の薄いアパートでは、どこかの誰かの夕餉の支度の音が伝わるし、外の方では、部屋に向かう靴音も聞こえる。
その一方で。
俺の耳には、奴が唇を当てて肌を吸い込む湿った音が響き出す。声も少しずつ漏れ出した。なんでこんなことを奴がしだしたのか、俺はもう、分かっていた。言葉にしてしまうと、生徒と教師という立場が、酷くあやふやになってしまうからだ。制服を脱がせた。制服の下は、学生からも教室からも一歩離れた、奴、こと一堂零だ。そこから先は、どっちが誘ったかなんてどうでもいいくらい、お互いの肌に、自分の名前の付箋や名札をつけるように、唇を当てた。ボロアパートのあちこちで、俺たち以外の誰かが、生活を続ける、部屋に戻る、灯をつける。いとなみを続ける。俺たちは俺たちで、他に誰も訪ねてこないボロアパートの片隅で、息を弾ませ肌を合わせる。互いの唇を重ね出してからは、一堂零が帰る家のこととか、翌日の授業の段取りとか、もうどうでも良かった。
そんな感じで季節は巡り、どちらか言うこともなく、関係は続いた。夏休みを迎え、生徒と教師の隠れた小狡い関係もなりを潜めるかと思いきや、一堂零は俺の部屋に通いづめ、当たり前のように、俺に体を開く。
「一堂零のことを、えこひいきしてるって、他の先生に言われてませんか?」
「妙なこと気にするんだな、お前」
情を交わして、風呂に入り、夏休みだからいいかと、俺は気を許し、布団を共にする。夏の気やすさで、せんべい布団に自分と客用の座布団を繋げた即席の寝所だ。
冷房は壊れていて、夏の夜の生温い空気を扇風機が掻き回す。男二人、せんべい布団に横たわり、窓からの月明かりを眺めていた。
「今更だろう?」
月明かりに照らされた、恋人の顔を俺は見た。囃し立てるクラスメイトも、次は何をするんだと期待する奇面組もいないと、この男は存外物静かで思慮深い。
「私、先生に近づきすぎたかなと思ってさ。あなた優しいから、頼られると邪険に出来ないでしょ」
一堂零の成績には現れないような賢さも、俺は知っている。月明かりにほのかに浮き上がる恋人の横顔を見ながら、俺は言葉をつなげた。
「さっき言ったのは、本気だからな」
情事のあとに俺が言ったのは、「来年はクーラーのある部屋に引っ越そうか、二人で」と、約束めいた妄言だった。おまけに、口に出したことのない「好きだ」とまで、言ってしまった。
「わかるだろうが」
「なにをですか?」
なんの感情もない人間と、ダラダラとテレビを見たり、暑いとお互い文句を垂れあったり、勢い任せにかき氷を作って、家にある蜂蜜や練乳をかけて、興がのったら恋人の体にふりかけ、舐めとることも増してや指を性器を奴の体内に滑り込ませることなどない。
「俺はこのまま、お前と……」
「先生ってさ」
零が言葉を遮ると同時に、こちらに顔を向けてきた。学校では決して見せない、怜悧で微かに微笑みをたたえた表情だ。窓の外は月明かり。満月の頃には学校も始まる。季節の変わり目を教えるかのように、鈴虫やコオロギも鳴いていた。近ごろの昼間の夏の蝉の声は、ツクツクホーシが目立っている。恋の季節も変化しているのだ。
「先生はキス上手いよね。……誰かに教わった?」
「お前な」
大人だからで済ませられるほど、奴の頭は子供ではない。……嫉妬しているのだろうか、かつての俺に。まさかな。
「私、先生が初めてじゃないですよ……なんて、信じます?」
奴が手を差し伸べて、俺の頭を撫で出した。鈴虫やコオロギの声と、どこからか赤ん坊の泣く声がする。
「このアパートの人ですかね。我々、窓を開けて騒いじゃったから、悪いことしたなー」
「こんな狭いアパートに所帯持ちがいるわけないだろう?別のとこだよ」
母親が赤ん坊を優しく静かにあやす声がしだした。聞こえる声の距離を考えるに違う住居なのだろうけど、行為の音や、事後に奴と二人で風呂を浴びた音を出していたことにバツの悪さを感じた。
「女の人が子守唄歌う声っていいですよね。私、幼馴染とよくおままごとしてて、彼女の場合、寝かしつけるまでがセットなんですよ。でね」
奴が、そっと俺の頬を撫で出すと、唇を重ねた。
「おやすみのチューっていうの、してくれたなあ」
「マセたこどもだったんだな、お前」
母親の子守唄の声と共に赤ん坊の泣き声が次第に途切れていく。
「子供の頃の話だろう?ノーカンだ、そんなの」
俺が吐き捨てるように言うと、ふふっと、奴は笑った。
「たぶんね、幼馴染は私のこと好きだったと思います」
「ん?」
「子供ですからね。好きという感情を持っても、何をどうしたらいいかわからないでしょう?幼馴染が私のことを考えると、胸の中が掻きむしられたようにこそばゆくてぎゅっとしたいって告白してきた時ね、それを受け入れてしまったら、私は私が終わっちゃう気がして逃げちゃった」
奴は、何度か優しく唇を重ねた後、俺の頭を抱いた。
「……もう、何も出んぞ」
「食べ物のこと?それとも、先生のあれ?」
学校では絶対出さないような、艶のある落ち着いた声で、俺の頭を撫で出した。年下なのに、昼間では子供じみた男のくせに、夜や房事となると途端に翳りを見せ始める。俺が女なら、そのギャップに惚れていただろう。
「お前、俺には下ネタ平気でいうんだな。そういうの、河川には絶対言わないくせに」
「なんでそこで、唯ちゃんが出てくるんです?」
「いつも、互いに目を合わせてたろうが」
「ははあ、ヤキモチですか?」
かーわいい。
語尾に、ハートマークをつけて、今度は俺の身体に覆い被さった。
「安心なさいな。あの子は私なんか相手にしませんよ」
「嘘つけ、どっちかと言えば、河川の方がお前の方を見………」
言葉を遮るように、奴は自分の唇で俺の唇を塞いだ。ゆっくりと奴の舌が、俺の唇の内側をなぞり出す。月明かりは、奴のくせっ毛やランニングシャツの肩を照らし、鈴虫やコオロギたちが求愛の音色をあげる。……赤ん坊は、もう泣き止んだか。
数刻前に射精を済ませたお互いの体は、強い情欲に囚われず、俺は、奴の唇や頭を撫でる手の動きに、されるがままだった。最初に肌を重ねた時、奴の方が受け身だった。いつの間にか奴の方から、俺に唇を合わせ、俺の胸から性器まで、手を運ぶようになっていった。最初はおずおずと俺の真似事で、だんだんと、奴は俺の快感を見抜いて。
「私、先生のこと抱きたいなあ」
俺への愛撫の手を止め、奴は俺の肩に顔を埋めた。
「やだよ」
「さっき、私の身体の中を弄って、たくさん切なくさせたじゃないですか」
「………可愛かったからな、お前」
性器同士の刺激では物足りなくて、俺は奴の体に指や性器を埋めるようになっていった。
「同じ気持ちです。あなた、私に印つけたいんでしょう」
さっき、奴が言った、幼馴染の胸の内から掻きむしられるような、こそばゆくてぎゅっと抱きしめたい気持ち。
「もう大人だから、好きという気持ちを、どう持っていったらいいかわかるようになっちゃったな。……将来の約束なんてできないけれど」
俺にも心の置き所をどこに定めようかわからなかった。俺のかつての恋は、こいつにとっての幼馴染や河川のような淡く美しいものではなく、性欲や世間体や不安や承認欲求やらがごっちゃになって、手近にいた女とくっつき、求め、向いている方向がやがてバラバラになり、別れを告げられた。あぁ、あの当時の俺は、酷く戸惑っていたな。俺自身を丸ごと受け入れて俺の半身で、ずっと続くと思ったものが、「あんたがいなくても生きていける」と言われちゃったもんな。俺の落ち度がどこにあったか分からない。わかるのが怖い。
あれ以降、恋に落ちるのが怖く、同僚の若人先生に中途半端な思慕を抱いては、ほのかに心に温もりを感じるだけで満足していた。絶対、こちらに振り向くわけのない彼女に安心していた。俺にそれ相応の中身などあるわけがない。求められるのが怖い。
だけど、虚ろだ。友人の結婚式の招待状が来るたび、学校でませた生徒が男女でくっつく様を見るたび、陸奥先生や伊狩先生が家族の話をするたびに。
ここにいるアパートの住民は、同じような住民なのだろうか。言葉は滅多に交わさない。感じるのは、自身の寝ぐらに戻る靴の音、ガスを使う音、漏れ出てるテレビ、……ごくたまに来訪者を迎える声で、誰もが皆、きっとひとりなのだ。
奴が、一堂零が、俺の隣で寝そべっている。
ひとりじゃない事実だけに、優越感を感じてしまう。それを逃したくなくて、クーラーのある部屋に引っ越そう、二人で、などと、情事のあとに言ってしまったのだ。あいつのいう通り、将来など約束できないのに。年若いあいつこそ、将来を考えると、寂しい大人が、成長を止めてしまうなんて許されないことなのに。あいつはあいつの人生で自由にさせるべきなのに。
俺は、あいつを支配したかったのだろう。
快楽をひたすら与えて、俺以外、何も欲しくならないように。
答えを出すのを、あいつに任せて、何一つ傷つかない、小狡い大人なのだ、俺は。
月の光ではなく、燦然とした日の光が俺の頰を刺す。昼間だ。
いつの間にか眠りこけている間に、太陽が登ったのだろうか。
「………零!」
俺は、恋人の名前を呼んだ。部屋はいつものボロアパートの見慣れた部屋。煤けた天井、井草が所々すり減った畳、建て付けの悪い窓、破れた網戸、クーラーのない俺の城。
無いのはクーラーだけではなく、家財道具一式が存在しなかった。夏休みだからと遠慮なく置いていった、奴の私物も見当たらない。
「お客さん、荷物は積み終わりましたよ」
玄関の向こうから男の声がしたので急いで身構えるが、俺の服装は、さっきまでのランニングシャツにトランクスなんて、堕落した男の夏の寝姿ではなく、こざっぱりとしたポロシャツにチノパンという、中年男が休日を迎える姿になっていた。
……そうだ、引っ越しだ。
クーラーの無い部屋に辟易して、三十路過ぎた俺に相応しい部屋に移るんだ。
「すまない。俺としたことが、つい……居眠りを……」
居眠りをしていて、昔のことを夢見ていたらしいな。
引っ越し業者を呼んで、荷物を運ばせていたことを忘れていた。新居にはあいつが待っている。水道やガスなどなどの開通手続きを、今頃しているのだろう。そして、これからは、灯りが待つ家に、俺は帰れるのだ。
玄関の向こうから怒鳴り声がする。さっきの引っ越し業者の男の声か?口調もずいぶんと荒っぽい。
居眠り前の記憶を辿る。
この声の主は新人も引き連れ、やや癖のありそうな若手も引き連れていた、リーダー格の男だ。声を荒げて注意しないといけない場面もあるに違いないな。俺と同じように。
「……お互い、大変だな」
玄関に向かい、俺は扉を開ける。
「これはどうも。お恥ずかしいところを」
男はさっきの荒ぶった声とは逆に、飄々とした口調で、俺に声をかける。
「新居、楽しみですね。こちらの古い家具は大体捨てて、新しい家具を向こうで揃えたんですよね?こちらとしては運ぶ荷物が少なくて助かりますが」
「はは……」
そうだったけか?
記憶が朧げだ。俺はずいぶんと浮かれているみたいだな。しみったれた俺が、使い慣れた家具を捨て、新しい生活のために家具を買い揃えるなど。
………捨てたのだろうか?あいつと寝た、布団も。
「ずっとせんべい布団でな。これで、憧れのベッドの生活だよ」
思わず自分の口から出た言葉に、耳を疑った。………買ったのか?俺はベッドを。ほんとうに、浮かれているんだな、俺。あいつも俺も、ベッドなんて柄じゃ無いのに。
「ようやく捨てましたね、あの汚(き)ったない布団」
引っ越し業者の男の声に聞き覚えがあることに気づいた。
さっきの荒ぶる声でもなく、お客さん向けの飄々とした口調でもなく、あの夏の日、そして学校で軽口を叩き合う、愛おしい生徒の声だ。
「零………?」
引っ越し業者の男の顔をまじまじと見ると、それは、夏の日にでろでろに愛し合った、かつての恋人だった。
「さっき、奥さんから我々にお心遣いをいただきました。ホント出来た人だな~。事代先生にもったいないくらい」
「………奥さん?」
待て。俺は零と新生活を送る予定で引っ越しているんじゃないのか?さっきの夏の夜の夢といい、記憶が錯綜している。
「ふふっ。まさか、あなたが結婚するなんて。私が、お手伝いをするのもご縁ですよね。お陰さんで、私も妻子を養えるくらいに仕事を続けているし」
頭の中が追いつかない。引っ越し業者の作業着姿で、かつての恋人、一堂零は俺の前にいる。………かつての恋人?夏の夜にお互いの汗を交わらせて、肌を溶かすように合わせていたのは、どれくらい以前のことだ?
「見ますか?私の嫁さんと上の子の写真」
作業着のポケットから、パスケースを取り出すと、そこには年端も行かない零そっくりの子供、そして、その子を抱き上げる女性がいた。……河川か?いや?河川は三つ編みをするほど髪が長くなかった。写真の顔が、日光に反射してわかりづらい。
「と。仕事中にこんなことをしてたら、あいつらに示しがつかないな」
俺が、零の嫁の顔を判別する暇がないくらいに、そそくさと零はポケットに写真をしまった。
「結婚したのか?俺以外の奴と?」
「あんた、脳みそ大丈夫ですか?」
男同士で結婚できるわけないでしょう。
そっけなく零は返して、続けた。
「これで先生も片付きましたね。大団円だ」
改めて、作業着姿の零を見る。直線で出来た双眸ときゅっと上向きに閉じた唇の凛々しさは変わっていない。だが、抱き合った当時の零は幼かった。顎の肉も柔らかくついていたが、今は削ぎ落とされていて、学生の頃のように目の焦点はあちこちに動くこともなく落ち着きはらっていて隙がない。肩まわりも幾分か広くなったのだろうか?胸も腰周りも、作業着からも判るように、がっしりとした肉に覆われ、大地にスックと立っている。
態度は飄々として明るくても、おちゃらけて気を引きたがりでフワフワしていたあいつはもういない。
「自立、しているようだな」
俺の思わずついて出た言葉に、零はニコリと笑った。
「おかげさまで」
俺は、何をしてやったのだろうか。ここまで来たあいつに。今の状況を飲み込めていない俺に、零は続けた。
「今では私、あの頃の先生の年齢に追いついちゃったけど。先生、私を含め、クソガキ相手によくやりあいましたよね」
零は、愛おしげに、俺の部屋の玄関の扉を撫でた。
「この年齢になったから、わかるなあ。あなた、何の座標も持たずに、このアパートで一人で踏ん張って。よく頑張ったよね」
口調は、生徒と教師ではなく、客と作業員ではなく、成人迎えて生きた人間同士だった。
ちょっと時間いいですか?
零はこちらにそう呟くと、先程の若手たちに、何某かの指示を出した。人払いだったのか。昔から気の効く性格で居丈高なところは無い男だったが、今では口を挟ませない気概を身につけている。それを軽く指摘すると、舐められたら負けなんでねと、零に苦笑いされた。クソガキ相手に奮闘していた俺と同じように。
「この部屋にお別れ済みました?取り壊しともなると寂しくなりますね」
「ん?あぁ……」
このアパート、取り壊す予定だったのか。俺は、零と人生が続いていないショックで、返し方が虚ろだ。零は何も言わずに、俺の部屋だった玄関の扉を開けて、お邪魔しますと呟いた。
「ここでいっぱい、先生とセックスしたなあ」
幾分か学生時代の口調に戻って、あっけらかんとした零の態度に、自室でまぐわう自分たちの幻影を見て、俺は赤面して額に手を当てた。
「………お前、そんなこと言いにきたのか?」
「おや?忘れちゃいました?」
「忘れるもんか」
「ですよね。それを聞いて安心しました。私たち、誰にも言えない恋だったから」
そもそも、忘れることなど出来ない回数と濃厚さだった、アレは。
「嫁さんの肌も優しさも大好きですけどね。あの頃の私たちのように、全身全霊で愛し合うなんてもう難しいかな。子供も小さいし、翌日の気力体力ってものを考えるようになっちゃったし。歳をとるたび、心にだんだん薄い膜を張っていくようで」
零は俺にキスをした。夜毎交わした濃密で煮えたぎるようなキスではなく、ごくごく軽く触れた乾いたキスだ。零は、軽くため息をついて、自身の額を俺の肩に擦り付けた。
「この部屋で先生が、私みたいな生徒に向かって、寂しいなんて言ったよね。あれでさ、なんだか胸を掻きむしりたくなるような気持ちになっちゃって」
初めて関係を持った日は、玄関の外側は薄暮の帳(とばり)で、帰りますと言った零に対して、「また来いよ。どうも俺は人恋しくてな」などと言ったことが事の始まりだった。あの時は、アパートのそこかしこにある生活音が、自分には無関係に思えて、今の零が言うように、自分自身がなんの座標も持たずに漂っているようで心許なく感じたからだ。
「私、自分が恋愛出来るだなんて思っても見なかったから」
あの当時は、初めての行為の前に、玄関先で、零は俺の首筋にキスをして、名札やおまじないの札を貼るように、あとはお互いの唇をお互いの皮膚の至る所に押し当てていた。
「………ほんとに、この部屋、綺麗に片付いちゃったなあ。取り壊すとはいえ、あの時の私と先生の名残りが綺麗サッパリ無くなるのイヤだなあ」
零が俺を抱きしめた。先程の後輩らしき若手を注意する声と違い、声は少し湿り気を帯びている。俺は零の腕の中に揺らされるがままだ。
このまま全てと行かなくても、初めての行為の軌跡をなぞるのだろうか。記憶が今ひとつあやふやだが、俺が誰かと生涯を共にし、零も誰かと子を成した今。
「寂しいなあ。私、思ったよりつまんない大人になっちゃったよ、先生」
「………お前、子供いるんだろう?」
「います。全部、私が望んだことなんですけどね」
それぞれが家庭でないものに目を向けて、それに溺れるようになってしまったら。
「後戻り出来なくなっちゃったね、先生」
「そういうもんだろう、大人って」
記憶が定かではないけれど、俺が家財道具をほとんど捨ててしまった理由がわかった。
「強がりでしょ?先生も。日々の生活の方が大事になって、全身全霊とか馬鹿騒ぎとか飛んでもない無茶なんか、遠い昔のことになっちゃって、嫁さんや子供に触らせないくらい、胸の奥にしまっちゃって、たまにそっと思い出しては、若かったなあなんて言葉ですますようになるとかさ」
零と過ごした日々を抱えて、引っ越し前までの俺は生きていたのだろうか。この部屋のどの場所でも、キスしたし、身体を触り合っていた。
「しっかりしろよ。お前、俺よりも先に、父親になったんだろうが」
「………でしたね」
「お前の人生の中で、俺が良い思い出になれたんだとしたら、光栄だよ。俺のことを糧にでも踏み台にでもして、お互い、前を向いて……」
「そう言うところです、あんた」
零は俺から体を離した。
「セックスする前のイチャイチャで、いちいち中断して、せんべい布団を敷いちゃう先生も、ことが終わった後に夜中だからって真っ暗な風呂場でひっそりと水に近いぬるま湯を掛け合ったのも。全部覚えてるけどさ。あんた、私に与えて、お説教くれてばっかりで」
零は、家族の写真の入っている上ポケットに手を当てて、俺に言った。
「私、人生で大事なものを手に入れたのに、あなたがそばにいない人生を選んで正しかったのかなんて、何度も考えてましたよ。大人が、父親がこんなことじゃいけないのにね」
玄関の扉を零が開けた。初めての行為の時の包み込むような夜の帳(とばり)とは逆に、眩いくらいの日光で、零の表情が逆光でわからなくなっていく。
「恨み言はここまでです。先に結婚した私から先輩風吹かせるとね。女の人が生活で選んだ家具から何まで、男と違って狂いがないし確かだから、安心して尻に敷かれるのもいいもんですよ。赤ちゃん産まれたらね、動画で撮るのも忘れないようにね。子供って一瞬だし、若い頃の自分たちの声ものこりますから」
「所帯染み出したな、お前」
「こんな私でも、信じてくれているんでね。与えられたら返したいでしょ」
夏の日、愛し合ってでろでろになって、煮えたぎって、デタラメな飯を作って、月明かりに、お互いの顔を見ながら眠りについた日々は、地続きではなく、それぞれの胸の内の永遠になってしまったのか。
「ほんと、思い出は重いでなんて、よく言ったもんですよね」
零は一言、仕事に戻りますと言ったきり、玄関の外、光の向こうへと歩いて行った。
やはり、夢だったのか。
「お前、何やってるんだ?」
「……おやすみのチュー?」
目を開けると、作業着姿の凛々しくも若干女々しくてやはり男らしくて可愛げがなくなっていた一堂零ではなく、馬乗りに俺の体に跨って夜這いを仕掛ける一堂零と視線があった。
「さっき、したんじゃないのか?おやすみのチューなら?」
「あはっ」
いつものなんの変哲もないボロアパートと、実家から持ってきたオンボロ家具に、それらを照らす窓からの月明かりだ。
「なんでお前、上半身裸になってるんだ」
おまけに、俺のランニングシャツも、ご丁寧に乳首の上まで捲られていた。
「暑いかなあ……なんて」
「さっき寝る前に水風呂浸かっただろう?」
俺の問いに、零は唇の端や目じりを罰の悪そうに歪めている。あの夢の中にいた護るもののために心に鋼を纏った一堂零ではなく、開き直りすら出来そうにない、根は実直で隙だらけで動揺しやすい青年の姿の一堂零だ。
「………下を脱いでも良い?先生」
「ヤリ足りないのか?どうしたんだ?今日のお前」
まだハタチ過ぎだもんな。身に覚えがある、恋する相手が出来たばかりのころの自分と、今の零を重ね合わせた。俺が、零を歪ませているのはわかっている。零が誰かと結婚して、俺が他の誰かと結婚して、アパートを引き払う夢を見たのも、俺が心の奥底でそれを望んでいるからだろう。
お互い未練が枷になり、心に留どめを刺されぬうちに、時が来たら、俺を捨てればいい。来年ふたりで住む部屋を探そうなんて戯れ言だ。
月の明かりに照らされた、上半身裸の恋人を見て、俺はうっとりとため息をついた。定規を引いたような切れ長の大きな目、きゅっ口角の上がった口元、整った鼻と顎の線、そして、あどけなさが残っている顔の輪郭と、頼りなく薄い胸と腰周り。夢の中の男そのものの零ではなくて、目の前にいる零は、まだ子供じゃないか。
「しょうがないな。気持ち良くさせてやるよ」
俺は寂しいと、この男に打ち明け、この部屋で、零の純情を手折ってしまった。今も俺は、零の体の癖を、自分の手に馴染ませ、急所を少しずつ攻めようとしている。
身体を起こして、零を抱き寄せ、そのまま俺は、形勢逆転とばかりに、零を押し倒した。
「襲っても、俺が寝てるんなら、お前気持ちよくならないだろうが」
まだ勃つかな?夢の中の、零が誰かのものになってしまったと言う寂しさと、今の無邪気に精をねだる零とのギャップに、俺の股間はまた、熱さを取り戻す。
「………終わるの、明け方近くになるな。夏休みだからいいものの」
例えるなら、俺たちがいるのは人生の夏だ。耳の奥に虫の音が聴こえる。夜風が秋を運んできている。俺自身の夏の終わりは近いのだろう。キリギリスのように、ひたすら快楽を貪って好きだなんだと熱に浮かされる時期はとんでもなく短いのだ。
「夏休みの宿題、終わらせないと」
「お?珍しく殊勝なこと言うな?」
俺が、現実を忘れ快楽に酔うキリギリスなら、こいつも同類だ。蟻なわけがない。だから、俺は寂しいと言えたのだ。
「だってさ……」
零は、俺の首を抱きよせ、俺の耳たぶに口づけた。
「………卒業したいもん。来年、クーラーのある部屋に引っ越すんですよね?」
「………」
「ふたりで」
「…………………………」
「約束したじゃあ、ないですか」
将来の約束なんて出来ないと訳知り顔で、寝る前に言っていたくせに。
「お金なら、今からでもアルバイトしますよ。私ね、先生以上に寂しがり屋だから、求められると嬉しくてさ」
「…………………………………………その」
「聞きませんよ。そこから先の言葉なんて」
零は俺の歯切れの悪さを断ち切るように身を起こすと、今度は零が俺を押し倒した。さっきと同じ、馬乗りの体勢だ。
「……もう少し、お前は割り切ったやつだと思ってたんだがな」
「血も涙もないみたいな言い方はやめてくださいよ。私だって、半端者やはみ出しものを集めて、奇面組なんて、成長しない千年王国を作るぐらいだからね」
いつもは飄々として子供じみた男のくせに、月明かりに照らされて俺を見下ろすさまは、少しずつ、生来の聞かん気の強さを滲ませている。
「あなたにとっては、何番目かの愛かも知れないけどさ」
零は俺に手と手を重ねると、そのまま胸と胸を合わせた。髪の毛ももつれあい、一緒に入った風呂で使った同じシャンプーの匂いが漂う。
「私、自分が恋愛出来るだなんて、思っても見なかったから」
夢の中の零と同じ言葉だ。俺が歪ませた。寂しさのあまり、教え子と関係を持ち、俺のことを欲しがるように、快楽を体に覚えさせたのも。
「いいのか?河川や、さっきお前が言ってた幼馴染なら、お前は別の生き方を出来ると思うがな」
「怖気付いた?それとも、あなたにとって、やっぱり私は遊び相手だった?」
割り切れるほど、一堂零は人生を長く生きていなかった。夢の中のあいつは、俺が選べなかった方の人生そのものだった。
「お前が俺くらいの歳になったら、俺の狡さも、小ささも気づくだろうよ」
俺は零に重ねられた手をグッと握り返した。愛してる、愛してない、そんな言葉は行為の前は茶番にしか思えず、俺たちはその手の言葉を交わしていない。数時間前に交わした、好きだのみだ。
「いずれ終わる夏休みを先延ばししたいのは俺の方もだよ」
その後は学校に仕事にと、地道な日々の繰り返しだ。最初にした恋を思い起こし、将来ある男を胸に抱いた。我を忘れる恋は何度目だろう。自分の力量や、零のそれからを思うと、今だけに気持ちを注ぎ込むなんて、羨ましくて眩しくて、それが自分にとって遠い日のように思えてならない。
「難しいことは抜きだ。……楽しむか」
俺は、重ねられた手を離し、身を起こそうとすると、零に腕を掴まれた。
「おい。するんじゃないのか?お前が上にいると何もできないだろ?」
「私があんたを抱きたいって言ったでしょ?たまにはいいんじゃないですか?」
根は、聡い男だ。俺の返しで、俺たちのありようをわかってしまったようで、いつもの飄々とした口調に俺は安堵する。
「なんだ、そういう感じか?俺は抱かれるとかそういうのは無理だぞ。受け身にさせられると、逆にどうしていいかわからなくてだな……」
「そういうとこですよ、あなた」
零は再び俺を布団に押し倒すと、笑った。
「いつも与えてばっかりで、私に借りを作ってくれないよね」
月の明かりが、部屋の中を照らす。今、俺の目が映し出した風景は、何年か後の俺が思い起こすか夢を見たかの幻なのだろうか。
恋人が、俺の唇を吸い込んだ。