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    千載一遇の好機 勇は晴天の下、画帳に筆を走らせている。一筆一筆描き込まれるたび、菊が紙に浮かび上がっていく。このまま葉脈まで描き込めば、下絵にそのまま使えそうだなと隆二は思った。勇の真骨頂は書き込みの精緻さだ。
    「精が出るな、勇」
    「隆二さん」
     勇はいつもの冷静な顔で振り向いた。勇は絵を描いているときに話しかけても、集中しているときは気づかないこともあるが、機嫌を悪くしたことはない。やりとりのしやすい相手で助かると隆二は常々思っている。
    「ぜひお前にって小説の挿絵の仕事が来たんだが、やるか?」
    「やります。概要教えてください」
    「……概要聞いてからやるかやらないか判断しろ」
    「でも今の俺は『やる』一択しかないでしょう」
     小首をかしげる勇に隆二はため息をついた。隆二は勇ほか数名を連れて、日本画の一大画派である実家の佐竹派から独立した。隆二はともかく、勇はまだ売り出し中の画家で、顧客はおろか、糊口をしのぐための仕事も定まっていなかった。
    「俺が言うのもなんだが、自分を安売りするな」
     相変わらず感情の見えない顔で小首をかしげる勇である。隆二はそのそばに座ると、一通の封書を手渡した。
    「隆二さん宛ですよね。読んでいいんですか」
    「中に入っているのはお前への仕事の依頼だ。読まなきゃ始まらん」
     隆二さんが対価と労力が釣り合わない仕事を俺に薦めるはずがないのに。そう思いながら、勇は封をすでに開けてある封筒から、便箋を取り出した。
    「……仕事の量と給金は釣り合ってるし、俺にもできそうですから……受ける気持ちは変わりません」
    「そうか。出版社の担当の人と会わせるから、今まで描いた絵を人物画中心に、担当の人に見せられるようまとめとけ」
    「わかりました。まとめたら一応見てもらえませんか。先方がどんな絵が好みか知ってますよね」
    「ああ」
     勇は画帳を閉じると、縁側から屋内へ入った。押し入れの行李から過去の画帳を取り出す勇に、隆二は罪悪感を持った。
     資金があれば、人脈があれば、もっと勇に自分の描きたい絵を描かせてやれたのに。だが、今はどちらも心許なく、本業に集中させてやれないことが、申し訳なかった。いっそ、佐竹派に戻らせたら。何度もそう考えたが、自分についていくと言った時の勇の決意の固い顔を思い出すたび思いとどまった。
     何かいい手立てはないか。隆二は縁側近くで画帳から絵を選んでいる勇を目の端に留めながら考え込んだ。

     随分と小綺麗でデカい家だな。隆二は自分の生家に対してそんな感想を抱いた。勇と画室を兼ねた借家で暮らしてきた期間は短いが、ずいぶんと馴染んでいたらしい。通された表座敷でそのことに気がついた隆二は苦笑した。
     柱は顔が映るほど磨かれ、畳も青々として滑らかである。床の間には品よく南天の実付きの枝が生けられており、その背後には岩を落ちる滝が描かれた掛け軸がかかっていた。隆二は目に留めた途端、眉間に皺を寄せた。少ない手数ながら水飛沫を感じるほどの迫力のある見事なその絵を描いた男を、隆二は嫌と言うほど知っている。
    「こちらが呼びつけていたのに待たせてすまなかったな、隆二」
     表座敷に入ってきた自分と似た顔の年長者に、顔を顰めそうになったのを、隆二は咄嗟に笑顔の形に変えた。兄の隆一である。父が死んだ後に佐竹派を継いでいて、その絵の腕前は、歴史ある画派を率いるに相応しいものだった。この部屋の掛け軸を描いた絵師でもある。
    「いえ、久しぶりの生家を懐かしんでいました、兄上」
    「そうかしこまるな。梅原たちは元気か? 勇君はお前と一緒に暮らしているんだったな。ちゃんと見てやってるのか?」
    「梅原たちは元気ですよ。引っ越しの時も手伝ってくれましたし。勇は本の挿絵の仕事を指名でもらえるようになったんですよ」
    「勇君は絵師だろう。本の挿絵は確かに立派な仕事だ。だが、肉筆画でもらえるようにならなければな……掛け軸一幅くらい普通に依頼は来るだろう」
     隆二は頭の中で血が逆巻いたような気がした。この男は生まれてから一度も佐竹の名を使わないで世間に出たことがないから、軽々しくそのようなことを言えるのだ。
     明治維新後、世の中の仕組みが大きく変化し、文明開化の思想により伝統的なものから西洋的なものに価値を見出されるようになったため、絵師の仕事が減り、多くが困窮している。そんな中で佐竹派がそもそも存続しているのは、伝統を守る傍ら、いち早く西洋人の好みを研究し、外国と取引をする商人と顔を繋ぎ、販路を広げた父がいたからだ。
     いや、この男なら、この家から出ても、絵の一幅くらい簡単に依頼を取れるだろう。
     隆二は頂上が見えない山道を仰ぎ見るような気持ちで兄を見た。父の存命時からも役人や軍人、実業家に顔を繋いで屋敷の襖絵などの仕事を取っていた男だ。独立した後も馴染みの商人や知り合いの官吏のところへ顔を出すたびに兄の名を聞いていた。もし、自分ではなく、兄が勇たちを引き連れて家を出ていたら、勇たちにもっといい仕事をやっていたに違いない。商才にも画才にも恵まれた人間なのだ。だが、兄の嫌なところは、全人類それが可能だと思っており、それが出来ない人間を怠惰だと断じるところである。人間には向き不向きがあるという考えがないのだ。隆二は少しくたびれた着物を握りしめた。
    「まあいい。今日お前に来てもらったのは、今度の内国勧業博覧会についてだ」
     内国勧業博覧会というのは、明治六年に開かれたウィーン万国博覧会を参考に国内の産業増進を達成するために開かれている博覧会である。そこでは美術品の展示も行われるのだ。
    「お前たちも出したいというなら、うちから出してもかまわんぞ」
     まあ、見るに耐えないものだったら弾かせてもらうが、お前たちなら大丈夫だろう。隆一は大口を開けて朗らかに笑った。
     隆二の頭に浮かんだのは、この話を呑んだら、大きな代償を払うのではないかという疑いだ。国家の一大行事への切符を易々と、弟とはいえ独立した人間に与えるほどこの兄は馬鹿じゃない。
    「だめですよ兄上。そんな大事な機会は、よその人間に与えるものじゃありませんよ。それに俺は、俺たちは博覧会出展に見合う対価は払えません」
    「対価は別に構わん。お前たちのような優秀な絵師が機会を得ることができずに燻っているのは見るに耐えん」
     隆二はぽかんと口を開けて兄を見つめた。この人は、何を言っているのだ。三十年間一緒にいた兄が、得体の知れない生き物に見えた。
     だが、その誘いに乗りたくて仕方がなかった。隆二についてきた弟妹弟子たちは、機会さえあれば、歴史に名を残せる腕を持つ者ばかりだと隆二は思っている。自分が与えてやれない千載一遇の好機が、目の前にあるのだ。
    「……では、お手間を取らせてしまい申し訳ありませんが、内国勧業博覧会への出展の窓口になっていただくにあたり、対価についておっしゃったことを明記した約定を下さい」
    「……随分と兄に対して慎重だな」
    「無条件に甘えられるほど、もう若くはないのですよ」
     心底寂しそうな隆一に、怒りと恐れ、そして歓喜で荒れ狂う内心を笑顔の面で覆い隠して隆二は頭を下げた。

     外の光が残照のみになってから帰ってきた隆二と顔を合わせた勇は、一日で十年歳をとったようだと思った。片手には俗に言う貧乏徳利を下げており、隆二の心労がうかがえた。
    「おかえりなさい、隆二さん。飯、できてます」
    「ありがとうな、勇」
     隆二は大きくため息をつきながら草履を脱ぎ、囲炉裏端の隅に置いていた箱膳を二つ取り出し、円座の前に置いた。
    「すみません、隆二さん。疲れているのに」
    「お前も飯作って疲れてるだろ。これくらい屁でもない」
     お櫃と猪口を持って囲炉裏端に上がってきた勇は控えめに笑った。兄弟子の貴方にこんなことさせてしまって、申し訳ありません。そう言わなくなったのは成長だな、と隆二はふと思った。自分の師匠の息子で、兄弟子であるせいか、移り住んだ当初、隆二の身の回りの世話を引き受けようとしていた勇であったが、師弟関係ではなく共同生活者なのだから、身の回りのことは自分で行い、家事は分担すべきだと折々に説いた甲斐があったと疲れた脳が感慨深く感じ入った。
     鰯の干物の塩焼きと、葉物の味噌汁をよそった二人は円座に腰を下ろした。いただきますと手を合わせて箸をつける。
     隆二は膳に乗せられた猪口に徳利から酒を注ぎ、仰いだ。酒精が喉と臓腑とともに疲れを優しく焼いていく。
    「お前には先に言っておくが、今度の内国勧業博覧会に、うちからも出展できることになった」
    「……今日のお話はそれでしたか」
    「ああ。あちらの審査はあるがな。タダでなおかつ公正にさせることを約束させた」
     相変わらず隆一さんは隆二さんに甘いな。と、ため息をつく隆二を横目に勇は苦笑した。隆二に知られたら怒られるので絶対に口にしないが、この兄弟の関係には側から見れば、懐かない猫と、その猫に豪勢な調度を与えて飼う金持ちのような、ある意味滑稽さを感じられるのだ。
    「久しぶりッス。本格的に絵を描くの」
     隆二は目を伏せた。
    「すまないな。画家としての仕事をもってきてやれない奴で」
    「隆二さんが謝るのは違いますよ。仕事が来ないのは俺が名が売れてないからです。むしろ、地盤が固まってないくせに、隆二さんにくっついて飛び出したガキに、いろいろ仕事をくれることに感謝してるんです。
     俺は挿絵の仕事とか、今日隆二さんが取り付けてくれた博覧会とか、そういうのから名前を知ってもらって、いつか、自分の名前で食べていける画家になります」
     そう宣言した勇は、初陣を前にした若武者のように凛々しかった。いつのまにこんなに頼もしく育っていただろうと、幼少期から知っていた隆二は感心した。
     そして、博覧会への出展の誘いを受けたときに生まれた居心地の悪さが霧散した。勇達を世に送り出すためには何でも利用してやると覚悟していたくせに、兄に、佐竹派の名に頼るまいとどこかでこだわっており、そのこだわりに後ろ指を指されている気分になっていたのだ。兄の誘いにのって良かったと心の底から思えた。
    「難しいことを簡単に言いやがってお前は」
     だがそれは不可能だという考えは、隆二の中に僅かも浮かばなかった。

     一週間後、内国勧業博覧会への出展の権利を得たという話を付いてきた弟妹弟子たちにすると、皆わき立った。だが、佐竹派経由だと明かされると、一様に薬を飲まされたようなしかめ面になった。
    「大丈夫なんですか、それ」
     梅原が代表して隆二に尋ねる。貴方やこの中の誰かが犠牲になったりすることはないんでしょうね、と言外に含んでいる。
    「大丈夫だ。公正な審査をすることと、対価は無しでよいと約定はもらっている」
    「よくそんな破格の条件をとりつけましたね」
    「あちらから言い出したんだ」
     どこか不貞腐れた隆二からそれを訊いた弟妹弟子たちは今度は破顔した。自分たちのために隆二が代償を支払った事実がないことが嬉しかったのと、佐竹兄弟の屈折しているがどこかおかしみのある仲に、ある意味ほっとしたからだ。
    「じゃあ、私が書き留めてた下絵いくつかあるんで見てもらえませんか?」
     ヒビキが隆二に紙の束を差し出した。その顔は大舞台に挑戦できる喜びに溢れ、溌剌としていた。
     他の者も下絵や模写を見せ合ったり、助言し合っている。勇はその光景に胸のあたりが暖かくなったように感じた。隆二についていくとき、できるだけ早くみんなで絵について議論を交わしたり有意義な時間を持ちたいと思っていたのだ。独立してからは金策の話が多かったが、大切なのは理解していても、絵描きとして切ないものがあった。
     さて、俺は何を描こう。勇は手入れをされた庭を眺めながら、幸福な悩みにしばし浸った。




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    2024/07/12 21:34:45

    千載一遇の好機

    #bbb #サタイサ

    サタイサ日本画家パロです。サとイとdidrが明治時代の日本画家をしてるというニッチすぎる設定の作品です。

    注意!
    明治時代パロ、日本画家パロです。
    捏造サタ兄が出ます。
    何から何まで捏造です。

    以上のことをご了承いただけた方はぜひお読みください。

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