好きから生まれる「描きたい絵が決まらない?」
隆二は夕食の席で吐露した勇にそう返した。飯茶碗と箸を持つ勇は心なしか背を丸めて小さくなったように見えた。
「俺はいつか描いてみたいと思った習作を描き溜めてるが、お前はそういうのないのか?」
「あるにはあるんですが……博覧会に出すには向かないかと」
出展に向けて絵を描くと決めてから三週間が経っていた。計画ではすでに題材の写生や下絵を描いているはずだった。その後骨描きを経て色が塗られる。
「描きたい絵を思う存分描くのも手だと思うが」
勇は途方に暮れた顔で床に視線を落とした。
「まあ、そういうわけなので、案を出すとき隆二さんはどうしているのか聞きたくて」
「……強いていうなら他の絵を見ることかな。役者の絵でも、風景画でもなんでも」
「役者の絵って浮世絵とかですか」
「思い切った構図を書きたい時はいいぞ」
勇は意識をどこか遠くに飛ばしたような顔で隆二に礼を言った。「作業にかかる日数は考えとけよ」という隆二の兄弟子らしい忠告で、次の話題に流れていった。
やはりどの案も博覧会には向かないな。翌日、火鉢をお供に画室で勇は古びた画帳をめくりながら頭を痛めた。昨日の隆二の言葉を受けて、描き溜めた中に一つくらいないかとめくって確認していたが、どれも描きたいと思えなかった。
勇が描き溜めていたのは、若い男性の肖像ばかりだった。胸から上の大首絵風のものがほとんどである。ときどき佇む姿を全身描いたのもあるが、一枚絵にできるほど構図は練られたものではない。肖像の男は皆短髪に濃い墨で一息に描いたような眉、切長の目の偉丈夫であった。描いた張本人によく似ているが、どこか優しげな気配を漂わせている。
「それに、本物の兄ちゃんには程遠いからな……」
見る者に微笑みかける画帳の人物を優しくなぞりながら、勇は悔しそうにぽつりとこぼした。画帳に描かれたのは全て勇の兄であった。隆二と同い年で、同じく隆二の父に師事していた、将来有望な絵師であった。だが周囲の期待に答える間も無く、二十四歳の若さで事故によりこの世を去った。
記憶の中の兄は、勇と遊び、勇の描いた拙い絵を褒めてくれた朗らかで優しい兄であった。その姿を紙や絹の中に留めておきたいと願い、絵の修練に励んできた。隆二に付いて独立した理由の一つに、好きなものに関しては卓越した描写力を持つ隆二の元でもっと修行を積めば、記憶の中の兄そのものを描けるのではというのもあった。
勇は画室の縁側近くに隆二が広げている大判の紙を横目で見た。山の麓で馬が数頭群れて草を食む牧歌的な風景が描かれている。博覧会に出す絵の下書きであった。構図にこだわっているのか、どの馬も数回紙を貼った上に描き直されている。
早く描かねば。だが、絵が思いつかない。勇は思考も状況も袋小路に入り込んでいた。
「いらっしゃい勇、珍しいねウチに来るなんて」
家で悩んでいても埒があかないと思った勇は、ヒビキを訪ねることにした。勇から土産物の饅頭を渡されたヒビキの母に、勇が来たと階上の自室から呼ばれたヒビキが、己の客人を対応する横では、客の注文通りに奉公人たちが白木の平箱に入った乾しいたけや乾燥昆布を包んだり、商品の説明をしている。番台ではヒビキの弟がそろばんを弾いていた。
ヒビキの実家は三代続く乾物屋である。ヒビキは店の手伝いをする傍ら、暇を見て勇と同じく本の挿絵や扇の絵付けをしていた。
店の奥の座敷に通された勇は、下女から供された茶で喉を潤した。自分が淹れるものより味がいいのは、茶葉の質によるのか、淹れ方がいいのか。あとでヒビキに聞いてみようと思った。
「お前いつもどうやって描く絵決めてる?」
「唐突だね。まだ何描くか悩んでるの?」
「お前が決めるの早いんだよ」
口を尖らせた勇をヒビキが笑った。
「私は描きたい! って思ったらすぐに画帳に案を描いて、機会が来たらその中から決めてるな」
「……その中にも描きたいのがなかったら?」
う〜んと唸りながら、ヒビキは額に手を当てた。自分の描きたい絵は多いが、自分の思うように描く機会が少ないため、そのような悩みを持ったことがなかったのだ。
「私だったら、好きなものから描くかな〜」
「その好きなものが、世に出していいのかわからないものだったら?」
「何? あんたそんなヤバいの描こうとしてるの? 春画とか出す気?」
「そんなわけないだろ!」
大口を開けて笑ったヒビキに、勇は噛み付いた。
「まああんたマトモだから、それは無いか……どうしても描きたくて仕方がないとか、それしかないんだったら、どうにか世の中に出してもいいように考えるかな……そこまで描きたいわけじゃないなら、景色見たり、周りの人の服装を見たり、貸本屋で本借りて読んだりして、描きたいもの浮かぶようにすると思う」
なんだか後半は隆二さんと言ってることが似ているな、と勇はぼんやり思った。勇の反応の薄さに、ヒビキは苦笑した。
「悪いけど、私が出せるのはこれくらいだよ」
「いや、助かった。お前が言ってるようにやってみるよ」
勇は再び茶に口をつけた。冷めても変わらず香り高く、美味である。
座敷から見える小さな坪庭の左手にある獅子脅しが、小気味良い音を鳴らした。再び竹に水が涼やかな音を立てながら溜まっていく。獅子脅しの反対側の石灯籠の脇に植えられた植物を、そよ風が撫ぜて揺らす。よく見ると笹であることに今更ながら勇は気づいた。
「確かにちゃんと景色見るの大事だな。庭の石灯籠の周りに笹植わってるの今気づいた」
「鈍感すぎない?! そんなんで絵描きできるの?」
「描いてるときはちゃんとやってる」
「だよねえ」
その後ヒビキが描こうとしている人物が着ている着物の配色について共に悩んだり、お茶の淹れ方を教わるなど、話題が尽きることがなかった。
日が西に傾き、積もった雪や街が橙色に染まっている。
「今日はありがとうな」
乾物屋の隅で勇は見送りに出たヒビキにほんのり笑みを向けた。
「どういたしまして。がんばろうね、博覧会の絵」
「おう」
日が陰ったせいか、時折吹く風で肌が凍りつきそうだと勇は自分の肩を抱いた。
「勇、やっぱり好きなものを満足いくまで描いたほうがいいよ。例えいい結果が出なくても、好きなものを一生懸命描いたときと、自分を押し込めて描いたとき、後悔するのは自分を押し込めた時だと思う」
ヒビキの顔は茶を片手に話していた時とは打って変わって、恐ろしく厳粛だった。勇は周囲から音が消えたような気がした。
「それにどんな道を行っても、結局好きなものに帰っちゃうと思う」
結局好きなものに帰っちゃう。ヒビキの言うことは真理であろう。だが、それでは博覧会にふさわしい絵は描けない。
堂々巡りだな。と、勇はため息をついた。時間は残酷で、何が起ころうと同じ速さで過ぎ去っていく。時間的にも心理的にも迷うのは終いにしたかった。
とりあえず、隆二さんに何か手本になるものはないか聞いてみようと勇は考えた。
「おう、勇。どうだった」
隆二は襷掛けをして台所に立っていた。絵師の一大流派の宗家に生まれた、本来は台所などに立たない立場の人間だが、炊事を好んでいる。別の方向で手を動かすことで、気分が晴れるというのだ。
「気分転換にはなりました。あいつも元気ですよ」
「そうか」
隆二は口角を上げた。
「食いながら聞こう。お櫃持って行ってくれ」
勇はお櫃を持って囲炉裏端に上がった。主菜と味噌汁は隆二に任せ、茶碗に玄米をよそう。今日の主菜は野菜の煮付けである。
「期待したほどの成果はなかったって顔だな」
苦笑する隆二に勇の箸が止まった。ヒビキや隆二に尋ねれば自分の描きたい、博覧会にも相応しい画題が浮かぶ。心の底にそんな甘えがあったのを、突きつけられたように思えた。
跳ねた心臓を鎮めるため、表に出さないよう、勇は静かに大きく息を吐いた。
「まあ、景色とか、色んなもの見るといいよ、って言われました。隆二さんと同じですけど。あと、好きなもの描けって」
「そうか」
「でも、もう迷っていられないんで」
本当は最高の案が浮かぶまで時間が欲しかった。勇は唇を噛んだ。案の良し悪しは、絵の出来を左右することが大きい。絵師として名声を得れる、一生に一度かもしれない好機を、無駄にしてしまうのが恐ろしかった。
そして、自分の誇りを傷つけてもその機会をもたらしてくれた兄弟子に顔向けできない絵を描くのがなにより悔しかった。
「隆二さんにお願いがあるんですけど」
「なんだ」
「隆二さんが持ってる資料、見せてもらえませんか」
せめて、全力を尽くして、今できる最高の絵を描きたい。勇の目に強い光が宿った。
隆二は破顔した。切羽詰まった状況の勇には申し訳ないが、彼に頼ってもらえるのは嬉しいものだった。
「飯食い終わったらすぐ出してやる」
「ありがとうございます」
隆二が出してきた資料は、武者絵、美人画、風景画、歴史画など、その分野は多岐に渡った。
風呂に入ったあと、後始末をしてから勇は綿入れを着込み、石油ランプを傍に、画室に隆二が修行時代に模写した武者絵を畳に広げていた。描いた当時十六歳だったというが、自分より上手いなあと勇はほんの少し落ち込んだ。俺はこの人に追いつけるだろうか。
「あまり根を詰めるな、と言いたいが、寝る前に見るのは結構いいぞ」
隆二は悪戯に誘うような調子で没頭する勇に声をかけた。
「なんでですか」
「俺だけかもしれんが、寝る前に見ると、時々だが次の日上手く構図とか、画題が決まったりするんだよ」
勇は顔を輝かせた。自分にもそれが起きないだろうか。強い願いが心の底から湧き起こった。
「そりゃいいですね。一枚どれくらいの時間見ればいいんですか」
「そこまでは知らん。おそらくだが、絵の枚数というより、眠ることが大事な気がするがな」
「わかりました。もう少ししたら寝ます。明るかったら言ってくださいね、調節しますんで」
「俺も、もう少し起きてるから、気にするな」
体冷やすなよ、おやすみ。と言い置いて隆二は隣の自室に去った。おやすみなさい。勇はその背中に返すと、頬を緩めた。彼はこの、就寝前の挨拶を心が暖かくなるような気がするので好んでいる。修行時代、同じ年頃の兄弟弟子と大広間で雑魚寝をするときの賑やかな挨拶も好きだった。だが、今の二人だけで交わすそれは、適度な落ち着きをもたらしてくれるような気がしている。
襖越しには隆二が布団を敷く音が聞こえる。兄弟子の動作が奏でる音に時々耳を傾けながら、勇は眠くなるまで様々な絵を目に入れていった。
目の前で大鎧を身につけた男がこちらを振り返って太刀を振り上げた。同時に馬の前足が上がり、いななきが辺りに響いた。続いて男たちの鬨の声が森の木々を震わせる。
木々の間から崖の下を覗くと、赤い旗を靡かせた陣が見えた。あそこに今から馬で駆け下り、奇襲をかけるのだ。
それを考えた大将の顔を見つめる。勢いよく一文字に引かれた眉に、切長の瞳の凛々しい若武者であった。勝気な表情は昔よく見たもので、懐かしいと思った。
兄ちゃん。
そう呼びかけた途端、意識が別のところへ勢いよく引かれるのを勇は感じた。
顔の上に冬の清浄な朝の光が差し込むと、勇は瞼を開けた。夢の中の大鎧を着た兄の姿がずっと脳裏に焼き付いている。あれは源義経の逆落としに似てたな。昔兄ちゃんが聴かせてくれたもんな。
はやく紙に書き写さねぇと。
兄の姿を忘れてしまうことに気づいた勇は、枕元に置いておいた画帳に、夢の中で兄の顔をした鎧武者を写しとった。描き終わると画帳を引っ付かみ、急な階段を駆け降り、台所へ向かう。布団を畳むことなど頭から抜け落ちていた。
「おはよう勇。珍しいな、お前がこんなでかい音立てて降りてくるなんて」
私室から出てきた隆二はゆったりとした動作で目元を擦っていた。
「すいません、起こしてしまって……絵が浮かんだので、はやく描きたくて」
ほんの少し隆二は勇を眺めた後、雲ひとつない晴天のような笑顔をになった。
「そうか……! よかったな!」
隆二の眠気で緩慢だった動きが途端に機敏になった。弾むような足取りの行先は台所である。
「めでたいから今朝は俺が朝飯を作ってやる。お前は描いてろ」
かまどの火を起こす隆二の背が、輝いているように勇には見えた。
「……ありがとうございます!」
勇は画室に向かうと、自分の胴体を覆うほどの画帳取り出し、まっさらなページをめくって出しながら縁側に持っていった。縁側がこの家で一番明るいからだ。
脇に枕元に置いていた画帳を広げて見ながら夢に見た若武者を書き起こしていく。
隆二さんの言う通り、本当に寝たら浮かんだな。ある程度輪郭を取り終えたとき、勇の頭の中に浮かんだ。昔寝物語に兄から聞いた平家物語、好きなものを描けというヒビキや隆二の言葉、隆二が惜しみなく見せてくれた様々な絵。なんてことのない日々のかけらが、こんな重大なことに繋がっているとは、兄の面影の素描の前で途方に暮れていたときには思いもよらなかった。大いなる存在が操っているのではないかと、ほんの少し背筋を震わすような心地になった。
そういえばお礼を言っていなかったな。勇は鉛筆を走らせていた最中、ふと気づいた。相当絵に気を取られていたらしい。礼儀がなっていないなと少し落ち込んだ。そして同時に、それを許してくれた隆二の寛容さが胸に染み入った。他の兄弟子や、師匠、巷の商店の店主なら、横っ面を張られても文句を言えない。
この人は、いつも優しい。そのことがどうしようもなく嬉しかった。その優しさを、いつか返せるだろうか。そして、自分が優しくされて嬉しかったと伝えたい。欲求の内容とは裏腹に、衝動に似た激しい心の動きだった。なんでこんなに、そんなことをしたくてたまらないんだ? 勇の心臓は大きく波打った。
とりあえず、ご飯の時にちゃんとお礼を言おう。
着物の合わせを強く握り締めながら、勇は心に誓った。