ピグマリオンの狂信 機械油で汚れた服を洗うのは、案外大変だった。他人の家だからというのもあるかもしれない。
「洗い場貸してくださってありがとうございます。それと服も」
イサミは台所にいる家主であり、恋人のサタケに声をかけた。彼は今夕飯作りの真っ最中だった。
「おう。洗ったやつは風呂場に置いておいてくれ。あとで今日の洗濯物と一緒に洗うから」
「わかりました」
イサミの返事にサタケは苦笑を漏らした。職場では直属の部下である彼女を思い出したからだ。制服を脱いでいるときくらい、もう少し肩の力を抜いて欲しい。
「置いたらすぐ戻ってきてくれ。もう夕飯できるから食べよう」
「はい」
イサミは弾ませた声を残して足速に風呂場へ向かった。サタケは彼女のかわいらしい反応に頬を緩ませた。
食卓について手を合わせ、二人のささやかな晩餐はしめやかに始まった。
「リュウジさん、筑前煮美味しいです。醤油とみりんの配合? ですかね。あとで味付け教えてください」
「気に入ってもらえてよかったよ。味付けは後で教える」
イサミはご飯を一口食べようと箸を動かしながら笑った。味付けを教えてくれると向かいの恋人が言ってくれたこともそうだが、ちゃんと瀬戸物の茶碗と箸が用意されているからだ。サタケは自宅に自分以外がいることを好まないと付き合う前、イサミは飲み会できいていた。そんな男が自分をテリトリーに招いてくれたことが嬉しかった。
「あと、今日服貸してくれてありがとうございます」
「今日ウチでダラダラする予定がバイクいじりになったからなあ。お前の服汚したらマズいだろうし……汚してもいい服もってたら俺ん家置いといていいぞ」
イサミは一瞬目と口を大きく開けた後、顔を輝かせた。
午前中家でのんびりし尽くしたような感覚があった二人に、バイクの部品が宅急便で送られたことがきっかけで、午後の予定がバイクの整備になったのだった。縄張り意識の強い恋人が、命の次に大切にしているといってもいいバイクの整備を見せてもらえただけでも御の字だとイサミは思っていた。だが、昼食を食べている最中、サタケが天気の話でもしているかのように言ったのだ。
「お前もやってみるか?」
そのときイサミは一瞬何を言われたかわからずに、もう一度お願いします、と聞き返してしまった。
「バイクの部品の付け替え、やってみるか? ああ、服汚したくないなら貸すぞ」
大きく何度も頷いたイサミにサタケは嬉しそうだったのが印象に残っていた。
サタケの大事なバイクの整備を上手く手伝えた自信はイサミにはなかった。だが、次の機会もあるという。サタケの内側に入れたようで嬉しくてたまらなかった。
夕食を食べ終わり、食休みがてら筑前煮のレシピを教わり、手持ち無沙汰になった。イサミは目の前の恋人をそれとなく観察する。イサミには期待していた言葉があった。
「支度しとけ。そろそろ帰らないと危ないだろ」
とっくに日が落ちているのに何を。内心でイサミは反論した。だが、恋人の口調は仕事で指示を出すときのようで、その内容もイサミが望んだものとは真逆のものだった。
交際を始めて約四ヶ月。サタケがイサミに手を出す気配は砂つぶ一つほどもなかった。
手は繋いでくれるし、キスもしてくれるし、私の家にも来てくれるんだけどなあ、この人。
イサミは車道側の恋人を見上げた。視線に気がついたサタケはゆるく微笑んだ。
だが、サタケの手がプライベートでイサミの胴と脚に触れることはなかったし、キスも優しく触れられるだけ。お互いの家には夕食後までしかいたことがない。
自分には魅力がないのだろうか。と、日に日にイサミは不安の沼に沈んでいく。サタケ自身のテリトリーにはかなり深いところまで入れてくれるが、イサミに女性的な魅力を感じているような気配は見られない。というより、あえてその気配を排除しているようにイサミは思えたのだ。
当のイサミは深いところまで触れ合いたかった。サタケが自分をどれくらい愛しているのか知りたかったし、イサミも身の内に溢れる彼への愛を伝えたかった。実際に伝えられるかは経験がなくわからなかったが、だからこそサタケに教えて欲しかった。
駅の看板が家屋の間から垣間見えた。イサミの胸の内に寂しさが込み上げてきた。仕事は残業が常で、休日出勤もある。上官であるサタケはなおさらである。二人揃ってまとまった時間を一緒に過ごせることが、この先あるのだろうか。
改札口の前にたどり着くと、サタケは繋いだ手はそのままにイサミと向き合った。その目は真剣だった。
「じゃあな、イサミ。帰ったらすぐ連絡しろよ」
「わかってますよ」
「必ずしろよ」
そう念を押した後、名残惜しそうに一瞥し、サタケは背を向けた。
その瞳には、イサミの身を案じる以外の強い光が宿っていた。
——あの
男は、本当は私を帰したくないのだろうか。
そんな疑念を抱いたイサミは、駅の入口で立ち尽くしていた。
「そろそろ支度した方がいいんじゃないか。駅まで送る」
来たか。取り澄ました顔でそう告げたサタケを前に、イサミはそう思った。
イサミは緊張で心臓が激しく脈打つのを悟らせないように、慎重にダイニングの椅子から腰を浮かせた。
「リュウジさん、私の事、泊める気は起きないですか?」
そう問うイサミの顔は、稼業中のように真剣だった。彼女は右手を伸ばすと向かいのサタケが机の上に投げ出していた手を包み、机との間に挟み込んだ。サタケの手は相変わらず乾いていた。
サタケ宅の最寄駅の改札前でイサミが疑念を抱いてから、一ヶ月が経っていた。その間脳裏を占めていたのは、その疑念の正否を明らかにするにはどうすればいいのかであった。正面から問いただすか、別の第三者に頼んで聞いてもらうか、いっそ自分から押し倒すか。
結局選んだのは、本人に直接聞くことであった。二人の関係を良くするためには、必要不可欠だと思ったからだ。
サタケは何かに魅入られたように固まって、問いに答えることはなかった。
「私のこと、本当は好きじゃないんですか」
「違う」
命令するときのような鋭い声で、サタケはイサミの疑念を打ち消した。
「じゃあどうして」
手を出してくれないんですか。そう問い質そうとしたイサミは、言葉が出なくなった。サタケの目は、厳格な上官の時とも、優しい恋人の時とも違う、例えるなら、飢えた獣が檻越しに好物の獲物を見ているようだった。
「正直お前に対してそういう欲はある。だがそれを出すのは今じゃない」
何を言ったんだこの人は。サタケの言葉が、耳を素通りしたようにイサミは思えた。
「それが本来何のためにするのか、わからないわけじゃないだろ」
「それはそうですけど……でも、できないようにする方法、あるじゃないですか」
イサミは口の中でモゴモゴとつぶやいた。本来の目的がわかってなかったわけではない。だが、その危険を冒しても、この人と一つになりたかった。それに、失敗しても産休でも何でも使って産み育てるつもりだ。
「だがそれも百%ではない。失敗したらお前、戻れないぞ」
「産休があるでしょ」
「違う。TS乗りにだ」
サタケは深く息を吸い込むと、不安や葛藤を追い出すかのように時間をかけて息を吐いた。何かを探すように視線を彷徨わせながら、口を開けて閉じてを繰り返すと、イサミと顔を合わせた。その顔が何故か、くやしそうだとイサミは思った。
「子どもを産んで、TSパイロットに戻った女性隊員はいない」
イサミは目を背けていたことを突きつけられたような居心地の悪さを感じた。ある意味事実であった。TS開発当初から、身体能力差の配慮が少なくて済むからか、女性パイロットが多く配置されていたが、子どもがいる女性はいなかった。パイロット復帰の大きな壁となっているのは、勤務形態の厳しさである。幹部自衛官の過重労働に加えて、前線配備を前提とした過酷な訓練と、育児の両立は福利厚生を利用しても至難の業であるらしく、復帰しても職種変更や退官を余儀なくされるようだった。
サタケは固まるイサミを視界に捉えながら、昔を思い出していた。
TSパイロットになりたての頃、育休中の女性のパイロットの先輩が、子どもを連れて詰所を訪ねてきたことがあった。雑談をしながら時折腕の中の幼い我が子に向ける視線は、聖母像のように慈愛に溢れていた。
「復帰したら業務隊に異動になるの、本当に寂しいです」
当時のサタケは心底この先輩がTSから降りるのを惜しいと思っていた。操縦も、攻撃のタイミングも誰よりも優れていて、もっとこの人の元で学びたかった。
「そうだね。私も烈華から降りるの、本当はすごく寂しい」
そうつぶやいた先輩の目が、昔見た能の怨霊の面のように、でろりと暗く光っているようにサタケには見えた。
あの瞳の暗さを、サタケは忘れることができないでいる。
「だから、お前にはどうしても今は手が出せん。すまん」
サタケはイサミの右手の上に己の手を重ね、宝物を扱うかのように大事に包んだ。
イサミは脳内で何かがはぜるのを感じた。
じゃあ、他の男に走ったら、あんたはどうするつもりだよ⁈ 勝手に人の身体のことに口出して何様だよッ!
脳裏に浮かんだ言葉をそのまま叩きつけようと口を開こうとするよりほんの少し早く、サタケは口から地底から這い出してきたような、低い声で言葉を吐いた。
「それにお前はTSの操作に関しては天才だ。俺が見てきた誰よりも神がかっている。俺がそれを磨き上げたい。お前がその腕で、どこまで行けるのか、見届けたい」
イサミは自分の怒りが急速におさまっていくのを感じた。その代わりのように身体の内に湧き上がったのは、敵将を落としたときのような昂りだった。
二人は爛々とした光が宿った目で手を握り合ったまま陶然とお互いを見つめていた。その様を誰かが見たら、すぐに逃げ去っただろう。そこにいたのは男と女ではなく、才能に魅入られたTS乗り二人であった。
fin.
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