他愛無い展望「帰りは寝ていて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
車に乗り込む際の短いやり取りは社交辞令だと互いに承知していた。狗飼は上司の車で寝れる性分ではなかったし、後閑もそれを知っている。それでも、一日中体を動かした疲労感と、座席の上等な座り心地に流石の狗飼も欠伸を噛み殺した。眠気覚ましに適当な話題を振る。
「今回も楽しかったです。数ヶ月前まで興味なかったのが嘘みたいですよ」
「それはよかった。狗飼さんは筋が良いですし、私の目に狂いは無かったみたいだ」
エンジンをかけた後閑がチラと助手席に座る狗飼に目を向けた。硬質さを湛える灰色の瞳が柔らかく溶け、いたずらっぽく細められる。職場では機械じみた効率で業務をこなすこの人は趣味が関わると途端に人間らしい熱を持つ。それを知ったのは去年の冬……否、今年の春からだった。
四年も同じチームで仕事をしていたのに後閑と狗飼には殆どプライベートな関わりがなかった。一緒に飲み食いするのが精々で、それも樒戸を挟んで行われるのが常だった。互いにそれで困った事はなかったし、不仲という訳でもないので距離を詰めようともしなかった。何より、仲間が────相模原が殺されてからは行楽に誘い合える余裕など無かった。
「後閑さんが誘ってくれたお陰ですよ。俺ァ無趣味なもんで休日といえば寝てるか鍛えてるかのどちらかですからね。自分から遠出なんてしませんし、前も言いましたが、山なんて小学校の林間学校以来でしたよ」
あの凄惨な事件の後処理が終わり、ようやく人心地つけるようになった晩春、後閑は狗飼を登山に誘った。狗飼は驚いたが、断る理由も無いし、付き合いのつもりでついて行く事にした。(器用に見えて危うい上司の内側を知りたいという気持ちも少しはあったかもしれない。)肉体に掛かる負荷と地道さを楽しめる気質が良かったのだろう。その一回で狗飼は登山にハマり、後閑に連れて行かれた登山用品店で自前の道具を揃える迄になった。
「ボルダリングも始めたんでしたっけ?」
後閑が薄く微笑みながら言った。
「ええ、壁登るだけなのに結構面白いもんですね」
「狗飼さんは一歩一歩着実に踏み固めていく作業が得意ですからね。次は岩壁登攀が出来る山に挑戦してみませんか?」
「いきなり大丈夫ですかね?」
「ご心配なく。ビギナーでも楽しめるコースをご紹介します」
「愚問でしたな」
狗飼は愉快げに笑った。
「後閑さんに任せりゃ安心ですわ」
瘢痕だらけの顔がクシャッと歪む。仕事に関係のない所で後閑に身を委ねるのは擽ったかったが、悪い気分ではなかった。
登山客用の駐車場を出て暫くするとトンネルに入った。疲労による穏やかな沈黙の間をラジオBGMがぼんやり横切っていく。古い流行歌のカバー曲だ。若い女性の声音は原曲を知っている狗飼には違和感があったが、若者受けはするだろうなと感じた。窓ガラスに自分の顔が映り込み、フッと苦笑した。”若者“と自分を無意識に切り離すようになって何年経つだろう。がむしゃらに働いているうちにいつの間にか”おっさん“になってしまった。
なんとなく、ゆるりと後閑の方を見る。くっきりとした目鼻立ちの端正な横顔が、トンネル照明のオレンジ色に照らされては陰る。
「……後閑さんって、良い老け方しそうですよね」
切長の目が狗飼を見て一瞬見開き、可笑しそうに正面を向いた。
「急にどうしたんです?」
「いや、俺もおっさんになったなあと思って」
「やめてくださいよ、二つしか違わないでしょう」
「後閑さんは男前だからいいじゃないですか」
「そういう問題じゃないですって」
後閑はクツクツと肩を震わせた。この人、笑うと少し幼く見えるんだよな、と他愛の無い事を思う。
「定年後とかも楽しそうですよね」
「暇にならない自信はあります」
「そういうところ、俺ァ羨ましいんですよ」
ふと、父の入った骨壷の軽さを思い出した。それから、自分が握った銃の重さを。膝の上で拳を握る。
「やっぱり一個だけに依存してると無くなった時キツいですからね」
思ったより情けない声が口から飛び出て、ハッと口を噤む。腋に嫌な汗が滲んだ。すぐに冗談めかしてはぐらかす。
「ハハ、すみませんね、急に変な話して」
後閑は顔色を変えず、ハンドルを握り、視線を進路に向けたまま口を開いた。
「定年後も誘いますよ」
落ち着いた声音だった。
「山でも、海でも。一緒に遊びましょう」
一瞬、反応が出来なかった。胸のつかえがトンと押され、どこかに転がっていく感覚。コロコロと隅に消えたそれを見送って、狗飼はニヤリと歪んだ口の端を上げた。
「……良いですね。どっかの山の最年長登山記録とか二人で目指してみません?」
「エベレストの最高記録は日本人で、八十歳ですよ」
「エベレスト」
「フフッ、冗談ですよ。自然は好きですが、山で死ぬつもりはないので。……その時までに調べておきますね」
そうこうしている間に車はトンネルを抜けた。斜陽が山のシルエット、その向こう側に落ちていく。カーナビの到着予定時刻はまだまだ先を示していた。