いらぬお世話・後編「着いたぞ」
狗飼のアパートに到着するまで五分も掛からなかった筈だが、郁李にとってはニューヨーク・テキサス間に相当する移動だった。つまり、嫌すぎて体感時間が極限まで引き延ばされた。
負われたまま玄関を潜り、台所を併設した廊下を抜けて私室に通される。狗飼は蹴って移動させた座布団の上に郁李を下ろしてから、靴を脱がして患部を観察した。
「まだそんなに腫れてねえな」
「……そうっスね」
「とりあえず湿布貼って様子見だ。明日も痛むようなら病院行け」
「……ッス」
「……そんなに痛むのか?」
「……全然ヘーキ」
いつになくしおらしい態度の郁李に首筋がむず痒くなる。
なんだこれ、やりづら。
「原付き持ってくるから適当にやってろ。便所は出てすぐ左だ」
狗飼は郁李に救急箱を押しつけ、気まずさから逃れるようにそそくさと住居を後にした。ぽつねんと残された郁李は居心地の悪さから身を守ろうと膝を抱えて縮こまる。
「”適当に“って、無理だろ」
元来警戒心の強い……否、強くならざるを得なかった人間である。顔を合わせれば喧嘩する先輩の家に無理矢理連行されて放置される状況は郁李にとってストレス以外の何物でもなかった。善意による行動だと理解できる分性質が悪い。
なんだこれ、やりづら。
少しでも尻の座りを良くしようと、マフラーに埋めた顔を上げて周囲を観察する。
殺風景な部屋だ。家具と言えばパイプベッドとちゃぶ台、ファンヒーター、ゴミ箱、本の並んだカラーボックスくらいしかない。(脳味噌まで筋肉で出来ていそうな同僚が書籍を所持している事実に驚いたが、ラインナップを見て納得した。トレーニングや格闘関係の本しかない。)
壁には貰い物と思わしき陳腐な風景写真のカレンダーが掛かっていて、郁李には分からない略語で予定が書き込まれている。
床の電気カーペットの電源は入れっぱなしだったようで、部屋に入ったばかりなのにポカポカと暖かかった。
ガサツな性格の割に部屋は片付いてる。そのギャップが逆に狗飼らしかった。
信じられないくらい乱暴なのに情に厚くて、堅苦しいほど規律を重んじるのに身内に甘くて、他人の心配はするのに自分の弱みは見せたがらない、狗飼鐵雄はそういう男だ。
四年一緒に働いているが、未だに郁李は狗飼への心証を決めかねている。むしろずっと側に居たからこそ、分からない。
「帰ったぞ」
唐突にドアの開く音がして肩が跳ねた。
「アパートの駐車場に駐輪しておいた……って、お前まだヘルメット被ってたのかよ」
部屋に入って来た狗飼が呆れ顔で郁李を見下ろす。郁李はハッとして顎の留め具を外した。
「手当てもしてねえし、本当に頭打ってねえんだろうな?」
「ないです」
「本当か?」
責めるというより労る調子だった。居た堪れなくなって乱暴にサポーターを着脱し始める。
「……いや、無事なら無事でいいんだけどよ」
家主はそれ以上言及せずにファンヒーターを起動させ、防寒着をクローゼットに仕舞った。
「そういやお前、飯食ったか?」
「カロリーメイトなら」
「だから飯じゃねえだろそれは」
「飯っすよ」
狗飼と目を合わせないように俯いてサポーターを纏める。味気なかろうが食料には違いない。
「今から晩飯作るが食ってくか?」
「えっ」
思わず見上げてしまった。見慣れたギョロ目と視線がかち合う。狗飼のケロイドに覆われた顔がまたも当惑で歪むのが分かった。
「なんだ鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔しやがって」
「いや、あの、狗飼サンが?」
「俺以外誰が居るんだよ」
「……結構ッス。手当て終わったらすぐ帰るんで。申し訳ないんですが、車で送ってって貰えませんか? スクーターは明日取りに「車ならねえぞ」
「……は?」
頬が引きつるのが分かった。今、なんつった?
「明日の夕方までダチに貸してる」
「なんで」
「旅行行くんだとよ」
用途を聞いているのではない。
「待ってくださいよ、じゃあ、足が治らなかったら……」
「泊まりだな」
「嘘だろ!?」
信じられない! 宿泊も想定して自分を招き入れたというのだ、この男は!
「でけえ声出すなよ」
「だって、だって……」
「風呂なんざ一晩入らなくたって平気だろ」
「入浴の心配はしてないんスけど! 耳にバナナでも詰まってんすか!?」
「詰まってねーよ張っ倒すぞ!? ……で、どうすんだ? 食うのか?」
ああクソ。嫌な感じだ。何が起きてるんだ? どうなってる。
ガス欠だった頭をフル回転させる。検索。この部屋から脱出する方法。狗飼が納得し、且つ自分が家まで滞りなく帰る方法。考えろ、きっと何か有るはずだ、何か、何か、何か……
「……食べます」
彼の類稀なる知性は速やかに一つの結論を導き出した。
即ち『そんなものは無い』。
「チャーハンでいいか?」
「……ッス」
毒を喰らわば皿まで、家に入ったならチャーハンまでである。もうどうにでもなれ。郁李は力尽きた。
狗飼の作った炒飯は知らない家庭の味がした。
ソーセージ、ネギ、玉子のシンプルな具材で構成された炒飯は少し味が濃かったがそれなりに美味しく、作り手に感想を述べればニヤッと口の端を吊り上げて破顔した。
食卓には先ほど狗飼がコンビニで買った餃子やザーサイも並び、満腹になる頃には郁李の緊張も幾らか解れていた。
「ご馳走様でした」
「お粗末さん」
空になった食器が下げられ、湯呑みに茶のお変わりが注がれる。
”実家かよ“と内心ツッコミを入れつつ、ありがたく頂いた。
「しかし、災難だったな。なんだってあんな所ですっ転がってたんだ?」
「ちょっと疲れてて」
“ビニール袋を猫だと勘違いして急ブレーキを掛けたら事故りました”なんて言える訳がない。
「なるほどな」
狗飼は疑わずに二本目の缶ビールを開けた。
「ここ最近はアホみたいに忙しかったからなぁ。明日は久々の休日だし、ゆっくり休めや」
「……ッス」
「……お前、なんか変じゃないか? 調子狂うんだが」
「お互い様でしょ」
「俺はいつも通りだろうが」
「疲れてるんすよ」
「そういうのじゃない気がするんだがなぁ」
ガシガシと頭を掻く狗飼を無視し、茶を啜って誤魔化す。狗飼はそれ以上追求せず、テレビをつけてバラエティ番組を見始めた。
特に話す事もなく、二人ともなんとなく口を閉じていた。沈黙の間を芸能人の声が通り過ぎていく。
さして興味を惹かれないエピソードにぼんやりと耳を傾けながら郁李君は視界の端で狗飼の側頭部を眺めた。
至近距離だ。ケロイドの細かい凹凸まではっきり見える。この近さなら自分でも当てられる。
足を痛めてはいるが腕さえ無事なら問題はない。むしろ油断させるのに好都合だ。頭でなくてもいい。
胴体に一発。アルコールが入っているから出血多量ですぐ死ぬ。狗飼は以前右目が殆ど使い物にならないとぼやいていた。自分は現在彼の右側に座っている。今度こそ殺せる。葵の仇が、取れる。
やる筈もないけど。
湯飲みを持った右手の親指と人差し指を二、三度曲げ伸ばしする。頭の中で血塗れになった狗飼のイメージをかき消して、湿布まみれの足首を触った。
「……足、ダメみたいっす」
「ん? ああ、じゃあ泊まりだな」
「そうなるっスね」
「もう布団敷くか?」
「お願いします」
何も知らない狗飼が立ち上がってベッドの下からビニールカバーに包まれた布団を引っ張り出した。
寝床を拵える無防備な背中に、”あの時外れてよかった”と心の底から思った。
「どうだ?」
「いけそうです」
「そうか」
テーピングされた郁李の足が床を踏み締めるのを確認して狗飼は頷いた。
「まあ、無理はすんなや。警官が歩行者怪我させたら洒落にならん」
「分かってますよ、母親ですかアンタは」
「こんなクソガキ産んだ覚えはねえよ」
「俺も産まれた覚え無いっす」
肌に馴染んだ憎まれ口を叩き合う。語調の強さとは裏腹に何故か肩の力が抜けた。
「何笑ってんだ馬鹿」
「そっちこそ」
帰り支度を整えて玄関に立つ。ドアを開けると朝の日差しが郁李を照らした。肺の中に冷たい澄んだ空気が入ってくる。快晴無風。気持ちの良い冬の朝だ。
「駐輪場の場所はさっき言った通りだ。気をつけて帰れよ」
「狗飼サンこそ」
「は? 俺?」
「……なんでもないっス」
分からないならそれでいい。警戒心ゼロのセンパイを見下ろす。
一方の狗飼は三ヶ月前の事件を思い返して勝手に納得していた。
「まあ、昨今警察と言えども物騒だからな」
「そうっスね」
「……お前今俺の事馬鹿にしなかったか?」
「朝っぱらから被害妄想お疲れ様です」
「馬鹿にしてんじゃねーか!」
「血圧上がりますよバナナでも食って落ち着いたらどうっスか?」
「郁李ィ”!」
手を出されては敵わない。三つ編みを翻して廊下に飛び出した。足を引きずりながら小走りで距離を取り、振り返る。
「狗飼サン」
「あ“!?」
「お世話になりました!」
思わぬ謝辞に不意を突かれる。
生意気な後輩の素直な礼によって、みみっちい怒りは山の彼方へ吹き飛ばされた。
「……おう、またな」
軽く手を上げ、部屋に引っ込む。内鍵の施錠される音。あっさりとした別れ。
締め出された郁李は、意を決して放った言葉を軽く受け流されたと勘違いする羽目になった。
確かに、当然のことだけど。喜んで欲しかった訳でも、褒めて欲しかった訳でも、ないのだけれど。
「……やっぱムカつく」