残花 携帯が鳴る。吐き気がした。
デジタル時計が退庁時間を示した直後だった。肩にのしかかる疲労は慣れない仕事の所為だけではない。呼吸が浅くなるのを無視して、ポケットに手を伸ばす。
「……もしもし」
『狗飼、私だ』
耳に流れ込んで来たのは馴染みの男の声だった。
樒戸敬久、敬愛する元上司。
『今晩サシで飲みに行かないか?』
「残業するので待たせてしまうと思いますが……」
『構わない。私も仕事が溜まってるから丁度いい』
嘘だ。狗飼は視線を下げてデスクのインク汚れを注視した。この人は以前にも増して猛烈に仕事に取り組むようになった。量を増やしても溜めるなんてあり得ない。
「……ありがとうございます。では、時間の目処が立ったら折り返し連絡します」
『うん、待ってるよ』
樒戸が切るのを待って耳に張り付いた電話を剥がす。突然、オフィスの白々しい照明が、エアコンで温められた空気が、曖昧なインクの臭いが、耐え難い刺激となって狗飼に襲いかかった。
デスクに手をついて立ち上がり、狭い通路を足早に縫って廊下に出る。(道中、新しい同僚が何人か怪訝な表情で狗飼を見送った。)そのまま真っ直ぐ人気のない便所に向かい個室に入った。
「う“っ、オエ”ェ」
大便器の中に少量の胃液が落ちていく。吐き気は止まらず、狗飼は喉の奥に指を突っ込んで嘔吐反射を促した。内臓ごと、渦巻いているドス黒い全てを吐き出してしまいたかった。それなのに、喉からはえずく声が漏れ出て行くばかりでちっとも楽になりはしない。無骨な手の甲に前歯が深く食い込んだ。
狗飼は樒戸を慕っていた。どんな時でも冷静さを失わない彼の慧眼に、天性の人誑しぶりに、惚れ込んでいた。彼の手足として働く自分に誇りを持っていた______樒戸が変わり果ててしまうまでは。
最初は頼られて安堵した。彼は多くのモノを失ったから、直属の部下でなくとも支えになりたかった。まだ他人に頼る事が出来るのだと、埋み火のような希望を見出した。
次に不安になった。埋められない喪失を、狗飼一人の繋がりで補おうとしているように見えたからだ。どう考えても不可能な試みに狗飼は何もいえなかった。
最後に恐怖を覚えた。窒息しそうな親愛、信頼、依存。それらが全て自分に向けられている事実に。
何より堪え難かったのは距離感だった。物理的にも精神的にも樒戸は狗飼のパーソナルスペースを悠々と侵してきた。他者を尊重し、常に最善の均衡を見定め管理してきた彼にあるまじき蛮行だ。彼と接する度に狗飼の心はやすりを掛けられた様に擦り減っていった。
それでも、どうしても、見捨てることは出来なかった。
何も守れなかった、役立たずの狗飼に出来るのは壊れてしまった樒戸の支えになることだけだったし、それだけが自身の呼吸を許せるただ一つの理由なのだから。
爽快感なんて得られないまま不毛な行為を繰り返して、漸く冷静さを取り戻す。
狗飼は片手で貯水タンクの縁を掴んだまま長い時間俯いていたが、やがて顔を上げて職務に戻るべく個室を出た。
鏡に映った自分の顔を見ないように、入念に手を洗う。
大丈夫、樒戸さんの前では巧く笑えるはずだ。