な・そともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
若山牧水
「コーヒー淹れたんですけど、お天気いいし、浜で飲みませんか」
百音さんの島のご実家を二人で訪ねたある日、百音さんからの昼下がりのお誘い。なんだかんだこちらに来るのも久しぶりで、それも考えてのお誘いはもちろんうれしくて。ポットにコーヒーをいれて、こちらに来た時に二人が使うマグと一緒にトートバッグに入れれば早速に支度は完了して、二人で浜を目指す。
昔から百音さんがお気に入りだという、浜の入り端にあるコンクリートブロックの上に二人で座る。この時間は木陰になっていて、海と空を見晴らせながらも、木の下を通る風が心地いい。
いつものようにマグをかちりと乾杯させて隣り合って飲むコーヒーがひときわ美味しいように思える。浜に来る道すがらは二人でもっぱらの仕事の話をしていたけど、浜についてからは、眼前の海と空が言葉を発することを吸い取ってしまったみたいだ。
隣に座る百音さんをそっと見れば、まるで海と空に心を攫われてしまったのように、とおくを見ている。その様子があまりにきれいで、でも、そうして彼女が見ているのが僕じゃないことに、なんだか名状しがたい気持ちが湧いてくる。
子供じみてるな、と思いつつ、しばらく気持ちをもてあました挙句に、百音さんの手許のマグをそっと取り上げながら、頬に手を添えてキスを落とす。そっと受け止めてくれるのに甘えて、いつも外で交わすのとは異なる深度まで。それに応えてくれるこの人が本当に愛おしい。
おもわぬ長いキスは、ふわっと彼女の息が漏れたのを合図に終わって、でもなんだか顔が見られなくて、百音さんの首元に額を預けてしまう。ふっと静かに笑い声を漏らした百音さんが、僕の背中をぽんぽんとたたく。
「海に…。海と空に…」
思わずつぶやいて出た僕の言葉に、「ん?」と頭を撫でてくれる。
「海と空に嫉妬、しました。あなたがあまりにそちらに心奪われているようで」
正直な白状に、百音さんは笑わずに、僕の顔を両手で包んでそっと持ち上げる。
「海も空も。先生と私をつなぐものだから」
海も空もやさしいばかりじゃないとすっかり知っている百音さんが、それでもその二つに心を寄せ続けて、そしてそれが僕にもつながると言ってくれて。
嬉しい気持ちと共に、やっぱりさっきの、命名すれば嫉妬心という気持ちも湧き上がって、ほんとに僕はしょうもない。目の前の人のいつもの仕草が僕にも身に着いたみたいに、唇を尖らせてみせれば、そこに百音さんが軽いキスをくれる。
「こうして、先生と一緒に見る海と空がいちばんだと思ってますよ?」
ほんとに、そういうとこ、百音さんにはかなわない。
ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
若山牧水