Adamas 5 深夜の、人気のない廊下をスクアーロは歩く。
とうに日付が変わっている時刻に起きているのは退屈極まりない任務があったからであり、それを終えて帰還したところだった。
このまま自室に戻って休んでも構わなかった。が、スクアーロの足は自然と談話室へと向かう。
今夜は特別な日だ――彼女にとって、ある意味で彼にとっても。
案の定、談話室には明かりがともっていた。扉を開けた途端に、ふわりと漂ってくるのは酒精のかおり。
ソファには先客がひとり、いる。いるだろうと予測していたものの、反面、いなければよかったという思いがないわけでもなかった。
「やっぱりいやがったか」
舌打ちをすれば、音に気付き、「スクアーロ、」と舌ったらずな声が彼を呼ぶ。
仕方なしに、オルテンシアが腰かけているソファに座りこむ。そのテーブルの上には一人で飲むには多すぎるだろうワインボトルが数本、並んでいた。
感情の薄い顔には酒が回り、真っ赤に染まりきっている。
普段は嗜む程度にしか飲まない彼女がこうなっているのは、今日が、今日という日が、テュールの命日だからだ。昼には墓参りに行ったはずだが。それでも、なにかをせずにはいられないのだろう。
ゆえに彼女は、ひとりこうして故人を想い、ひそりと偲んでいる。
「飲みすぎだぁ」
と、中身の残っているグラスを奪って呷る。香り高く口当たりもいい、なかなか上等な酒だ。退屈だった任務の鬱憤が少しは晴れる。
わたしのなんですが、と咎める声は力なく、じとりと睨んでくる視線も迫力は皆無だ。
空のグラスに中身を注ぎ足し、スクアーロは面倒そうに前髪をかけ上げる。
「毎年、よくもまぁこりねぇもんだ」
吐き捨てるように言い、注ぎ足したばかりのグラスを呷る。
――そっとしておいてやればいい、と内心で思わないでもない。感傷にひたる時間に横槍を入れている自覚はあった。けれどもどうしてか、今日に限っては放っておく気にはならなかった。
「……君にそう言われる筋合いはありません」
「あるなぁ」
タン!
飲み干したグラスを、テーブルに叩きつけるように置く。そうして、ばつの悪そうな表情を浮かべるオルテンシアと視線を合わせた。
「アイツを殺したのはこのオレだ」
剣帝テュール。
ヴァリアーの先代ボスの名だ。そして、スクアーロがかつて斃した相手。
二日間に渡る死闘を見届けたのは、ほかでもないオルテンシアだ。あまりに苛烈で強烈なそれを、立会人としてただ見守るだけだった。それ以外にできなかった。
苦い表情を浮かべるオルテンシアとは反対に、スクアーロはうすい笑みを浮かべて見せた。
「恨み言なら聞いてやるぜぇ?」
そうですね、と呟いたオルテンシアは、深くふかく、息を吐く。心の中のわだかまりを解きほぐし、吐き出すように。
したたかに酔っているせいだろう、何度かまばたきをし、それからゆっくりと口を開いた。
「……わたしは、テュールになにもしてあげることができませんでした」
あのひとは、それでいい、と言ってくれたけれども。
しかしそれでよしとするほど、オルテンシアは自分に対してやさしくなかった。
きゅ、と拳をつくる。力のろくに入らない手。あのときよりずうっと大きくなったが、それでも彼には追いつけない、ちいさな手。
「あのひとは……テュールは、わたしの手を取ってくれた大切なひとだったのに」
あの日。あのとき。彼に出会っていなければ。伸べられた手をとっていなければ。
――わたしは、ここにいなかった。
一度口を開いてしまえば、言葉は留まるところを知らない。堰を切ってしまった。そうなればアルコールで緩んだ理性では止めることなどできない。
「わたしはずっと、君が羨ましかった……!」
この叫びは、ずっとずっと、胸の内に閉じ込めていたもの。
さすがのスクアーロも、思わずぎょっと目を見開く。しかしオルテンシアはそれに気づくことなく、ただただ、自分のなかのいっとう奥にため込んでいた想いを吐き出していく。
「君と戦っていたとき、テュールは笑っていた」
決闘の立会人として、二人の死闘を一瞬たりとも見逃さないようにと。そのさなか、彼は確かに、笑っていた。
それは、剣帝と呼ばれた彼にとってこの上ない喜びだったに違いない。成長著しい、若き剣士が命を賭して挑んできたのだから。同じ剣士としてそれ以上のことはないだろう。剣士ではないオルテンシアでさえ、それくらいの想像がついた。
――だから。
だから、わたしでは。
「わたしでは、あの笑顔を引き出せない……」
その声があまりにも弱々しいものだから、スクアーロは、彼女が泣き出すのではないかと思ったほどだ。
しかし深く酔いが回っているとはいえ、オルテンシアがそんな失態を犯すわけがない。少なくともスクアーロは理解していた。彼女はそんなやわな人間ではない、ということは。
でなくば、ゆりかご直後には解体寸前だったヴァリアーを、本部に存続を嘆願し、以来、ヴァリアーの後方支援業務のまとめ役を務められるはずがない。
「だから、わたしは、君が妬ましい」
テュールと互角に闘える君が、どうしても。
最期の相手として選ばれた君が。
――わたしには立つことすらできなかった、テュールの戦場にいられることができた君が。
おそらく、この感情に名前を付けることはできない。付けたが最後、きっと、この曖昧な関係の境界線はたやすく壊れてしまう。もう二度と、この関係に戻ることができなくなってしまうだろう。それはスクアーロも同じこと。だから今は踏み込めない。踏み込まない。
力尽きたようにまぶたを下ろしたオルテンシア。その耳元に、スクアーロは視線をやる。
……黒い石のピアス。
テュールの瞳と同じ色のそれは、かつて、死闘の際にすぐ間近で見たそれを思い起こさせる。ぎらぎらと輝き、全身全霊で悦びを表していた、男の瞳を。
そっと視線を外し、スクアーロは空のグラスに酒を注いで口に運ぶ。上等な酒のはずなのに、どうしてか先ほどよりも味気なさを感じた。
「いつまで死んだ奴を想ってるんだぁ」
オルテンシア、と名前を呼ぶも、応えはない。
いつになく静かな声は、夜の闇にほどけて消えていった。いつの間にか寝入ってしまったオルテンシアの、かすかな寝息とともに。