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    【Web再録】私の歳時記②   第二章



     どうするのがいいか、一晩悩んだ。だがやはり、どうしても五月雨にはわからないことが多かったため、小難しいことは考えるのをやめにして、思いついたことを片端からやることにした。今回のような場合は、効率よりも数を重視するべきだと判断したのである。
    「……で? お前何やってんの?」
    「知育菓子を作っています。初めて見たので買ってみました」
     加州の問いに答え、五月雨は付属していた容器に粉を移した。番号が書いてあるのでわかりやすい。トントンと指先で袋の底を叩く。
    「いやそうじゃねーから。『何をしてるのか』じゃなくて『なんでそこにいるのか』を聞いてるんだよ俺は」
    「お仕事のお邪魔はしません」
     次は水らしい。五月雨はあらかじめ容器に汲んでおいた水を粉に注いだ。それからぐりぐりと混ぜ始める。色が変わるまでやるらしい。ぐりぐりぐりと匙を使ってそれを練る。彼女はカタカタと機械の鍵を打っていたが、一段落着いたのか五月雨の方に視線を向けた。
    「そのお菓子、まだ売ってるんだね」
    「はい、万屋にありました」
     色が変わった、次の粉を入れよう。さらさらと別な色をした粉を足した後、五月雨はそれを彼女に向ける。
    「どうぞ、頭が混ぜてください。存外楽しいです」
    「五月雨これ初めてでしょう? やっていいよ。二番目の粉の方が面白いから」
    「そうですか」
     ここどうぞ、と彼女が文机の端を空けてくれたので五月雨は容器を示された場所に置く。再びぐりぐりと小さな容器をかき混ぜれば、粉と水が混ざって液体と固体の中間くらいだったそれは、なぜだかもこもこと膨らみ始めた。
    「頭、膨らんできました」
    「うん、もうちょっと混ぜた方がいいかな」
     彼女の監修を受けつつ作ったもこもこふわふわとした謎の物体の横の窪みに、細かな飴の入った袋を空ける。このふわふわに飴を付けて食べるらしい。ぺたぺたと万遍なく飴の上でふわふわを転がした後、五月雨は匙を彼女に向けた。
    「頭、どうぞ」
    「先に食べていいの?」
    「はい、どうぞ。お召し上がりください」
     最初彼女は五月雨の手から匙を受け取ろうとしたが、五月雨が体勢を変えないのを見て、観念したのか顔周りの髪を耳元で押さえそのまま一口で菓子を食べた。パキパキと小さく飴が砕ける音がする。
    「お味はいかがですか」
    「うん、懐かしい味がするね。ありがとう」
     にこりとして、彼女は再び文机の上の機械に向き直る。
     ……あまり、いい反応ではなかった。五月雨は再度ふわふわに飴を付けながら考えた。
     美味しいとは言っているが、知育菓子は好きではなかったのだろうか。懐かしいらしいし、目新しいものではないのが悪いのかもしれない。彼女の事情を踏まえると、その可能性は非常に……。
    「そうだ、五月雨」
    「はい」
     そこまで考えて、声を掛けられたので顔を上げる。すると彼女はあの穏やかな笑みのまま五月雨に言った。
    「そのお菓子、凍らせて食べると美味しいよ」
     ……完敗だった。心は振れるどころか凪きってしまっている。
     なるほど、彼女が既に知っているものや慣れ親しんだものは「季語に触れてほしい」という五月雨の目的に対し、あまり効果が高くないようである。考えながら五月雨は知育菓子の容器を持ったまま廊下を進んだ。せっかくなので、これは凍らせるつもりだ。
    「ちょっ、ちょっと待って! 五月雨!」
    「はい」
     だが今度はバタバタと加州が忙しなく追いかけてきたので、五月雨はそのまま振り返る。室内だからか加州は黒い外套と赤い襟巻を脱いでいて、いつもよりすっきりとして見えた。
    「どうしましたか」
    「どうもこうもないでしょ、結局俺の質問に答えてないじゃん!」
     そういえば、知育菓子の方に夢中になっていて答えそびれていた。五月雨はぺこりと頭を下げる。
    「すみません、失礼しました」
    「もー。で、何。どういうつもりでそんなことやってんの」
     腰に手を当てて立っている加州に、斯く斯く云々五月雨は事の次第を説明した。すると黙って五月雨の言葉を聞いていた加州は、ひと段落着いたところでうんと一つ大きめに頷いた。
    「わかった。いーよ、やりなよ。好きなだけ」
    「よろしいのですか」
    「まあ、どうせ主の『事情』絡みだろうなとは思ってたし。この間聞いたんでしょー? 主から、話」
     ひと呼吸、加州は鼻から吐いた。どうせ、と言ってしまえるだけの長い間、恐らく加州は五月雨と同じことで悩み続けているのだろう。それに、詳しく聞かなくとも加州が「彼女の事情」に関して反対したり気を揉んだりしただろうことは想像に難くない。
     しかし五月雨がありがとうございますと言おうとしたそのとき、五月雨よりいくらか背が低く華奢な加州はやや胡乱な目でこちらを見上げた。
    「いーよ、いーけど。でも、条件が一つある」
    「……なんでしょう」
     ずいと爪が赤く塗られた指先が五月雨の鼻先に向けられる。瞬きを繰り返して、五月雨はそれを見つめた。
    「絶対に主に怪我させるな。それだけ」
    「それは、もちろんです」
     そんなの当たり前だ。もう二度とこの間のようなことは起こしたくないと五月雨が一番思っている。だが厳しい視線で加州は念を押した。
    「言っとくけど、誰かと一緒に出掛けて主があんな怪我したの、この間のお前の一件くらいだから。ちゃんと止めなかった俺にももちろん責任はあるけど……二度目はないって肝に銘じとけよ」
     それは、本当に申し訳のないことをした。五月雨は小さく「はい」と返す。きっと、そういう体になってから、刀たちは彼女の怪我には細心の注意を払っていたはずだ。
     いつでも怪我ができると思ってしまえば、そういう風に思わせてしまえば、彼女の心は益々冷えて乾ききってしまうだろう。
    「……五月雨が考えてることも、俺たちは十分わかるけど。でもお願い。それだけは、気を付けてよね」
     萎れた五月雨の様子を見て、最初よりはいくらか柔らかい声音で加州は言う。
     踵を返し、華奢な背中は再び執務室に戻ろうとした。僅かに肩が上下して、加州が息を吐いたのがわかる。それはいくらか、いやかなり疲れて見えた。
    「……加州、待ってください」
    「なに? 言っとくけど近侍は代わってやんないから」
     今まさに頼もうとしていたことを、先回りして断られたので五月雨は面食らった。
    「なぜです?」
    「当たり前だろ。俺より弱い刀に主のこと任せられないから!」
     それはそうか……五月雨は納得したが、考えた。加州が言っていることは正しいのだが、はいそうですかと引き下がることもできない。多忙な彼女の一番傍に、一番無理なく、邪魔にもならずにいるのであれば近侍という立場は最適なのだ。
     五月雨は加州を追いかけて、すぐ隣から食い下がる。知育菓子だけはこぼさないように気を付けた。
    「ですが頭のお時間を頂くのでしたら、近侍になるのが一番早いです」
    「わかってるけどそれはだめ。なんかあったらどーすんの」
    「勿論気を付けます。私とて、先日のようなことは絶対に嫌です」
     あの夜、五月雨の顔に飛び散った血はべっとりとこびりついて、更に乾いてしまいなかなか落ちなかった。洗面所で何度も顔を洗って、肌が痛くなるくらい擦って、それでやっと元通りにはなったけれど。
     それでも、鏡を見たとき自分の顔に一直線に横切っていた血のあとを、擦って赤くなった皮膚を、五月雨は忘れられないだろう。
     ちろりと加州の赤い瞳がこちらに向けられた。様子を伺うような、迷っている視線だった。何とかしたくて、何もできなくて、そのまま今に至ってしまったことへの後悔。それから、何か少しでも現状が変わればいいのにという期待。
    「……じゃー俺に勝てたら代わってあげる」
     どこか挑戦的に、加州は言った。だが五月雨にはその一言で充分であった。
    「わかりました。では、いくらか私が有利になるようにして頂いてもよろしいでしょうか?」
    「なんでだよ、それじゃ意味ないじゃん」
    「ですが加州は修行を終えていて、私はまだです。地の力がそもそも違うのは、正当な勝負にならないのでは」
     五月雨も練度は積んでいるが、修行を終えた加州とではいくらなんでもそもそもの能力値が天と地ほども違う。だからそのまま手合わせをしたのではお話にもならない。同じ土俵に上がることさえ不可能だ。それにまかり間違って五月雨に修行の許可が今すぐに出たとしても、今度は練度に開きがある。これではずっと等距離で追いかけっこをしているようなもの。
    「それとも、修行の有利を捨てることはできませんか」
     これには加州もカチンと来たようで、キッとこちらを見上げた。
    「……いーよ、わかったよ。でも小細工すんなよ」
    「はい、もちろんです。場所だけ、私に指定させていただければ」
    「刀種同じなんだから、有利不利も俺とあんたは一緒だろ」
     ブツブツと加州はぼやく。もうこの後すぐでいいと言えば、加州は脱いでいた外套を取りに執務室に戻って行った。五月雨もまた、ずっと持っていたままだった知育菓子を凍らせに厨に急ぐ。
     加州は、人当たりが良く愛嬌もあるが、あれでいて喧嘩早い。五月雨は以前それを他の刀から聞いていたのを、しっかりと覚えていた。


    「それで、今日は五月雨が同伴なんだね」
    「はい。近侍を勝ち取りました」
     五月雨の言葉に、彼女がくすくすと笑う。今日は政府の病院に健診に行くとかで、五月雨と彼女は無機質な施設の中を歩いていた。
    「清光は一回は一回でちゃんと返すから。気を付けて」
    「ですがずるはしていません。私は手合わせの場所を指定しただけです」
     それだって、山や荒唐無稽な場所ではない。本丸の中庭にした。開けたごく普通の場所だ。罠なんかも仕掛けてはいない。
     ただ五月雨は、昨日ちょうどそこで他の刀剣たちが焼き芋を作っていたのを知っていただけだ。火を焚くために、いくらか土を掘った場所があるということも。手合わせの最中加州がそれに足を取られたのは全くの偶然である。
     ふうん、と彼女は言うと硝子の扉の前で止まった。扉の上の方にある表札には「検査室」とある。硝子戸の向こうにはもう一つ扉があって、そちらは窓のない普通の白い扉だった。
    「じゃあ私は検査を受けてくるから、ちょっとここで待っていてくれる? 売店や本屋さんにいてもいいよ」
    「ここで待っています」
     検査が何なのか詳しく知らされていないけれど、扉の前なら何かあったときすぐに駆け付けられる。だが彼女は緩く首を振った。
    「本当に、ただの検査。不調がないか見るだけ。すぐに終わるよ」
    「構いません。ここにいます」
    「わかった。何かあったら、もらった入館証を見せるんだよ」
     施設に入るとき手続きと引き換えに名札のような数字の書かれたものを五月雨は彼女に掛けてもらった。首からぶら下がったそれを手に取って、五月雨は「はい」と返事をする。
    「気を付けて行ってきてください」
    「はいはい」
     何でもない風で彼女は硝子戸を開け、更に奥の白い扉の向こうに行ってしまった。一度も振り返らなかった。
     部屋の前の廊下には長椅子が置いてあったため、五月雨はそこに腰かける。彼女はここを「病院みたいな場所」と言っており、確かに一階の受付付近には他の審神者らしき人間や刀剣男士なんかも散見した。だが清潔感のある白を基調とした廊下や壁は、どこか寂しい。
     それに検査……と言っていたが、何の検査なのだろう。耳を澄ませても、ただどこか遠くからさざめきのような話し声が聞こえるだけだ。これは、別の階や離れた場所にいる誰かのもの。二重の扉の向こうにいる彼女のものではない。一体何をしているのか、気にならないと言えば嘘になる。五月雨は既に、彼女が受けてきた「検査」がどんなものなのか一部を知ってしまっている。
     すぐに終わると言っていた以上、大袈裟なことはできないはずだが……。五月雨はじっと、ここで待つことしかできない。
     彼女は何も言わなかったけれど、恐らく、今日の「検査」は先日五月雨のせいで怪我をした一件が原因だろうに。
    「道を空けてください!」
     そうしていると、廊下の向こうから何かガラガラと滑車の回る音を立てて複数の人間が駆けてきた。滑車がついているのは寝台のような細長い台車で、両脇を人間が持って押している。そこには誰かが横たわっているのが見えた。
    「主しっかり! しっかりして、頑張って、もう少しだから!」
     五月雨の本丸にもいる刀が、人間たちの後ろから大声で叫びながら走ってついてくる。忙しないその一行が通り過ぎる一瞬、台車の上にいた人間の腹のあたりが真っ赤に染まっているのが見えた。
    「……」
     病院、病気や、怪我をした人が運ばれてくるところ。そんな当たり前のことを、五月雨は改めて認識する。それから泣き出しそうな顔で、赤黒く染まった誰かの服を抱えて走り去っていった刀……。
    「心配しないで、私は皆にそんな思いさせないからね」
     静かな声にハッとして扉のほうに向き直る。五月雨の視線はあの台車を追いかけていて、いつの間にか首が横を向いていた。
     つかつかと彼女は五月雨の座っている長椅子まで来ると、どさっと音を立てて自分も五月雨の右隣に腰かけた。その勢いに、五月雨の体も若干だが彼女の方に傾ぐ。
    「すみません、そんなつもりはありませんでした」
     咄嗟に五月雨は彼女に謝った。刀たちに「そんな思いをさせない」ために、彼女が支払った代償が大きいことは五月雨もわかっている。だが彼女は首を振った。
    「ううん、謝ることじゃない。私が実験に参加したのは、そういう目的もあるから」
    「ですがそれを肯定するつもりは」
    「ねえ」
     五月雨の言葉を遮り、彼女は首だけをこちらに向け五月雨を見上げた。
    「五月雨の言うことはわかる。確かに私も、辛いことは多い。でも皆に悲しい思いをさせなくて済むって言うのは、私にとって嬉しいことでもあるから。五月雨に謝られたら立つ瀬がない。一つくらい誇らせて」
     そう言われてしまえば、最早五月雨に返す言葉はない。些か不服ではあったが、五月雨はぐっとそれを飲み込んで、代わりに聞いた。
    「お疲れではありませんか」
    「ううん、と言いたいところだけどちょっと疲れた。少し休んでもいい?」
    「勿論です。お茶でもお持ちしましょうか」
    「平気、ありがとう」
     ふう、と彼女が息を吐いてやや力を抜く。生憎と長椅子は廊下の壁に沿うように置かれているだけで、背もたれがない。彼女が固い壁に体重を預けているのを見て、五月雨は襟巻を解いた。ポーンと軽い電子音の後にどこそこの誰を呼び出す案内が聞こえる。
    「頭、これを背中に当ててください」
     彼女は五月雨が手にしている畳まれた襟巻を見て、困ったように笑った。
    「そこまでしなくていいよ」
    「ですが背もたれがありませんので」
    「過保護。そんなおばあちゃんじゃないんだから」
     あっさりと彼女は言って、五月雨の申し出を辞す。彼女は正面に顔を戻し、目を閉じて深く腰掛けているので五月雨はそれ以上のことは諦めた。次は座る前に襟巻を置くことにしよう。そう思い直しつつ、襟巻を元に戻す。
    「待っている間、何か歌は詠めた?」
     そのまま彼女が聞いてきたので、はたと五月雨は気づいた。それどころではなかったのだ。
    「……別なことを考えていました」
    「珍しいね。いつも季語とか、歌のことを考えているんだと思った。ここが白くて殺風景だからかな」
    「そうではありませんが」
     改めて見れば気になることならたくさんある。今の電子音だって普段聞くものではないし、耳ざわりは悪くなかった。歌にしようと思えばできたはずだが。
    「五月雨、無理はしなくていいんだからね」
     薄く瞼を開けて、彼女は言った。五月雨はすぐにそれに答える。
    「無理はしていません、心外です」
    「でもね、私のことはもうどうしようもないから。それでずっと悩ませるのは、やっぱり申し訳ないよ。五月雨は歌を詠んだり、季語を探すのが好きなんだし、こんなの考えても」
     そこまで聞いて、五月雨は彼女の言葉を遮った。
    「頭が納得しているのはよくわかりました。ですが私はしたくて頭と季語を探そうとしています。私のしたいことです。頭がご自分のしたいようにここで過ごしておられるというのなら、私のしたいこともお認めください」
     彼女はもの言いたげな視線でこちらを見つめた。しかしこれだけは引けない。彼女が自分の覚悟の成果を誇らせてほしいと言うのなら、五月雨が何とかしたいと思う気持ちも尊重してほしい。
    「何か反論がありましたらお聞かせください」
    「……ありません」
     観念して、彼女はそう言った。そして首を正面に向けて元の体勢に戻ると、ぼそりと彼女は呟く。
    「頑固」
    「お互い様です。頭に似たのかもしれませんね」
     ふふと笑いながら五月雨が返せば、彼女は片眉を上げて僅かに笑った。施設の中はやはり静かで、人通りも少ない。もう暫く、彼女はそこに座っているつもりのようだった。五月雨もそれでいいと思った。
    「結構いっぱい、ピアス開いてるんだね」
     そうしていると不意に、彼女が口を開いた。耳慣れない言葉が出てきたので、五月雨は彼女に問い直す。
    「ピアス、というのは」
    「ああ……耳たぶとか、それ以外の場所でもいいけど。穴を開けて使うアク……飾りのことだよ。五月雨がそうやってたくさん穴を開けてるの、ちょっと意外だなと思って」
     五月雨の問いに答えながら、彼女はトントンと自分の耳を叩いた。ちょうど軟骨の辺り、五月雨の右側にいる彼女からは、確かにその辺りにいくつか付けている耳飾りが見えるはずだ。
     だがこれは、厳密には彼女の言うものとは違う。五月雨は耳から飾りを抜き取ると、手のひらの上に載せて彼女に見せた。
    「こちらは違います。穴は開いていません」
    「ああ……本当だ。イヤーカフだったんだ」
    「いや、あ?」
    「それみたいに隙間に耳を通す飾りのこと」
     なるほど、そういう名前のものだったのか。五月雨は納得しつつ、ついでに犬を模した付け耳も取ってみる。彼女が興味を持ったのかもしれないと思ったのだ。
    「これも付け耳です」
    「村雲のとお揃いだね」
     手渡せば、彼女は付け耳についている雫の形をした石を何となく光にかざした。ただそれを眺めているのはいつも通りの凪いだ瞳だったので、五月雨は今度は左耳を示す。
    「こちらは穴が開いています」
    「どれ?」
    「こちらです」
     体を捻って、反対側の耳を見せる。彼女と五月雨とでは座高に差があったので、五月雨は身を屈めた。彼女はほんの少し首を傾げ、五月雨の耳を覗き込む。
    「こっちはピアスなんだね」
    「外してみますか?」
    「え?」
     何故そう提案したのか、五月雨にも正直なところはわからなかった。けれどもし、彼女が自分の耳飾りに興味を持ってくれたのなら、実際に触らせてみるのがいいと思ったのだ。どんなものも、百聞は一見に如かずという。触れることで感じるものもあるだろう。
    「どうぞ」
     もう少し体を倒して、五月雨は顔を彼女に寄せた。彼女は困惑したようにこちらを見やったけれど、手を伸ばして五月雨の耳に触れる。少し冷やりとした指先だった。
    「これどうやって外すんだろう」
    「裏に留め具があるはずですが」
    「え?」
     腰を上げ、今度は彼女の方が五月雨に近寄る。彼女が見やすいように、五月雨は襟足の髪を押さえた。耳の裏側を彼女が覗き込む。
    「留め具を抜いて、外してください」
    「……本当に大丈夫かな。怪我させそう」
    「構いません。さほど難しくないはずです。遠慮なくどうぞ」
    「遠慮なくって」
     微かな、吐息交じりの笑い声が近くで聞こえる。それから彼女は恐る恐る五月雨の耳飾りに触れた。飾りの方を押さえつつ留め具を抜きたいようだが、やはり怪我を恐れているのかかなり頼りない力だ。
    「大丈夫です、全く痛くないです」
    「そうはいっても、ねえ」
    「では留め具だけ、お手伝いします」
     手を伸ばして、五月雨は彼女の手の上から自分の耳飾りをつまんだ。右手で耳飾りの輪になっている部分を押さえ、穴に通された細い針の留め具を抜く。あとは穴から針を引き抜くだけで外れる。
    「どうぞ」
     五月雨は再び自分の手を下ろした。彼女は相変わらず至近距離でやや難しい表情を浮かべている。一度だけちらりとこちらに視線を向けた。
    「本当に痛くない?」
    「はい、ちっとも」
    「……」
     そう答えればやっと、彼女はいくらかきちんと力を入れて耳飾りを持った。かなり慎重にだが、針を五月雨の耳から引き抜こうとしているのがわかる。緊張しているのか、密やかな呼吸をしていた。
     毎朝五月雨が身支度を整える倍以上の時間をかけて、彼女は五月雨の耳飾りを外す。取れたのがわかったので、五月雨は屈めていた体を起こした。すると彼女は何故だか呆然として、右手に持ったままの耳飾りを見つめている。
    「……外れた」
     ぼそっと、彼女は呟いた。それからなぜかぱっと顔を明るくして、彼女は耳飾りを指先で摘まんだままこちらに見せる。ほんの僅かに、疲れていた表情に血色が戻ってきていた。
    「外れたよ」
     思わず、五月雨は目をぱちくりとする。
    「はい、外れました」
    「こんな風になってたんだ。知らなかった、一度もしたことがなかったから」
    「一度もですか?」
    「うん、一度も。ほら、穴が開いてないでしょう」
     耳元の髪を指で避けて、彼女は耳たぶを五月雨に見せてくれた。確かにそこには何もない。丸い柔らかそうな耳たぶだった。
    「開けたことはないのですか?」
    「うん、ない。若いときちょっと気にはなっていたけど、穴を開けるってどうしても怖くて。こんな風なんだね」
     やはりとても楽しそうに彼女は耳飾りを見つめ、それから五月雨の手にそれを返した。五月雨にとっては、何の変哲もなく、毎朝何でもないように付けている耳飾り。だが彼女には違うのだ。彼女にとっては新鮮で、初めて触れるもので……。
    「今度はつけてみますか?」
    「ううん、緊張したからやめておく」
    「そう言わずどうぞ」
     彼女は「えぇ?」なんてぼやきつつ、口元に手をやって僅かに肩を揺らす。その表情を見て確信する。五月雨の気持ちは先ほどよりも上を向いていた。
     これからどうしたらいいのか、わかった気がする。


     早起きは苦ではないので、その日五月雨は本丸の厨番よりも、一番鶏よりも先に目を覚ました。それから早々に身支度を整え、向かった先は執務室である。
    「……それで、今日やるはずだった仕事全部朝一で終わらせたの?」
    「はい、頑張りました」
     厳密には全部ではなく、五月雨ができる範囲のものはすべて終わらせたのだ。いくらかは彼女の承認が必要なものもあったためそれらは手を付けることができなかったが、あの程度ならすぐに済むだろう。
     彼女は訝し気な目で五月雨を見ていたが、文机の上に並べて置いた書類に目を通してぼそりと呟いた。
    「本当にできてる」
    「はい。ですからそれに目を通せば、今日の頭の仕事はおしまいです」
     彼女は一つ、息を吐いて肩の力を抜く。所定の位置に判を捺し、そして再び五月雨の方に向き直った。
    「そうみたい。それで? 空いた時間で何がしたいの?」
    「こちらの札を引いていただけると」
     パッと五月雨は彼女の前に五枚の札を裏返し、畳の上に並べた。彼女はそれにやれやれと言った様子で頭を振る。
    「そういうことだろうと思った」
    「どうぞ、お選びください」
    「これは何? カルタじゃないことはわかるけど」
    「秘密です」
     書いた内容は覚えているが、札は裏返した状態で混ぜてしまったので、五月雨からもどれがどれだかわからない。とにかく運任せ天任せの方がいいと思ったのだ。
     しばらくの間、彼女は胡乱な視線を五月雨に向けていたけれど、そのうちに観念して札に手を伸ばした。仕事がないのだから、断る理由がない。そして彼女が自分の申し出を無碍にすることもないだろうということを、五月雨はわかっていたのだ。
     五月雨から見て右から二番目と三番目の札で迷って、指先がいくらか振れる。けれど最終的に彼女は三番目のそれを示した。
    「これ」
    「わかりました」
     五月雨は札を手に取って、裏返す。なるほど。視線を彼女に戻して五月雨は告げた。
    「では本日はたぴおかみるくていを飲みに参ります」
     つらつらと五月雨が読み上げたことに、彼女はぽかんとした。その反応に五月雨は安堵する。ひとまず第一にあった懸念が消えたことが分かったのだ。
    「ごめん、何って?」
    「たぴおかみるくていです」
     何を言われたのかさっぱりわからないといった顔で彼女は五月雨を見る。だが五月雨にもこの「たぴおかみるくてい」がどういったものなのか厳密にはわかっていない。飲み物だとは聞いた。
    「待って、待ってどうしてそうなるの。他の札は何なの」
     彼女がまだ並べたままの札に手を伸ばしたので、五月雨はサッと素早くそれらを回収して懐に仕舞った。やり直しはだめだ。
    「だめです、見てはいけません。この札は今後も使います」
    「今後? あと四回もこんなことするの?」
    「次回はもう一枚札を補充いたしますので、あと四回ではありません」
    「まだ増えるの?」
     愕然とした様子の彼女はさておき、五月雨はきょろきょろと執務室を見渡した。壁に引っ掛けてあった彼女がいつも外出に使っている鞄を取って、彼女に促す。
    「では行きましょう頭」
    「行くってどこに」
    「万屋のあるあたりで飲めるそうです。行きましょう」
    「主ー、あ、ごめん、もう行くとこだった?」
     困惑しきっている彼女の手を取ろうとしていると、内番着の加州が顔を出す。何も言わずとも、加州は五月雨が彼女の外出用の鞄を見てすぐに察したようだった。
    「き、清光。五月雨がなんか、タピオカ飲みに行くって」
    「あー、今日そうなの? じゃ夕方前には帰って来れるよね。夕飯用意しとく」
    「えっ」
     加州がすんなりと言われたことを受け入れたこともまた、彼女には信じられないことの一つだったらしい。閉口している彼女より先に、加州は五月雨に釘を刺した。
    「とにかく無理しないこと」
    「はい、もちろんです」
    「絶対だからね」
     念を押した後、加州は彼女に向き直ってその両手を握った。視線を合わせるように加州は僅かに屈む。
    「じゃあ主、楽しんできて。留守は俺がいるからだいじょーぶ」
    「清光」
     まだ狼狽えている彼女に、加州は微笑んで見せた。こればかりは五月雨が何と言っても、どう宥めても、加州のそれには敵わないだろうことは少々悔しい。
    「行ってきて、主。五月雨がなんかしたら、俺に言いつけていいから」
    「悪いことは何もしません」
     すかさず五月雨は言った。彼女はこちらをちらりと見て、再び加州の方に視線を戻し、はぁと息を吐く。
    「わかった、行ってくる」
    「うん、気を付けてね」
    「はい、行きましょう、頭」
     五月雨が彼女に声を掛ければ、彼女はパッと五月雨に手を差し出した。意図が読めなかったので、五月雨はその手の上に自分の手を置く。すると彼女は困り顔でぼやいた。
    「違う、鞄は自分で持つから」
     どうやら、お手ではなかったらしい。


    「……さては最初から二人ともグルだったね、五月雨江」
    「何のことでしょう」
     無論五月雨は言われていることがわかっていたが、知らないふりをして道を進んだ。万屋や他の商業店舗が並ぶ通りは、五月雨と彼女の他にも審神者や刀剣男士が多く行き交っている。
     彼女の指摘通り、加州はほぼ共犯である。近侍になりたての五月雨が仕事をすべて早朝に終わらせられるはずがない。昨日、加州に頼んで手伝ってもらった。快く、とまではいかないが加州は五月雨の話を聞いて、それでも協力はしてくれた。
    「けどどうしてタピオカなんて……」
    「お嫌いですか」
    「そうじゃない、けど。いや、嫌いかどうかもわからないな。飲んだことがないから」
     それも、実は五月雨は加州から聞いて知っていた。あくまで想定の域を出ないが、その「たぴおかみるくてい」が流行った頃、彼女はとても忙しかったからきっと飲んだことがないだろうと。ただ自分の知る範囲の話だから自信はないと加州は言っていたが、どうやら当たりだったようだ。
    「ここですね」
    「そうだね。……本当に飲むの?」
    「飲みます。私も初めてですので、季語かどうか確かめます」
     そしてスッと五月雨は懐から財布を出し、売り場にいた管狐に意気揚々として言った。
    「たぴおかみるくていをください」
    「かしこまりましたぁ! どれになさいますか?」
    「……種類があるのですか?」
     一種類ではないのか。初めて得る情報に五月雨が驚いていると、彼女が横から売り場に貼り出されている品書きを覗き込んだ。内容を確認し、顔を上げて管狐に言う。
    「普通のミルクティーでいいです。五月雨、甘いのと苦いのと、どっちが好き?」
    「どちらかと言えば、甘いものが」
    「じゃあ同じものに、五月雨の分は、えっと……黒糖入れてあげてください。いくらですか?」
    「私が出します」
     彼女が鞄から財布を出しかけたので、五月雨はすかさず先に小判で支払ってしまった。毎度ありがとうございますうなんて甲高い声で管狐は言う。彼女は不服げに五月雨を見上げ、一杯分の小判を差し出した。
    「自分の分は自分で払う」
    「いいえ。出かけた際に女性に財布を出させるのは不躾だと加州から習いました」
    「そんな生真面目に間違った知識身に着けなくていいから。それに、私を女性扱いされてもね」
    「何故ですか」
     意味が分からなかった五月雨が問い直せば、彼女は戸惑って肩を竦めた。
    「前にも言ったかもしれないけど、私は外見の年齢よりもう少し上の歳なんだよ」
    「頭が女性であることは変わりません。何かおかしいでしょうか」
     それを聞いて、彼女は面食らったような表情を浮かべた。ちっともおかしなことを言ったつもりはないが、五月雨は差し出されかけた小判を丁重に彼女に返しつつ、もう一度繰り返す。
    「女性に財布を出させるのは、不躾だそうですから」
    「……清光め」
     はあ、と観念して彼女は小判を引っ込めた。それから数分も経たないうちに、管狐が二つ容器を持って店頭に戻ってくる。
    「ご注文のタピオカミルクティー二点でございますぅ! 印のついているものが黒蜜入りになります! お召し上がりくださいませぇ」
     出てきたのは透明な容器に入った亜麻色の液体だった。五月雨はまとめて受け取った二つの容器を覗き込む。なにやら底には黒っぽい小さめの団子のようなものがごろごろと沈んでいた。
    「……蛙の」
    「五月雨、やめて」
     彼女にすぐさま止められたので、そこで五月雨は口を噤んだ。でも、そう見えたのだ。
     すぐ傍に並んで座れそうな椅子があったので、五月雨と彼女はそこに腰を下ろす。そして容器の一つを彼女に渡しながら聞いてみた。
    「これがたぴおかですか」
    「そうだよ。はいストロー」
     五月雨が持っている容器に、彼女が管を突き刺す。前に見たものより太い。
    「タピオカを吸うためじゃないかな、たぶん」
    「一緒に吸うのですか?」
    「そういう飲み物らしいから」
     なるほど……五月雨はじっと手に持った亜麻色の液体を見つめる。黒蜜を入れたと管狐が言っていた通り、管からはほんの少し慣れ親しんだ甘い匂いがした。スンスンと五月雨が鼻を鳴らしていると、彼女がそれをやや微笑ましそうに見ていた。
    「甘党なんだね、意外だった」
    「そうでしょうか」
    「うん。硬派なイメージがあるからかな」
    「甘いものは好きです。どちらかと言えば雲さんの方が、私より辛いものを好むかと」
     村雲も辛いものが大好き、とまではいかないけれど五月雨と村雲とで比較するのであれば、五月雨の方が甘党である。たまに五月雨が珈琲なる飲み物を口にする際に砂糖を入れているとき、村雲は驚いたような目でこちらを見ているときがある。
    「それは意外だな、知らなかった」
    「今度部屋で珈琲を飲むときにでも頭をお呼びします。雲さんは何も入れなくても飲めますよ。では頭、たぴおかを頂きましょう」
     二人していただきますと前置いてから、一緒に口を付ける。ちゅるちゅると吸い込めば、何度か本丸で口にしたことのある洋風のお茶の後に、きゅっとなにか球体が口の中に入ってくる。恐らくこれがたぴおかだろう。
     五月雨は慎重にそれに歯を当てて咀嚼した。何となく、食感は白玉に近い気がする。やはり餅の仲間なのだろうか、色は黒かったが、そもそもどうやってこれは作られているのだろう。しかしとにかく、おおむね季語である。面白い食べ物だ。たぴおかはこうして飲料の混ぜて調理するのが主なのだろうか。
    「たぴおかも季語ですね。頭、美味しいですか」
     口の中をきちんと空にしてから、五月雨は隣に腰かけていた彼女の方を向いた。彼女も初めて食べるもののはず、一体どんな反応を……と五月雨は楽しみにしていたのだが、彼女はなにやら神妙な表情で口を動かしていた。一度嚥下して、彼女は一言呟く。
    「なんかその、もちゃもちゃしてる」
     いきなり擬音語が出てきた。五月雨はじっと彼女の顔を注視した。
    「もちゃもちゃ、ですか」
    「口の中でものすごく、もちゃもちゃする」
     微妙に眉間に皴を寄せつつ、彼女は首を傾げながら言った。
    「これどうして流行ったんだろう。何年か前になんだかものすごく、名前を聞いた気がするんだけど」
    「そうらしいですね」
    「ミルクティーはまあ、普通のミルクティーで美味しいけど……どうしてタピオカを入れたんだろう。すごく、なんだろう、すごく、もちゃもちゃするね」
     不可思議そうに彼女は呟き、手にしている透明な容器を見つめていた。五月雨は同じように彼女の手元に視線をやりつつ、疑問に思ったことを伝える。
    「たぴおか、というのは餅なのでしょうか。食感が団子に近い気がします」
    「あ……違ったと思う。ちょっと待って」
     容器を手にしたまま、彼女は鞄を探って通信端末を出した。手早くそれを操作して、表示された画面を上から下に目を通す。
    「原材料はキャッサバの根から作った澱粉って書いてある」
    「きゃっさばとは、なんでしょう」
    「……芋? 強いて言うなら餅の親戚、くらいじゃないかな」
    「親戚ですか」
     中らずと雖も遠からず、くらいなのだろうか。五月雨は再びしげしげと「たぴおか」を眺める。
     それにしても……五月雨はたぴおかとは別なものに思考を巡らせていた。想定していたのを少し外した気がする。「初めてのものに出会わせる」ことを意識すれば、彼女の心にも多少なりと振れるものがあると思ったのだが。
     先日の耳飾りの一件を踏まえて、彼女に必要なものは「未知のできごと」だと五月雨は考えた。長い時間を経て、知っていることや同じことを繰り返しているのが良くないのだ。もっと新しいものに触れれば、感じることがあるはず。そうすれば、きっと凪いだ海のような彼女の心にも、波立つような感情が湧いて出る。だから彼女が知らない、出会ったことのないものを教えてくださいと五月雨は加州に頼んだ。それに彼女の知らないだろうことは、彼女よりもずっとヒトの身を得て日の浅い五月雨にとっても未知のことが多いに違いない。両者ともに全くわからないものであれば、一緒に季語探しをするにはもってこいだろう。
     そう思ったのだが、たぴおかの反応は耳飾りよりは浅かった。だが「もちゃもちゃ」なんていう擬音語が出てくるあたり、多少なりと楽しんでくれたのだろうし、実際不思議そうな、今までに見たことのない顔をしているのは間違いないし……。
     そんなことを考えつつ、残り少なくなった「みるくてい」を五月雨が吸いこんだそのときだった。
    「んっ」
    「五月雨?」
    「んぐっ、げほっ、う、の、どに」
     吸った勢いそのままにたぴおかの塊が喉に突っ込んできた。大きさが大したことなかったため詰まりこそしなかったものの、たぴおかはしたたかに五月雨の喉の奥にぶつかっていったため酷く噎せてしまう。五月雨は目を白黒とさせながら口を押えた。
    「大丈夫っ? 五月雨、水、お水いる?」
    「げほっ、ごほ、ぐっ」
    「えっ、もしかして詰まったっ? 五月雨!」
     平気だと言いたかったのだが、喉が全く言うことを聞かない。そのせいで彼女は五月雨がたぴおかを喉に詰まらせたのだと思ったらしく、しまいにはバンバンと背中を叩き始めた。
     思ったより力が強い。がくがくと彼女に叩かれるたびに五月雨の体は揺れ、若干背中が痛かった。
    「五月雨、五月雨! しっかり! 誰か、誰か呼んで来なきゃ」
    「か、かしら」
     やっとこさ呼吸ができるようになり、五月雨は彼女の手を掴んで止めた。
    「も、う、平気ですから」
    「そ、そう?」
    「噎せ、た、だけです。詰まってはいません。失礼しました」
     はあ、と一つ息を吐いて五月雨は前屈みになっていた姿勢を戻した。驚いた、たぴおかは注意して取り扱わなくてはならない季語だ。まだ若干違和感を感じる喉を鳴らして彼女の方に首を回すと、目をぱちくりとさせた彼女が五月雨を見つめ、それから突然笑い出した。
    「は、ははは! あっはは!」
    「……頭?」
    「ご、ごめん、いや、笑うことじゃないと思うんだけど、五月雨、目白黒させて、ふ、ふふふ、ごめん」
     何がツボに嵌まったのか全く分からないが、彼女はくつくつと手の甲を口に当てて肩を震わせている。五月雨は呆気に取られてその姿を見つめた。たぴおかを飲んだときよりずっと楽しそうではないか。
    「私が噎せていたのが、それほど面白かったのですか?」
     五月雨が尋ねれば、彼女は慌てて首を振った。しかしそれでもまだ笑っている。それも目に涙まで浮かべて。
    「いや、ごめんそうじゃなくて、五月雨は普段全然表情が変わらないから。あんなびっくりした顔、初めて見たら何だか、ふ、はは、ごめんね。本当にもう平気?」
     緩んだ口を押さえつつ、彼女は五月雨に聞く。それは今まで五月雨が見たことのないくらい明るく、また外見の年齢相応の楽しそうな彼女の顔だった。
    「……我噎せて笑ふ顔見るたぴおかや」
    「え?」
     はあ、と息をしてやっと落ち着きつつ彼女は目じりを指で払った。
     何もかも、予定通りとはいかなかったけれど。それでもやはり、間違っていなかった。出会ったことのないものに触れるというのは、間違っていなかったのだ。そうわかっただけでも、かなり大きな一歩のはず。
    「頭、たぴおかみるくていは美味しかったですか」
     改めて五月雨が問い直せば、彼女は空になった容器を軽く振って、それでも微かに微笑んで答えた。ごろごろと透明な器の中で、氷が回る音がする。
    「んー、やっぱりもちゃもちゃするかな。ミルクティーはミルクティーのままでいいと思った。紅茶の方は美味しかったよ」
    「では今度は、みるくていだけにしましょう。西洋の茶は、種類が多いのですね。次は別なものにします」
     確か本丸にもいくらか買い置きがあった気がする。分けてもらって試飲するのもいいだろう。せっかく万屋の辺りまで出てきたのだから、帰りに茶葉を選んで買って帰ったっていい。
     上機嫌に五月雨がそんなことを考えていると、何となく容器をまだ揺らしていた彼女が不意に呟いた。
    「……五月雨、ありがとう」
     首を回して彼女の方を向けば、彼女はただ真っ直ぐとどこかを見ていた。手にしていた容器でも、正面に置かれているたぴおか屋ののぼりでもない。彼女はもっと遠くに視線を向けている。
    「いえ、構いません。私もたぴおかという季語に出会えました」
    「うん。それなら、よかったけど」
     口を閉ざし、彼女は言葉に悩んだようだった。何と言えば五月雨を傷つけずに済むのか、きっと彼女は考えている。だから五月雨はもう一度首を振った。
    「頭の仰ることは、わかります。私も、季語を守る戦いを疎かにはできません。私の役目は、ここにいる意味は、確かに心得ています」
     歴史を守り、そして季語を守ること。それが五月雨江が顕現した理由と意味。果たさなくてはならない役目。戦い、敵を討つのが五月雨の本分だ。それを蔑ろにすることは、彼女が自分の体を未来永劫対価にした覚悟を踏みにじってしまうことと同義である。
     だがそれでも、これだけは五月雨も譲ることはできない。
    「ですが楽しいことも、面白いことも、美しいものも、ここにはまだまだたくさんあると思いませんか」
     どこか遠くを見つめている彼女に、五月雨は根気強く言った。
     たぶん、五月雨は彼女に諦めてほしくないのだ。どう努力しても、手を尽くしても、結局のところ五月雨が彼女の現状を変えることは難しい。それはもう、わかっている。
     けれどだからこそ、ここで生きていることをつまらないことだと思ってほしくない。諦めてほしくない。もう何も、心が震えるようなことはないのだと、そんな風に思ってほしくなかった。五月雨はそんな毎日を彼女に送ってほしくなかった。
     彼女は黙って、五月雨の言葉を聞いている。五月雨が彼女の返事をじっと待っていれば、いくらか迷い、それでも最後には何度か瞬きを繰り返した後に答えた。
    「……そうかもしれないね」
     ゆっくりと首を回して彼女は五月雨の方を向くと、眉を下げて笑う。
    「少なくとも、五月雨が目を白黒させてる顔は初めて見た」
     楽しそう、というにはそれは些か寂しすぎる笑顔だった。けれど普段の、凪いだ穏やかな表情ではない。いくらか血の通った、人間らしいものだった。
    「お気に召しましたか」
     五月雨が尋ねると、彼女は頷きかけて、それからうーんと首を捻る。僅かにくすくすと肩を揺らしていた。
    「珍しかった。だって普段、殆ど表情が変わらないから」
    「ですが代わりに雄弁に、季語を使えます」
    「ふふ、うん、知ってる。タピオカっていつの季語なんだろう」
     脳内で五月雨は歳時記を捲ったが、生憎五月雨も知らない季語だ。いくらか考えて、顎に手をやりながら五月雨は答える。
    「そうですね、初冬でよろしいかと」
    「今? そうなの?」
    「ええ、私たちがたぴおかに出会ったのが今ですから」
     だから、五月雨がたぴおかの歌を詠むのなら季語は今このときでいい。間違いない。
     それを聞くと、彼女はまた少し噴きだして笑った。
    「そっか。じゃあ初冬の季語で覚えておく」
    「はい、そうしてください。帰りにみるくていを買いませんか? 種類がわからないので、教えていただきたいです」
    「いいよ。紅茶屋さん行こうか」
     彼女は立ち上がって、空になった容器を屑籠に入れる。それから振り返って五月雨にも手を伸ばした。
     五月雨は、自分は物覚えは悪くない方だと思っている。一度出会った季語は場所も日時も忘れない。だから先程、彼女に言われたことも五月雨はもちろん覚えていた。けれどそれでも五月雨は片手に持っていた容器を引っ込め、空いている方を彼女の手に重ねる。すると彼女はやや肩を竦めながら重ねられたそれを僅かに握り返した。
    「だから、お手じゃない」
    「わん」
     容器は自分で捨てて、五月雨は彼女と手を繋いでたぴおか屋を後にする。
    「明日は札を一枚増やします。また選んでください」
    「本当にあの方法じゃないといけない?」
    「もちろんです」
     控えめなものだったが、本当に楽しそうな彼女の笑い声が耳を擽る。五月雨はいつまでもそれを聞いていたいと思いながら歩いた。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/09/19 19:25:58

    【Web再録】私の歳時記②

    #雨さに #さみさに #刀剣乱夢 #女審神者
    死なない審神者と季語を探す五月雨江の話。

    2023年1月に発行した本の再録です。

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