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    【Web再録】私の歳時記④   第四章



     真っ白な短冊を見つめる。あの日からずっと、何も書けないでいる短冊。
    「……それなら、私は季語じゃないかもしれない」
     そう言われて、五月雨は混乱した。冷静になって考えてみても、そんなことはないと思った。五月雨にとって、この世に季語でないものなんてない。だから五月雨は行動を起こしたのだ。
     季語探しをするのを、楽しいとは言ってくれた。五月雨が「頭も季語です」と伝えれば、嬉しいとも言ってくれた。けれど、思えば一度も「自分も季語なのだ」と彼女は認めてくれはしなかった。
    「……雨さん、畑。手伝いに行くんじゃなかった? 行かないと桑名に怒られるよ」
     村雲に声を掛けられたので、五月雨は顔を上げて持っていた短冊を文箱に再びしまい込む。
    「忘れていました、今行きます。桑名に悪いことをしました」
     文箱を机の端に寄せて、五月雨は立ち上がる。上半身に巻いていた上着の結び目を締め直し、手ぬぐいやら何やらを内番着の履物に入れた。そんな五月雨の様子をじっと見つつ、村雲がおずおずと口を開く
    「具合悪いなら俺代わろうか? ……今日ならまあ、お腹も平気かもしれないし」
     腕を腹部に回しながら村雲が言うので、五月雨は首を左右に振る。今日も冷える、今は平気でも外で野良仕事をすれば、村雲の腹は痛み始めるかもしれない。
    「大丈夫です。ありがとうございます、雲さん。戻ったらお茶にしましょう、部屋を暖めておいていただけますか」
     たぶん、畑仕事が終わるころには厨で菓子を配る頃合いのはず。戻るついでに村雲と二振分もらって来よう。行ってきますと言い置いて、五月雨は部屋を出ようとした。ちょうど襖の横で、村雲とすれ違う。
    「ねえ、雨さん」
     そのとき突然村雲に呼び止められ、五月雨は振り向いた。しかし村雲はこちらに背中を向けたままだ。
    「……雨さんは、俺と違って痛いとか、辛いとか、あんまり言わないよね」
     それに五月雨はどう返したらいいかわからなかった。何か言わなくてはいけないとは思ったのだが、そうですねとも、違いますとも言い難い。だから返事を考えている間に、村雲のほうが言葉を続ける。
    「それってすごいって、俺はいつも思ってるけど。でも、痛いも辛いも、いつだって言っていいからね」
    「……」
    「雨さんはいつも、悩んでも自分で答え出して解決できてすごいけど。でも考えてわかんなくなったら、誰にそれ言ったって、いいんだからね」
     そこまで言い切ってしまってから、村雲はくるりとこちらを向いた。にこりとして、村雲は五月雨の肩を一度だけ叩くと、背中を押して五月雨を部屋の中に戻す。
    「やっぱり俺畑を手伝いたい気分だから、雨さん代わって!」
    「……雲さん」
    「畑で季語、見つけてくるね!」
     ぱたぱたと村雲の足音が遠ざかっていく。それを止めることさえ、五月雨にはできなかった。自分も一緒に行くと言っても別におかしくはないと五月雨が気付いたのは、もう村雲の姿が見えなくなってしまってからだった。
    「……雲さんに心配をかけてしまいました」
     やっと一言、ぽつりと呟く。
     近侍の仕事を終えて何もしない午後はこんなにも長いのだと五月雨が初めて知ったのは、昨日のことだ。


    「ごめんなさい、今日はちょっと、空き時間別なことしてもいい?」
     あの天体観測の翌日、上着の懐からいつも通り札を出そうとしたら彼女にそう言われた。彼女は怒っている風ではなく、悲しんでいる風でもなく、いつもの穏やかな笑顔だった。
    「……なにか、ご予定でも」
    「次の審神者の研修会で読んでおかないといけない本があって。五月雨も、好きに過ごしてくれて構わないから」
     言外に、今日はもう執務室に来ないでほしいと言われていると思った。だが「研修のために読まなくてはならない本」と言われれば五月雨には引く以外の選択肢がない。それで五月雨は大人しく執務室を出た。
     だがそれは昨日のことだ。だから今日は、と思いはしたのだが五月雨は昼前に近侍の仕事を終えたとき、札を出すことができなかった。
     もし同じことを繰り返されたら、どうしたらいいかわからなかったのだ。
    「じゃあ今日の仕事はおしまい」
     そうあの凪いだ笑みで言われてしまえば、五月雨にはもう何もできなかった。「わかりました」の他にどう言えばいいかわからなかった。
     従って、畑の手伝いがなくなって戦装束に着替え直した五月雨は、短冊を手にしたまま当てもなく硝子戸の閉められた縁側を歩いている。近侍は万が一の時に備えて、できるだけ武装しているようにというのは最初に加州に言われたことだ。
     ……万が一のとき。
    「どうせ落ちたって死んだりしないんだから!」
     彼女の声が脳裏に響いて、ぴたりと五月雨の足は止まってしまった。もちろん本調子でない自覚は五月雨にもある。けれど想定以上に、今の自分は落ち込んでいるのだとまるで他人事のように五月雨は思った。
     そう、五月雨は落ち込んでいるのである。それは思いの外周囲にも伝わっているようで、今朝方篭手切からは温かい茶を差し入れられ、豊前には行きたければ遠乗りに連れて行ってやると言われた。朝食から戻って何故だか置いてあった竹の皮に包まれた二つの握り飯は稲葉だろうし、恐らく五月雨が季語を探しに行くと思って弁当代わりに作ってくれたのだろう。松井には近侍がまとめるはずの予算案は作っておくと言われ、桑名が畑にわざわざ誘ってくれたのだって、普段五月雨がそこで季語を探すのを好んでいるからだ。皆が皆、珍しく目に見えて落ち込んでいる自分を心配してくれていたのがわかる。
     だがそれでも、五月雨の気持ちは前を向いていなかった。気遣いは嬉しかったのに、こうしていたって仕方ないのだから、早く持ち直さなくてはと心では理解しているのに。
    「あー、いた。いっつもうろうろしてるから見つけんの大変だったよ」
     不意に、後ろから声を掛けられて五月雨は振り返る。襟足を掻きながらこちらに向かってきているのは加州だった。五月雨は小首を傾げて聞く。
    「何かありましたか?」
    「いやそれはこっちの台詞だから。執務室覗いたけど主もいないし。どこいんのって連絡だけしたら返事はあったけど」
    「そう、ですか」
     五月雨がそれだけ返せば、加州は真っ赤な瞳でじっとこちらを見つめる。豊前のものと同じ色のはずなのに、印象がいくらか違うのが不思議だった。
    「ねー、何かあったんじゃないの」
    「……」
     何か、というにはあまりにも一度に色々ありすぎたために五月雨は口を噤む。加州には彼女のことに関してこれまでも多くのことを協力してもらった。近況報告の義務はある。しかし。
    「なんかあったなら、言っ」
    「何もありません」
     急いで、五月雨はそう加州に答えた。
    「何も、ありません」
     こんなのはまるきり嘘だ。けれど彼女は恐らく、先日の夜五月雨に言ったことを誰にも知られたくない。だったら五月雨はそれを誰にも言ってはいけないのだ。
    「……あんた嘘つくの下手だね」
     呆れたような、しかしそれでいてどこかおかしげな様子で加州は呟く。片眉を上げてこちらを見る加州は、どこか古い友人のようだった。
    「あのねー、なんかっていうのは、別に主に限ったことじゃないの」
    「……どういうことでしょう」
     五月雨が問い直せば、加州は僅かに口元を緩めながら答えてくれる。
    「あんたにも、『なんかあった?』って聞いてんの、俺は」
     パチパチと、一度二度五月雨は瞬きを繰り返す。すると加州は「もー」と言いながら肩を竦めて首を左右に振った。
    「確かに主のことは大事だけど。俺と五月雨も、ここで一緒に戦ってるお仲間でしょ」
     柔らかい加州の口調で、つい先ほどの、村雲の言葉が蘇る。
    「考えてわかんなくなったら、誰にそれ言ったって、いいんだからね」
     笑顔の村雲が、一つ背中を押してくれたのを思い出す。
    「……わからなく、なってしまいました」
     やっと、五月雨はそう口に出した。そう、今自分は幼子のように迷っている。だから真っ白な短冊を手にしたまま、五月雨はこうして途方に暮れているのだ。
    「何がわかんないの?」
     加州は五月雨に静かに尋ねる。五月雨は慎重に、自分の中から言葉を一つ一つ取り出した。
    「どう、お伝えすればいいのかわからないのです」
    「どうって?」
    「……申し訳ありませんと、それから」
     それから、やっぱり五月雨は彼女に自分自身のことを諦めてほしくないのだと。
    「私は、どう頑張っても結局……根本的なことを何も解決できません」
     それはずっと、理解していた。それでも何かできると思って、五月雨はここまで色んなことをやってきた。彼女の心が前を向けば、少しでも良いほうに何かが変わっていくはずだと。
     だがそうではなかった。五月雨の行動は、確かに彼女の心を少しは楽にしたかもしれない。けれどその一方で自分を「ばけもの」と言うほどに彼女が思い詰めていたことを五月雨は知らなかった。そこまで思い至らなかった。
    「五月雨のいる季節に、私も連れていって……」
     あの、狂おしいほど寂しい懇願に応える術を、五月雨は持っていないのだ。
     体の時間が止まったままなのに、心だけ動くことが苦しいことだと五月雨にはわからなかったのだ。五月雨は、それだけ「季語」を愛していたから。それらと触れることで生まれる何かが、彼女を救ってくれるはずだと思った。
    「ですが、それは違ったのです。私は、時が過ぎ行くこと自体が頭にとってどれほど辛いことなのか……わかっていませんでした」
     恐らくそれは、自分もまたある種で「時が止まっている存在」だからなのだ。五月雨は刀として生まれ、今は肉体を持つ刀剣男士で、破壊されない限り悠久のときを生きていく。それはたとえ、人類が滅んだとしても。「五月雨江」という刀がこの世に存在する限り。最初からそう定められて生み出されたのだ。
     だから、ヒトとして生まれて、突然時間の止まってしまった彼女の気持ちは、きっとわからない。過ぎていく時間に対して、心を鈍らにしなければ耐えられなかった彼女の気持ちは。
    「それでも私はただ、頭のことを季語だと思っていると、わかっていただきたくて」
     五月雨が言えば、加州は微かに苦笑する。
    「……まあそれもだいぶ独特なアプローチだけどね」
    「ですが、頭が季語でないなんてことはないのです。少なくとも私は、いえ、雲さんもですが、そう思っていました」
     最初は、ただ、「いい主」なのだと思って。五月雨が顕現してからずっと彼女は五月雨たちに対して良き審神者であろうと努めてくれた。そういう彼女の姿勢を五月雨は素晴らしいものだと思っていたし、それだけで十分に五月雨にとって彼女は季語たる資格はあった。
     彼女もそれは嬉しいと言ってくれたけれど、恐らく、状況はあのときと変わっていない。むしろいっそ悪くなっているかもしれない。季語であるとわかってほしいと思って五月雨が行ったことは、彼女の現状を余計に彼女に知らしめ、首を絞める結果になってしまった。
     そんなつもりは、なかったのに。五月雨にとって季語は愛すべきもので、なくてはならないもので、守るべきもので。彼女もそうなのだと知ってほしかった。それなのに。
    「……私は、出会った季語を歌として留めています。花が咲き、いつか枯れたとしても、私が詠んだ歌の中でその花は永遠です。ですがそれは本当に良いことなのでしょうか。歌の中で、ある瞬間で止められた花は、それで幸せなのでしょうか。いつかもし私がいなくなったとき、ただ留め置かれた、花は」
     その瞬間を切り取られた、その花は。五月雨はその花のことを、何度も歌を読み返すことで、そのときを思い出していられる。けれどもし誰も、いなくなってしまったら。
     五月雨がいなくなって、誰にも顧みられることがなくなってしまったとしたら。
    「私は、ただ一人で……その花が美しかったことに、満足しているだけなのではないでしょうか」
     花の気持ちも、考えずに。
     そんなのは、独りよがりで、無責任だ。五月雨の想いを、彼女に押し付けただけなのだ。その気持ちに責任を取りきれるかなど、考えもせずに。
     加州は五月雨が話しきるのを待って、それからひと呼吸ついた。硝子戸で外と区切られただけの、板張りの縁側は些か冷える。加州の息は丸く、白い形をしていた。加州がこの話を聞いて何を答えてくれるのか、五月雨は少し緊張した。
     だが加州はいくらか気まずそうに唇をぎゅっと片側に寄せ、おずおずと口にする。
    「……ごめん、なんか小難しいことたくさん言われて、よくわかんなかった」
     小難しい、よくわからない。二度ほど瞬きを繰り返して、五月雨はやっと加州に言われたことを理解し、僅かに脱力してしまった。
    「そ、うですか……」
     小さく呟いた五月雨を見て、加州は慌てて首と両手を左右に振り付け加える。
    「ごめんごめん! だって感覚が独特過ぎるから! 季語とかこう、歌とか、俺とは無縁で」
    「今度最初から、お教えします……」
    「いや、遠慮しとく」
     即座に言われて五月雨は更に肩を落とした。いや、人には得手不得手があるのだから、強要はできないし、仕方ないのだけれど……。
     萎れた五月雨を見て、加州は微かに笑った。それから体を起こして、ねえと五月雨に語り掛ける。
    「……でも、一つだけちゃんとわかったことあるよ」
    「なんでしょう」
     なんでも、興味を持ってくれたのならそこを手掛かりに歌を教えることは可能だが。五月雨が加州を再び見つめると、赤い瞳はいつも以上に優しく五月雨を映している。
    「五月雨はあの人のこと、本当に大切なんだなってこと」
     加州のそれはとても、単純で、純粋な言葉だった。拍子抜けするくらいに。
    「だって五月雨が今ぐだぐだ色々考えて全く身動き取れなくなっちゃってるのだって、全部あの人のためでしょ?」
     小首を傾げ、加州は下から五月雨をじっと悪戯っぽい表情で見つめる。
    「俺はやっぱりー、季語とか歌とか、よくわかんないし。さっきの花の喩えだって、言いたいことはわかるけどそんな小難しくしなくたってって思う。だって五月雨、歌詠んでそれっきりってことはないでしょ?」
     その問いかけに、五月雨は勢いをつけて頷いた。そんなのは当たり前だ。
    「それは、もちろんです」
     何度だって繰り返して思い出すし、絶対に忘れない。自己満足かもしれないが、ずっとずっと五月雨はその「花」のことを美しいと思うし、歌を読み返すときはいつだって幸せな気持ちになるだろう。
    「じゃーきっと花にだって伝わってるって。あんたが、大切に思って歌を詠んでくれたってこと。確かに、五月雨が季語だって思って、歌にするのは一方的なことなのかもしれないけど。でも、一時的なことじゃない。あんたにも覚え、あるんじゃないの?」
     ハッとして、五月雨は目を見開いた。
     何度も何度も、この名を詠んでくれた「あの方」のこと。五月雨自身はもちろん「あの方」に会ったことはないし、当然、どうして「五月雨」の歌をいくつも詠んだのかも「あの方」の本心を知ることはない。
     けれどそれでも、嬉しかったのだ。この名は、誰かに大切に思われる特別なものなのだと思って。
    「それにさー、今更じゃん。五月雨は最初から割とずっと勝手だったよ? 俺のこと言いくるめて近侍になったり」
    「そ、れはすみません。勝てると思ったもので」
     五月雨が素直に言えば、加州は呆れたような表情ではあとため息を吐いた。
    「もー! そういうとこ! ……でもやっぱり俺は季語とか、歌とかわかんないけど? でも少なくとも五月雨が、あの人のこといっぱい考えて、何とかしたいって思うくらい、すごい大切に思ってることはわかるよ。それこそあんたが言う『季語』? の、固まりみたいに」
     息を吸いこめば、冷えた縁側の空気が肺に入りこんでくる。頭が随分はっきりとして冴え冴えとした。
    「加州!」
    「なにっ!」
     バッと五月雨は短冊を脇に挟んで加州の両手を取って握り、ぶんぶんと振った。
    「ありがとうございます、聞いていただいてよかったです」
    「あっ、そ、そう、よかったね」
    「はい。畑に行ってきます、雲さんにもお礼を」
     彼女のところにも行かなくてはならない、急がなくては。五月雨が踵を返そうとすると、加州は慌てて五月雨の肩を掴んだ。
    「待っ、待ってって、主どこにいるのか聞かなくていーの?」
    「自分でお探しします! 大丈夫です!」
     大丈夫、絶対に見つけられる。
     なぜなら五月雨は季語を見つけるのは得意なのである。
     加州はすっかり元気とやる気を取り戻した五月雨を見て安堵したようだった。八重歯を見せて微笑んだが、すぐにキュッと唇を引き絞る。
    「じゃあ最後にこれだけ、聞いて行って」
    「はい、何でしょう」
    「……これだけは他の誰にも、絶対に言うなよ」
     少しだけ背伸びをした加州が、一言、二言五月雨の耳元で囁いた。それは酷く、簡潔な言葉だった。
     しかし伝えられたその意味を理解したあと、流石の五月雨も驚いて目を見開き、身を強張らせる。
    「……加州」
    「政府から聞きだしたから、たぶんほんと。いい? 絶対誰にも言うなよ」
     一体、どんな気持ちで加州が今五月雨に告げたことをたった一振で抱え込んでいたのか。五月雨には想像もつかなかった。だがそれを今、五月雨に教えてくれたということだけは、忘れてはいけない。
    「……はい、約束します」
    「ん、じゃーね」
     ヒラッと加州は五月雨に手を振る。五月雨はしっかりと加州に頭を下げてから、急いで玄関に向かって靴を履いた。走って畑に行けば、畝で作業をしている桑名とその手前でしゃがみ込んでいる村雲の背中が見える。
    「雲さん!」
    「……雨さん?」
     声を掛ければ、村雲はくるりと首だけこちらに向けた。手には水仙が握られている。傍まで行けば、村雲は服の裾に着いた土を払いながら立ち上がった。
    「雨さん、どうしたの?」
    「雲さん、雲さんはすごいです」
     五月雨は再び脇に短冊を挟んで村雲の手を水仙ごと握り、五月雨は先程の加州同様にぶんぶんとそれを上下に振った。
    「な、なにが?」
    「解決しました。雲さんの言う通りです、誰かに話してみるべきだったんですね」
     詳しくは話さずとも、解決した、という言葉を聞いて村雲はパッと顔を明るくしてくれる。感受性豊かで、誰かの嬉しいことを一緒に喜んでくれるのが村雲の良いところなのだ。
    「そう、よかったね!」
    「はい! 頭のところに行ってきます、雲さん、戻ったらお菓子にしましょう。その水仙は部屋に飾りましょうね」
    「うん、行ってらっしゃい! お茶用意しておくね!」
     大きく手を振る村雲に、五月雨もまた同じようにした。奥で桑名も笑ってそうしているのが見えたので、五月雨は倍腕を振る。
     あとは、彼女に会うだけ。五月雨は畑から本丸にとんぼ返りして一直線に庭を横切った。自然と、どこに行けばいいかはわかっていた。そこに彼女がいたのなら、きっともう一度始められる。
     だから五月雨は真っ白なままの短冊を持って、南側の庭に向かった。最初に、彼女に「自分は季語ではない」と言われた場所。
     息を切らせて、五月雨はそこに辿り着く。
    「伝え方を、誤ったのだと思って、訂正しに来ました」
     ただぽつんとそこに立っていた彼女に、五月雨は呼びかける。彼女は足元の今は寒さに耐え忍ぶ芝に目を落としたまま、首を上げることも振り返ることもなかった。上着を着ていない彼女は耳と指先が赤い。
    「……訂正?」
    「はい」
     乾燥した芝は、歩くたびにサクサクと音を立てる。今年の初雪はまだだった。もう少しすれば、きっとここも真っ白になる。
    「私は、きっと、ただ」
     そう、ただ。
    「私がただ、ずっと、あなたの、楽しそうな顔をもっと見たかっただけだったのです」
     最初は彼女の体がどうとか、季語だとわかってほしいとか、そういうこともあったけれど。しかし本当はもっと、純粋で、独りよがりで。それでいて諦められなかった気持ち。
    「季語を探して、笑うあなたの顔が見たかったのです」
     たぴおかを一緒に飲みに行ったときのような、密やかでも心からの笑い声をずっと聞いていたいと思った。札を引くたびにくるくる変わる表情を、余すことなく見つめていたかった。
    「私は、これからもそうしていたいです。ずっと、頭と季語を探していたいです、ですから」
    「……じゃあ、季語が尽きたら?」
     やっと、ゆっくり彼女はこちらを振り返った。鼻の頭が赤くなっている。だが瞳だけは冷えて、温度を持っていなかった。
    「今はよくても、長い間それを繰り返していたら、それこそいつか本当に、やることが尽きてしまうかもしれないよ。私が持ってる時間は、これから先ずっと、終わりなんてないから」
     口調はとても優しいものだったけれど、彼女はもうすっかり平坦で抑揚のない声をしていた。そのことに五月雨はぞっとする。たった数日で、こんなにも心が凪いでしまうものなのか。
    「結構、大変なんだよ。全部諦めるの」
    「頭」
    「この間のことは、ごめんね。でも忘れて。私もそうするから。今ならそうできる」
     ゆっくりと、彼女は口の端を持ち上げる。それは歪な作り笑顔だった。
    「長生きでいいことはね、忘れることもそんなに難しくないことなの」
     それだけ告げると、彼女は再び五月雨に背中を向けた。
     戻ろうとしているのだ、どこかに。五月雨の知らない、どこかで止まってしまった時間に。
    「お待ちください!」
     冷たい風が彼女の髪を揺らしている。あの紅葉狩りの夜と同じ。
    「勝手です。そんなのは、身勝手です、狡いです」
    「あなただってずっと狡かった。五月雨江、そうでしょう?」
     彼女からたった一度得た言質を逆手にとって、何度も付け入った。それは間違いない。卑怯な立ち回りをした自覚は五月雨にも勿論ある。
    「はい、ですから、責任を取らせてください」
     大きく彼女の肩が上下する。いくらか頭が下を向いた。
    「責任? 何の」
    「あなたの時間を動かした、あなたをそうさせた責任を取らせてください」
    「……どうやって」
     深く息を吸って、五月雨ははっきりとその彼女の問いに答える。今やっと、そうすることができる。
    「そのときが来たら、あの晩のあなたの願いを叶えます」
     驚愕の表情で、彼女が勢いをつけてこちらを見た。目を見開き、僅かに口を開いて。
    「あなたがもう、これ以上何も季語を見つけることができないと思うときがきたら。私がもう、あなたに季語を見つけて差し上げられない日が来たら、そのときは」
     彼女をそうさせた責任を取って、その美しく細い首を斬る。五月雨のこの手で。
     先程小さく、けれど確かな声で加州が五月雨に告げたこと。
    「首を斬れば、たぶん、あの子はまだ、死ねるよ」
     彼女本人も試したことがないと言っていたこと。首を斬る、刀剣男士に、そうさせる。
     きっと加州もずっと、本当に彼女が全てを諦めた日のためにそれを取っておいたのだ。それでも加州が今まで実行に移さないでいてくれたのは、何とかしてもう一度、彼女に前を向いてほしかったから。それは五月雨も同じだ。
    「ですが、私はできるだけその日を長く、先にしたい」
    「……五月雨」
    「だって生きているのですから。あなたは、ここで今、生きているのですから」
     普通の人間のように死ぬことができないのだとしても、ここで「生きて」いる。
     死ねないのではない。彼女はただ、長い時間を生きているのだ。それだけだ。
    「見飽きることなど決してありません。季語は、いつまでも、あなたが生きてここにいる限り、ずっと増えます。ですから、簡単には『もう見つからない』などとは言わせません」
     一歩一歩、確かな足取りで五月雨は彼女に歩み寄る。短冊を懐にしまい、ゆっくりと寒さで赤くなった彼女の手を両手で包んだ。
    「もう一つ、訂正させてください」
    「何を……?」
     小さな、囁くような声で彼女が聞く。握った手を五月雨は引き寄せた。こんなに冷えてしまって、室内に戻ったら彼女も交えて村雲と温かいお茶を飲もう。
    「以前、私はあなたに季節で移り変わることがなくとも頭は季語ですとお伝えしました。ですがそれは少し間違っていました。言い直します」
     冬の澄んだ静かな空気の中ではっきりと、告げる。
    「もし、あなたが季語でないのだとしたら、きっと、あなたは私の『歳時記』そのものなのです」
     季語の固まり、見つけた季語を全て綴っておくための場所。
     めくるたび、今まで出会ったものを懐かしく思い出せる。歳時記そのもの。短冊に何も書けないはずだ。季語が多すぎて、歌にできない。
    「これからもたくさん、季語を探しましょう。楽しいこと、面白いこと、時には悲しいこともあるかもしれません。ですが美しいもの、嬉しいことも同じくらい、見ることができるといいですね。その全てを覚えていてください。私と同じ時間を生きることができる、あなただからできることです」
     だから時間は長ければ長いほどいい。それは間違いない。もしかしたら足りないくらいかもしれないのだから。
    「私が見つけた季語を、あなたが綴る。私たちはそうして、これから長い間一緒に、生きていくべきだと思いませんか」
     唇を僅かに引き絞ってから、はあと彼女は詰めていた息を吐きだす。眉を歪め、瞼を閉じたき、ぽろぽろと涙が白くなった彼女の頬を伝った。
    「……その言いかた、やっぱり狡いと思う」
     温めていた手を離して、すぐに彼女を抱きしめる。細い指が上着の背を掴むのがわかった。それに負けないくらい強く腕に力を込める。
    「それは褒め言葉です」
     まずは温かくて美味しいお茶とお菓子を季語にしよう。それからよく火が熾された火鉢も。
     だがもう少しだけ。あと少しだけ二人でこうしていたい気もして、五月雨と彼女は暫くそのまま抱き合っていた。

    micm1ckey Link Message Mute
    2023/09/19 23:21:04

    【Web再録】私の歳時記④

    #雨さに #さみさに #刀剣乱夢 #女審神者
    死なない審神者と季語を探す五月雨江の話。

    2023年1月に発行した本の再録です。

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