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    しおり
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    骨の形、他骨の形花曇りの庭春雷至れり百花の王夜啼鶯寝覚めの先骨の形


     閉じたはずの戸の隙間から、細い光が一筋、夜に沈む室内に線を引いていた。その線は横になった鶯丸の手前でふつりと途切れていた。夜中に目を覚まし、ぼうっと目蓋を上げただけの視界でそれを見つけた鶯丸は、なんとなくそれに手を伸ばした。それはまるで垂れた糸を思わず引っ張ろうとする自然さであった。しかし鶯丸は床についており、その糸は畳の上を細く這った月明りなのだ。
     夜の底は冷たかった。立春は既に過ぎていたが、日中も寒さに梅の花が赤さを澄ませるばかり、そうかと思えば、日に照らされた甘い土の匂いのする中に生き物の微睡む気配のするような、暖かい日が来る。刀たちも春を前に翻弄されていた。ただ夜だけは、まだ静かに冷たく居座ることをやめなかった。
     布団から出した鶯丸の腕は、一度その寒さに震えた。しかし手を伸ばすことはやめなかった。床に這う光を人差指でなぞろうとすると、その糸が指の上に逃げるので、鶯丸はその糸の上に指を這わせることを諦め、そのほんの少し下を辿った。意図せず、畳の目を確かめる形になる。
     さりさりと畳の目を三つ、四つ這った頃、腹の辺りを緩く温めていた塊がもぞりと動いた。それは後ろから鶯丸を抱き込んでいる大包平の腕であり、そのまま鶯丸の胸の前を通り、鶯丸がしたのと同じように布団を出たと思うと、その鶯丸の手を無遠慮にも感じるほどの力強さでがしりと掴んだ。
    「冷たい」
     寝起きの掠れた低い声が、不機嫌そうに鶯丸の頭に言った。それに鶯丸が喉を鳴らして笑ううちに、大包平は鶯丸の手をもう一度布団の中に引っ張り込んで、指の間に指を噛ませる形で握り込んだ。その指は鶯丸のものより太く、鶯丸の手は指を大きく開く形になったのだが、握り込んだ大包平には思い及ばぬことだったらしい。そのままふたり分の腕を鶯丸の胸の前で折り畳むと、鶯丸の項に頬刷りした。随分甘えた仕草に、鶯丸は楽しくなる。まだ朝は遠いというのに、目が冴えてきていた。
     大包平の方はそうではないらしい。鶯丸の髪に顔を埋めた後、静かになった。鶯丸は、まだ少し笑いに身を震わせながら、握り込まれていない方の手で大包平の手に触れた。その手の甲に浮き出た骨を沿って指の付け根をくるりと辿る。それを人差指から小指まで。その後は手首を撫でて、浮き出た尺骨の端を二周。そうすると、ようやく大包平が舌打ちした。
    「……楽しいか」
    「ああ、これが中々」
     鶯丸の返答に、大包平は溜息を吐いた。その吐息が鶯丸の項を這っていったので、それがくすぐったくて鶯丸は身を震わせる。
    「大包平、俺はな、骨というものを美しく思うときがある」
     夜に相応しい密やかな声に大包平は応えを寄越さなかった。しかし、聞いているのを分かっているから、鶯丸は勝手に話し続ける。大包平の腕の筋肉の下に、太い骨が埋まっているのを確かめながら。
    「皆それぞれに見事な形をしている。これは人間でも、他の動物でも、魚でもそうだ。しかし、俺が美しいと思うのは形そのものについてではない。この骨というのは、それぞれが、何か動きを成り立たせるためにあるという。生き物が生きるうちに、あまり使われなくなったものもあるというが、すべて必要があって生じたものだ。しかも、それぞれの生き物が必要とする形に合わせて……なぁ、大包平、俺はそういうものを美しいと思う」
     黙って手首を撫でられていた大包平は、そこまで聞くと、もう一方の手で鶯丸の肩を引っ張って、横向きに抱き込んでいた体を仰向けにした。同時に体を浮かせたために、布団に滑り込んだ夜気に鶯丸は小さく震えた。
     そのままじっと見下ろしてくる薄い色の瞳を、鶯丸は柔らかい緑の目でじっと見つめる。この鋼と同じ色の瞳が、鶯丸は好きだった。刀身のように様々を映すのに、決してその色に染まってしまうことがなかったからだ。大包平という刀の美しさの粋はそういうところにあるのだ。当の本人だけが、それに気がつかない。
     大包平は不機嫌そうに口をへの字に曲げていたが、ふと鶯丸の口の端に、なだめるように口付けると、「もう寝ろ」とだけ言ってまた鶯丸を後ろから抱え込む形で横になった。鶯丸は自分の肌に直接移ってくる大包平の温もりを感じながら、収まりの良い姿勢を探し、目を覚ます前と同じく横向きになった。そうしてまた、腹に回された腕に手を添えながら、床に這う一筋の光を見つめた。
     何者もあの光を捕らえられぬように、本当の美しさというのも侵されることがないというのに、ただ目に見えたり、耳に聞こえたりするだけのものに皆惑わされてしまいがちだ。鶯丸も確かに大包平の瞳の色が好きだが、それはその色の妙さより、その色に大包平の美しさを見るからなのだ。骨が生き物をその生き物たらしめるように、大包平を大包平たらしめる美しさを。しかし本人だけが、自らの美しい瞳を直接目にすることが敵わないのだ。
     そんなことを考えながら、鶯丸も目を閉じた。もう少しすれば、小さな鳥たちが夜の終わりを歌いだすだろうと思いながら。
    花曇りの庭


     長雨に桜は花弁をすべて落とした。緩やかな風は芳しさを増した。
     非番の大包平は、同じく非番の鶯丸と共に部屋にいた。連日降り続いた雨は今朝ようやく上がったが、庭の土はぬかるみ、外に出ようという気にはなれなかった。手持ち無沙汰に座卓についていると、鶯丸が茶を淹れだした。
     大包平はその様子を、向かいから眺めていた。鶯丸は不躾な視線を気にすることなく、いつもの手順で急須に湯を入れている。彼の愛用する横手の急須は、春のために誂えたかのように、青ざめた桃とも橙ともつかぬ柔らかい色をしている。
     庭からは甘い土の匂いが、雨上がりのために一層強く香って窓から流れ込んでくる。その匂いに煎茶の香りがよく合うものだと、大包平は今初めて知った。
    「……慣れたものだな」
     湯呑みをふたつ並べる手の動きにそう言うと、鶯丸はほんの少し口の端を持ち上げてちらりと大包平の顔を見やった。鶯丸との間に下りる沈黙を恐れたことはなかったが、こうした言葉を使わぬ返事に、大包平はなんとなく面白くない気持ちになることがある。
     時間を数えていたのだろうか、鶯丸は急須を右手だけで持ち上げると、湯呑みに向けて傾けた。取っ手を長い人差し指と中指で挟み込みながら親指で蓋を押さえるのが妙に器用に見えた。もったいぶったところのない、よく慣れた手つきだった。
     鶯丸はなおも無言のまま、しかし当然のように大包平に湯呑みを片方寄越した。大包平もそれを当たり前のものとして受け取り、一口飲んだ。鶯丸も急須の蓋をずらしてから、自分の急須を持った。
    「なぜ蓋をずらす」
     鶯丸が茶を淹れるのを見たことは何度もあったが、初めてその何気ない動作が気になって、大包平は訊ねた。鶯丸はすぐには応えず、湯呑みに口を付けていた。
    「湯気で蒸れると葉が開く」
    「開くとどうなる」
    「二煎目の味が落ちる」
     簡潔で十分な答えだった。大包平は鼻から息を漏らすような相づちを打ち、一息に湯呑みを空けた。舌の上を苦味が通り過ぎた後、甘味が湧いてきた。
     春は多くのことを大包平に運んできた。冬の間は顕現した体に慣れるのに忙しく、生活の細々としたことや、些細な季節の変化まで気がまわらなかった。梅がこぼれ始めた頃になってようやく、暖かくなったな、と気が付いたのだ。
     その些細な気温の変化を、大包平は世間話のつもりで鶯丸に話した。そのときも、こうして鶯丸が茶を淹れていた。「随分暖かくなったな」という大包平の言葉に、鶯丸は急須を傾けるのを止め、目を丸くして大包平の顔をじっと見詰めたのだった。
    「なんだ」
     予想もしなかった反応に大包平が顔をしかめると、鶯丸は頬を緩めて「すぐに春になる」とだけ応えた。花のほころぶような笑みだった。
     鶯丸の言った通り、梅の次には桜が咲き、風に花を散らしていたと思うと長雨のために青々とした葉が残るだけとなった。鶯丸が「すぐに春になる」と笑った日から、大包平は些細なことが気になって仕方がない。万屋までの道すがらに咲く花の色だとか、鶯丸が急須を持つ指の爪の形だとか。
    「何か気になることでもあったか?」
     大包平が空にした湯呑みを回収しながら、鶯丸が訊ねてきた。その動きを見ながら、どう応えたものか大包平は思案する。気になるのは些細なものばかりなのだ。わざわざ口に出すには、あまりに細やか過ぎた。
    「……どうにも落ち着かん」
     大包平が誤魔化すように絞り出した声に鶯丸は「ははぁ」と納得したような声を出した。
    「春だからなぁ」
     どこか楽しげな声だった。大包平は鶯丸がなぜそんなに楽しげなのかも気になって、訊かずにはいられない。
    「春とはそういうものか」
    「そういうものだ。生き物も刀も、どこか落ち着かなくなる」
     笑いを噛み殺すようにしながら、鶯丸は急須に新しい湯を入れていた。大包平は鶯丸の笑いが気になって仕方ないが、春はそういうものなのだと聞かされて、一応納得することにした。
    「なるほど。ならば、お前が気になって仕方ないのも道理か」
     ひとりごとのつもりだった。ちょうど急須に蓋をした鶯丸は、目を丸くしていた。
    「……なんだ」
     以前もこんなやりとりをした、と頭の隅で考えながら、大包平は顔をしかめた。鶯丸はぱちぱちと瞬きした後、小さな声で「これはこれは」とこぼした。
     窓の向こうから、短刀たちのはしゃぐ声がする。大包平が億劫に感じた土のぬかるみも、彼らには格好の遊び道具なのだろう。連日の雨で外に出られなかったから、皆思う存分走り回りたくて仕方ないのだ。
    「……茶は良いのか」
     しばらくその声を聞いていた大包平は、鶯丸が急須に手を伸ばさないことが気になって声をかけた。その声に鶯丸は気が付いたように顔を上げたが、急須ではなく大包平の顔をじっと見詰めた。
    「大丈夫か?」
     大包平がそう声をかけてやっと、鶯丸は「ああ」と応えた。そうして急須に手を伸ばしたが、先程とは違って、左手で取っ手を握り、右手で蓋を押さえる妙にかしこまった持ち方をするので、大包平もつられるように背筋を伸ばした。
     緩やかな風に庭の木々が葉を震わせる音と、鶯丸が茶を淹れる音が、ふたりの間の沈黙を満たしていた。美しい所作で茶を淹れる鶯丸は、急須の中身を均等に湯呑みに分けるうちに、いつもの調子を取り戻したらしい。
    「春だからな、俺も落ち着かない」
     やはりかしこまった所作で湯呑みを差し出すので、大包平も恭しく両手でそれを受け取った。
    「そういうものか」
    「そういうものだ」
     鶯丸は短く応えると、口をつぐむように自分の湯呑みを煽った。その一連の動きも妙に丁寧なことを見届けた後、大包平は手の中の湯呑みに目を落とした。急須と同じく柔らかい色の湯呑みには、明るい場所で見る鶯丸の目とよく似た色の水が入っている。
     庭からはやはり、甘い匂いがする。雨に濡れた植物の芳しさと、日を浴びた土の暖かい匂いが。
     それに混じる煎茶の香りと、いつもと違う鶯丸の様子に、これが春なのだ、と得心した気になって、大包平もいつもより丁寧な所作で湯呑みを口に運んだ。
    春雷至れり


     空が機嫌悪そうに唸り出した。その唸り声に、庭に出ていた者たちはおもむろに屋根の下へと避難した。しばらくすれば雨が降り出した。
    「鉄に落ちやすいと聞いてから、みんな速くなったよねぇ......避難のことだけど」
     まぁこの身体は鉄ではないけれどね、と薄暗い庭を見ながらにっかり青江がこぼした。傍にいた宗三左文字は、その緩い笑みを浮かべた横顔を一瞥した後、同じように庭に視線を向けた。
    「この身体だからこそ、落ちたら大怪我かもしれませんよ」
    「ああ、それはそうかも」
     ふたりは声も表情も平坦で、端から見ていると特別面白そうにしているようには見えない。しかし庭から目を逸らさずに、雨垂れが落ちてくるのを眺めている。会話なんてそんなものかもしれない、と思いながら大包平はふたりの傍を通り過ぎた。
     暖かくなるにつれて日も長くなったが、雨が降れば室内は夕闇に飲まれたように暗くなった。しかしこの暗さは日の入り時や、また夜明け前のものとは違う、どこか重い影だった。こうした感触じみた思索は風が吹いてくるように沸いてはすぐ過ぎ去っていった。だから大包平は特に考え込むことなく薄暗い廊下を行く。一瞬窓の向こうが明るくなったが、雷はまだ遠いらしい。光と音に相当な差がある。
     部屋に辿り着くと、見慣れた顔がいつもの微笑を浮かべて待っていた。
    「やはり内番は中断されたか」
    「見ての通りの天気だからな」
    「そうか。まぁ、しばらくすればやむだろう」
     茶でも飲んでいるかと思ったのだが、座卓には何も載っていなかった。それに思わず怪訝な顔をした大包平が問う前に、鶯丸が口を開いた。
    「なに、雨の音を聞いていたんだ。中々楽しいものだぞ」
     どうにも大包平には理解できなさそうな楽しみだが、大包平とて鶯丸と口喧嘩がしたいわけではない。その言葉に適当に相づちを打ち、鶯丸の座る隣に胡座をかくと、当の鶯丸は行儀悪く横になった。その視線の先には、先ほど大包平が入ってきた障子戸がある。その向こうは雨で薄暗く、時折明るくなっては低い音が這うように響いてくる。音と光は随分近くなっていた。
    「″虫出しの雷″というやつかな」
     鶯丸のひとりごとを、大包平も内心頷きながら聞いた。春が来たばかりの頃の雷は、土中の虫を驚かせて這い出させるという。長く付喪神として在るうちに覚えていたことのひとつだが、実際に人の身を得ると、昔とは違う感慨が沸いてくる。雷の音がここまで腹の底を揺さぶるものだと、刀の頃は知らなかった。
     雨音は激しくなり、いよいよ雷は近くなった。明かりもつけていない暗い室内の中、その稲光に照らされた鶯丸の目が、ちらりと大包平を窺った。
    「こんなに重たい影の下では、雷に揺さぶられても動けないな」
     作り物めいた平坦な声なのに、大包平を見上げる目は細められて、明かりの足りない部屋のなかでも艶かしく映った。床に無造作に投げ出されていた手が、大包平の膝に触れた。
     雨はやはり激しく屋根を打っている。雷はまだその機嫌を直そうとしない。少しくらいの物音なら、それらに隠れてこの部屋の中だけでしか響かないだろう。
     膝に添えられたままの鶯丸の手を掬い上げると、今度は手首の内側を指先でなぞり出した。誘われるように、その手を床に縫い止めながら、大包平は鶯丸に覆い被さる。
     また稲光が走った。その中で、鶯丸の目も一瞬強い光を返した。すぐに下りてきた轟音の中、その目を見つめたままの大包平は、この雷に揺さぶられている自分の腹の底にあるのが何なのかをまだ知らない。
    百花の王


    花開花落二十日
    一城之人皆若狂
    (白居易『牡丹芳』より)

     長く暮らしている相手とは、その些細な習慣や動きの癖などを意識せずとも覚えてしまうものである。鶯丸もこの本丸に顕現して二年、共に暮らす刀たちの足音を覚えてしまった。そうして今、廊下を渡ってくる音はまだ聞き慣れない音ではあるのだが、鶯丸にとっては長い間待ち焦がれた音であり、すぐに覚えてしまった音である。
    「鶯丸」
     戸を開くと同時にかけられた声に、鶯丸はほんの少しいつもより笑みを深くした。予想した通り、大包平がやって来たからだ。
     しかし顕現したばかりの大包平は、まだ鶯丸の些細な表情の変化には気がつくほどではないらしい。ただ鶯丸が床に広げた小さな札たちに目を留めて「何だそれは」と眉をひそめた。
    「これか。花札だ」
     結構良い物だぞ、と続ける間に大包平は鶯丸の隣に腰を下ろした。その際、肩から下げられた具足がカタ、と音をたてた。
    「ひとりで花札遊びか?」
    「いや、眺めているだけだ。お前も見れば分かる」
     鶯丸が差し出した札を覗き込んだ大包平は目を丸くした。六月の札の、今が盛りと赤く咲き誇る牡丹の上を飛ぶ蝶たちが、本当に羽ばたいていたからである。よく見ると、大振りの牡丹もまるで空気の流れるのに身を任せるように緩く動いている。
    「――付喪神がいるのか」
    「ああ、そうらしい。もっとも、姿を現してくれたことはないのだが」
     大包平は小さく息を吐いた。小さな紙の上で鮮やかな絵が動くのは見慣れぬものであったが、その絵と分かる絵の蝶の惑い方、花の揺れる動きが真に迫っていたため、感心したのだ。
    「こういうのもある」
     次に差し出した札は二月の札で、梅に一羽のウグイスが留まっていた。大包平が見つめる中で、画中のウグイスは「ほう、ほけきょ」と鳴いてみせた。
    「見事なものだな」
     大包平が素直に誉め言葉を口にすると、ウグイスは枝を離れ、枠の外へと飛んでいった。「何!?」と札を睨み付ける大包平の顔が面白くて、鶯丸は「ウグイスは引っ込み思案でな」と笑う。
     床に広げられた札はそれぞれ、皆思い思いに動いているようだった。幕をはためかす風に散る桜。赤い空に煌々と照る満月。天に嘴を上げながら脚を持ち上げる鶴。菊に注ごうとてか水面を震わす盃。神々しい鳳凰の羽ばたきに枝先をしならせる桐。雨に揺れる柳と袖。降ってくる紅葉に頭を振る鹿。萩の根元に鼻をすり寄せる猪。それぞれの短冊も風にたなびき、役のない札も、そこに描かれたものを遊ばせていた。
     大包平はそこから、最初に鶯丸が見せた牡丹に蝶の札を取って眺めた。やはり蝶には思うところあるらしい。牡丹に留まっては羽ばたく様を見て、口の端を持ち上げた。それを見落とさなかった鶯丸は、口を開く。
    「――花開き花落ちる二十日、一城の人皆狂える若し」
     詠い上げる声に大包平が顔を向けるのと、鶯丸が右手の親指を大包平の唇に押し付けるのはほぼ同時だった。そのまま、肉の柔らかさを確かめるように唇を押した後、一筋横へ撫でて離れた。
    「百花の王とはさすがだな。この本丸の近くにも、牡丹の咲くところがあるぞ」
     まだ季節ではないが、と付け加える鶯丸は、自分の手の、先程まで大包平の唇に触れていた親指を人差指とすり合わせるのを見ていた。鶯丸の突飛な行動に大包平は黙り込んだが、理由を訊ねても「細かいことは気にするな」と応えられるのが分かるようで、溜め息を吐くだけに留めた。
    「いつ咲くんだ」
    「夏前、というか春の終わりだな」
    「そうか。ではそのとき案内してもらおう」
     鶯丸が珍しく目を丸くした。大包平は床に散らされた花札を集め出した。律儀に季節を揃えて、組としている。
    「何だ、花見の誘いじゃないのか」
     すべて札を揃え終えた大包平に、鶯丸は「気の早い話だ」と言いながら箱を渡す。大包平の大きな手が、一月の札が一番上になるよう札を入れた。
    「いいだろ? 俺はまだ、ここの冬しか知らんからな」
     大包平は蓋をした箱を鶯丸の手に預けると、思い出したように瞬きした。
    「そうだ、お前を呼びにきたのだ。午後に、一期一振と交代で遠征に行けないか、と。お前は今日は非番だったが、また埋め合わせはすると言っていたぞ」
    「……ああ、構わん」
    「そうか、ではそう返事をしてこよう」
     しかしこの俺を使い走りにするとは、と小言を言いながら立ち上がる大包平の上着の裾を、鶯丸は軽く引っ張った。
    「構わない。花見の案内も」
     じっと大包平を見上げてそう付け足す鶯丸に、大包平は珍しくつり上がった眉を緩めて笑った。
    「楽しみにしておこう」
     その返事に鶯丸が手を放すと、いつもの顔に戻って「ほら、準備をしておけ」と言い残し、大包平は去っていった。遠ざかっていく足音を、鶯丸は座ったまま聞いている。
     そのときだった。
     ――ほう、ほけきょ。
     手の中の箱からくぐもった声でウグイスが鳴いた。大包平から隠れたあの絵が戻ったのだろう。
     鶯丸は手の中にじっと目を落とした後、ふ、と笑った。そのまま立ち上がり、箱をいつもの棚に仕舞うと、着替えるために箪笥を開ける。その口許は、微笑みながら小声で詠っている。
    「――戯蝶雙舞して看る人久しく、残鶯一声して春日長し」
     かくも美しい歌が、世の中にはあること。それに詠われる様も絵のように美しい。
     ――きっと、百花の王を背に立つ大包平もさぞ絵になることだろう。
     三度目の春だが、初めて来る春だ。それを思って、鶯丸は甘く目を細めた。
    夜啼鶯


     ――音楽をやってくれ、音楽を。小さいうつくしい金のことりよ。うたってくれ。まあうたってくれ。おまえには、こがねもやった。宝石もあたえた。わたしのうわぐつすら、くびのまわりに、かけてやったではないか。さあ、うたってくれ。うたってくれ。

     一期一振が弟たちにせがまれて物語を読む声は、いつだって特別甘く優しい。昨夜、鶯丸が廊下で聞いたのは緊迫した場面で、その声もどこか切実な焦りを滲ませていたが、それすら弟たちの期待に応えようとする兄の優しさだ。こうした、まるで人間の兄弟のような営みに本丸の中で出会うとき、鶯丸は少しくすぐったい気分になる。
     そのくすぐったさに頬を緩ませながら通り過ぎた廊下を、鶯丸はまたひとりで歩いている。戸の向こうからは眠りの気配がする。物語は何時間も前に終わり、刀たちは人間のように眠りにつき、そうして今は、仄かに青い朝が夜を追い出そうと刀たちの庭に忍び寄り始めたばかりなのだ。
     窓の外では、小さな鳥たちがまばらに歌い出した。鶯丸はなるべく音をたてないように、目的地へと足を進める。
     昨日の物語は五虎退が選んできたのだろうか。彼はああいう優しい物語を好みそうだ、と鶯丸は意識して何か考えるようにする。庭の桜も散り出したが、まだ夜の終わりの廊下は冷たい。何かを考えていないと、冷えていく爪先の感覚に引きずり込まれてしまう。
     あの話を鶯丸が読んだのは、何がきっかけだっただろうか。よく覚えていないが、きっと鶴丸国永あたりが面白がって持ってきたのだろう。ナイチンゲール。小夜啼鳥。夜鳴きうぐいす。君の仲間だぞ、と小造りな顔をくしゃっと笑顔で歪ませて。
     そんなことを考えるうちに目的地に着き、鶯丸は冷えきった足を止めた。部屋の戸の横に表示された、手入れにかかる残り時間は零になっていた。その戸を音をたてないように滑らせて、鶯丸は室内の様子を窺う。暗い部屋の中で横になっている男は、まだ安らかに眠っているらしかった。
     後ろ手に戸を閉めながら、厚い胸がほんのわずかに上下しているのを認めて、鶯丸も小さく息を吐いた。ちゃんと生きている。当たり前だが、確かめてやっと安心した。
     摺り足で畳の上を移動して、その胸の横に膝をつくと、鶯丸は彼の赤い髪を恐る恐る撫で上げた。いつもつり上がった眉が緩み、鋭い視線が目蓋に遮られているのは、意外なほどあどけなく見えた。そのまま形の良い額に手を押し当てると、柔らかに熱が伝わってきた。もう怪我による発熱も治まったのだろう。鶯丸はしばらく、その寝顔をじっと見つめていたが、ふと引っ張られるように彼の胸に耳をつけた。心臓の動く音も人間に似ていた。
     死はいつだって、傍らにあるのだ。さらに戦をしているのであれば、死の長い腕に突然捕らえられることもある。これは人間も刀も変わらない。王であっても宝刀であっても、いつかは捕まる。大包平は昨日は運良く、その腕から間一髪、逃れることができたのだ。
     大包平の胸からは、心臓の動く音と、呼吸の音が聞こえていた。生きている音だった。それを聞きながら、鶯丸はぼんやりと戸の向こうが明るくなっていくのを見ていた。
     どれほどそうしていたのか、鶯丸の耳の下で、深く息を吸う音が聞こえたと思うと、またさらに長く吐き出す音が聞こえた。掠れた低い声が「重い」とだけ言った。不機嫌そうな声だった。
     鶯丸は戸の向こうを見たまま、口の端を持ち上げた。そうしてゆるゆると頭を持ち上げると、眉根を寄せた大包平がじっと鶯丸を睨み付けていた。
    「怪我人に頭を載せるな」
    「良い枕かと思ったんだが、ちょっとうるさかったな」
     鶯丸の軽口に、大包平は舌打ちをした。それに鶯丸が笑うので、大包平は不機嫌そうな顔のまま彼の頬に手を伸ばした。
     親指が肌の感触を確かめるように、緑の目の下を優しく撫でた。朝の仄青い光に、鶯丸の肌は磨かれた象牙のような艶を返していた。
    「帰ったぞ」
     象牙の肌から手を離さず、大包平が静かに言った。鶯丸はそれに、眩しいものを見るかのように目を細めるだけだった。
    「では部屋に戻るとするか」
    「お前は何をしに来たんだ」
     俺ひとりでも戻れるぞ、と大包平が呆れた顔をするのに鶯丸がまた笑った。そうして、頬に添えられたままの大きな手に一度頬擦りすると、立ち上がるために姿勢を正した。つられて大包平も体を起こした。
     そろそろ朝食の準備を始める者が起きてくる頃だろう。最早夜は過ぎ去り、新しい一日が始まろうとしている。
    「小夜啼鳥は夜を終わらせるために歌いに来たようなものだからな」
     鶯丸がそうこぼしたのに、大包平は怪訝な顔をした。その無言の追及には応えず、鶯丸は晴れやかな笑顔で大包平に言った。
    「さぁ、大包平、皆におはようを言いに行こう」


     ――わたくしは、陛下のおかんむりよりは、もっと陛下のお心がすきでございます。



    (作中の引用はすべて青空文庫のH.C.アンデルセン『小夜啼鳥』より)
    寝覚めの先


     付喪神も夢を見るという。

    「夢かぁ。そうだね、いつだったか、こんな夢を見たよ。その夢では、僕は弟とどこかの家に住んでいるのだけれど、僕は自分の名前を言えなかったんだ。というのも、僕には与えられた名前が多すぎて、どれを言えばいいのか分からなかったんだよね。そして同じように、弟の名前も口に出せない。そんな僕に、弟はいつも呆れて溜め息を吐く。そして『毎日表札を確かめて覚えてくれ』なんて言うんだ。僕も『そうだね』なんて応える。そうやって穏やかに暮らしていたと思うのだけれど、ある日、子どもがやって来るんだ。その子どもと話していると、その子は赤い目で僕をじっと見つめてこう言う。『あなたには、ほんとうにおとうとがいるのですか』ってね。僕は背筋が冷たくなって、表札を確かめに行く。するとそこにはひとり分の名前しか書いてないんだ。茫然とする僕に、子どもが言う。『なまえがないものは、ほんとうにいるのですか』――そこで目が覚めたんだ」
     ただの夢だよ、と言いながら彼は窓の外に目をやった。その視線の先では、庭の木が春らしい、柔らかい緑の葉を揺らしていた。

    「夢、ですか。そうですな、弟たちから、いろいろと聞くことがあります。秋田は、見たこともない野原で遊んだ夢。包丁は好きなだけ菓子を食べる夢。博多なんかは、一攫千金で大金持ちになった夢。厚や薬研、後藤なんかは、夢でも戦をしているようですな。ええ、皆それぞれ、思い思いの夢を見ているようです。五虎退は時々、怖い夢を見たと言って、私の部屋に来ることもあります。そうして私と一緒に眠るのですが、そういうときは夢を見ることなく朝になっていると言います。……え? 私の夢、ですか? ああ、いえ。……私の見る夢は、いつも、炎が――」
     そこで言葉を切った彼は、どこか遠いものを見る眼差しになった。その目には、夕焼けの赤い空が映っていた。

    「夢かい? そうだな、こんな夢を見たことがあるぜ。俺は暗い室内にいる。なぜ室内かと思うかって、ぼんやりと暗い天井が見えるからだ。そうしてじっと天井を見ているうちに、ふと『いやに近くないか?』と疑問を持つ。それで、俺は天井に向けて手を伸ばしてみるんだが、腕を伸ばしきる前にその天井に触れてしまう。そこで俺は合点する。俺がいるのは室内ではなく、棺桶だ。俺が天井だと思っていたのは棺桶の蓋だ。それに気付いて振り向くと、そこには主が剥き出しの歯を見せて笑っている。俺はどうしてだか、そのことにとてつもなく安心してしまって、主の細くなりすぎた白い腕に頬擦りするのさ」
     そうして次に目を開けたらここの天井だ、と彼は白い歯を見せて笑った。真っ白な肌に、口から覗く舌がやけに赤かった。

    「それで、お前はどうなんだ」
     大包平が訊ねてくるのに、鶯丸は瞬きした。夢について訊ねまわったときのことを話していたのは自分だが、こうして訊ねられたのは初めてだった。なぜ今まで訊かれなかったのだろう、と不思議に思ったが、目の前では胡座を組んだ大包平が鶯丸をじっと見詰めている。返事を待っているらしい。
    「俺か。俺は、そうだなぁ……」
     外ではさあさあと柔らかい雨が降っている。取り込み忘れた洗濯物に大騒ぎする膝丸と今剣の声も聞こえる。どうやら、粟田口の短刀たちも手助けを始めたようだ。
    「俺はなぜだか、夢を見たときはいつも夜中に目が覚めるんだ。今見ていたのが夢だったのか、現実だったのか分からないまま、ぼんやりしているうちにまた寝てしまう」
     そうして笑う鶯丸に、大包平は呆れた顔をした。間抜けだとでも思っているのだろう。
    「こう言ってみると、蝶か鯉にでもなっていそうな話だが、俺が見ていた夢では、俺は俺のままだ。大概は今のように、部屋に座っている。そうしていつも、俺の目の前には、お前がいる」
     大包平が呆れを引っ込めて、もう一度唇を引き結んだ。ふたりが向き合って話している部屋の前の廊下を、足音がぱたぱたと過ぎていった。話し声からして、髭切と一期一振だろう。障子に透けた影はどうやら、洗濯物を抱えているらしい。その後を、鶴丸国永が何やら声をあげながら急ぎ足で追っていった。鶯丸と大包平は自分たちの会話に夢中で、何を言っているのかまでは分からなかった。
    「話しているのは、これまでのことだ。だが、毎回違う内容だったように思う。もしかしたら、同じことを話したときもあったのかもしれないが。しかし、話す相手は決まってお前だ。この部屋に、俺とお前がふたり。そこで俺はお前に話をしている。話して、話して、話して、そうして気が付けば、目が覚める。目を覚ました先もこの部屋で、俺はひとり、真夜中の天井を見上げている。幾つの夜をそうやって目を覚ましたのか、もう数なんて覚えていないが、俺が見ていた夢はいつも同じだ。お前が俺の傍にいる――ずっと、そんな夢を見ていた」
     目を伏せた鶯丸に、大包平はぴくりと眉を動かすと、どこか尊大な仕草で右手を伸ばした。その指先は鶯丸の頬を確かめるように一撫でした。頬を滑る甘い動きに思わず視線を上げた鶯丸が、鋼色の瞳を捉えた瞬間、大包平はその滑らかな肌を摘まんで捻ってやった。
     鶯丸は事態を飲み込めない顔で、目をぱちぱちさせながら、一言「いひゃい」と漏らした。その様子に、大包平は満足気に鼻を鳴らして笑った。
     外ではやはり、柔らかな雨音がする。ここで暮らす刀たちは、それに笑ったり、不満を漏らしたり、思い思いに過ごしている。鶯丸は痺れとして頬に残った痛みを感じながら、得意気な顔をする大包平に目を細めた。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2023/06/09 0:28:15

    骨の形、他

    大鶯、すべて本丸での話です。
    移し忘れていることに気付いておらず探しても見つからないのでびっくりしました。

    表紙は装丁カフェさん(https://pirirara.com/)で作成しました。

    #大鶯 ##大鶯

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