ただ、願う『どうして、父さんと話さないの』
今よりもうんと幼い頃の話だ。
昼を少しばかり過ぎた時分だったと思う。
普段はやれ家庭教師の授業だ。勉強だ。社会勉強だ、と忙しい長兄とふたりきりになるときが不意にあって、無邪気にもそう、長兄に尋ねたことがあった。
どうして、父と長兄は必要以上に顏を合わせようとしないのか。
どうして、父と長兄は言葉をかわさないのか。
どうして、父が連れて回るのは跡継ぎである長兄でなく、次兄だったのか。
難しい話は、まだわからない齢だった。
それでも、幼心に覚えた違和感は、たまたま家庭教師が体調を崩して時間が空いたのだと言う兄との久方ぶりの邂逅に、いとも容易く口から零れ出した――零れてしまった。
もしかしたら、使用人が時折声をひそめて話していたのを、耳にしたことがきっかけのひとつだったかもしれない。
跡継ぎは、長兄ではなく次兄になるのではないか。
父さんと長兄は折り合いが悪い。もしかしたら、血のつながりがなかったりして、なんて。事実無根も甚だしい。ひどい噂話だ。使用人の風上にも置けない。
でも、あの頃の自分はそんなこと思いはしなくて。みんな、やっぱり兄さんと父さんが話さない理由が気になるんだ。同じなんだ。と、どこか軽い足取りで広い屋敷を駆け抜けて、自室のベッドにダイブすることしかしなかった。
『ねぇ、どうして?』
わずかに掴んだ服の裾を引き、幼い自分が重ねて問う。
あの頃は、ただ純粋に気になったから、口にした。そんな風にしか考えていなかったけれど。なんて残酷な問いかけをしたのだと、いまならわかる。
けれど、長兄は怒るわけでもなく。悲しい顔を浮かべるでもなく。ただ、お道化るように肩を竦めて、そうだね、と。そのキレイなルビー色の目を細めた。
『父さんが――母さんを愛していた証拠、なのかな』
自分よりもほんの少し大きな手に頭を撫でられて、瞬く。
どうして。なんで。それが、父さんと母さんの話になるの。兄さんと父さんの話じゃないの。あのね、みんな不思議に思ってるんだよ。疑問符は浮かぼうとも、続く言葉は不思議と口を開きはしなかった。
きっと、頭を撫でてくれる長兄の手のひらが、暖かくて。それから、随分と大きく感じた所為だ。
言葉を探してくちびるを波打たせた自分に、淡い笑みが落ちる。
そうして、ふっと兄は自分から視線を外して、傍に在った窓を仰いだ。
『レアはまだ、わからないかもしれないけれど』
どこか、遠くを見据えた兄が目を細める。
一拍。伸ばした腕の先に在る兄が、息を吸い、吐き出して。それからまた、こちらを映した眸は、なんだかとても澄んで見えた。
『――お前もきっと、わかる時がやってくるよ』
睫毛を震う。
腕に痺れを感じて指先をやんわりと握り込めば、鈍い感触が皮膚に触れた。
反射的に腕を引き抜こうとして、止める。
微かな布擦れの音が、傍らにある気配を鮮明に変えて。すっかり感覚のなくなった指をシーツに落とした。
ああ、そうだ。
昨日は、こっちに泊ったんだっけ。
数日前与えられた別邸は、まだ肌馴染みが薄い。
絡ませた睫毛を解き、目蓋を開く。カーテンの裾から零れた光に目が眩んだ。瞬きを数度。緩慢に施してから、ようやっと慣れた視界に欠伸をひとつ。わずかばかり濡れた視界を最後に一度、目を閉じ開いて崩す。
随分と、懐かしい夢を見た。
きっと無邪気に、残酷な問いかけをしてしまったことを、自分はいまでも悔やんでいるからだろう。
いまさら、謝れもしない。多分。兄も謝罪を受け取るつもりはないだろう。いや、困ると行った方が正しいか。
聞くべきじゃなかった。あんなこと、言うべきじゃなかった。
兄が自分を責めることはなかったけれど。いまなら、わかる。あれは、兄を刺し殺すのと同義の問いだった。
深く、深く。息を吸う。
膨らませた肺の底が、ちりりと痛んで、それを合図にゆっくりと吐息を吹いた。
鮮明に変わった景色の中。浮かぶ寝室は、やっぱり少し居慣れない。
その中に唯一見慣れた深い藍色を見つけて手を伸ばす。
「ん、んん……」
ひとふさ指先で掬い、撫で梳けば、微かな唸り声が聞こえ、目を細めた。
ごめんごめん。心の内で頭を下げて身じろぐ彼女の背に腕を回す。
腰を取り、引き寄せると抵抗なく肩口に埋められた額がふわりと淡い花の香りを鼻腔へ運んで、誘われるままくちびるを額に落とした。
――お前もきっと、わかる時がやってくるよ。
あの時、告げられた言葉を鮮明に覚えている。
父が、兄を避け続ける理由。兄が、積極的に父と関わろうとしない理由。
それが、父が母を愛していた証拠なのだと、教えてくれた兄の目はひどく澄んでいて。どれだけ記憶の底を辿ろうとも、悲しみの色はどこにも見られなかった。
「あのね、兄さん」
腕の内に抱え込んだ恋人と、心音を重ね合わせる。
小さくあがっていた訴えるような呻き声は、やがて健やかな寝息に形を変えて。じんわりと伝う体温に目を細めた。
「おれも、少しくらいはわかるようになったよ」
大人と言えるほどの年齢では、まだないけども。もう、意味もわからぬままに問うほど、幼くもない。
誰かを愛する。その、意味も彼女に逢って知ることができた。
そうして、あの日。兄がそう語ってくれた理由だって。
「だから」
うつらうつらと船をこぐ目蓋を閉ざす。
脳裏に浮かぶ兄の姿が、困ったように眉を下げて。それからやっぱり、お道化たように肩を竦めた。
――ああ、そうだ。あの人は、いつも、そう。
悲しい顔を見せない代わりに、兄はいつだってお道化た調子で言葉を回す。そうやって、自分自身を形作ろうとする。
厄介なのは、それがすっかり身に染みついていること。誰も、気づこうとしないこと。
それは、決して悲しいことではないけれど。寂しいと思ってしまうのは、いつだって長兄として自分たちを見守ってくれていることを、知っているから。みんなが自由に生きるために、いろんなものを抱えてくれていることを、わかっているから。
「兄さんも、素直になれば、いいのに」
素直に、なってくれればいい。素直に口にしてほしい。
どの口が言うんだと、笑われてしまいそうだけど。
まっすぐと、窓の外――遥か、遠くを見つめていた赤い瞳を覚えている。
ひどく澄んだその色は、当然のように悲しみの色なんて帯びていなかったけれど。その奥の奥。飲み込んだ言葉と一緒に、一滴だけ。宿された感情に、いまなら気づけるから。
「――できるなら、あの人も、一緒に」
言葉の尻が、ほころぶ。
瞼裏に浮かぶふたりの姿は、小さなころから変わりない。
素直じゃない人たち。向き合うことが、うまくできないふたり。
だからこそ、幸せになってほしいと誰より願う。
もうずっと前から、告げられた想いをくみ取っていた人だって、他でもない。あの日、伝えられた自分は知ってしまったから。でも――
「たぶん、みんなそう思ってるよ」
大きなあくびをひとつ広げれば、小さな雫が頬を滑った。
触れ合う体温を確かめるように一度だけ、閉じ込めた肢体を強く抱きしめる。
あがる訴えには、やっぱり口だけの謝罪を渡して。なじむ体温に溶け込むみたいにゆっくりと微睡みへと足を沈めた。