雨降る日 雨の日は、どうにも昔を思い出してままならない。
自分が、自分であるのか。薄暗い世界に紛れてその輪郭が曖昧になる気がする。
──馬鹿馬鹿しい。
濡れた指先でひとすじ、結露したガラスに痕を残す。
窓に打ち付ける雨を見遣って、深々とした息を解いた。
背に触れる陶器が打ち合う音に耳を澄ませ、掛けられるだろう声を待つ。
さほど間も無く紡がれる名に応え振り向けば、ふわりと鼻腔を擽る香りが頬を緩めた。
ほんの少し軽くなった胸を膨らませる。お茶が入りましたよ。そう続けて言う声は、雨の日も晴れの日も変わらない。聞き慣れた穏やかな声だ。ふたつ返事で頷き、雨空に背を向ける。しきりに窓を叩く雨粒がまるでこちらの背を引くように響いていたけれど、聞き流すことには慣れている。ツキリと痛む頭には知らぬフリを決め込んで、テーブルに並べられた焼き菓子へと声を弾ませた。
そう。昔から雨は、どうにも好きになれなかった。
否、あの時から、嫌いになったというほうがきっと正しい。
幼い頃は、好きだったのだ。
雨が――というよりは、雨音が。窓を打つ、あの旋律が。
楽しげに弾んで、鼓膜を震わせる。細やかな旋律が。それに合わせて、ひとり部屋で踊ってみせることが。
窮屈な屋敷で、数少ない楽しみのひとつだった。
けれど、まぁ仕方がないことだ。
雨の日は、思い出したくないことを、どうしたって思い出させる。
忘れ去りたいと棚の奥底にしまったはずのものを、いともたやすく引き出そうとする。
雨音が連れてくるのは、楽しげに躍るための旋律ではなく、もう触れたくもない過去ばかり。そんなもの、これっぽっちも望んでやいないのに。まったく。酷い話だ。
「懐かしいですね」
「ふぁひは?」
食んだクッキーを指先で押し込み、首を傾げる。
ソーサーを持ち上げ、カップに指を掛けたソルトはその穏やかなかんばせに似合いの笑みをくちびるに乗せて、つぅっと窓へと視線を向けた。
あなたにはじめて会った日も、こんな天気でした。
そう、なんとなしに続く言葉に目を見張る。その拍子に変なところへ入り込んだ菓子くずに噎せ返れば、慌てて差し出されたティーカップをひったくるようにして煽り飲んだ。
芳醇な香りが鼻腔を擽り、ほのかなぬくもりが喉を流れ落ちる。口端からわずかに零れたものを部屋着の袖口で乱雑に拭いながら対面に座す男を見遣れば、彼は呆れたように肩を竦めては眉を下げた。
唇を尖らせ、粗雑に足を組む。
いつもはすぐに飛んでくる小言も今ばかりは鳴りを潜めているようだった。
それをいいことに行儀悪く頬杖をつき、もうひとつ。焼き菓子を摘まんで宙を仰ぐ。
「……なにさ、珍しい」
「世間話ですよ」
「普段のキミならそんな話はしないよ」
溜息を含ませた言の葉は、存外不貞腐れた音をした。ふっと傍らで笑む気配がいっそう神経を逆なでて、砕くように焼き菓子をひとくち齧る。飛び散ったくずがぼろぼろとテーブルに落ちたけれど、やっぱり今日に限って飛んでくる小言はなかった。
ここがあの家なら、尊大なため息が深々と吐き出され、行儀が悪い。女が足を組むな。頬杖をつくな。背筋を伸ばせ。食べかすを机に散らすなんて言語道断。
そうやって小言を並びたてられるだけならば、まだマシな方。機嫌が悪い日には簡単に手が出る。
きちんと反省するまで食事抜きは当たり前。部屋に閉じ込められることだって日常茶飯事だった。
そのくせ、母は泣きながらこれもあなたのためなのよと言う。あの妾の子に先に生まれただけで本来貴方が居るべき場所を取られないようにするためなのよ。さめざめと扉の向こうで涙を零しては、さも悲劇のヒロイン然としてあの人は歪な筋を通してゆくのだ。
──ああ、もう。また考えてる。
だから、イヤなのだ。忘れたいのに、忘れさせてくれない。
自然と脳裏に浮かぶ感情を断ち切るよう、舌を打つ。
「そうですね。ただ、これほど美しい雨音が響いているというのに、貴方はいつも上の空でしたので」
そんな此方の様子に、彼は気づいているだろうに。分かち合えないのは寂しいでしょう、なんて。続けられる台詞はまったく。いったい何を考えているのやら。
単なる気まぐれか。世間話にしては、いささか話題の選択が悪い。
普段の彼であれば、まず選ぶことのない話題だ。
話したがらないことは、聞かない。持ち出さない。
はじめて出逢った日から、いつまでもそれは変わらないものだと思っていたのに。
そんな彼の優しさに、甘えた罰でもあたっているんだろうか。
「……ただの雨音だ。そんな綺麗なもんじゃない。別に耳触りだと思うやつが居たっておかしくはないだろう?」
苛立ちが胸に湧く。雨音が耳にこびりついてしかたがなかった。
そりゃ、上の空にもなる。
薄暗く寒い屋根裏部屋。小さな窓に打ち付ける雨音ばかりが寄り添ってくれた日々。
母が亡くなり。母が妾と罵る女が正妻の座に収まった日。
変わったようで変わらなかった日常に、唯一光を灯してくれた義姉──その存在に、裏切られたあの日も。
そうして、ざぁざぁと降り注ぐ雨粒に濡れた身体。寒さに凍えて足を引き摺り、行く当てもなく暗い森を彷徨った日だって。雨が降る日のことだった。
思えば、すべては謀られた偶然だったようにも思えるから滑稽だ。
なにもかも、イヤな記憶は雨へと繋がる。
雨音に胸を弾ませていた少女はもう、どこにもいない。だのに──
「けれど、あの雨の日。私は貴方に出逢うことができたので」
あの、雨音に誘われて。貴方を見つけることができたので。貴方と同じ気持ちになれないのは、少し寂しいのですよ。そう、静かに囁かれる言の葉は殊の外傲慢だ。
まったく。神の僕が聞いて呆れる。
心はそう易々と変えられやしない。動かせやしない。
それが、思い出したくもない過去に紐づくならなおのコト。
それでも、この男は変えてほしいと願うのだ。同じ気持ちを持ちたいとのたまうのだ。
神の加護を受けながら。神の声の代弁者でありながら。神に、遣えるものであるというのに。
ただびとのようなことを言う。願う。乞う。
「いつからキミはそんなに傲慢になったんだ?」
「貴方だからですよ」
間髪おかず。さらりと返される言葉は存外悪くない気分だ。
誰にも、優しい人。望まぬ一線を無理に超えようとは、しない人。
そんな男が、いま。酷く傲慢なことを望んでいる。他でもない。私に。私だけに。
気づけば、胸に湧いていたはずの苛立ちはきれいさっぱり拭われていた。
代わりに湧いた形容しがたい想いが心に満ち、耳に巣食っていた雨音が遠ざかる。
ああ、なんて単純なんだろう。他人のことを笑えやしない。
「本当に、変わった奴だなぁキミは」
クックッと喉で笑って、足を組み替える。
残りの焼き菓子をひとくちで頬張れば、苦笑の混じる声が行為を諫めた。
──ああ、やっぱり。彼に叱られるのは、悪くない。
足を組まない。
行儀が悪い。
食べかすを零さない。
散々聞かされた母の小言と同じはずの言葉は、彼が紡ぐとまったく違う音になるから不思議だ。
叱られるのが、イヤじゃない。
身を竦めて。小さく、小さくなって。一挙一動に怯えたりはしない。妙な緊張を覚えたりしない。
いくらか軽くなった胸に息を吹き込む。対面に座した男を見遣ると彼は尚も柔らかな表情を崩さぬままそっと目蓋を下ろして、雨音に耳を傾けているようだった。
倣い、目を閉じる。耳をすませば遠ざかっていた雨音がまた確かな形を持ち、耳朶を叩いた。
「――ありがとう。ソルト」
囁きに等しい声量で紡いだ言葉は、雨音へかき消されていく。
雨粒の打ち付ける窓が雫を滑らせ、幾重も重なった筋はまるで涙を流した痕ようだった。
もうとっくに枯れてしまったもの。
あの日、すべて出し切ってしまったもの。
濡れるはずもないのに、薄っすらと開いた眼が揺らぐ。
心は、簡単に変わらない。
薄れたとて、しこりが消え去ることはない。
それでも、それでもいま、この瞬間。胸が軽くなったのも確かなこと。
真綿でくるまれた世界で、あの日ひとりの少女は救われたときのように。
温もりと優しさを与えられて──居場所をもらって、踏み出す道を少しばかり変えたときのように。
私はまた、雨の降るこの日に、青年に心を変えられてゆくのだ。
「なにか言いましたか?」
「いや、なぁんにも」
陰鬱さの代わりに胸に芽生えたささやかな感情には、蓋をしておく。
肺いっぱいに息を吸い込めば、鼻腔を擽る香りは華やかで。自然と綻ぶ眼に彼を映しては、小首をかしげる姿に機嫌よく笑い声をあげながら、摘まみ上げた焼き菓子をいくらか。景気よく口に放り込んだ。