夢をかたどって南太平洋の島のとある日。太陽がまだ顔を覗かせる前のこと。
「おはようモアナ」
「おはよう」
モアナの朝は早い。人通りの少ない時間から動き出している。今日は特別早い。
「いつも早いね」
モアナに声をかけられ、私は誇らしくなる。今日の彼女は珍しく髪に櫛が通ってないように見えた。それでも、その髪は軽やかに風で揺れる。モアナに合わせて起きるとすぐに挨拶されるのが嬉しい。
「モアナの方が早いと思うけど」
モアナが顔を近づけて私と鼻を合わせた。このとき私はモアナと同じ背丈でよかったと実感する。
「そう?」
モアナは顔を離してクスクスと笑う。彼女はこの島にいる人間で一番の働き者だ。それは島中の誰もが知っている。ときおり、彼女に『休みなさい』と言いたくなることがある。
モアナは船旅でも仮眠をとることはない。彼女はテ・フィティの心を返しに行くという危険な使命を果たした。危険を知っているからこそ、船団のリーダーとして責任を感じているのだろう。だからと言って睡眠不足で彼女の観察眼が衰えてしまうのも彼女にとって困るのではないだろうか。船旅でも命取りとなる。
テ・フィティの旅では半神半人のマウイと2人だけの命がけの旅だった。そのときなら眠れなかったのもわかる。しかし、今は大人数で旅をしているのだ。いつも船旅の夜に眠くなる身としては、いっそ仮眠して誰かと交代したほうがいいと思ってしまう。もう航海術を知らぬ者は誰もいないのだから。
「今日の予定は?」
「今日は染料づくり」
私は昔からタパつくりが日課としている。幸いなことに木版もタパ自体をつくる過程も大好きだ。特に規則的な模様のものを作るとき心が落ち着く。しかし、モアナの物語に使えるようなタパは作ったことがない。
「あっ、そうだったね。一人じゃ大変じゃない?」
寄り合いで話していたことを思い出したのだろう。村長は引っ張りだこだから業務の一つ忘れるのも無理はない。
「材料はお父さんたちが採ってくれたから、あとは煮詰めるだけ。いまは木版の柄探しの旅をしているところ」
私は大げさに何かを探しているようなジェスチャーをしてみせた。ふと海鳥が空を飛んでいる姿が目に入る。
「……そろそろ生き物を描いたものでも作ろうかな」
「楽しみね」
モアナが小さく笑う。
「あ、ちょっといい?」
「ん?」
モアナは私のスカートの裾についてる泥を払った。
「よし、とれた」
モアナの大きな目が私を見据えた。私は自分の胸の鼓動が一瞬止まったような気がした。
「あ、ありがとう。雨降ったもんね」
泥なんて大したことじゃないと思う。私は深呼吸した。モアナは観察したうえですぐに行動に移せる子だ。幼い頃から絵が上手くて、活発で頭のいい子だ。止まったと思った胸の鼓動がいつもより強く脈打つ。彼女は憧れの存在だ。
しかし。最近、自問自答の日々が続く。彼女みたいになることが自分の幸せなのだろうか?自分はモアナみたいにリーダーになれる性格ではない。彼女の行動力や優しさは見習いたいとは思う。でも彼女そのものになりたいとは思ってない。もちろん完全に同じになれないのは自分でもわかりきっている。例えばの話だ。仮にモアナと全く同じ性格になってしまったら、彼女の特別さがわからなくなってしまうような気がする。彼女の良さを彼女が自覚していないように。
「あのね」
モアナが神妙な面持ちで私との距離を詰める。耳元に彼女の吐息がかかり、思わず体がのけぞりそうになる。私は危うくバランスを崩しかけたが、慌てて体を彼女に近づけた。モアナは私が体勢を立て直したことに気づいてなさそうだ。そのことに私は安堵する。モアナが小さく耳打ちした。
「この前、子供たちに踊りを教えてたんだけど……また、あの子が新しい踊りを見せてきたの」
名前をぼかしても話の内容で誰のことかすぐにわかった。
「あー、あの子ね。動きにキレがある」
「どうしたらいいかな?」
「うーんむ……」
いつも私は的確な答えを出せない。
「しばらくしたら落ち着くんじゃない?」
もう少しいい答えがあったと思う。しかし、自分の頭の中では彼女とあの子の気持ちを尊重させる答えがこれしか思いつかなかった。アプローチの仕方は真似できないけど、あの子の気持ちはよくわかる。他の子の踊りを直接邪魔している様子もないし、厳しく注意するのも逆効果に思えてしまう。
「だといいんだけど」
モアナは苦笑いした。私は彼女の表情を見て申し訳ない気持ちになった。
「あれ?」
私はモアナの腰帯に何かついていることに気づいた。飾りだろうか。
「どうかした?」
「その飾り素敵ね」
私は飾りをじっくり眺めようとした。
「飾り?」
モアナはきょとんとした表情を見せた。
「えっと、腰帯に付けてるそれ」
モアナは腰帯のほうを見下ろして、私の方を見た。
「えっ、あ、うん、ありがとう!」
ずいぶんと大きな羽だ。淡い色と黒が混じっている。この島で見かける海鳥だろうか。それにしてもこの島では見たことのないような……でも、どこかで見覚えがあるような気もする。もしかしたらモトゥヌイで昔見たのかもしれない。
「もう……」
モアナが小さく溜息をついた。私はふと嫌な予感がよぎった。
「もしかして、鳥に襲われた?」
思わず私はモアナに詰め寄った。
「ち、違うの!大丈夫、これは拾っただけ」
モアナが語気を強めたことで却って疑念が生まれる。しかし、この様子だと詳しく尋ねても答えないだろう。
「それならいいんだけど」
私は一息ついて、モアナに別のことを尋ねた。
「どんな鳥だった?」
「あー、うん……」
モアナが言い淀む。羽を拾ったと言っていたし、彼女も羽の持ち主は見てないのかもしれない。
「あ、見てないなら大丈夫。模様の参考になるかなって」
私はすぐに質問を撤回した。模様の参考は嘘ではない。それに……。
「羽も大きいから、きっと大きな鳥だね」
私はモアナが鳥に襲われた可能性を捨てきれずにいた。
数日後。夕食を終えたころ。
「うーん、見つからない……」
私は暇な時間を探しては、目的の鳥を探していた。島の至る所を歩き続けた。流石に別の島へ飛び去っただろうか。でも、自分の想像が現実で、その鳥が再びこの島にやってきたら。もしくはまだこの島に留まってたら。嫌な想像は膨らむばかりだ。そのうえ鳥に対して何も手立てを考えてない。
「いや、考えすぎかもなぁ……」
本当に拾っただけかもしれない。
「そろそろ日も沈……」
そのとき。空に高い声が響いた。私は慌てて見上げる。しかしすでに声の主の姿はなかった。その高い声が島の一番高い山の方へと遠ざかっていく。
「あっ、待っ……」
私は慌てて山の方へと走る。険しく荒れた山だ。あまり活発でない自分には厳しい道のりだ。
息を切らして山頂にたどり着く。そこには予想した通り、巨大な鳥が山に降り立とうとしている。鳥は明らかに村人たちより大きい。あんなに大きな鳥を見たのは初めてだ。しかし、それよりも信じがたい光景があった。
「え?」
私は自分の目を疑った。もう一つの後ろ姿に見覚えがある。
「……モアナ?」
巨鳥は頂に降りて、モアナに近づいていく。モアナの表情はわからない。私は思わず叫びそうになった。しかし、彼女は鳥の顎や頰を両手でわしゃわしゃと撫でた。鳥も慣れきったかのように目を細めては何度か鳴き声をあげた。とても野生の鳥とは思えない姿だ。だけど島にいて彼女が隠れて鳥を育てていた話は一度も聞いたことがなかった。私は目を離さないようにしつつも、地面に置いてある太い木の枝を手に取った。
そのときだ。私の視界は青白い閃光で一瞬真っ白になった。
「!?」
私は驚いて瞬きが止まらなかった。次第に自分の視界が明瞭に戻っていく。元に戻った視界には巨大な男性がモアナに話しかけている様子があった。何を話しているかはわからない。しかし、男性に対し、彼女は羽を見せて不機嫌そうな横顔を見せている。男性の横顔が私の目に映る。前代村長よりもいかつい顔つきをしているように見える。彼は大げさに首を傾げ、ニヤついた笑みをみせた。直後彼はモアナに耳を引っ張られていた。不機嫌そうだったり意地悪そうな笑みを浮かべたりと彼女はいつにも増して表情豊かだ。私は口を開けたまま、山を降りていく。男性の体に隙間なく入ったタトゥー、彼の肩に掲げた巨大な釣り針。
「なんで気づかなかったんだろ……」
鳥の正体は、モトゥヌイ出身の者たちの最初の新天地を導いてくれた半神半人だったのだ。
「ここに来てたんだ……」
私は山のふもとまで降りた。自分の目が信じられない。夢を見たような気分だ。私は改めて山頂を見上げる。頭の中にさっきのモアナの表情が浮かぶ。村人に見せたことのないような『彼』に対する表情。
「……たぶん夢だな」
そういったとたん、鳥の羽ばたく音が聞こえる。飛び立った鳥の姿を確認する気にはなれなかった。流石に『彼』のようにはなれない。わかっているのに『彼』になれたらと痛切に思った。別世界の存在のような『彼』が羨ましくなる日が来るなんて思わなかった。明日あの勇ましい半神半人の姿を描いた木版をつくる予定を思い出し、私はうなだれた。