追想時が経つのは早いと人間は言う。いつの時代でも。ことさら半神半人のマウイは人間より遥かに長い寿命を持っている。神の力を授かり人間たちの助けをしてきた期間。島に閉じ込められた千年間。彼からしてみたら人間の寿命なんてあっという間に感じていた。何もない島に初めて人間が訪れるあの日までは。
夕焼けを見つめている途中でマウイは耳を澄ました。じゃり、じゃりと砂がこすれ合う音が聞こえてくる。普段から砂浜に訪れる者なら足音だと言うのがわかることだろう。その音は止むどころかマウイに向かって近づいてくる。その音が止むと、歴戦の半神半人は振り向いた。彼が振り向いた先には異様に大きな目をした痩せこけた鶏の姿があった。
「カヌーを持ってたら落とすとこだった」
マウイは不敵な笑みを見せ、今度は別の方向を向く。
「俺に不意打ちは早い」
マウイの視線の先には天高く両腕を広げた少女がいた。チンケな島に閉じ込められて千年、マウイのもとに初めてやってきた人間のモアナだった。
「うーん惜しかった」
モアナは大袈裟に悔しそうな言い方をした。しかし彼女の口元はいまにも笑い出しそうに緩んでいる。
「耳がいいからな」
マウイは息だけ漏らすように笑って鶏へ視線を向けようとした。
「隙あり!」
モアナの腕がマウイの首へと回った。と言っても彼女の腕はギリギリ回るか回らないかといったところだった。
「この英雄の隙をつくとは恐れ入った」
「えいっ」
モアナは両腕をマウイの首に回したまま自分の左右の手を──重ねられなかったので一番長い中指をできる限り触れ合わせた。にもかかわらずマウイはわざとらしい呻き声をあげ始めた。
「ああ!ご勘弁ください!これ以上は……ん?」
マウイの渾身の芝居はモアナの手の甲を見て気が逸れた。思わず彼女の手をつまんで覗き込んだ。前回会ったときはまっさらだった彼女の手の甲は、いまでは美しく細かな墨の装飾が施されていた。
「ねえ?えっと、マウイ?」
モアナはマウイに何回か呼びかけた。
「ああ」
ようやくマウイは自分の名前を聞いたとたんに手を離した。
「思わず見入った」
マウイの言葉にモアナは眉をひそめた。自分の発言が彼女が優先して聞きたい内容じゃないのはマウイにもわかっていた。
「手を掴んだのは謝る」
マウイとモアナには明らかに腕力の差がある。さっきモアナが眉をひそめたのはマウイの手に力がこもっていて簡単に振り解けなかったからだろう。モアナは軽くうなずいて手の甲を再びマウイに差し出した。
「コケッ」
すると、さっきの痩せこけた鶏がやってきた。ただの鶏ではない。『ヘイヘイ』という名前を持つこの鶏は世界を救う二人旅の同行者でもあった。と言ってもそれを知る者はごく限られ、ヘイヘイ自身も名声などに関心がない様子だった。この鶏に名声という概念が理解できるかも怪しかった。ヘイヘイはモアナの膝に体を降ろした。
「ヘイヘイ、これはエサじゃないよ。いい?」
モアナは手の甲を見つめてくるヘイヘイに念を押した。タトゥーの模様をエサと間違えられて啄まれたらひとたまりもない。ヘイヘイが理解できているかは付き合いの長いモアナでさえも判断が難しかった。モアナの心情を理解したかは不明だがヘイヘイは短く鳴き返した。
「これは星の模様、ここには海鳥の模様も……」
モアナは話しながら自身の手の甲にある模様を指差した。彼女は自分の家族や村人ののタトゥーも事細かに参考にしたことを話した。村人の中には『マウイはクジラに変身する』と聞いてクジラのタトゥーを検討する者もいるらしい。
「次の旅が楽しみ」
モアナは星を測る身振りをしてマウイに微笑んだ。さっき悪ふざけしていた無邪気な笑顔より少し落ち着いた顔つきだった。
「自由に入れられるなんて悩むだろうな」
「うん。それに……」
「それに?」
モアナはマウイの促す言葉に対して一瞬困り笑いしたように見えた。
「痛かった」
モアナは顔をできる限りしわくちゃにさせた。生まれたての赤ん坊にも負けないほど険しい顔つきであった。マウイにとっては人間の行うようなタトゥーの痛みと無縁で生きてきたのでモアナの痛みは表情から想像するほかなかった。
「俺もタトゥーが浮かび上がるとき似たようなのはある。痛いのとは違うかもしれないけどさ」
「ほんと?」
モアナは目を丸くした。
「ああ」
マウイもまた新たなタトゥーが浮き上がる前に予兆を感じることがあった。その予兆が人間のタトゥーと同じ痛みなのかはわからない。
「全部?」
モアナはマウイに質問した。どうやら互いに同じ出来事を思い浮かべていたのだろう。
「そう、全部」
それは最初で最後かもしれない二人と一羽の旅の終わりが来たときも同じだった。