学舎にて ユーイン・ウィンバリー。マシュー・ウィンバリーの次男であり、ウエストウェラー軍学校に在籍している。成績優秀かつ勤勉であり教師陣の覚えはめでたく、また極めて整った容姿を持つが、友人は少ない。
「ユーイン!」
名を呼ばれて顔を上げたユーインは、授業の終わった教室を後にするところだった。ペリドットのような緑色の目が西日に輝く。
「……なんだ、ウォルター」
声をかけてきた相手を確認したユーインは興味なさそうに目線を手元に戻しながら返事をする。不満げに頬を膨らませながら近付いてきた少年はウォルター・ブラッドフォードといい、ユーインと同期の学生である。
「テディたちとグラハムの店に行くんだけど、お前も来ないか?」
「行かない」
「なんで。あそこ美味いのに」
「あんな騒がしいところでろくに味なんてわからないだろ、酔っ払いばっかりだし」
つれない反応のユーインを気にしている風もないウォルター。そのウォルターの態度をユーインもまた気にしていない様子だったが、
「付き合い悪いなあ、そんなだから友達が出来ないんだぞ」
「うるさい!」
歯に衣着せないウォルターの発言に癇癪を起こしたように声を荒らげ、鞄を掴むと不機嫌そうな早足でその場を後にした。それを追いかけようとしたウォルターは、来るな!と拒絶され、困ったようにその場に立ち尽くした。
……ずんずんと廊下を進むユーインが向かったのは、校舎の端にあるあまり使われていない教室だった。到着するや無造作に部屋の扉を開けたユーインは、室内に先客がいたことに驚いて足を止めた。ここはいつもユーインが「避難所」として使っている場所で、滅多に人は訪れないのだ。加えてその先客は学生でもなければ教師ですらなく、鋭く鮮烈な青い目の彼……レナードだった。
レナード・フロスト。軍人である。たまにこの学校へ視察に訪れる彼とユーインとは初対面ではない。厳めしい顔つきで礼儀にも厳しいこの士官を苦手とする学生は多かったが、ユーインは元々礼儀正しいたちであったし、そこまで彼に苦手意識はなかった。
「ん? ユーインか。すまない、この部屋を使うのか?」
「え、あ、いえ、その」
腰を上げようとしたレナードを制止しようとして手を持ち上げるも、いやこれは失礼だろうかと迷ってしまい固まったユーインを見たレナードは小さく笑い、近くの椅子を示した。
「よければ少し話さないか。君の話が聞きたい」
「えっ」
ユーインは少し戸惑ったが、結局恐る恐る部屋へと入ると椅子に腰掛けた。どこに置くか迷った末膝の上に乗せた教科書のベルトを弄りながらレナードの様子を窺う。
「はは、そう緊張しなくていい。学校の話が聞きたいだけだ」
目を細めるとその碧眼の輝きはやわらぎ、ユーインはそっと息を吐いた。レナードは真っ直ぐ人の目を見て話す人物で、その光の強さが少しユーインには眩しかったのだ。
しかし、いざ話を始めるとレナードは穏やかかつ理知的で、ユーインの緊張を解き、わずかではあるが笑顔まで引き出した。その表情を眺めていたレナードは、不意に話題を変えた。
「……君は優秀な子だ」
虚を突かれたのかきょとんと瞬きをしたユーインに、レナードが続ける。
「君はとても優秀だ、この学校の誰より……いや、ひょっとすると私よりも優秀かもしれない」
「そんな、」
「だからユーイン、君は、自分以外の全ての人間が愚かに思えることがあるんじゃないか?」
否定しようとしたユーインは、じっと己を見詰めてくるレナードに怯んだ。うろ、と目が泳ぎ、口ごもる。レナードは詰問するのではなく、ただ静かに言葉を重ねた。
「……ここには私と君しかいない。私は神父なんて柄じゃあないが、もし君がなにか不満を抱えていたり不安だったりするなら取り除いておきたい。君はいずれ、多くの人間を従える立場になるのだから。……教えてくれないか、ユーイン」
ユーインは少しの間黙り込んでいたが、教科書を持つ手に力を込めると小さな声で絞り出すように言った。
「……思います」
それから視線を上げ、レナードの顔を正面から見る。
「思いますよ、だって皆自分の頭で考えようとしないし、かと思えば好き勝手な事ばかりする!」
「うん」
「ウォルター……あいつだって能力はある筈なのに、授業をサボってまでナンパをしに行く大馬鹿だ」
「うん」
「なのに」
レナードは短い相槌だけ打ってユーインの話を聞いている。正しいことを主張していると自認しているだろうユーインは、だが、少しだけその語気を弱めた。頼りなげに揺れる緑色。
「……なのに、あいつは皆に好かれていて、成績だって悪くない。真面目にやってるこっちが馬鹿みたいで嫌になる。不公平だ」
この少年が抱いている――恐らく無自覚の――負の感情を察知したレナードは、それを少しでも軽くしてやるべく、またこの優秀だが不器用な子供を導くべく、手を差し伸べる。
「そうか……ユーイン、君の気持ちはわかる。いや、君の気持ち“も”と言うべきか。……実はね、私も君と同じくらいの年頃に同じような事を思っていた」
「フロストさんが?」
「そうだ。私もそれこそ馬鹿がつくくらい大真面目にやっていたが、やればやる程馬鹿を見た。自分以外の人間も馬鹿だが、そんな人間に利用される自分が一番大馬鹿なんじゃないかって、嫌になる事もあった」
「……わかります」
少し消沈したように眉を下げて頷くユーインに、レナードは笑いかけた。
「はは、そうか、私と君は似ているのかもしれないな。……そしてこれは受け売りなのだが、ユーイン、“割れた窓ガラス”の話を知っているか?」
「割れた窓ガラス……?」
不思議そうに小首を傾げる仕草は今までの態度に比べれば幼いが、本来のユーインの年齢に照らし合わせれば年相応である。少しずつ心を許し始めている証であり、レナードを見るユーインの目からは警戒の色が薄れつつあった。
「例えばある所に割れた窓ガラスがあるとしよう。どう思う?」
「危険ですね」
「そうだ、危険だ。気になるだろう?」
「はい」
「人はね、そういった“普段とは違った、欠けた部分”がとても気になるものなんだ。つまりは欠点という部分は嫌でも目につくが、美点には気付きにくい」
「それは……確かに、そうかもしれません」
素直にレナードの言葉を受け入れたユーインは、神妙な顔で話を聞いている。
「しかもその割れたガラスの向こうにゴミが落ちていたとしよう。すると、人々は平気でゴミを投げ入れ始める。そうしてすっかり汚くなってしまったとしたら……君はどうする?」
「片付けます。そんなの、正しい行いじゃないから」
迷わず答えたユーインに、レナードは優しく目尻を下げた。
「ユーイン、君は素晴らしい子だ。普通の人ならね、ここですっかり興味を失うか、見なかったことにしてしまうか、自分も加担してしまうかなんだが……君はそれをしっかりと否定できた」
「そんな、俺は……俺はただ、正しいことを」
ゆるく頭を振ったレナードは、ユーインの目を覗き込んだ。碧が翠と見詰めあう。
「……ユーイン、正しい行いというのは誰にでも出来ることではないんだ。だが君にはそれが出来る。だからユーイン、欠点を見るばかりではなく、色々なものに目を向けなさい。誰も見なくなった場所にこそ、悪しきものが蔓延るのだから」
「……はい」
答えたユーインの目は、もう揺れてはいなかった。レナードは満足げに笑うと、乱暴にユーインの頭を撫でた。
「よし、いい子だ。君はきっと多くの部下を従える若者になる。その時は私の言葉を思い出してくれたら嬉しい」
少しはにかみながら、はい、と答えるユーイン。ぽんぽんと最後に軽く叩いてから手を離すと、レナードはどこか悪戯っぽく目を細めてみせた。
「しかしブラッドフォードの奴にも困ったものだな。今度二人で説教でもしてやるか? ユーイン」
「はい!」
ユーインの声は子供のように明るく、晴れ晴れとしていた。
ユーイン・ウィンバリー。マシュー・ウィンバリーの次男であり、ウエストウェラー軍学校を首席で卒業。陸軍入隊後、その優秀さと勤勉さによって着々と出世し、若くして少佐にまでなっている。
現在は、レナード・フロスト大佐の補佐官として働いている。