春、誓うこと それは、桜の季節のことだった。
教会の床に、普段とは別の敷物が用意される。磔にされた男の元へ向かう道のように敷かれたそれは真紅だ。そこを歩くことになる女は今、敷地内にある別の部屋で準備をしている。
真っ白い、ドレス。
もう若くはない、五十に手が届く年になる女が着るようなものではないが、不思議とその様は気高く清らかに見えた。
一通り準備を終え、女は……花嫁は小さく深呼吸をする。そこへノックの音が響いた。
「どうぞ」
「失礼」
部屋に入ってきたのは白いタキシードの男、つまるところ花婿で、花嫁を見て数度瞬きをした後うっとりと微笑んだ。
「……きれいだ。まるで女神のようだよ」
花嫁はぱちぱちと瞬きをし、それからその頬にチークのせいだけではない赤みが差した。
「さすがにそれは、言いすぎじゃないか……」
「言いすぎなものか。今まで見たものの中で一番美しいよ」
歩み寄り、花嫁の手を握るその指先にわずかに力が込められる。──花婿のあおい目が濡れたように光っているのをまともに見て、花嫁ははにかむように目を伏せた。
草薙あこやと芹賀谷容は、今日、結婚式を挙げる。
真紅の絨毯の上を、花嫁と父親が歩く。教会内はしんとしていて、花の香りがしていた。
父親から花婿へ花嫁の手が渡され、軽く会釈をしてから二人は祭壇の前へと向かう。讃美歌の斉唱が始まった。
重なる声はささやかであり、参列者はそう多くない。近親者と、長い付き合いのある友人程度だ。特に花婿が己が呼ぶべき相手は少ないと認識しているのもあった。だが彼の幸福を願う人間は彼が思うより多く、訪れた人はいずれも真摯に式へと参加していた。
讃美歌が終わり、司祭が聖書の言葉を読み上げ、人々が祈りを捧げる。それから、花婿と花嫁の誓約が行われる。
「──健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も……彼女を妻として愛し、敬い、慰め、慈しむことを誓いますか?」
「誓います」
司祭を──もしかするともっと高い場所にあられるものまで──真っ直ぐ見ながら告げた鮮烈なあおい色の目が、少し光をやわらげ隣の様子を窺った。花嫁はどこか緊張しているような横顔をしている。
司祭は穏やかな顔で、だが厳粛に誓約を求める言葉を述べる。花嫁にもまた、同じように。
「──彼を夫として愛し、敬い、慰め、慈しむことを誓いますか?」
「誓います」
凛とした声だった。ほう、と花婿が小さく息を吐く。指輪が二人の前に用意され、それぞれの手によってそれぞれの指へと通される。銀色のシンプルなそれが花嫁の白く細い指に光るのを、花婿がわずかに目を細めて眺めた。
息を吸って、吐く。窓から日の光が差している。きらきらと光るヴェールを持ち上げ花嫁の顔を見下ろした花婿は、わずかに息を詰まらせた。普段は落ち着いた濃灰色の目が、幸福をいっぱいに湛えて潤んでいた。
「……あこや」
その唇からこぼれ落ちた囁き声は少し震えていて、堪えかねたように一度目蓋を伏せ、それからゆっくりと花嫁へと口付けた。
ほっとしたような、葉擦れをするようなささやかな溜め息が参列者の方から聞こえる。ここには彼らの幸福に安堵する人たちがいて、心の底から二人の門出を祝福している。
口付けを終えて身体を離し、司祭による結婚成立の宣言を聞いた後、結婚誓約書にサインをする。ふたつの異なる筆跡の名前が並び、それを司祭が掲げて参列者へと結婚成立の報告をする。
寄り添う二人は、きっとこの瞬間世界で最も幸せな人間だった。
参列者への挨拶を済ませて別室へと下がった花嫁は少し疲れた様子だったが、己の指に光る指輪を見て顔を綻ばせた。そこへ、ノックの音がする。
「どうぞ」
おずおずと部屋に入ってきたのは、少女を抜けきらない若い女性である。……花嫁の、あこやの娘だ。娘はもじもじと手遊びをしながら口を開いた。
「あの、ね。……お母さん、すっごくきれいだった」
「……ありがとう。来てくれて嬉しいよ」
彼女たちは少し複雑な関係で、一時は完全に断絶されていた。あこやが彼女と再び向き合おうと思えたのは容のおかげで、こうして結婚式にまで呼べるようになったのは得難い幸福のひとつだった。
「私……お母さんのこと、好きだよ。幸せになってね」
あこやは息を呑み、それから泣くのを我慢しているような顔で笑った。娘もまた微笑み、照れ隠しのように一言二言言い訳をしてから部屋を出ていった。
そっと指先で目元を押さえてから、あこやはアクセサリーを外してゆく。再びノックの音がして、あこやはアクセサリーを箱にしまいながら振り返らずに「どうぞ」と言った。
「あこや」
低く、甘く、よく磨かれた楽器のような声。振り向きかけたあこやにするりと腕を回し、肩口に顎を乗せるように抱き締める花婿の、容の手には少し余分な力が入っている。
「……君は美しい、とても。その命のすべてを愛している」
内緒話でもするように、そっと己の花嫁に語りかける容の目が潤んでいることを誰も知ることはない。花嫁を除いて。
「これから先、君の隣にいてもいいだなんて、ずっと夢の中にいるようだよ」
あこやは少し笑って、容の手を握った。そのままそうっと持ち上げて、唇で指に触れる。
「夢じゃないよ、容。私たち、ずっと一緒なんだ」
「……ああ」
顔を寄せ、今日何度目かの口付けをする。何度か啄んでから名残惜しげに離れて、着替えてくるよとほどかれる腕に寂しさを感じながらあこやは容を見上げた。
「……そんな顔をしなくても、またすぐ会えるよ」
最後にもう一度キスをして、容は部屋を後にした。
……部屋の前で、中に入るに入れず待っていた手伝いの女性に、ウインクを残して。