旭川に雪が降る旭川に来て3年。
やっとこの極寒地帯の気候にもなれてきた気がする。
コートでは寒すぎて死ぬので、今はもっぱらダウンジャケットだ。
そしてヒートテックに全身カイロは欠かせない。
東海林はマンションから出ると足で雪をかき分けながらバス停に向かう。
体の中まで凍りそうな空気を吸っては吐いて、目覚めたばかりの脳がキーンと冷えていくような気がした。
腕時計に目をやり、バスの時間を確認するとまだ10分ほどある。
ただ雪の日はいつもダイヤが乱れるためあまり当てにはできない。
夏場なら30分もかからない通勤時間が冬には1時間かけないといけないため、冬は睡眠時間も短く、東海林にとっても憂鬱な季節だった。
ただ今年の冬は少し違うことがあった。
「東海林さん、おはようございます」
バスに乗ると吊り革を持ちながら明るく挨拶をする女性に会う。彼女は旭川支所で一緒に働く後藤ましろという女性社員だ。
東海林とは12歳年下、一回りも離れているが
東海林をオヤジ扱いしない、見た目は眼鏡をかけているせいか大人しそうに見え、性格は穏やかで優しい子だという印象で
どこか少し賢ちゃんと通じるものがある、と東海林は感じていた。
この間も取引先からお土産にもらった
ドーナツが1つ足りなかったとき、真っ先に
「私ダイエット中で…」とみんなに譲っていた。
気の毒に思い、東海林が受け取ったオールドファッションを半分割って
「疲れた時は甘いもんだぞ、せっかくだし食べよう」と渡したらえらく喜んでくれた。
その数日後に、食事に誘われて好きだと言われた。
嫌味のない彼女の告白に好感を持ち、付き合おうと返事してその日は別れた。
それからバスの時間を合わせたり、会社でもお昼を一緒に食べたりと久しぶりの恋に初々しさを感じていた。
今日もバスで並んで立ち、何気ない会話を楽しむ。
「昨日のテレビ見た?猫が箱に入って出られないやつ」
「見ました!なまら可愛いですよね〜私も猫飼いたいなぁ」
札幌出身の彼女は時に方言がでて、それがなんだか可愛い。
「今度さ、旭山動物園とか行こうか。今は冬で寒いから春にでも」
「本当ですかー?嬉しい!!」
花のような笑顔でデートの約束に喜んでくれる。
東海林はその笑顔を見て、ふと思い出してしまう。
ーあいつはこんな笑顔一度もしなかったよな。
仕事場に着くと、フランチャイズ契約を結んだ北乃菓子工房の社長が応接室で待っていると言われた。
急いで向かい、社長に挨拶をして椅子に腰掛ける。
「今日はどうしました?」
「実は…先日コストカットのために輸入小麦を使ってくれと言われたのですが…やはりうちでは北海道産の小麦を使いたいんです。
どうか試食して食べ比べてみて下さい!!」
そう言って社長は黒豆ビスコッティを2袋取り出した。
「右が国産、左が輸入の小麦です」
東海林は先に輸入小麦のビスコッティを食べた。もちろんサクサクとして美味しかったがたしかに少し物足りない感じもする。
そして次に国産小麦のビスコッティをあけると、その瞬間から小麦のいい香りがした。
そして口にすると、口の中でサラッと生地が溶けていく。さらにさっきのいい香りが鼻から抜けてくようでまさに抜群の美味しさだった。
「これは…たしかに全然違いますね」
「でしょう?私たちは素材に拘りたいんです。ぜひお願いします」
東海林は北乃菓子工房のファイルをめくり、減価償却票を見る。
「わかりました…。国産小麦に変更させてもらいます。ただしその分かかるコストは御社の雑費を削りましょう。うちのコストカッターを派遣するので無駄な作業を省き利益を出るよう頑張りましょうね」
東海林は社長の真っ直ぐな目を見ながら真摯にこたえた。社長は目を潤ませ
「ありがとうございます!東海林さんにお願いして本当によかったです」
その後北乃菓子工房に出向き、コストカットできるものを分析して経費を計算し直していたらあっという間に夜がやってきた。
家についたのはもう夜の10時だ。
東海林はカップ麺でも食べようと帰路に着く。
すると、マンションの前に誰か立っているのが見えた。
「あれ?ましろちゃん」
「東海林さん…お帰りなさい」
「どうしたんだ、こんな寒いところで」
「お仕事忙しいと思って、差し入れ持ってきました」
そう言ってましろは紙袋を見せてきた。
「ありがとう、でもいつからいたんだ?」
「あ、さっききたばかりで…くしゅん」
きっと長い時間待っててくれたのだろう、鼻が真っ赤になっている。このまま風邪でも引かせては申し訳ない。
東海林は自分の部屋へましろを連れていった。
「私、あまり料理上手じゃなくて、あと和食ばかりなのでちょっと物足りないかもしれませんが…」
テキパキとタッパーを取り出すましろを東海林は愛おしそうに見ていた。
自分のことをこんなに愛しく思ってくれる。そんな相手がいることがこんなに嬉しいことだなんて。
相手の気持ちがわからず、モヤモヤする恋なんてもううんざりだー。
東海林はご機嫌でテーブルに座り込み、目の前のタッパーの蓋をあけた。
ところが、中に入っていたものをみて、思わず固まってしまった。
東海林の中で燻っていた残り火に突然ガソリンを撒かれたような気分だった。
その様子をみて、心配したましろは東海林に尋ねた。
「東海林さん…さば味噌嫌いでした?」
ー東海林は食事をした後、すぐにましろをタクシーに乗せて帰らせた。
それを見送り、しばらく星空を見るためそこに佇んでいた。
(どうして、いつもいつも…何かあるたびにあいつのこと思い出すんだろうな)
さば味噌が大好きだった大前春子のことを。
もうあれから10年くらい経つ。
とっくに忘れたはずなのに、ふとした時に思い出しては罪悪感と刹那の愛しさに襲われる。
きっと、あのまま思い出さなければましろと朝まで一緒にいただろう。でも、大前春子のことが頭に浮かぶと他の誰かといることが大罪のように感じてしまう。
名古屋で一緒にいて、結婚するつもりだった。
親にも紹介したい人がいると告げて指輪も探していた。そんな矢先に春子は契約終了だと去ってしまった。
行き場のない悲しみを、常連のスナックのママに愚痴ると、結婚相手になってあげようか?と言われて勢いで結婚した。
親はやっと地に足つけてくれたと喜んでくれて
東海林も同僚たちから結婚祝いをもらい、やっと幸せになれたと思い込んでいた。
ところが、結婚二か月後に春子と会ってしまった。
妻と手を繋いで歩いているところで。
あの時の春子の顔は一生忘れられない。
無表情な春子がとんでもなく悲しい顔をしたからだ。
すぐに春子はその場を去り、追いかけることもできず、結局すぐに離婚した。
まさか自分がこんなに不器用な人間だとは思わなかった。
一歩踏み出し、マンションに戻ろうとすると
雪がまたひとひら降ってきた。
また明日つもらないかと心配しながら轍をあるく。
ふと横のファミレスに目をやると、窓側のカウンターにストレートロングの女性を見つけた。本で顔が隠れてどんな表情か見えないがなんとなく春子のように見えた。
「まさか、な」
東海林は再び歩き始める。
そしてやはり、思い出してしまうのだった。
(初めてキスした日も、雪が降ってたなー)
ファミレスで読書をしていた女性は、本をテーブルに置き、あったかいコーヒーを飲みながら東海林の姿が見えなくなるまでずっと背中を見続けていた。
白のとっくりセーターが似合うその女性はー。