君が眠りにつく時 明石国行の朝は早くて、夜も早い。
というのも、同室の愛染国俊と蛍丸の生活にリズムを合わせているため、寝起きが本丸一良いのでは、と言われている国俊と、大方出陣以外は国俊と行動を共にしている蛍丸は朝早ければその分夜も早く、粟田口に次ぐ優良健康部屋と呼ばれている。当然それについていく形で明石も朝早くから起こされ、夜の就寝も早かった。
審神者と付き合いだすまでは。
とは言っても二人の付き合いは健全そのもの。日付が変わる前にはしっかり来派部屋に戻ってちゃんと自室で寝ている。今までよりも一、二時間程度遅くなったくらいである。長時間寝れるのなら明石のほうには文句もなかったので、かつての生活はwin-winでもあったのだが、国俊も蛍丸も、審神者を気遣って審神者専用の離れで泊まってくればいいのにと気軽に口を尖らせていうが、二人の進捗は実際には手を握ることしか未だ出来ない。審神者の男性恐怖症は依然として治る気配はなく、ただ明石への好意が生まれた時点で御の字だと明石自身は思っているし急いても事を仕損じるだけだと思っている。果報は寝て待てとも言うのだし、とそこらへんは別段気にもしていない。怖いと怯える惚れた女を手籠にする趣味もない。おかげで全く健全な付き合いをしているのに呆れている刀たちも多いというが、本人の意思を、気持ちを最優先すると明石はとっくに腹を決めていたのだった。
本心では、そりゃあ、触れたい。知りたい。溺れたい。
だが、それで相手を傷つけることのほうが、万倍も明石にとって恐怖なのだ。そういうところが、怖がりの慎重なところがよく似ていた。
なので正しい意味での彼女の寝顔を眺めたことがほとんどなかった。時折、疲れた彼女がうたた寝をしているところを見つけたが、顔を覗き込むようなことはしなかった。女性に対しての行為ではないだろうと思って。なのに、審神者はいつも明石が執務室でゴロゴロしていて、本当に時々眠り込んでしまうと、必ずいそいそと席を立ってこちらの顔を覗き込むのだった。
「寝てる顔も、綺麗だね」なんて、はにかみながら言われたら「見るな」とも言えずに、「さいでっか」と気乗りのしないが不機嫌でなさそうな返事をするのが精一杯だった。心中に広がる照れとそれを越える淡い幸福感に溺れないよう気をつけながら。
なので、今審神者の寝顔をどこか感慨深く見つめている。
*
「高熱?」
「そうながや。主は熱があるき仕事が出来ん。かといって放っちょくのもなんやき、明石、様子を見ちゃってくれんか」
「そんなんいって、自分より短刀の子らのほうが面倒見るのんは慣れてますやん」
今日は初期刀の陸奥守が近侍の日だった。来派の三人で朝食を摂っている最中に声をかけられ、席を外して話をするとそう頼まれた。
審神者の姿が見えないとは思ったが、そういうことのようだ。初期刀が本人となんとか意思確認をして出来るものは陸奥守と長谷部で回すらしい。おそらくは口先八丁で休んでおくよう言いくるめたのだろうが。ただ本丸が回るなら別に問題はない。そこそこ安定した運営をしてきた賜物だ。先ほど審神者非番の札が貼られたらしく少しだけどよめきが立ったが、すぐに長谷部のよく通る声が状況を説明していた。
「ほんなら手伝いの短刀たちは一時間ごとにそっちに行かせるっちゃ。
主もおんしのほうが安心することだってあるろう。よろしゅう頼むぜよ」
「はあ」
そしてバタバタと出ていってしまった。
「国行、仕事?」
「まあ、そんなん」
「主さん、体調悪いんだって? ちゃんと見てやってくれよな」
「二人も一緒に行こや」
「俺たち、この後組み手の約束してるんだ」
「お昼になったら行ってあげるよ」
そういって二人は国行が朝食を食べるところまで見届けるとパーっと行ってしまった。国俊の足が早いのはわかるのだが、一緒にいると蛍丸の足まで早くなったように感じる。
なにか準備して行ったほうがいいだろうか、と考えたが、まずどんな状態かわからないので審神者の部屋に顔を出してから必要なものを取りに行くことにした。
「主はん?」
執務室の奥、審神者の私室にはおそらく入ったことがあるのは初期刀の陸奥守と、初鍛刀の五虎退、そして恋仲となった明石だけだと思われる。まあ、薬研や平野、前田は彼女の世話や手伝いで来たことはありそうだが。明石も見慣れない部屋の中、六畳程度のさほど広くない室内に小さな座卓、複数の座布団が片隅に追いやられ、あまり衣類にこだわりのない彼女が唯一たたむと皺になるし面倒くさいと言ってこだわりを持って用意した衣類ラックに普段仕事着がわりにしているシャツ類とパンツ類が揃っている。それら年頃の女性のわりには少ない荷物たちの真ん中に布団がこんもりとしていた。
陸奥守が心配していたように、熱があっても起きあがろうとするガッツを発揮するときもあるが、さすがに今回は大人しく寝ているようだった。
事務的な仕事が苦手で審神者本人にやらせると失敗したり、間違えたり、整理が複雑になってどんどん終わるどころか増えていくような不器用さが、出陣の采配になると書類相手に下がっていた眉はキリリと上がりモゴモゴと不安げに確認ばかりしていた口は口角を上げハッキリと状況を確認して部隊を進めていく。その落差に、人には得意不得意があると己のことのように親近感を感じたところもないわけではなかった。ただし、明石とハッキリと違ったのは、審神者は己の身を省みて引くということが自分に対しては出来ない人間だったことだ。
陸奥守や明石がそれとなく休ませることで体調は落ち着いていたが、今でも時折考えすぎの心労のような高熱がこうしてやってくる。大抵は一日寝れば復活するし、逆に強制的に仕事も休ませられるし、ちょうどいいくらいだが、今回は風邪のようで、押し殺すような咳が布団の中から聞こえてきた。
「主はん。国行ですけど。なんか、いります? 水? 冷えピタ? りんごジュース?」
「あ、くにゆき……? むつは……?」
「仕事やったら陸奥守はんが上手うやってくれてんで。あんたは大人しゅう寝とってください」
そう言って、枕元にしゃがみ込んだ。怖がらせないように、上から覗き込まないように、体を低くして、寄り添うように。
顔まで被っていた布団を少しめくると、焦点の合わない視線と目が合ったような、合わないようなぼんやりさだ。ピトリと手の甲を普段の白さから考えられない真っ赤になったその細いほっぺたに当てると、ほうと息を吐かれた。
「手、冷たくて、気持ち」
「そ?」
ああ、あっついなあなんて思う。今いち会話が成立しないので、冷えピタでも持ってくるか、と立ちあがろうとしたところで、違和感を感じる。
審神者の指先が、ジャージの裾を柔く掴んでいた。
「なに? すぐに戻ってきますさかい、ちょい手ぇ離しとぉくれませんか?」
手のひらを包むようにして、内側からほどこうとした。
指の一本一本が、解いても、またゆっくりと指の動かし方を練習しているみたいに同じ形に戻ってくる。ジャージを掴む指先の力は弱々しくて、手に力が明らかに入っていない。腕を持ち上げることもできなくて、布団から出た腕は白く細く、頼りなさが増していた。
「どないしたん? いけるって。すぐに帰ってくるさかい」
心細いのだろう、いつもと違う弱々しい姿に、今更ながら陸奥守が自分を呼びつけたことにハッキリと安堵を感じた。もしかして、審神者が呼んだのかもしれない。自分を。そんなことだったらいいな、と今ようやく思い至った。この姿を多くの刀に見せたくない。知られたくない。
この人の、涙も、苦しさも、弱さも、知るのは、救うのは、守るのは、自分でありたい。それが無理な願いでも、そうありたいとは思っていたし、そう彼女に誓ったのだ。なにが出来るのか、わからないけれど。
「行かないで」
「ここにいて」
「置いてかないで」
小さな声だった。
その小ささこそが、胸を切り裂くような鋭さで、明石の持っていないはずの柔らかいところを抉ってくる。人間とはなんて脆いものだろうか。なんて儚く、弱くて、愛おしい。
「うん」
「おるよ、ここに」
あなたが望むのなら、この手はなにがあっても、離さない。
それで、安心した寝顔を見せてくれるというのなら。
そういって、布団の横に、ごろりと体を並べて、ジャージから離させた手をしっかりと握った。少し熱くて湿った手のひらは、女性にしては背の高い彼女であっても明石の手のひらに当然すっぽりと収まってしまう。
「大丈夫やから、ようお眠り」
審神者はうっすらと瞳を開けようとした気配だけで、実際にはほとんど瞳は開くことなく、明石の目の前ですうっと眠りに落ちていったのだった。
*
「国行〜?」
「蛍、もっと小さな声で。主さん起きちゃうから」
「あ、ごめん」
短刀たちの見守りと食事や水分の受け渡しでひっきりなしに執務室近くに刀たちがウロウロとしていた一日の夕方前、昼食後に行った信濃から「大将、ずっとこんこんと寝てるんだって。顔見れなくて残念だったな」と伝言を受けてその時渡せなかった二人分のおやつを再度携えて国俊と蛍丸が届けにきた。
さっきの話だと寝ていると伝えたのは当然国行だろうと思ったので起きているかと思ったら、二人が覗き込むと、審神者の隣で、畳にそのまま、上に何もかけずに左手でしっかりと彼女の手を握って眠っていた。
国俊と蛍丸は互いの顔を見合う。笑いだすのを堪えるために。
あの警戒心の強い国行が、こんな無防備に。意外でもあるし、審神者への心を許しているという証でもあったし、己の無防備さを晒しても、きっと審神者を安心させるためであっただろう。
ああ、二人は思い合っているんだ、と改めて知って、二人の心が浮き立つ。知っていたけど、国俊と蛍丸のために案外と色々心尽くしている国行を知っているのは当の国俊と蛍丸だけだった。時々夜中であっても布団を蹴っ飛ばした二人にはちゃんと布団を掛け直してくれていること、国俊の出陣の多くは夜でその出立は蛍丸と見送ると迎えも国行は起きていたし、時には夜食を準備していること、審神者との関係もあり週に一度近侍の日があるが、その時はきちんと周囲の文句が出ない程度は仕事をして夜中の分の寝不足を補っていないことも、なにかあったら近ければ審神者のほうへ、遠ければすぐに来派の二人の腕を取って己の身で庇い立てする動きを迅速に取ること。それらの全ては、明石国行を形作る「保護者」の名目から来ているけれど、やはりその根底にあるのはハッキリと言葉にしないが人間のような情や愛と呼ばれるもののはずだ。幼年の姿をしている自分たちではどうにもならないこともある。そんな時に「しゃあないなあ」と気怠く言うけど断られたことは一度だってなかった。明石国行とは、そういう「保護者」だった。
だからこそ、国俊と蛍丸にとって、審神者という存在をより優先してほしかった。
自分たちのために存在するのではない、その先の国行の生まれた感情のために。
男性が触れない審神者と普通に男性の肉体を持つ二人の困難はまだまだ続きそうだが、少なくとも以前よりは進展しているし、こうして互いに信頼を重ねている姿に、時々胸が詰まりそうになる。
国俊は、加護の刀だ。主のために使うと決めたこの力、国行にだって分けてやってもいいよな、と時々背中の愛染明王に聞きたくなる。
きっと、普通より困難だろうこの二人のこれからの道筋が、どうか、どうか、最後には穏やかな光に満ちた未来がありますように。
よいしょ、よいしょと小声で来派部屋から急いで毛布を持ってきて国行にかけてやった。
顔についた畳の跡も、今は立派な勲章だと、夕飯の時間になったら起こしてやろうとそっと抜け出た。
明日はまた普段通りの二人の仕草に戻るだろう。
皆の前では恋仲というのは関係ない、と言って憚らない二人だから。
だからこそ、たまにはこうして、夢の中でこそしっかり手を離さないでいてほしい。と、蛍丸は二人の夢に淡い美しい輝きの蛍が飛び交うことを願った。
夢の中で会えたら、きっと審神者は喜んでくれるだろうと、そして審神者の喜ぶ顔に、仕方ないなあという顔で喜びの伝染した国行の声が響くだろうから。