紫落一洗
ある日、突然近侍に任命された。
それ自体はおかしいことではない。基本的には初期刀の陸奥守か手伝いを強く希望し続ける長谷部がつくことが多いが、日によって他の男士たちも当然近侍になるし、顕現後は一週間程度は主の近くで人間の生活の基本を学ぶということもあり、全くやったことがない、というわけでもない。
しかし、ここの本丸の主は少し特殊だ。
男性の姿が不得手であり、特にガタイのいい男士たちは陸奥守によって直接触れ合うことは禁じられていた。
なので、成人男性の姿をしており、決して小さいとは言えない自分が、なぜ任命されたのか、当然の疑問だった。
顕現してすぐのこと、古参であった愛染国俊と自分よりは幾分早く顕現してメキメキと練度を上げていた蛍丸に両手を引かれて本丸の中を案内された後、知らない刀に引き合わされた。
「よっ、お前が明石国行か。俺は鶴丸国永。同じ太刀同士での引き継ぎだ。あとは俺に任せてくれ」
「はあ」
「じゃあ、鶴丸さん、あとはよろしくな! 俺たち主さんに報告してくる!」
「おう、行ってこい行ってこい。その後配膳当番だったろう?」
「そう! 国行! この後は夕餉だぞ!」
「またあとでね!」
そういうとドタドタと足音を響かせて行ってしまった。
「お前さんがあの二振りの保護者なんだって? あんなにはしゃいでるのを見るのは久しぶりだな。大事にしてやってくれ」
そういう鶴丸の表情はすでに人の身を得て長いのだろう、明石から見てもただ見つめているだけではない、「何か」の感情が乗っているのだとわかった。まだそれがなんなのかは理解出来ていなかったが。
「で、なんですの、引き継ぎて。あの子らに聞いてもわからんことなんです?」
「ふうん、確かに聞いていた通り大体同じ身長だな。なら俺の感覚で話してやろう」
「はあ……」
「俺たちの主は、一定以上の身長の男に触れることが出来ない」
「は? 男士しかおらんのに?」
「その通り」
そう話しながらもキョロキョロとしながらどこかに向かって歩いていく鶴丸の後ろを訳がわからないままついて行く。先程来派の二人が走った速度よりよっぽどゆっくりだ。これくらいなら歩きながらでも話が出来る。
「愛染も蛍丸も短刀サイズだ。短刀の中でもそこそこ大きい奴らだとまた扱いが異なるが、あれくらいだと問題なく、主も子どもが嫌いではないようでそれなりにくっついたり撫でたり手を繋いだりしている」
「まあ、分からんでもあらへんけど」
「が、主よりも大きな刀、まあ少し小さい刀も含めて見えているところから近づこうとすると避け始める。さらに無理に近づくと手や足が飛んできて、とにかく距離を保とうとする。まるで怒りくるった猫みたいなもんさ」
「はあ……」
顕現した時に姿は見たはずだが、とてもそんな実力行使を行うようには見えなかった。人間というのは見た目と中身が大層違うものだ。
「それでは、主が気がつかないように触れようとするとどうなると思う?」
「大声でも出しなはる?」
「それくらいなら可愛らしいもんだな。
まあ時折絶叫は本丸内に響きわたるが、それが女の声なのか猫の喧嘩なのか殺人鬼の昂った声なのかわからない時があるな。
更にひどいと泡吹いて倒れる。いわゆるショックによる失神というらしい」
「嘘やろ」
「いやぁ、それが本当なんだって。
お、いたいた」
鶴丸も主を探していたらしい。なにかの制服のようなものを来た短刀と思われる男士と一緒に書類を確認しているようで紙に目を通しながら中庭に面した廊下を歩いてこちらに向かってくる。
「おーい、主」
「鶴丸さん、それに、明石さんも。ついさっき愛染くんと蛍丸が来ましたよ。来て早々お疲れ様でした」
「ああ、あとは君への実践だけだ」
そういう鶴丸は審神者とかなり距離が空いているが間隔を詰めようとはしない。すると恐らく明石にしか聞こえない声で「主の後ろを見ておけ。声や仕草で絶対教えるなよ? 面白いものが見れるから」と言われた。言われてみると、審神者の後方から一人の男士が近づいている。
「主。そんなとこ突っ立ってると通れねえぜ」
と、言うやいなや彼女の肩に触れた瞬間、絶叫が響いた。鶴丸はすでに両耳を塞いでいたが、明石は当然わかっていなかったので、耳の奥に残る恐怖の声にいきなりあてられさすがに呆然としてしまった。審神者に触れた男士は即座に彼女にひじ打ちを噛まされ一瞬気を許した隙に、短刀から中庭に襟首を掴んで引きずり降ろされ首筋にその刃を突きつけられていた。
「ちょ、平野、冗談だろ……。本丸内抜刀は御法度じゃねえか」
「和泉守さんが何回注意されても同じことを為さるからでしょう」
先ほどまで審神者と穏やかな表情をしていた平野という短刀はまさに戦場の目で和泉守を見ていた。
「まあまあ、平野。殺気も悪意もないから君だって近づいてきているのを逃したんだろう。それくらいにしてやれ。
それより、主を介抱してやれ」
「は、主! 大丈夫ですか?」
「え、あ、だ、だいじょうぶです……。ごめんなさい、和泉守さん……おなか、痛くないですか……」
「痛いわけねーだろ。あんなヘナチョコ、いや、すみません」
すぐに平野に睨まれて弁明する。
「兼さーん。あれ? どうしました? あ、もしかしてまたご迷惑おかけしました?」
「まあ、そんなところだ。堀川、和泉守のお説教と服の汚れをなんとかしてくれ」
「はいはーい。全く、懲りないねえ、兼さんも」
「いて、おい、国広、おいっ! 引っ張るなって!」
「あの、お二人もお待たせしちゃって……」
「大丈夫か?」
「ええ……」
そういう審神者の顔は、一瞬で白くなったまま、明らかに表情が固くなった。鶴丸が一歩前に出ると、少しだけ身を引いた。平野が心配そうに彼女を見ていた。
「ま、そういうわけで、納得はしてくれたと思うが、主より大きい俺たちは直接触れることが出来ない。
なので、大体これくらいだ」
そういって、腕を伸ばした鶴丸の手は、指先までピッタリと伸ばしても、あと少し審神者に触れることが出来ない。
「この片腕分と少し。それが、俺たちの距離間だ。お前もひじ打ちを喰らいたくなければよく覚えておくことだ」
「す、すみません……」
「はあ」
そして、鶴丸の隣に並んで、同じように腕を伸ばした。
気持ち、あと本当に少し、彼女まで届かない。
「きっと愛染と蛍丸と一緒にいることが多いだろうが、あの二振りは触れられるから距離感が近い。
勘違いをするなよ」
手を伸ばした先の審神者は、済まなそうな顔をしていた。それが、明石が覚えている限り、一番審神者と接触した記憶だった。
「主はん」
「明石さん、来ましたね。ちゃんと時間は守るじゃないですか」
「長谷部はんにえらい剣幕で睨まれとったんでさっさと捌けてきただけですわ」
「近侍、顕現当時以来では初めてですよね?」
「でしょうな」
執務室にしている角部屋は中庭に面している一角だ。密室で、男性と二人きりにならないためである。
中庭に面する障子は真冬でも開け放たれ、今も少し距離のある向かいに座る。手入れの時は必ず陸奥守か初鍛刀である五虎退が同席することでなんとか成り立っているが、近侍となると初期刀も初鍛刀も出陣や遠征任務があり仕事が滞ってしまうため、これ以上の譲歩は出来なかったのだろう。
風通しがよく本日は気候もいいので、まあよかった、と思うことにした。
「特にお願いすることはないので、なにもしなくていいです」
「は?」
「え? だって、働きたくないんでしょう?」
「そりゃそうですけど。ほんまに、そう言われるとは思わへんでしょ」
「ええ……。じゃあ、長谷部さんみたいに仕事お願いしたほうがいいですか?」
「結構です」
「ほらあ」
そういってクスクス笑う審神者は、確かに触れられないというだけで、物理的な距離はあるが男士たちとの精神的なつながりは適度に大事にしてくれる。
明石が毎日のように「働きたくない」と言ってるのを真に受けたのは彼女が初めてだが、言ったことを覚えてるものなのだな、と新鮮に思ったものだ。
彼女が触れられる条件の一つは初期刀と初鍛刀。この二振りに触れられないとさすがに生死に関わると、死ぬ気で慣れたというのはいつだかのひどく酔っぱらった陸奥守が涙ながらに話していた。
もう一つの条件は彼女の身長よりも低いこと。比較的女性としては背が高いほうだとは聞いているが、それでも彼女より大きな刀のほうが多いのは言うまでもない。
短刀たちはこの条件をほぼクリアしているので日常的に問題はない。陸奥守と長谷部以外に近侍を行うのは、そのためずっと短刀たちが主体だった。ただ、薬研や太鼓鐘など大きめの短刀相手では彼女のほうが身長は高くとも接触は控えられていた。
脇差になると、一部のものが彼女の身長を越えてしまうせいもあるのか、肉体的にどうしても男性的な要素が増すからか、近寄ることは出来るが触れることは出来ない。逆に、当然のように大太刀であっても短刀なみの蛍丸や、小柄な小烏丸とは結構仲が良く、並んでお茶をしているところもよく見受けられた。
「父」という呼称の男士であっても大丈夫ならなんでも平気なのでは? とは喉まで来たが声にすることは無かったが、いつだか和泉守がぼやいていたので同じように思っている男士はいるのだろう。和泉守はそれでもちょいちょい審神者にちょっかいをかけては短刀たちに怒られ、相棒に説教をされているが、あの諦めない姿勢自体はなんとなく大きな男士たちの声にならない声の代弁者のようでもあった。
それにしても、実際いくつだかは知らないが、別段ひどく歳をとっているようにも見えない彼女が、こうして本丸という「箱」に閉じ込められ苦手だと公言までしている異性との生活をしなければならないのは、大切にしまわれていた自分たち刀の在り方とどう違いがあるのだろうとも思う。
普通なら、友人と会ったり、恋をしたり、おしゃれを楽しんでもおかしくないのだろうが、彼女はいつも質素な装いで男士たちの多くと同じように普段はジャージかジーンズ姿に襟元の広いシャツという定番の出で立ちと伸ばした髪は無造作に纏められている。顔の作りは平凡だがまつ毛の毛量だけは自慢だと笑っていた。しかしそこを強調するような化粧をするでもなく、華やかという要素は少ない。それを嘆く刀もいるが、その素朴さを明石は気に入っていた。
「一応、警護を兼ねているので、傍にいてくれればなにしててもいいですよ。
すぐに対応できるのならいつもみたいに転がってても」
「いつでもどこでも転がってるわけやないです。ちゃあんと、自分の部屋で、しかるべき時間にです」
「そう? 愛染くんか蛍丸が帰ってくる時間にきちんと部屋にいて起こされるところまでがワンセットですもんね。まあ、お咎めはしませんよ」
自分がいつゴロゴロしてるのかを把握されているのを不本意に知ってしまい、頭を抱えたくなった。本当に、この審神者は、よく見ている。
*
近侍に任命されてから、一週間が終わった。
驚くべきことに、まだ近侍の命が解かれることはなかった。
近侍になってから、そわそわとしていた愛染と蛍丸は二日目には明石の様子を探りに、という体でおやつ係を名乗り出て休憩を一緒に取っている。その時だけは、審神者も小さな二振りの様子に笑みを浮かべて世間話に付き合ってくれる。大体話しているのは愛染であっても。愛染はかなり初期に来たせいもあるのか、審神者も可愛がってくれているのを愛染自身から蛍丸と自分が顕現する前の話としてよく聞いていた。実際に目の当たりにすると、こちらまで微笑ましくなるような姉と弟のような様子だ。
本当に、明石は寝っ転がって毎日庭と審神者を観察しているだけだ。
明石が転がっていても本当に審神者は黙々と自分の仕事をしていた。試しに手を振ってみたりしたが、気付くのは三回に一回程度で、本当に眼中にないのだというのがわかる。時折不安そうな陸奥守と長谷部が明石を呼び出してきて様子を探られるが本当になにもしていないのでその通り伝えると長谷部は天を仰いだ後頭を抱えてしまった。陸奥守はその背をさすってやりながら「もうちっくと様子をみようかの」と苦笑していた。明石を任命したのは、やはり審神者の一存らしい。
陸奥守にそれを聞いても「わしらにもわからん。主には主の考えがあるがやろう」と言うだけだった。
二週間がそろそろ終わろうという頃、近侍のリズムも出来てきた。
本当に、なにも、求められていない、というのは、逆に腹立たしさを感じることもあったが、それならば、「なにもなかった」程度のことが出来ていればいいのだと気付いた。たとえば、夜中に小さな同室の二振りに何度も掛布団をかけなおしてやるように。
彼女はおそらく、自分が「なにもしない」から近侍にしたのだと薄々感づいてから、それはそれで面白くなかった。「働きたくない」とは言っているが、「働かない」とは言っていない、つもりだった。「主」に言われれば腐っても刀剣男士という身で顕現している以上、その命に背くことはよほどの謀反でなければ無い。
自分が飲むついで、という風に彼女の茶を淹れたり、淹れ替えたり、よくよく観察してみればあまり整理が得意でない様子の彼女が厠などで席を外した際にばれない程度に書類の置き場を並びかえてみたり、押印が必要なところに付箋を貼ったりしていた。
どこまでやったら気付くのだろうか、という風にギリギリを攻めるのが楽しくなってきていたのも事実だった。
今日は愛染と蛍丸がいないので、休憩時間のためおやつを運んでいたら、執務室から声が聞こえてきた。
おそらく遠征から帰ってきてそのまま報告に来た加州清光だ。
「……というわけで、資材は今倉庫に仕舞ってる。後で確認お願いね」
「お疲れさま。報告ありがとう。いったんみんな休んでください。また後で次の編成と遠征先を明石さんに伝えてもらいます」
「了解。ねえ、主ぃ。明石の近侍長くない? いつも一週間とかだったじゃん。俺も近侍、久しぶりにやりたいよ」
「そうね。結構、相性良くて……」
「え? 身体の?」
「そんなわけないでしょ!」
加州は陸奥守の次に顕現した打刀だ。身長がそれほど高くないためか、安定と一緒に打刀の中ではかなり審神者と近い距離感にいる男士である。
彼は彼なりに審神者のことを心配していたのだろう。それは構わない。あんな砕けた話し方をするのだな、とふとそんなことに気付いたくらいである。
しかし、「相性」とは?
「こう、適度に放っておいてくれるところが」
結局それやんか! これ以上聞くのも憚られたので強引に割りいることにした。
「はいは~い。本日のおやつですよって。加州はんも食べてきはりますか」
「あ! 明石さんっ!」
当然明石がいることに気付いていなかっただろう審神者が盛大に挙動不審になるが、完全に無視をして加州を睨んだ。目が合った加州は、明石に向けてだけわかるようにウインクをした。
余計なお世話や。
*
「もうよう耐えられへん」
「ようがんばったほうやないか。さすが働きたくないというだけあるのう」
がっはっはっは! と豪快に笑う陸奥守にイラッとしてその湯呑に強引に酒を継ぎ足してやった。それすら口角を上げて飲み干される。
「放っちょけんじゃろ、あの主は」
「全くだ」
こちらは手酌でペースの速い長谷部はつまみもほとんど食べないので、いつもこの刀が悪酔いする理由がわかった気がした。どうせ酔ってるからわからないだろうと思って時々口の中にあたりめや枝豆を放り込んでいるのだが、文句を言われていないので、やっぱり気付いていないのかもしれない。
主の無防備さが目に余る。
なんにもさせたくないのだから、なにもしないでおこうと思っていたし、やりたくなかった。
しかし、こちらが色々手を回していてもなお彼女の手の進みは速くない。
気付いてしまったのだ。そのことに。
彼女の仕事ぶりはおそらく丁寧なのだ。出陣や遠征の報告を受けるのだって近侍にやらせておけばいいのに、必ず彼女は自身で行うというし、さすがにそこで寝っ転がってるわけにはいかないので身体を起こすものの、三条などは触れることの出来ない主との謁見の場のように捉えているのか必ず長居をする。彼女もまた触れられないがゆえに大きな刀たちとのコミュニケーションが不足していると思っている節もあり断れない。そういえば以前よく長谷部の「とっとと出ていけ!」という大声が本丸中に響き渡っていたが、それがこれだったとは初めて知った。
ただでさえ今まで陸奥守と長谷部が手伝って終わらせていた仕事を、明石はなにもやっていない。
こそこそと手回しはするが彼らのように直接書類を片付けることはしていない。審神者が命令しないからだ。
日中終わらなかったものはどうやら夜にでもやっている様子だ。寝不足の様子が見え隠れするようになって、さすがに思わず「昼寝でもしたらどうです」と言ってしまったら、ひどく驚いた顔をされた。次の日、彼女の化粧が少し濃くなっていた。やってしまった、と思った。
「やらへんでもええことにめちゃくちゃ時間かけてやってるのがえらいかなん」
「ほにほに」
「言うたらええやないか。手伝うてって」
「それが出来たらこんなことにはなっていない」
「は~~~、働きたくない~~~」
「あいたから楽しみじゃのう。期待しちゅーぞ、明石ぃ!」
「やかましいわ!」
「げに、ここまでやってくれるとは思うちょらざった。ありがとう、明石」
「同感だな」
「……ほんまに、やかましいわ」
結局、二振りに、今までやっていた近侍の仕事を聞いてしまったのだ。負けたと思った。
主の体調に関わることなので、さすがにそろそろ二振りのほうも介入を検討していたようで、結局お互いの意思は一致してしまったのだ。
主の意思は尊重しつつ、なるべく働かないで、主の仕事を時間内に終わらせる。
逆により面倒くさいことになってしまった、と長谷部に食べさせるのに夢中で自分もほとんど食べていなかったと、布団にもぐりこんでから気付いた。
*
朝一から言うのは警戒されるだろうと思い、奇襲は鉄板通り夜に行うことにした。
夕食の時間を持ってその日の近侍の勤務時間も終わりとされる。普段、明石はそのまま来派の部屋に戻り、部屋にいたら二振りと一緒に風呂に行ってから夕食を取って、寝るまでは自室で過ごす。つまり、夜間はほぼ暇なのである。夜戦に出向く愛染を送り出すくらいしか夜の用事がない。
夕飯を終わらせて、再び審神者の元へと出向く。一応、時間外に出向くことは陸奥守に伝えたら五虎退に張らせると言われたので、なにか審神者が危機を感じることがあれば自分の命はここまでだ。思わず部屋を出る前に二振りを抱きしめてしまい、気味悪がられた。別に寝込みを襲いにいくわけではないのだが。
「主はん」
「へっ! あ、明石さん!? どうかしましたか?」
「入ってええですか」
「え?」
「ほな、開けますよ」
「うわー!」
普段通り、角の襖をスパン! と両方開け放つと、案の定審神者がそれはそれはひどい有様で書類を部屋中に広げているところだった。明らかに整理整頓の出来ない人間の広げ方である。
「え、ど、どう、え、あか、明石さんっ!?」
「ほら、仕事、なんからやるんですか。はようよこしとくれやす」
「え?」
「そないなえげつない顔して、自分が仕事してへんのが筒抜けです。誰かに刺されても困るさかい、早う終わらせまひょ」
自分が座る場所をとりあえず作って、いつも枕にしている座布団を本来の用途に使う。先日の飲み会で長谷部からちゃんと近侍の仕事をやるのなら、ということで餞別代わりにもらった万事屋のボールペンを取り出した。陸奥守たちから引き継いだ処理を思い出しながら初めてちゃんと近侍として審神者の手伝いを行っているが、文字を読むのも億劫だ。本当に、こんなもの好きな奴にやらせておけばいいのに、と思っていた。
「どうして、手伝ってくれるんですか……?」
恐る恐るという風に聞いてくる主の顔を、ようやく直視した。
最初は部屋に入った時、すでに彼女は自分と同じく食事も風呂も終えており「すっぴんだから見ないで!」と騒いでいたが、あまり違いがわからなかったので気にしてなかったが、こうして直視すると、出会った頃の幼いイメージなんてとっくに消え失せており、一人の女性としての物腰の柔らかさが具現化していた。昼間見る、シュッとした姿というのは、彼女が意識して作り出している像なのだろう。
声をかけられたことでまともに見返した主の表情は、最初の頃に記憶のある「朴訥」とした印象とは違っていた。
自分が顕現して何年経っただろうか。人間は年を取る。それをまともに受け止めてしまったのだと気付いた。
「言うたやないですか。主はんに無理させたら、自分が刺されるさかい」
「誰が刺すのよ……」
そういって苦笑する審神者の背後に五虎退の気配がずっと張り付いているのだが、黙っておくことにした。
日付が終わる前には終わらせるように、と陸奥守には釘を刺されていたが、とりあえずの目処は立った。
あとは明日以降の日中ちゃんとやればとりあえず今後ここまで溜め込むこともないだろう。
とにかく、審神者に判断させると長いので、期日を見極め、押印や署名が必要なところに付箋を貼り、終わったものを順次ファイルをしただけでもそれなりにまともな部屋に戻っていた。彼女がやらなくていいものは今度こっそり陸奥守たちに相談しようと思う。
「嘘みたい……」
「はー、しんど」
まともに身体を起こして机に向かったのなんて顕現してから初めてではないだろうか。
「はい、お疲れさん。じゃ、自分はこれで」
「あ、明石さん!」
「はい?」
いよいよ、近侍も解任かなぁと、ぼんやり思う。
「なにもしなくていい」という任は破ってしまった。彼女の望みは果たされなかったのだろう。それならそれで、元通り、時々は蛍丸と出陣して、夕方には愛染を見送り蛍丸と一緒に愛染の帰りを待つ生活に戻るだけだ。
こうやって、心揺さぶられる経験は、面倒だ。四苦八苦した一か月だったなぁ、なんてらしくもなくしみじみした。
「あの、手伝ってくれて……ありがとう、ございました……」
そういって、深々と、彼女は、頭を下げた。
「は? あ、いや、主はん! やめとぉてください! 顔あげて!」
「いえ、本当に、働きたくない明石さんまで巻き込んで……」
「いや、そやけど、自分も一応主はんの臣下でっせ……」
「え……」
「え?」
「怒ってるんじゃないの?」
「ん?」
二人で、思わず、互いに顔を見つめ合う。
「自分は、近侍解任されるんやと思ったんですが」
「え? なんで!?」
「なんにもせんでええって言うたやないですか。約束を先に破ったのは自分のほうですさかい」
「いや、別に、あれは、そんな主命なんてものでは……。逆に働きたくない人まで働かせて、明石さんには本当に申し訳ない……」
「いや、せやから、仕事なんでしょ。さすがに手伝いくらいしますわ。陸奥守はんたちも心配しはってましたよ」
「ごめんなさい……」
目の前で小さく丸まっている彼女の掌がいかにも頼りなく、小さく見えた。触れられるのなら、握りしめてしまおうと思うくらいに。
「ま、寝不足はなんぼなんでも控えてもろたらもうええですわ。仕事してるわけですし、ままならんこともあるでっしゃろ」
小さくなってしまっている彼女を慰める言葉がない明石には、これ以上なにもかける言葉見つからない。
人の機微などわからないのだ。
彼女はずっと俯いていた顔を上げ明石を見つめて、今度はハッキリとその意思を持って言葉を紡ぎ出した。
事務仕事をしている時は弱々しいその目は、戦の指示は明確に力を放つ。それと同じような光のある視線だった。
「ずっと、明石さんが色々やってくれてたのわかっていたのに、なんにも言えなくて、甘えっぱなしで、ごめんなさい」
「は?」
「むつやごこや長谷部さんに甘えっぱなしだから、自分でなんとかしなくちゃと思って、明石さんに近侍をお願いしたの。
仕事したくないっていうのは本当だと思ったし、私は私で自分のペースで進められると思って……。
仕事が遅いから、いっつも結局むつや長谷部さんに手伝ってもらってて、もう何年もやってるのに、本当に、いつまでたっても学習しないの、嫌になっちゃうね」
照れたように、少し伏目にした瞳に影がかかったのを見て、「あ、本当に自まつげだったのか」と気付いた。
「ね、明石さん。
嫌でなければ、まだ私の近侍をやってくれますか?
私にここまでやらせてくれたの、本当にあなたが初めてなの。
みんな結構すぐに手出しちゃって。そんなに、頼りないのかな」
どうしようもないね、と言って、彼女が笑った。
今までの「審神者」の表情ではなく、おそらくきっと、彼女本来の、自然な零れるような笑い声だった。
彼女は、朴訥とした、突出したところのない、絵に描いたような「平凡」な顔の娘だった。
歴史を守るという大義の元、その歴史に消されてしまいそうな、印象に残らなそうな面立ち。やわらかな物腰だけはこの本丸内での唯一の「異性」を感じさせるが、それもまた演練などで他の人の子を見るとその異性の中でもやはり「平凡」だと思っていた。
今、思っていた、という過去になってしまった。
どうして、こんなに懸命になって、彼女を手伝ってしまったのか。働きたくないのが信条だったはずなのに。自分の中での整理はついていなかった。
毎日、毎日、なにもしなくていいと言われて、その通りにして、それはそれで「期待されない」のもまた自分の価値が低く見積もられて、無いと思っていた自分のプライドが面白くなかったのだと思っていたのだが、もしかして、そうではないのかもしれない。
触れることはないが、ずっと近くにいた一か月。
彼女が自分たち刀の見えないところで様々な采配を下し、苦手な整理をしながら事務仕事に取り掛かり、眉根を寄せながらも毎日文句も言わずに本丸を回している。それを、間近で一か月間ずっと見ていたのだ。彼女の苦労は、努力は、しっかりと刻まれてしまった。
目の前にある顔は、記憶にあるような「平凡」ではなかった。
さっき見た時に感じた「時の流れ」による気付きではない。
違う。これは、明らかに、違う。
見つめたことでか、自然な頬の赤味が少しだけ増して、眠たげな瞼の重さすら苦労の跡だと知っていると可愛らしく見え、少し伏せられたまつげがより長くくっきり見えた。
こんなにハッキリと、彼女を見つめたのは初めてで、男士たち同士でも美しいと思う顔も確かに存在しているが、そんなものではない。物質の整っている、という美しさとは別格だ。
この本丸にいる誰よりも、天下五剣にも劣らない美しさだと、直観した。
反応がない明石の態度にキョトンとしたその表情を見て、自分が取返しのつかない感情を手に入れてしまったのだと、ようやく気付いた。
「主はんが望むんなら、やらへんこともないですよ、近侍」
「じゃあ、まだまだ、ぜひよろしくお願いします!」
そして、これは、折れるまで、隠し通さねばとも。