お月見「おっさん、ちょっとベランダに出なさい」
レイヴンの前にいきなり立ちはだかったリタは、有無を言わせない勢いでそう言った。夕食を食べて、少しソファでぼうっとしていたのだが、何かやらかしてしまっただろうか。確か彼女は今日中にまとめたい結果があるから自室に引っ込んだはず、などと考えているあいだに、ぐいと腕を引っ張られる。
「ぼやぼやしてないで、早く」
そうして階段のところまで連れて行かれる。わかったわかった、と大人しく後をついていくことにする。
「リタっち、おっさんなんかやっちゃった……?」
ずんずんと廊下を進む背中におそるおそる聞くと、リタはわけがわからないというように顔をしかめた。
「なんかやったの?」
「いや、思い当たることは特に」
「じゃあいいじゃない」
よく分からない返答を残し、リタは突き当たりの扉を開けて夜のベランダへと出て行く。ベランダには小さな二脚の椅子と丸いテーブルが置いてある。テーブルの上には皿がひとつ乗っている。
「お団子……?」
「それより、上、上見なさいよ」
リタに言われて顔を上げると、団子の何倍も大きい立派な丸い月が煌々とかがやいていた。夜空にぽっかりと空いた光の空間のように。
「おお、お月さん、今日はいちだんと綺麗ね」
「暦の計算で、今日が一番あかるく見える日って決まってるの」
リタは得意げに鼻を鳴らす。これを見せたかったのか、と思わず口元がゆるむ。
「じゃあ、このお団子は?」
「なんか、エステルが『お月見のときはお団子を食べるのが古くからの習わしなんです』とか言ってたから、用意してみたのよ、なんとなくね」
そんな習わしなんてどうでもいいと興味を持たなそうな彼女が、親友の話を受けてわざわざ用意した光景を思い浮かべると、心が少しあたたまる。
「いいねえ、こういうの、風流っていうんだっけ」
「知らないけど、なんとなくよ、なんとなく」
照れ隠しなのか、同じ言葉を繰り返すリタを見やりながら椅子に腰かける。団子をぱくりと口にすると、塩辛いタレが柔らかい生地の中に詰め込んでありなかなか美味しい。
「うーん、酒のつまみになりそう」
「さっきもうけっこう飲んだでしょ、今日はだめ」
「えーん、リタっちきびしい」
泣く振りをしながら次の団子を口に運んでいると、隣のリタがぽつりと口を開く。
「……あんた、覚えてる? 満月の日に来るって約束したのに、ぜんぜん来なかったこと」
少しさみしげな声色をしていた。定期的に心臓を診せる約束をしたのに、覚悟ができずにいっこうにリタの元へ行かなかったこと。
「うん……あんときは、ほんと、悪いことしたよね」
「ほんとよ」
リタは足をぷらぷらと揺らしながら、月光を浴びるように上を向く。
「だから、丸い月がしばらく嫌いだった。来るのか来ないのか、見るたびやきもきするのが嫌だったから」
夜のなかに、リタの横顔が白く照らされていた。今はその輪郭がすぐ手の届くところにある。ここに来るまでに、ずいぶん長い遠回りをした。月がのぼって沈んで、満ちて欠けるのを幾度も繰り返した。
「でも、最近あらためて見るとね、夜でもこんなに明るいなんて、画期的よねって思ったの。灯の少なくなった世界から見ると特に」
「そうね、昔よりずいぶん明るく見える気がするわ」
この地上からどれくらい遠いのかわからないが、それでも遥か遠くからここまで光を届けている。近づけなくても、迷っていても、いつかその場所へたどり着けたらと願っていた自分のことを思い出した。
「リタっちがもうお月さん見るたび嫌になんなくていいように、目と心に焼き付けてよーく反省するわ」
「もう昔の話よ、まあ、反省してもらうに越したことはないけど」
「んじゃ、満月の日はこうしてお月見するっていうのはどう? 次からはおっさんもなんかやるし」
「毎月わざわざこんなことするの?」
「今日はリタっちがやってくれたじゃない、俺がお月さんの名誉挽回してくから」
「名誉が失墜したのはあんただけだけど」
リタはふっと目を細めて、月に向かってまぶたを閉じる。光を受け止めるように。レイヴンも、この光を浴びているといろいろなものが流されて心の奥が澄んでいくような心地がした。
(覚悟、決めていけるかな)
これから月を見るたび、何度も誓い直すのかもしれない。そうしたいと思った。リタの隣にいられる自分であるように、月がのぼるたび、ほんの少しずつでも強くなれるようにと。