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    小太郎物語

    彼は、何も持っていなかった。

    身の回りの品は、余りにも何も持っていない彼を哀れに思った周囲の人間から施し与えられたものだ。家族や友と呼ばれる存在もいない。物心ついたときから彼は独りであったし、何も持っていなかった。
    彼が持っていないものはそれだけではなかった。虫ですら発することのできる「声」すら、彼は持っていなかったのだ。何故自分が声を発する事ができないのかはわからない。だが彼は、その理由を知りたいとは思わなかった。
    何も持っていない彼に天から与えられたものは、人間離れした瞬発力と耐久力、そして、血のように紅い髪と氷のように蒼い眼だった。しかし、赤い髪も蒼い眼も、彼の住むこの国では異形のものでしかない。彼の姿を見た人々はその姿を恐れ、彼の異常とも言えるすばしっこさや体力を恐れ、鬼と呼んで忌み嫌った。
    村を追われ、里を追われ、どこをどう流れてきたのかはよく覚えていない。ふと気がついた時、彼は、影のような男達と共に過ごしていた。
    彼らが何者なのか、何故自分を助けたのかはよくわからない。だが彼らは飢えと寒さのために山の中で死にかけていた自分を拾ってくれた存在であり、生きるために必要な最低限のものを与えてくれた。男達が、彼の声が出ないことや髪や眼のことを然程話題にしないと言うことも、彼にとっては居心地がいいことだった。
    男達は彼ら以外の他者と関わらず、闇と共に暮らしていた。男達と共にある彼もまた、闇に紛れて森を駆け、影に潜み、己の行く手を阻むものの命を絶つ方法を徹底的に教えられた。そして彼は、それらの技を余すことなく習得していった。
    男達と彼の間に人間的な暖かさを持った交流など無かったが、幼い頃から独りで暮らしてきた彼にはさして気にならぬ事だった。人と関わる術など彼は知らなかったし、知りたくも無かった。


    闇を纏った男達と暮らし始めてしばらく経った、ある夜。
    彼らの一群は何者かの襲撃を受け、たちまちのうちに激しい戦いとなった。彼らに襲いかかってきた者の正体はわからない。どうして彼らに襲いかかってきたのかもわからない。彼に理解できたのは、相手を殺さなければこちらが殺されると言う事だった。
    無言のままに襲いかかってくる相手の喉を裂き、心の臓を貫く。千切れた身体の破片が宙を舞い、血の飛沫が大地を濡らす。闇の中、彼はほとんど本能的に敵を打ち倒していった。
    一体、どれほどの時が流れただろう。どれほどの敵を打ち倒した事だろう。一瞬の事のようにも思えたし、永劫の時を過ごしたような気もする。彼の小さな身体も手にした小刀も敵の血にまみれ、その髪のように深紅に染まっていた。
    ……ふと気がつくと、むせ返るような血の臭いが立ち込める夜の森の中で 息をしているのは自分だけだった。
    男達は皆死んでしまったのだろうか、それとも、生き残りをまとめてどこかへ逃げていったのだろうか。よくよく辺りを見回してみても、目に入るのは敵か味方かもわからぬ程の無残な死骸のみだ。
    男達が去っていた方向などわかるはずもないが、彼は、まるで親鳥を求める雛鳥のように、その後を追おうとした。だが、彼もまた身体中に傷を負っていたのだ。ことに、不意を突かれた際に切り裂かれた脇腹の傷は深く、そこからは今もまだおびただしい量の血が流れ出していた。
    彼は、全く持って不思議だった。常日頃ならば羽毛よりも軽く扱うことのできる自分の身体が、今はまるで鉛のように重いのだ。一歩足を踏み出すことすら途方も無い大仕事に思える。自分は一体どうしてしまったのだろう?
    ゆっくりと目の前が暗くなってきた。月が雲に隠れたかと思った瞬間に全身から力が抜け、もんどりうって地面に倒れた。すぐに起き上がろうとするのだが、手足にまるで力が入らない。普段の自分であるならば寝転がった状態からほとんど反動をつけずに立ち上がることができるのに、まるで、自分の身体が自分のものでなくなってしまったかのようだ。
    ……やがて、地面の上でもがく事すら億劫になってきた。周囲の景色が徐々に色を失い、闇の中へ沈んでいく。酷く寒い。
    手足の先端が氷のように冷たい。その冷たさは徐々に身体の中央へと向かってきているような気がする。これが心の臓まで辿り着いた時、ひょっとしたら自分は死ぬのだろうか。
    別にいいや、と彼は思った。自分が死んでも誰かが哀しむわけでもない。束の間共に過ごしたあの男達も、言葉を知らぬ赤毛の子のことなどすぐに忘れるだろう。
    もう何かを考えるのも面倒くさい。辺りが暗い。酷く寒い。

    彼は、静かに眼を閉じた。




    ……瞼に光を感じてゆっくりと眼を開けると、見知らぬ天井が見えた。
    はて、ここが話に聞いた地獄だろうかと考えた次の瞬間、自分が何か暖かいものの上に寝かされていることに気がついた。驚いて飛び起きようとしたが、途端に全身に走った激痛に思わず息を呑みこむ。
    歯を食いしばって痛みに耐え、だが、そのせいで、霞がかっていた頭がいくばくか鮮明になった。呼吸を整えてからゆっくりと起き上がって周囲を見回すと、そこは、彼が見たことも無いような清潔で広い部屋だった。布団の脇にある閉められた障子を通して柔らかな光が部屋に差し込み、彼の全身を暖かく包み込んでいる。彼が寝かされている布団も、今まで触ったことも無いほどに柔らかく、上等なものだ。
    暗く冷たい森の中で死にかけていた自分がどうしてこのような場所にいるのだろうか。事態が飲み込めないまま彼が呆然としていると、部屋の片隅にあった襖がことりと音をたてて開き、見知らぬ女の顔が覗いた。咄嗟に音がした方向へ振り向いた彼と女の視線が真っ向からぶつかり……次の瞬間、女は、けたたましい悲鳴を上げてぴしりとふすまを閉め、部屋を飛び出していった。
    あまりにも突然の出来事に彼が呆然としていると、しばらくして再び襖の向こうでのんびりとした足音が聞こえた。殺気も闘気も全く感じさせない足音の持ち主はゆっくりとこちらに近づき、襖の前で一旦止まるとそこで大きなくしゃみをした。その後で盛大に音をたてて鼻をすする音と咳払いが続いたかと思うと、『用心』と言う文字の欠片も無い様子で再び大きく襖が開かれる。そしてそこから覗いたのは、湯気のたった椀を盆に乗せて持っている老人の姿だった。
    さすがに緊張した彼は咄嗟に愛用の小刀に手を伸ばそうとして、再び全身に走った激痛に身体中を硬直させる。
    ふと気がついてよくよく自分の身体を見やってみると、彼が身に纏っているのは虱が沸いたぼろでも、どす黒く変色した血に染まった装束でもない。よく洗濯された着物であり、素肌には清潔な包帯が幾重にも巻かれていた。ただし、装束のそこかしこに忍ばせておいた得物は一つ残らず無くなっている。
    まさかあの老人がと思って顔を上げると、いつの間に近づいたのか、眼前にその老人の顔があった。思わず息を呑み、布団の上で後ずさると、老人は気分を害したように顔をしかめ、手に持っていたままの盆を枕元に置いた。

    「なんぢゃ、最近の童は礼儀をしらんのう」

    ……音が聞こえた。
    いや、ただの音ではない。……これは、「声」だろうか。

    「命の恩人を化け物扱いか?別にとって食ったりせんわい、まったく」

    声。人の声だ。
    黒い男達は彼のように声が出せない訳では無い様だったが、仲間同士ですら滅多に声を交わすことは無かった。伝達や確認の為に極々たまに発せられるそれも、周囲に響き渡ることをはばかるようなものだった。

    「なんぢゃ?お前。まだ眠っておるのか?」

    何かをはばかるような押し殺した声ではない。彼が幼い頃に毎日のように聞かされていた、己に対する罵倒でもない。
    このような「声」を聞いたのは、幾年ぶりのことだろう……。

    「これ!」

    耳元で大声を出されて、驚いた彼は思わず老人の顔を見やった。老人は彼が寝かされている布団の脇に腰を下ろし、面白くも無さそうな顔でこちらを見ている。
    「眼が覚めとるんなら、早う食ってしまえ。粥が冷めてしまうわい」
    差し出された高価そうな椀には、湯気の立った粥が入れられている。彼は、突然のことにどうしていいかわからないまま眼前の椀を凝視していたが、再び老人に怒鳴られて慌てて粥に口をつけた。が、勢いあまって熱い汁を飲み込んでしまい、激しくむせてしまう。
    「まったく、なにをやっておるのぢゃ。やれやれ……」
    呆れたような老人の声がして、優しく背中を撫でられる感触がした。
    呼吸を静めながら、彼は懸命に、混乱の極みにある頭を静めようとしていた。
    ここはどこだ。奴は誰だ。自分はどうしてここにいるのだ。
    頭の中に次々と疑問が浮かぶが、どれ一つとして答えが浮かばない。言葉を知らぬ彼は、誰かに何かを問いかけると言う行為も知らなかった。彼はただ、周りから与えられるだけだったのだ。
    いっその事、この老人を殺してこの場から逃げ出そうかとも思ったが、手足に僅かに力を入れるだけで身体中に激痛が走る。このような状態では人を殺すことはおろか、この建物から抜け出すことも難しいだろう。ここは大人しくしていたほうが得策かもしれないと、彼は思った。
    ようやく落ち着いた様子の彼を見ると、老人は目じりのしわをいっそう深くして笑い、こう言った。
    「さ、早う食ってしまえ。食い終わったら、もう少し寝ておるがいい」

    ……彼は、言われたとおりにした。


    老人は、代々続く名門の末裔であり、この城の現城主であるらしい。部下と鷹狩りに出ていたとき、森の中で血まみれになって倒れている彼を見つけたのだと言う。 
    得体の知れぬ虫の息の子供に対し、同行の部下達は(当然の事ながら)係わり合いになることを避けるよう進言したが、彼らの反対を押し切って、老人は子供を城に連れ帰って手当てをすることに決めた。どのような身分のものであろうとも、自分の領地で暮らす者を見捨てる訳にはいかんと言うのが老人の主張だった。
    彼の傷は常人であれば死んでいてもおかしくないほど深いものであったらしいが、元来持っていた強い生命力が彼を救ったようだ。老人の話すところによると、彼は拾われてから七日の間はずっと眠り続けていたらしい。傷が膿んだのか、夜中に酷い熱を出したときは自分が一晩付き添ってやっていたのだと、老人は自慢げに話していた。
    ……だが、老人の話を聞きながら、彼はますます混乱していった。この老人が何故自分を助けたのかも理解できなかったし、どうしてこのような扱いをするのかもわからなかった。彼は今までずっと虐げられ、疎まれてきた。その場合の対処方ならば黒い男達が教えてくれたが、この場合は一体、どうしたらいいのだろう……。
    「お前、もしかして、言葉を話せんのか?」
    老人の声で、彼はふと我に返った。顔を上げると、老人が自分の顔をしげしげとした様子で覗き込んでいる。
    ……その視線に気がついて、彼は思わず身を硬くさせた。老人はじっと、彼の目を見ていたのだ。
    彼の目の色は、凍てつく氷のように蒼い。そんな彼の蒼い目を見た者は驚愕し、悲鳴を上げて逃げていくか、酷く邪悪なものを見たときのように顔をしかめて彼を追い払うかの、どちらかだった。黒い男達は他の者よりかは反応が薄かったものの、それでも彼と目が合うたびに薄気味悪そうに目をそらしていた。彼はそのような反応にはもう慣れていたが、それでも心が冷たくなるのは抑えられるものではない。
    老人から顔をそらしながら、彼は思った。この老人が自分の目を恐れたのであれば、やはり殺してしまおうと。……だが。
    「……何と、変わった眼をしておるのう」
     老人はそう、しみじみとした様子で呟いたのだ。
    「まるで、小田原の空の色のようじゃ。……綺麗じゃのう」
    ……?
    …………綺麗?
    この老人は、今、なんと言ったのだろうか。……綺麗??
    全く聴きなれぬ言葉に、彼は思わず自ら老人の顔を見やってしまった。
    「ふむ。ちょっと涼しいかもしれんが、我慢するんじゃぞ」
    老人はしげしげと彼の目を覗き込んだ後で何かに納得したように一つ頷くと、緩慢な動作で立ち上がり、閉められていた障子を半分だけ開けた。途端に部屋に冷気が流れ込み、彼は思わず身をすくめる。
    「ほれ、見てみるがいい。お前とおんなじじゃ」
    ゆっくりと顔を上げた彼が見たものは、見事に紅く色づいた山々。そして、どこまでも続く、抜けるような青空だった。
    「あの木々もあの空も、お前と同じ色をしておるわい」

    ……最後に青い空を見たのは、いつだったろう。
    ずっとずっと幼い頃。既に、夢なのか現実なのかわからないほどの遠い遠い昔。彼は誰かの暖かい胸に抱かれて、同じ光景を見たような気がする。だが、物心がついてからの彼の記憶に残る空はいつも暗く、木々は闇をはらんで静まり返っていた。     
    空は青いものだと言うことを、木々は紅く色づくものだと言うことを、彼はすっかり忘れていたし、思い出す必要の無いことだと思っていた。
     
    「……うーむ、見事ぢゃ。我が小田原の風景はいつ見ても絶景じゃわい」
    ……そして。しみじみとした様子で呟く老人の声を聞きながら、彼は、今までに経験したことが無いような不思議な感覚を味わっていた。手に持ったままの椀の暖かさが身体の中にもひっそりと宿ったような、そんな気がしていたのだ。
    それは彼にとってまったく初めての感覚で、だが、不快な感覚ではなかった。
    まるで固まってしまったかのように外の景色を見やっている老人の姿をぼんやりと眺めながら、彼は小さくくしゃみをした。


    三.

    この老人は余程暇をもて余しているのではないか。
    そんな彼の疑惑が確信に換わるまで、そう長い時間はかからなかった。
    彼の傷は相当に深く、意識が戻ってからもしばらくは床を離れることができなかったのだが、その間老人は、彼が寝ている部屋をかなりの頻度で訪れていた。
    しかも、特にこれといった用事がある訳でもない。ふらりと訪れては枕元に座り、自分の先祖の話やらこの城や領地の話やらを気が済むまで話しては去っていく。相槌さえ打てない無愛想な自分に話をして一体何が楽しいのかと思うのだが、彼のほうも不思議なことに、この老人が傍にいることが不快と言うわけではなかった。
    あるとき、彼の世話係らしい女が、誰に聞かせるわけでもないように呟いたことがある。氏政様の酔狂にも困ったものだ、と。この女が何を言いたいのかはよくわからなかったが、どうやら氏政と言うのがあの老人の名前らしい、と彼は思った。
    彼が、誰かの名前を耳にするのはどれほどぶりのことだっただろう。
    ……そしてふと、その名前を心に刻みつけようとしている自分に気がついたとき、彼の両頬がかあっと熱くなった。何だろう、また熱が出てきたのだろうか。
    自分でも訳がわからないまま、これ以上何かを考えることは良くない気がして、彼は硬く目をつぶると、暖かな布団にもぐりこんだ。


    「具合はどうじゃ?紅丸」
     そして、しばしの時が流れ。秋も深まり、紅く色づいた木々もその葉のほとんどを落として冬支度を始めた、ある日のこと。小田原城の庭を二人並んでのんびりと歩きながら、彼に向かって氏政が尋ねた。
    ちなみに紅丸と言うのは、自分の名を名乗ることが出来ない(そもそも名前など忘れてしまっていたので)彼に氏政がつけた名前である。彼の髪の色から連想したのであろう、単純な名前だ。
    だが、彼はその名前が嫌ではなかった。その名前で呼ばれるたびに、心に宿った正体不明の温もりが強くなっていくような気がする。それは彼にとって相変わらず訳の判らない、奇妙な感覚ではあったのだが、不思議と心地よいものだった。
    彼がこの城にやってきてからそろそろ一月になる。その間で彼は凄まじいほどの回復力を発揮し、運び込まれた時には身体中にあった傷も、今ではどれもほとんど完全に治癒していた。
    どこぞに隠されたのであろう彼の得物は未だに返してもらっていないのだが、最近はそのこともあまり気にならなくなってきた。少なくともこの老人に対して自分が刃物を使用する必要は無さそうだと、そう思ったからだ。

    氏政はいつものように、一方的に話をしている。話の内容もいつもどおり、自分の先祖がどれほど立派で大層な人物であったのかとか、この城はこれだけの歴史の重みを持っているのだとかというものだ。寝かされていた頃からもう何度と無く聞かされてきた話であったから、彼は氏政の先祖についてもこの城の歴史についてもすっかり覚えてしまい、しまいには次に氏政が何について話してくるかと言う予想すらつくようになってしまった。
    この老人が何故ここまで同じ話を繰り返すのかはわからなかったが、それは彼にとって特に嫌なことではなかったので、彼はいつも黙って老人の長話を聞いていた。
    「そう言えば、お前の怪我はもうほとんど治っておるそうぢゃのう」
    と、話が途切れ、氏政が呟いた。
    「紅丸、お前はこれからどうするのぢゃ。どこか行くあてはあるのか?」
    氏政のその言葉を聞いて、彼は思わず立ち止まり、俯いた。
    行くあてなどある訳が無い。以前共に行動していたあの黒い男達は生きているのか死んでいるのかすらわからない。
    「身よりはあるのか」
    彼は、首を振った。
    「行くあてはあるのか」
     彼は、再び首を振った。
    「……ふーむ……」
    まったく不思議だった。今日はそれほど寒くは無いはずなのに、氏政の言葉を聞いた瞬間、自分でも驚くほどに心が冷えたのだ。余りにも冷たくて、何者かが彼の心の中に氷片でも投げ込んだのかと思ったほどだ。
    怪我が治り、ここにいる必要は無くなったのだから、冬が来る前に出て行ってもらわねば困る。氏政はきっと、こう言おうとしているのだろう。
    遅かれ早かれいつかは言われることだとは思っていたし、そもそも氏政に彼を養う義務など欠片も無いのだからそれは至極当然のことであったのだが、そう思っただけでこんなにも心が冷えてしまうと言うことが、彼は不思議でならなかった。
    村を追われたときも、黒い男達に捨てられたときも、ここまで心が動いたことはなかった。だのにどうして、この老人に捨てられると思っただけで、これほど胸が痛むのだろう。
    「…………」
    「…………そうか」
    氏政は、俯いたままの彼を見て何やら考え込んでいたようだったが、しばらくして一つ膝を打つと彼に向き直り、口を開いた。
    「ならば、ここにいるがいい」
    「…………?」
    普段聞きなれぬ言葉を耳にした彼の頭は、その意味を完全に理解するまで荷のしばらくの時間を要した。この老人は今、何と言ったのだろう?
    「行くあてが無いのなら、ここにいるがいいと言っておるのぢゃ」
    きょとんとした顔の彼を見て、自分の声が聞こえていなかったとでも思ったのだろうか。氏政は彼の顔を見やりながら、同じ言葉をゆっくりと繰り返した。
    その言葉を聴いた途端に、何故だろう、今度は心が温かくなった。その事が嬉しくて思わず緩んだ口元は、だが、氏政の次の言葉を聞いた瞬間に再び硬くこわばってしまう。
    「実はの、跡継ぎを欲しがっている部下がおるんぢゃよ。身分も人柄も悪くない男ぢゃから、お前はそやつに……」
    ……その瞬間だった。
    突如、木々が激しくざわめいたかと思うと、庭園の茂みのそこかしこから無数の黒い影が飛び出し、瞬く間に彼ら二人を十重二重に取り囲んだ。
    「なっ…な、なんじゃ、お前らはっ!?」
    驚愕した氏政が叫ぶが、影達は答えない。返事の変わりに背筋が凍るような殺気を投げかけてくる。微かな風にのって流れてくるこの臭いは、男達の黒い衣に染み付いた血の臭いだろうか。
    そして彼は、この臭いに覚えがあった。この気配に覚えがあった。間違いない。自分が一時共に過ごしていた、あの男達だ。
    何故今頃になって彼の前に現れたのだろうか。群れから外れて一人ぬくぬくと暮らしている自分に憎しみを抱いたのか。それとも、彼の口から男達の存在が知れ渡ることを恐れたのか。
    男達に尋ねたところで返答は無いであろうことはわかりきっていたので、彼は無駄な対応に時間を咲くことはせずに即座に身構えようとし……
    ……その途中で、息を呑んだ。得物が、無いのだ。
    彼がこの城に連れてこられたときに、着ていた装束と共にどこぞへ持ち去られた愛用の得物は、未だに手元に戻っていない。この城で過ごすようになるまでは寝る時でさえ武器を肌身離さず持っていたと言うのに、考えられないほどに平和な時を過ごしていた自分はすっかり呆けてしまっていたようだ。現に、取り囲まれるまで男達の気配にも殺気にも気づくことができなかった。武器も持たずに外に出て、それを当たり前のことだと思うようになってしまっていた。
    しかも、今この場にいるのは自分だけではない。氏政はとりあえず帯刀しており、今まさに刀を抜き放とうとはしているが、彼の目から見ても氏政の剣術が男達に及びもつかないと言うことははっきりとわかった。男達の狙いは間違いなく彼であろうが、奴らが氏政に手を出さない可能性は零に近い。
    彼は、目の前が暗くなるほどの絶望感に襲われながら、同時にこの期に及んでも妙な戸惑いを感じていた。……自分は、氏政を守ろうとしているのだろうか?氏政を失うことを恐れているのだろうか?
    「こ、このわしを誰と心得る!曲者ぢゃ、誰か……」
    止まってしまったかのように見えた空間を動かしたのは氏政の、悲鳴まじりの叫びだった。その叫びとほぼ同時に影の一つが老人へ飛びかかる。大気すらも引き裂くような勢いで氏政の首へと振り下ろされた黒い男の斬撃は、彼の体当たりにより寸でのところで防がれた。だが、これでもう、全てが決まってしまった。
    敵は一人ではないし、自分は反撃の手段を持っていない。彼に唯一残された逃走という選択肢も、自ら敵の懐へ飛び込んでしまったことにより、成功の可能性は皆無となった。
    ……ああ、自分は何故、こんな愚かな真似をしてしまったのだろう。何も持っていないはずのこの自分が、何かを失うことを恐れるなんて。
    思えば、この城に来てから、この老人に会ってから、自分でも理解できない感情ばかりが心を過ぎった。こんなに訳のわからない気持ちを味わうのならば、いっそあの暗い森で死んでいたほうがよかった。そうすれば自分はこの老人に会うこともなく、心に宿る暖かさも冷たさも知らずにすんだだろう。最期まで、余計なものを背負わずにいれただろう……。
    彼は、数瞬後に訪れるであろう死を予測して、硬く眼を閉じた。大気が再び切り裂かれる音が彼の耳に届き……

    ……その、次の瞬間。
    肉が絶たれる音と断末魔の絶叫が響き渡り、彼の全身に生暖かい液体が降りかかった。だが、不思議なことに、全く痛みは無い。数瞬後、自分ではない誰かが切り裂かれたのだと理解した彼は、慌てて目を開けると周囲を見回した。自分ではなく、氏政が犠牲になってしまったのかと思ったのだ。
    だが、彼の目に映った光景はまるで予想のつかないものだった。彼の眼前で、喉から大量に血を流して崩れ落ちる黒装束の男。妙に悠然とした様子で佇む氏政の姿。
    呆気にとられた彼の傍らを、ふいに一陣の風が通り抜けた。その風はまるで意思あるもののように縦横無尽に周囲を巡り、黒い男達を次々となぎ倒していく。ふと気がつけば、彼らを取り囲んでいた男達も全て急所を切り裂かれ、絶命していた。
    「さすがは風魔じゃ。見事なものじゃのう……」
     氏政がぼそりと呟いた。周囲に散らばる男達の死骸を恐る恐る見やり、恨めしそうなその視線と目があってしまったのか、ひっと息を飲んで眼をそらす。
    「……見事は見事じゃが、少々むごいのう……。紅丸には見せとうないわい」
    「…………」
    「ん?」
    唖然を通り越して呆然としている彼の姿に何を勘違いしたのか、氏政はただただ立ちすくんでいる彼を優しく抱き寄せると、自慢げに話し始めた。
    「北条が神風、風魔小太郎じゃ」
    言葉と同時に、最後の黒い男が物言わぬ骸となって地に落ちる。
    「我が北条家に代々仕える伝説の忍び。どうぢゃ、思い知ったかあ!」
    彼は、見た。誇らしげにそう宣言する氏政の腕の中から。
    周囲に無数に散らばる黒装束の男の死骸。その中央にふいに一陣の風が巻き起こり、ふと瞬きした次の瞬間にはもうそこに佇んでいた、大柄な男の姿を。
    風魔と呼ばれた忍び装束の男は一瞬だけ彼に視線を送ったが、すぐに氏政に向き直り、跪く。
    ……その姿を目に映した瞬間、何故だろう。突然彼の身体中の力が抜けた。崩れ
    落ちるよう倒れこんだ彼を、慌てた様子で氏政が支える。
    「紅丸!怪我をしたのか!?」
    氏政の叫びに、彼は首を振った。怪我などどこにもしていない。だが、どうしてここまで身体に力が入らないのだろう。
    しかもそのうち、更に訳のわからない事が起きた。安否を気遣う氏政の問いに首を振っているうちに、ふいに目の前が霞み始めたのだ。驚いた彼が顔に手をやると、いつの間にやら温かい液体が頬を濡らしていた。これは一体何だろう。血ではないし、汗でもない。いくら拭っても、目を押さえても止まらない。
    「これ、そんなに泣くでない。……怖い目にあわせてしまったのう……」
    泣く?自分は泣いているのだろうか。
    泣くとは、なんだろうか。
    「よしよし、もう大丈夫ぢゃからな。わしと風魔がついておるからのう」
    一体何が大丈夫なのか、何で自分は泣いているのか、彼は全くわからなかった。
    原因は一体何だろう。黒い男達の襲撃が恐ろしかったのだろうか。瀬戸際で命が助かったことに気が抜けたのであろうか。それとも……

    氏政の衣にしがみつき、彼は涙を流し続けた……。
    四.

    抜けるような秋空を背景に、見事な紅葉が揺れている。
    突然強く吹きぬけた風に散らされた葉が大きく空へと舞い上がり、いつものように独りで城門の「上」に佇んでいた彼の足元に舞い落ちた。
    遠くに見える、紅く色づいた山々。小田原は今日も良い天気だ。
    一日ごとに冷たさを増してくる風に紅い髪をなぶらせながら、彼は目深に被った鉢金の下で、空と同じ色の眼を僅かに細めた。
    ……確かあの方は、今日は鷹狩りに行くと言っていた。先程見回ったかぎりでは領内に異常は無かったが、昨今の情勢を考えると決して油断はできない。ましてやあの方は、何度危険な目に会おうとも懲りもせず、供も連れずに一人歩きをするような方だ。やはり念の為、自分も様子を見に行くことにしよう……。


    紅い髪と蒼い瞳を持つ童。その珍しい髪の色から主である老人に紅丸と呼ばれていた彼がこの城にやって来てから、もう何回赤く色づいた山々を見たことだろう。初めてこの城を訪れたときには貧相な、痩せっぽちな子供だった彼は、今や見違えるほどに逞しい若者に成長していた。
    但し、今の彼の姿を見ることができる者はこの国中でも片手で数えられるほどしかいない。彼は、忍びの者と呼ばれる存在になっていた。
    風魔一族が頭領、五代目風魔小太郎。それが今の彼の名前だった。


    時が流れ、名前が変わっても、身体が大きく、逞しくなっても、彼が持っているものはほとんど何も無かった。装束や得物、部下である下忍達は彼が仕える主から与えられたものであるし、声を発することができないのも相変わらずだ。風魔小太郎という名前でさえも、前にそう呼ばれていた男から受け継いだものでしかない。
    何も持っていない彼に与えられたものは、頑強な体躯と際立った瞬発力、そして、紅葉のように紅い髪と空のように蒼い眼だった。
    そしてもう一つ。

    「風魔、風魔!どこにおるのぢゃ?」
    ふいに、彼を呼ぶ声が聞こえた。視線だけを動かし、門の前で彼を探す主の姿を確認する。その姿を認識すると同時に一陣の風が巻き起こり、それが収まった時にはもう、彼の姿は門上には無かった。
    「なんぢゃ、そこにおったのか。探したぞい」
    巨大な城門の下、眼前の大木の枝に佇む風魔を見つけた氏政は、ニヤリと笑うと彼に背中を向けた。
    「さあ出かけるぞ。供をせい!わしの前と背後と左右を守るのぢゃ」
    「…………」
    「わしのお供は楽しかろ?……さあ、出発ぢゃ!」

    あれから随分の時が流れた。自分の身体が大きくなった分、この方は小さく、細くなったような気がする。彼に向けられた背中は、これ程までに薄かっただろうか。
    だが、その手の暖かさは変わっていない。その目を見た時に、その声を聞いた時に、彼の心に小さな温もりが宿ることも変わっていない。
    何故この老人と対するとこうまで心が動くのか、その理由は未だに彼はわからなかったが、それは決して不快な感覚ではなかった。


     
    何も持たぬ彼には、ただ一人、守るべき者ができた。





    Fin












    MARIO6400 Link Message Mute
    2022/06/03 10:42:37

    小太郎物語

    戦国BASARA・北条主従の物語です。
    風磨小太郎の設定は独自に考えたものです。

    じーじと小太郎が大好きです。
    #戦国BASAR 
    #北条主従  #北条氏政  #風魔小太郎

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    戦国BASARAのお話
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