イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    月嵐童物語 巻之六今年も生家の庭に、夏の初めを告げる紅い花が咲いた。この季節特有の強い風が吹き、その紅い花弁を火の粉のように散らす。
    白銀の髪を持つ少年は、まだ幼い弟の手を引きながらその中に佇み、己に課せられつつある使命と責任の重さを噛み締めていた。
    一族筆頭当主となり、永遠の責務を負い続ける我らを安寧へと導く。長きに渡る彼ら一族の歴史の中で、どの当主にすら成し遂げる事ができずにいたその偉業を、必ずや自分の代で達せねばならぬ。それが一族の長兄として産まれた彼の役目であり、必ずや果たさなくてはならぬ使命なのだ……。

    それはまだ元服も済ませておらぬ少年にとってあまりにも重すぎる責務である。だが同時に、その偉業を成し遂げられるのは他の誰でもなく自分しかいないのだと言う自尊心が心を満たし、彼の胸中を熱く燃やしていた。

    ……その時。

    「兄上」

    無言のままに舞い散る赤い花弁を見つめる少年の耳に己を呼ぶ声が響き、片手に暖かく柔らかいものが触れた。一人考えに沈んでいた少年はふと我に返り、呼びかけられた側に視線を向ける。
    彼の手を握りしめていたのは、まだ年端も行かぬ赤髪の童子……彼の弟であった。燃えるような赤髪を持つ彼の弟は、白銀の髪を持つ兄が険しい顔をして押し黙っているのを不安に思ったのであろう。琥珀の眼に涙を浮かべながら兄を見つめ、その小さな手のひらに精一杯の力を込めて兄の手を握りしめていた。
    幼い弟の必死の様に、知らずのうちに強張っていた彼の頬は緩み、口元には微かな笑みが浮かぶ。身をかがめて弟と視線を合わせ、燃えるような赤髪を優しく撫でた。
    私が守らなくてはならぬのだ。
    彼は思う。
    私が守らなくてはならぬのだ。赤髪の弟も、一族も、この世界も。
    全てを守り、安寧に導く担い手は、私でなければならぬのだ……

    「兄上」
    兄を見つめる弟の琥珀の眼から、涙が一筋こぼれ落ちた。全く、一族の男として生まれたにも関わらず、随分と泣き虫な弟だ。そんなことでは伝説の一族初代様に笑われてしまうぞ。彼は苦笑しながら、弟の頬にこぼれる涙を拭ってやる。
    何も恐れることはない、私が其方を守ってやろう。彼は赤髪の弟を安心させるようにそう呟くと、その震える小さな身体を優しく抱きしめるのだった。

    強い風が吹き、紅い花弁が宙に舞った。
    身を寄せ合う兄弟を包み込むかのように……。


    「兄上」



    「兄上…………?」


    目の前で火花が散り、鋼が灼ける臭いが鼻をついた。もうどれほど打ち合いを続けているだろう。何十合か何百合か、あるいは何千合かわからぬ程の剣撃を繰り返し、愛用の大太刀を握りしめた右腕は既に感覚を無くしかけている。彼の持つ大太刀は血にまみれ、その血が相手のものか自分のものかは最早見当がつかぬ。
    肩で息をする白銀の髪の若武者は、おびただしい血でぬめる太刀の柄を今一度固く握りしめ、裂帛の気合いと共に眼前の赤髪の若武者目掛けて斬りかかった。だが赤髪の若武者は既のところで身体を捻り斬撃をかわすと、後ろに飛び退きざまに懐より取り出した苦無を放つ。投げられた鋭い刃を、彼は避けようとした。普段の彼ならばそのような攻撃など難なく避けられるはずであった。だが、白銀の髪の若武者の体力も気力も、既に限界に近づいていた。
    放たれた刃は彼の鎧の間隙を縫い、左腕の付け根に根元まで突き刺さった。紅く血塗られた切っ先が背から突き出し、灼熱感と共に身体中に激痛が走る。
    思わずよろめいた彼の隙を、赤髪の若武者は見逃さなかった。一気に彼との距離を詰めると携えていた得物を振りかぶり、最上段の構えから炎のような一撃を放つ。
    避けるか、受けるか。……身体の自由が効かぬ。避けられない。彼は大太刀を構えると、赤髪の若武者の斬撃を正面から受け止めた。鋼と鋼が激しく打ち合わされ、金属が焼ける臭いが鼻を刺す。だが、赤髪の若武者の猛攻はそれで終わることはなく、彼は一方的な防戦を強いられる事となった。
    万華鏡の如くに数多の手段を繰り出す赤髪の若武者の攻撃を、彼は全て防ぎ、避け、受け流していた。しかし、次第に身体が重くなり、研ぎ澄まされていたはずの感覚が鈍くなっていく。左腕を貫いたままの苦無は動くたびに身体の肉を大きく抉り、彼に残された血と生命とを奪っていった。
    「敗北」の二文字が脳裏を過ぎる。馬鹿な、私はここで負けるのか。幼き頃よりの我が願いも、一族の責務も果たすこと無く。このまま赤髪の若武者に……我が弟に斬られ、一族の者たちより当主に刃を向けた謀反者の烙印を押され、惨めに孤独な生を終えるのか。
    眼前に白い靄がかかり始め、耳に鳴り止まぬ剣撃の音が次第に遠ざかっていく。己の命の炎に吹きかけられる死神の冷たい吐息が確実に強さを増していくのを、彼は感じていた。


    燃える炎のような赤髪を持つ、伝説に謳われる一族初代。彼の弟は、初代と瓜二つの赤髪を持って生まれ落ち、その姿に感銘を受け……いや、惑わされた両親から、初代と同じ名を与えられていた。
    それだけではない。弟は自身に何の実力も持たぬくせに、伝説の一族初代と同じ色の髪と名を持つと言うただそれだけの理由で、本来ならば長子である彼のものであったはずの一族当主の座を奪っていったのだ。

    第27代一族当主。それは、幼き頃より周囲から歴代最強と称えられし彼にこそ与えられるべき地位であり、称号であるはずだった。彼はその期待に答えて歴代最も優れた当主になり、永遠の責務を負う一族を安寧へと導く人物になるのだと、まだ年端も行かぬ少年の頃より心に決めていた。
    一族当主になる。ただそれだけを目標に、彼は昼夜問わずの厳しい修行と勉学に明け暮れてきた。物心ついてより、自分にはその道こそが全てであったのだ。
    少年時代、無邪気に大人に甘え、子供らしい我儘を口にする間も無かった。深く心を通わし、胸の痛みを分かち合える友と出会う間も無かった。当主になると言う目的のため、彼は多くの犠牲と労苦を払ってきたというのに、後から生まれた赤髪の弟は「伝説」と言う大きく強い翼を生まれつき身に纏っていた。そして弟はその紅き翼を羽ばたかせ、独り地面でもがく彼の努力と実力とを軽々と飛び越えていったのだ……。

    だが、天の神は、哀れな彼を見放すことはなかった。
    27代一族当主の名が告げられたあの夜。終に彼の名が呼ばれることは無かったあの夜。この先を生き続けることさえ耐えられぬほどの屈辱を与えられたあの夜に、天の神は、絶望に沈む彼に文字通りに救いの手を差し伸べたのだ。
    その導きに促されるまま、彼はこの地に足を踏み入れ、そしてそこで「伝説」を目にすることなる。……そう、弟に与えられた名や赤髪など及びもつかぬ、真の「伝説」そのものを。

    ……しかし、導かれたはずのこの地で、彼はまたもや「伝説」に裏切られ、嘲笑される事となった。
    目前に顕現した「伝説」は、それを欲する彼の求めに決して答えようとはしなかったのだ。そして「伝説」に拒絶され、呆然と佇む彼の前に現れたのは、燃えるような赤髪を持つ彼の弟であった。
    弟が何故この場に現れたのか、その理由など知ったことではない。だが、弟がこの場に姿を見せたその瞬間、彼の呼びかけには決して答えようとはしなかった「伝説」は、突如覚醒したかのように光り輝き、弟の魂と共鳴するかのように力強く鼓動を打ち始めた。
    ……そう、そうだ。彼はまたもや選ばれなかったのだ。此度も選ばれたのは、燃えるような赤髪を持つ彼の弟であったのだ。
    その事実を目の当たりにした彼は、己の心が粉々に砕け散る音を聞き、胸中に燃え盛る赤黒い憎悪をはっきりと自覚した。自分から何もかもをも奪っていく弟に対して。これだけ切実に求めても己を拒絶する「伝説」に対して……。
    驚いたような顔で自分を見つめる赤髪の弟を前に、彼は何も言わずにゆっくりと抜刀すると、銀色に煌めくその刃を弟に向ける。
    眼前の弟は(彼は決して認めたくはなかったのだが)第27代一族当主であり、弟に刃を向けると言うことは即ち、君主に対する反逆を意味する。
    武士として最大の禁忌を、己の行為を、だが、彼はもう止めることができなかった……。


    白銀の若武者の全身が軋み、身に纏う黒曜の鎧は鉛のように重く身体に食い込む。彼の心臓は早鐘の如くに打ち鳴らされ、あまりに激しすぎるその鼓動のせいであろうか、視界には薄く霞がかかっている。喘ぐように肩で息をするたびに、口腔に血の味が広がった。
    既に彼の体力は限界を超え、己の両の足で地に立つことすらおぼつかぬ有様であった。ふと気を抜くと意識が闇に吸い込まれ、そのまま二度と這い上がれぬ闇に呑まれそうになる。だが彼は強く歯を食いしばり、己に向かい差し伸べられる死神の手を怒りを込めて払いのけた。

    ――これで、これで終わりはせぬ。

    彼は音がするほどに強く歯を食いしばり、太刀の柄を握り直した。

    ――この程度の苦痛など、これまでの人生で数え切れぬ程に味わってきた。私こそが真の27代当主なのだ。

    白銀の髪の若武者の蒼い眼に炎が揺らめき、強い光を放つ。

    ――私こそが、我が一族に真の安寧をもたらす男なのだ。一族当主になる。それこそが、私が生きてきた理由なのだ……!

    彼は一つ大きく息を吐くと、雄叫びを上げながら愛用の大太刀を振りかぶる。大上段に掲げたそれを、裂帛の気合いと共に赤髪の若武者目掛けて振り下ろした。
    空気をも引き裂くようなその一撃は、だが、琥珀の瞳の眼前で受け止められ、激しい火花を散らしながら払いのけられる。だが彼の猛撃は止まることはなかった。白銀の髪を持つ若武者の攻撃はその生命を燃やし尽くすが勢い。まさに、金色の雷鳴の如くの嵐舞であった。

    斬る、薙ぐ、打ちかかる。得物同士が鍔迫り合い火花を散らす。鋼が灼ける臭いと互いの身体から散った血の臭いが入り混じり、武者二人の嗅覚を麻痺させていく。
    いや、嗅覚だけではない。最早彼の身体中全ての感覚は無くなりかけていた。そしてそれは、彼と対峙する赤髪の弟も同じであった。
    白銀の武者と赤髪の武者は、両者ともに己の最期が近いことを自覚していた。
    両者は共に雄叫びをあげ、互いの得物を掲げて突進する。
    兄弟の得物同士が一際激しく打ち交わされ、その勢いで大きく弾き飛ばされた二人がどうにか体勢を立て直した、……その瞬間だった。



    突如、白銀の若武者の全身を赤紫の妖気が包み込んだ。前触れも無く、空間の裂け目から突然に湧き出したかのような邪悪なそれは、最早身体の自由が効かぬ彼の身体にまとわりつき絡みつき、鼻腔や口から身体の内部へと流れ込んでいく。

    突然に起きたこの現象に、赤紫の妖気の只中にある彼でさえも何が起きているのか理解できず、微動だにすることができなかった。……だが、自分の身体の中に無理矢理に侵入してこようとするこの気配には覚えがある。
    これは、この気配は、自分をここまで導いてきた「神」の気配だ。絶望の淵に沈んだあの夜に自分に囁やきかけ、私を「伝説」へと導いた「神」の気配だ。
    彼が「神」と信じたその気配は、今や邪悪な赤紫の妖煙となり彼の全身を捕らえ、内側からその魂を汚していた。次第に目の前が赤黒く染まってゆき、己の意志とは関係なく身体が震え、手足が動いた。

    全ての音が遠くなっていく中、自分ではない誰かが何かを必死で叫んでいるのが聞こえた。奴は何と言っているのだろう。繰り返し呼ばれるその声は何故だか酷く懐かしく感じられる。遠い遠い昔、懐かしいその声は確かに自分をそう呼んでいた……

    「……兄上!!」

    赤髪の若武者の絶叫とほぼ同時に、白銀の若武者はまるで獣のような凄まじい叫びをあげた。理由はわからない。だが、今や彼の全身に異様なほどの活力が漲っていた。何処からか湧き上がった謎の妖煙に包まれ目の前が赤黒く染まったあの瞬間から、不可思議な程の闘争心と目の前にいる相手への殺意が湧き上がり、白銀の髪を持つ若者に無限の力を与えていた。
    つい先程まで、彼の気力も体力も限界を越えていたのだ。身に纏う黒曜の甲冑がまるで岩のように重く感じられ、己の生命の灯火が吹き消されようとする気配を、大きく息を吸い込む死神の吐息を間近に感じていたのだ。
    だが今では身体中に活力が巡り、あれだけ身体に喰い込んでいた甲冑の重さなど微塵も感じぬ。まるで若鳥の羽毛を纏っているかのようだ。

    彼は歓喜の叫びを上げ、異様な活力と共に湧き上がった眼前の相手への殺意のまま、赤髪の若武者の首めがけて愛用の大太刀を薙ぎ払った。半ば呆然としていた赤髪の若武者は、しかし彼の斬撃を間一髪でかわすと素早く体勢を整え、手持ちの得物を構える。だが彼にはわかっていた。「神」に救われ、その力を与えられた自分とは違い、最早赤髪の若武者の……弟の生命は枯渇しかけていると言うことを。
    肩で息をする赤髪の若武者に侮蔑を込めた視線を送ると、その次の瞬間に一気に間合いを詰め、驚愕の表情を浮かべた若武者の横腹目掛けて全身の体重をかけた蹴りを叩き込む。確かな手応えと共に、相手の身体が宙に舞った。
    無様に地を転がり、腹を抑えて蹲る若武者を見下ろし、湧き上がる優越感と共に彼は笑う。ああ、何と言うことだ。全身に力が漲り、溢れている。今の彼ならば一日に千里を走り、眼前に立ちふさがる敵全てを一刀のもとに斬り捨てる事もできるであろう。
    口元に笑みを浮かべたままに、腕の付け根に刺さったままであった苦無を引き抜く。抉られた傷口から鮮血が吹き出し、彼の白皙の肌を赤く染めた。尋常では無い出血であったが、彼の身体も精神も小揺るぎもしていない。
    己の血で染まった苦無を投げ捨て、赤髪の若武者に向き直る。若武者は苦しそうに顔を歪め、必死で体勢を立て直そうともがいていた。彼奴が再び立ち上がるまでの間に再び間合いを詰め、一刀の元に斬り捨てる事など今や造作もない事だ。だが彼は敢えてそうせず、精神の奥からこみ上げてくる心地よい優越感に浸りながら、苦しげにもがく赤髪の若武者の姿を見つめていた。

    彼は「神」に選ばれ、この場所に導かれた。それは一体なんの為に?…………是非もない。やはり自分こそが真の当主の器であったと言う事だ。「神」は偽りの当主就任を許すことは決してなく、真に相応しき実力を持つ者に「伝説」を託すことを決めたと言うことなのだ。
    一族の腑抜け共はそれに気づくことができず、ただ彼奴目の外見に惑わされ、愚かにも資格無きものに当主の座を与えた。その証拠に、見よ、地べたに無様に転がり血と泥にまみれてもがく彼奴の姿を!この浅ましい姿を晒す者が一族当主とは片腹が痛い。
    今こそ彼は、私は、弟の分際でありながら無礼にも兄を敬わず、周囲の愚か者どもに踊らされるままに過ぎた地位に就いた愚弟に、罰を与えねばならぬのだ!

    禍々しき赤紫の炎が、彼の心中に燃えた。
    彼はゆっくり赤髪の若武者に近寄ると、未だ立ち上がる事ができぬ哀れな姿の弟を冷たい目で見下ろし、手にした大太刀を大きく振り上げる。振り上げながら彼は笑った。彼は、この一太刀で弟の全てを終わらせる気は無かった。
    目の前で哀れに蹲る赤髪の若武者は……彼の弟は、身の程をわきまえず実の兄を侮辱し、見下した。その罪は真に重く、一撃で楽にしてやるのはあまりにも生ぬるい。
    すぐには殺さぬ。罪深きその身に、今まで其方が犯してきた罰を一つずつ刻んでやろう。まずは両腕を斬り落とし、次に両足の腱を斬る。その後に耳と鼻を削いでやろう。達磨のようになったその後は、しばらくそのままに生かしてやってもよい。散々に弄んだその後に、地獄の魑魅魍魎どもの餌としてくれよう……。
    彼は、脳裏に浮かんだ血なまぐさい想像に舌なめずりをする。そしてそれを現実にするために、頭上に掲げた大太刀を一息に振り下ろそうとした……
    ……その刹那。


    「兄上」

    赤髪の若武者が苦痛に顔を歪めながらも視線を上げ、消え入りそうな声でこう呟いた。

    「……兄上」

    その瞬間、彼の心の臓が激しく鼓動を打ち、眼前の世界が大きく揺れる。赤紫に染まった無音の視界に急激に色と音が戻ってゆき、弟めがけて振り下ろそうとした大太刀はそのまま凍りついた。

    兄上。
    彼はその声を知っていた。まだ彼が少年だった頃、その声の持ち主は彼の服の端を掴み、屈託の無い笑みを向けてきた。暖かなその声は自分を兄と呼び、どこに行くにも何をするにも一緒だった。
    兄上。
    彼はその声を知っていた。彼はその声の持ち主の小さな手が精一杯の力を込めて己の手を握り、涙の溜まった琥珀の眼で己を見つめていたことを知っていた。
    そのぬくもりを、その琥珀の眼を、彼はかつて、この世の誰よりも愛おしんでいた……。

    そうだ、此奴は私の弟なのだ。この世で唯一人、己と同じ血を分け合った。
    遠い昔のあの日。火の粉のように舞い散る紅い花弁の中でその小さな震える身体を抱き、何があろうと弟を守ると決めたのは、他でもない私ではないのか……!

    ……どうした、手に持つこの大太刀を振り下ろせ。それで全ては終わるのだ。
    太刀を振り上げたままに硬直した彼の脳裏に、自分ではない自分の声が響いた。
    偽りの当主を討ち果たし、真の後継者が伝説と共に一族を安寧へと導く。それは永の年月の間、お前と言う人間が血を吐くほどに想い悩み、憧れ焦がれた願いだ。
    この手で実弟を討つという修羅の決断も、だが決して後悔はせぬと心に決め、選び進んできた事だ。今更くだらぬ情に流され全てを無駄にするつもりなのか。
    頭に響く自分ではない自分の声は、彼の脳裏に幾重にも反響し、精神を苛んだ。

    ……だが。

    違う、そうではない、これは私が望んだものではない。
    赤紫の闇に侵食され、半ば暗黒の中に消えかけていたもう一人の自分が絶叫した。私は確かに実の弟を斬ろうと決意した。それは事実であり、私自身が決めたものだ。
    だが、私が弟に望んでいたのは武士として、当主の座をかけての一騎打ちであり、あのような、残虐で卑怯な仕打ちでは決してない。

    暗闇から逃れたもう一人の自分は更に叫んだ。この私に卑劣な真似をそそのかす「お前」は、誰だ。何者だ。「お前」は私を導く神ではないのか。
    「お前」が神でも伝説でも無いのであれば、今の自分の心身を半ば支配している「お前」は誰なのだ。私は「お前」に導かれ地獄の底にまで堕ち、武士の身でありながら一族当主に刃を向けるという大罪すら犯したのだ。「お前」は、一体……!

    ……と。
    眼前に渦巻き、ともすれば己の身体に、心の中に入り込もうとする赤紫の闇に必死で抵抗する彼の視界の隅に、青く輝く美しい光が灯る。清らかなその光は瞬く間に天を衝く炎のように燃え上がり、彼の全身を包み込む闇を凌駕する輝きとなった。
    あまりにも強く眩い光の洪水に圧倒され動けずにいた彼の目の前で、蹲ったままでいた赤髪の若武者が……彼の弟がゆっくりと立ち上がり、輝く光に手を伸ばす。そして弟の手が光の塊を握りしめたその瞬間。
    ……世界が白熱し、光が爆発した。

    そして、まともに眼を開けていられぬほどの光の奔流に必死で抗いながら彼は見た。赤髪の若武者が……彼の弟が、今や太陽のように輝く光の塊を……いや……あれは、ああ、「あれ」は……
    彼の弟が天に向かい掲げていたもの。それは、その身から清らかな蒼き霊力を濁流のようにほとばしらせる「伝説」であった。
    彼が幼い頃より憧れ焦がれ、いつの日か必ずその手に掴もうともがき、足掻き、求め続けていた「伝説」は、彼ではなく彼の弟の手中にて輝き、目覚め、歓喜に震えるかのように脈動している……

    ……私は、選ばれることはなかった。

    清らかな青き光に圧倒され、微動だにできずいた彼は、只、想った。
    私は、ついに選ばれることはなかった。

    「伝説」が選んだのは私ではなかった。
    私の想いは、通じることはなかった。

    時が止まったかのような彼の脳裏に浮かんだ景色は、血のように赤い花弁が宙に舞う生家の庭だ。

    まだ少年だったあの日。強風に煽られ火の粉のように舞い散る赤い花弁の中に、彼は佇んでいた。まだ何も知らなかった無垢なその胸中に、必ずや一族で最も優れた当主になろう、我こそが一族の責務を終わらせる役を負うものなのだからと言う、強い決意を燃え上がらせ。
    ……だが、彼の想いは通じることはなかった。彼は一族当主には選ばれず、それを認めることができぬ己の弱さ故にできた心の隙間を「魔」に……ああ、そうだ、「神」ではなく「魔」に付け込まれ……惨めに闇に堕ち果てたのだ。

    限界を超えた絶望と憤怒で赤紫に霞む視界を、清らかな青き光が照らし出していく。
    閃光を放つ青き光を構え持ち、真っ直ぐに我が元に向かうは紅蓮の炎だ。紅蓮の炎……いや、そうではない。燃えるような赤髪を炎のようになびかせ、清らかな光を放つ「伝説」を構え、月のように風のように魔のように我が元に参じるは、血を分けし我が弟だ。
    我が弟、第27代月氏当主、月風魔……!

    一族当主が構え持つ「伝説」の青き光は一層の輝きを増し、彼の周囲に叢雲のように漂う赤紫の闇を引き裂き、霧消させてゆく。そしてその輝き衰えぬまま、「伝説」の刃は彼の胸の中心を一直線に貫いた。
    眼前に、無数の赤い花弁が舞い散った。

     


    無数の赤い花弁が、宙に舞っている。
    強い風に煽られ、空に踊る赤い花弁。嗚呼あれは、生家の庭に咲いていた、初夏を告げるあの花だ。幼き頃は弟と二人、まるで火の粉のように舞う花弁を眺めていた……

    「兄上」

    彼の眼前で、燃えるような赤髪が揺れた。眼の前の赤髪の若武者は……いや、彼の弟は、燃えるような赤髪を持つ彼のただ一人の弟は、その琥珀色の眼に涙を浮かべて固く歯を食いしばり、今にも泣き出しそうに顔を歪めながらじっと己を見やっている。
    その弟の必死の様に、ずっと強張ったままでいた彼の頬は思わず緩み、口元には微かな笑みが浮かんだ。彼は震える手をゆっくりと伸ばすと、弟の、燃えるような赤髪を優しく撫でる。

    私は遂に、選ばれることはなかった。

    弟の髪を撫でながら、言葉には出さずに、彼は思う。

    私は、一族からも「伝説」からも、選ばれることはなかった。
    我が想いは届くことはなかった。

    ……だが、私はここまで来れたのだ。
    己の意思で。
    己の力で……。

    彼の身体の中心を貫く清らかな青き光は、心身を汚していた赤紫の闇をみるみると清め、祓ってゆく。祓われ清められ消えていくのは赤紫の闇だけではない。眼を開けていられぬほどに眩い浄化の光の中で、彼は、永の間己を支配し、駆り立てていた熱い何かがその身より止めどなく溢れ、流れ落ちていくのを感じていた。我が身より溢れこぼれる何かの量が増すごとに身体の自由は失われ、脳裏には薄く霞がかかってゆく。……だが、何故であろう。それは不思議と心地よい感覚でもあった。

    「……兄上」
    兄を見つめる弟の琥珀の眼から、涙が一筋こぼれ落ちた。
    全く、幾つになっても本当に泣き虫な奴だ。
    弟の涙を見て、彼は苦笑した。
    其方はもう子供ではない。一族の者にそのような情けない姿を見られたりでもしたら一大事だ。さあ涙を拭き、背筋を伸ばせ。其方は……其方は、我が一族の第27代当主なのだぞ……。

    まるで張り付いていたかのようにずっと握りしめたままでいた愛用の大太刀が、手から離れて地面に落ちた。視界が急速に白く霞みゆき、身体中の力が抜けていく。何故だろう、酷く寒い。
    一族第27代当主である赤髪の弟は、固く歯を食いしばり、琥珀色の眼に涙を浮かべて彼を見つめている。
    彼の大切な、ただ一人の弟が涙を流している。何をそんなに悲しんでいるのだろう。
    大丈夫だ、何も恐れることはない、私が其方を守ってやろう。彼は赤髪の弟を安心させるように微かに微笑むと、幼い時分のあの日のように、その震える身体を抱きしめてやろうとした。
    ……だが、彼の身体が動くことは、二度となかった。



    強い風が吹き、紅い花弁が宙に舞った。たった二人きりの兄弟を包み込むかのように。
    既にここではない何処かを見つめたま、血まみれの姿で横たわる白銀の髪の若武者の口元には、微かな微笑みが浮かんでいる。



    ……風が吹き、血混じりの砂塵が宙に舞う。
    微かな嗚咽は、風の音に掻き消された。



    fin.
    MARIO6400 Link Message Mute
    2022/06/30 15:53:28

    月嵐童物語 巻之六

    月風魔伝UndyingMoon、私が想像する月嵐童物語最終話です。
    めちゃくちゃ力を入れて書き上げました。
    感想などありましたら教えてくださったら嬉しいです。

    #月風魔伝 #GetsuFumaDen #月風魔伝UndyingMoon #月風魔 #月嵐童

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品