月嵐童物語 巻之弐右手に走った激痛に、手にしていた木刀を取り落とした。雲間から月が姿を見せて辺りを照らし、刀の柄にこびりついていた赤黒いものに気がつく。その時彼は初めて、己の両掌が血まみれであった事に気がついた。
草原をそよがせ渡る夜風が、彼の、まだ幼さが残る頬を撫ぜる。彼は大きく息を吐くと額の汗を拭い、その場に座り込んだ。
呼吸が整っていくのに比例して忘れていた痛覚が蘇り、顔をしかめながら今一度己の手を見やる。幾度も皮が破け豆と血にまみれたその手は、まだ年端も行かぬ少年のものとは思えなかった。
滴る赤い血は、彼に弟の存在を思い起こさせた。伝説に名高い一族初代と同じ、燃える焔のような紅い髪を持って生まれた彼の弟。それだけの理由で初代の名を継ぎ、兄である自分を差し置き、周囲に崇め奉られている実の弟の存在を。
彼は顔を歪め、何かを振り払うかのように大きく首を横に振った。一つ大きく息を吐き、夜空を見上げる。そこには、孤独な彼を見守るかのように、大きな銀色の月が浮かんでいた。
彼は孤独であった。名のある一族の長子に生まれた身にも関わらず。本来ならば次期当主の座に最も近い身にも関わらず。今や両親や家臣のみならず、市井の民までもが次期当主は初代の生まれ変わりである弟に違いないなどと囁きあっている有様だ。
彼は、血を分けた弟を憎んでいた。憎んでしまっていた。本当は、憎みたくなどなかった。今より幼い時分には、自分を兄と呼び慕ってくる弟を愛おしいと思い、何をするにもどこに行くにも一緒だった。なのにいつからだろう、二人が比べられ、比較され始めたのは。どちらがより当主に相応しいか、品定めのような目で見られ始めたのは……。
彼らへ向けられる目に明確な差異が出てきたのはいつからであっただろう。己に向けられていたはずの称賛の眼差しが一つ、また一つと弟へ向けられていったのは。眼差しだけではない、彼に向けられていた暖かな言葉も将来への期待も、全てが弟のものになっていったのは。……そう、奴がただ、一族初代と同じ髪色と名前を持つと言うだけで。
彼は孤独だった。そして寂しかった。まだ弟がこの世に誕生する前の時のように、父親や母親に日々の成長を認められ、暖かい言葉をかけてほしかった。だが、親たちは彼よりも弟の成長を崇め讃えて称賛し、兄である彼の存在は眼に映っていないかのようだった。
だから彼は誓ったのだ。銀色の月の下で、悔しい涙を流しながら、たった独りで。伝説に打ち勝つことを。
初代とやらが何だと言うのだ。伝説などに負けるものか。自分はもっと偉大なものに認められ、最も優れた一族当主となってやろう。心身ともに鍛錬を続けて様々な政を学び、誰もが認める立派な人間になることができれば、きっと皆は自分を認め、褒め称えてくれるだろう。きっとまた、自分のことを見てくれるだろう。臣下たちも領民も、父上も、母上も……。
再び強い風が吹き、彼以外は誰もいない夜の草原をざわめかせた。
座り込んだままの姿勢で月を見上げていた彼は、ふと思い出したように己の手を見やる。まるで自身の身体を罰するかのような過酷な稽古のせいで幾度も皮が破け、赤黒い血に染まった掌は、まだ年端も行かぬ少年の手とは思えぬ痛々しげな有様だ。
……だが、先程まで流れていた紅い血は、もう止まっていた。
彼は大きく息を吐くと、放り出されたままの木刀を手に取り立ち上がった。汗と血が染み込んだ木刀の柄を握りしめた途端、掌に鋭い痛みが走る。彼は一瞬だけ顔をしかめたがすぐに視線を上げ、頭上に浮かぶ月を見上げた。
孤独な彼を見守るかのように銀色に輝くその月は、昔から何も変わってはいなかった。まだ何も知らぬ幼子だった頃、弟と共に見上げていたあの夜と。初めて馬を乗りこなし、興奮のあまり眠れずにいたあの夜と。両親の期待は自分ではなく弟にあるのだと気づいてしまい、涙を流しながら見上げたあの夜と……。
変わらぬ月を見つめながら、彼は心に決めていた。もう二度と涙は流さぬと。紅き伝説など己の力で覆してやろう。一族を安寧に導き、長きに渡る当主の務めを果たすのは自分なのだ。なあ、そうであろう、天の月よ。
風が吹き、雲が動く。銀の月は無表情に少年を見つめ返すと、雲の衣に身を隠した。
夜風が小さな渦を巻き、彼以外は誰もいない草原をざわめかせ、そして消えていった。
Fin.