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    食欲礼賛 総集編プロローグ六月――千葉のチャーシュー麺と五目焼きそば七月――新宿駅のジャーマンブランチビアセット八月――船橋のおまかせ寿司九月――神保町のナポリタン十月――井の頭のカリーヴルストとフランクフルト十一月――御茶ノ水の台湾まぜそば十二月――ハ○ニカ横丁の生パスタ一月――新宿三丁目のおばんざいと野菜バイキング二月――小金井の油そば三月――中道通りのソフトクリームプロローグ
     本丸によって、刀剣男士には個性の差が出る。そんな話が出回り始めてどのくらいが経っただろう。我が本丸では、ズバリ『食い意地』がそれだ。
     面倒でも三食におやつは必ず食べ、得意分野は違えど全員ある程度料理ができるのは当たり前。「嫌いな物も一口はノルマ」をルールにしている内に、いつの間にやらピーマンもニンジンも食卓からきれいに消えるようになり、今日も今日とて男子校の寮レベルのスピードで炊飯器は空になる。出陣や遠征の予定はあっても、三食の内一度は全員そろっていただきますと手を合わせ、畑当番への感謝はかかせない。海外の児童文学を読み聞かせてもらった短刀たちの希望で、キッチンの床を片づけてきれいに掃除をして生地を広げ、大量のショウガ焼きクッキーを作ったのは今でも語り草だ。ちなみにフライパンを使った巨大カステラは、当然だがもう作った。
     そしてこの、いつも私のそばで近侍を務める刀も、ご多分にもれず食いしん坊だ。へし切長谷部という刀は、十秒チャージやカップ麺とお友達だったり食に対する執着が薄かったりする本丸もあるようだが、うちじゃそんなところは欠片も見せない。調理する側としては、手早く作るボリュームと栄養バランスに優れた丼物が得意で、先日は歌仙が、長時間の手入れ後に雅じゃないと悔し涙を浮かべつつ、長谷部作の豚キムチーズ丼を貪り食っていた。
     これは、そんな彼と私による、月に一度の『お楽しみ』の記録である。
    六月――千葉のチャーシュー麺と五目焼きそば
     結局ラーメンとは、どんな食べ物なのだろうか。そんな疑問が長谷部の口からぽろりと転がり出たのは、私が彼に近侍をまかせるようになって、しばらくしたころだった。
    「あれ、こないだ夜食に食べなかったっけ、チ○ンラーメン」
    「いえ、あれも美味かったのですが。そういう意味ではなく」
     聞けば、事務仕事をするようになり、否応なしに使うことになったパソコンだのインターネットだのに慣れるため、検索サイトで『ラーメン』と入れてみたら、情報量の多さに目眩がしたらしい。細かく分類されすぎていて、何がなんだかわからなかった、むしろ疑問が増えたという感想に、さもありなんと私は頷いた。
     インド発イギリス育ちのカレーや、オムレツにピラフがミックスされたオムライス、それと同じように、中華料理をガラパゴス的に進化させたラーメンは、今ではほぼ日本料理にカウントされることが多い。オーソドックスなものから、旭川や博多などのご当地ラーメン、はたまた汁なし系など、やたらめったらに種類が豊富で、ラーメンの定義を一言で説明しろだなんて、無茶にもほどがあるだろう。
    「本丸の台所でこの人数だと、本格的なのは難しいかな。カップ麺とか袋麺が限界かぁ」
    「それなりに増えましたからね。あれは大人数分作るのには向いていないようですし」
    「あー、でも、久しぶりに食べたいなぁ、お店のラーメン。袋麺でも最近のは美味しいし、自分でアレンジできるのは楽しいけど……ん?」
     長谷部、と指示を出しつつ、自分でもスケジュール帳を確認する。確か次のゲート場所は、何の縁やら地元だったはずだ。これで私の記憶と日付が合っていれば、すごく具合のいいことになる。
    「次の政府の呼び出しっていつだっけ」
    「今月の二十三ですね」
     通達書を渡され、日付とポイントを確認する。また微妙に面倒な場所にポイント設置をしたもんだと、私はため息をついた。
     私たちを使役する時の政府は、所在地がトップシークレットとされている。明確な住所は審神者には聞かされることがなく、こんのすけすら知っているのかどうかは怪しい。
     それでも、月に一度は面談等を兼ねた呼び出しが審神者には下る。面談日が近くなると、数カ所に設置された政府窓口へのアクセスポイントが各本丸にランダムに振り分けられた通達が届く。そこまでの移動は、全国に無数に設置されている本丸から現世へのアクセスポイントの内任意の地点を選んでから、という不便なことこの上ない方法だ。
     それでも、そこまでしないとセキュリティがと言われてしまえば反論もできず、同伴を義務付けられている近侍と、現世へ出かける数少ない機会だと割り切る審神者も今では多い。
     ゲートの場所として選ばれるポイントは、たいていは人の多い街中が多い。遡行軍に知られてはいけない場所だからといって、僻地に設定してしまえばかえって目立ってしまうからだ。木の葉は森に隠せの言葉通り、人間を移動させたいのならば人の多いところを選ぶのは当然だ。呼び出しを嫌がる審神者たちに、少しでも餌を提供するためだという噂も聞くが、ありがたくその餌に食いついてしまうのだからお互い様だろう。
     ご多分に漏れず、私も面談の通達が来たらまずは土産物や店の検索から開始する。留守番役のみんなに、少し珍しく、評判がいいものを。そして食事か、せめてお茶くらいしてから戻りたい。
     本丸のご飯は美味しく、みんなで食べるのは楽しい。しかし、だからこそ、少人数での外食というものが非日常になるのだ。
     今までは、だいたい初期刀の陸奥守が同伴していたため、長谷部は今回が初めての現世行きである。面談内容そっちのけで店選びに張り切っていた矢先の、彼のこの発言。これでお店は決まったも同然だ。
    「……長谷部。次の面談、お腹空かせていこうか」
     毎月二十三日に行くべき、典型的な日本のラーメン屋を、私は一軒だけ知っている。少しだけ歩くが、まあ許容範囲内だろう。
    「申し訳ありません。俺はただ、雑談のつもりで」
    「いいのいいの、私も食べたかったから……ただし、ひとつだけ約束してくれるかな」
     ひとつだけ、私には懸念事項があった。
    「私のどんな姿を見ても、他のみんなには内緒ね。特に光忠とか歌仙」
     確実に逃げるだろう。私が本丸でこっそりと堂々飼っている、餌のいらない大きな猫が。それを見て、彼は何と言うのか。怖くもあるが、楽しみではないと言えば嘘になる。いつになく戸惑ったような長谷部の顔に、私はにんまりと笑みを浮かべた。

     久々に降り立った地元は、良くも悪くも変わりがない。だいたい東京のおまけ扱いの、首都圏の主要都市。どんよりとした梅雨空からは、面談が終わっても雨粒が落ちてきていた。
     ターミナル駅周辺の賑やかなエリアを抜けると、一気に街が寂れだした。私鉄の線路沿いを一駅分と、それから海側へちょっとだけ歩く。ベイエリア一歩手前の辺りに、その店は変わらずにあった。
     年季の入った黄色い看板と、ラーメンの幟、少し汚れたプラスチックの食品サンプル。店頭にはプロレス試合のポスターと、近所の小学校の職業体験のお礼状。これぞステレオタイプな日本の、昔ながらの町のラーメン屋さんだ。
    「並んでいますね」
    「普段はもっと人少ないんだけどね。今日は仕方がないよ。回転速いから大丈夫」
     だいたい毎月の二十三日、この店名物のサービスデーだ。店頭の立て看板を見た長谷部が、驚いたように小さく声を上げた。
     そりゃあ今時、ラーメン一杯税抜き三百円なんてそうそうお目にかかれるもんじゃない。一部とはいえ主要メニューの大半が半額になるのだ。ご近所さんが大挙して押し寄せるのも無理はないだろう。しかもこの店、安いだけではない。
    「はい、お次何名様? お二人ね、少々お待ちください。あ、そこ立ってるとドア開いちゃうからね、気を付けてね」
     店のおばちゃんは、相変わらず威勢がいい。自動ドアのマットの前をよけて並ぶと、おなかいっぱいだよー、とはしゃぐ女の子と、飛び出すんじゃないのと、ピンクのレインコートを片手に追いかけるお母さんが、私達の隣をすり抜けていった。会計を終わらせたお父さんが、それに続いて出て行く。手早くカウンターの上を片づけたおばちゃんが、先頭に並んでいた男性を一人通して、列が少しだけ進んだ。
     ごめんなさいねー、お先に二名様カウンターにどうぞー。そう声が飛び、前に並んだ大勢の大学生グループの横を、軽く頭を下げて通り過ぎる。通りにくそうにまごつく長谷部のジャケットの袖を引っ張って先導し、二人分の椅子を引いた。
    「長谷部、けっこう濡れちゃった?」
     互いが差した傘のおかげでいつもより距離がつかみにくかった上、私と歩調を合わせるのに気を取られていたのだろう。スラックスの裾は、ずっしりと雨水を吸い込んでいた。
    「いえ、大丈夫です。戻ったら干しますし」
     ハンカチを差し出せば、取り繕った笑顔で丁寧に辞退される。そういう問題じゃないんだけどなという言葉は、喉の奥に封じ込めた。
     長谷部が私の本丸に顕現して、まだ二月かそこらだ。どことなく人付き合いが苦手そうな彼を心配して、他の大勢と話す機会ができればと近侍にしているが、まだまだぎこちないものを感じるのが、時々少しもどかしい。
    「チャーシュー麺と、五目焼きそば……あ、麺は普通ので、辛子を。あとは餃子を一枚で」
     お冷やを受け取り、ついでに注文を済ませる。長谷部はオーソドックスなラーメンでもと言いたげだったが、もうちょっと豪勢にしたっていいじゃないかとワンランクアップさせた。私が頼んだ五目焼きそばは、この店の名物だ。
    「なにか、分かった気がします。主が内密にと言った理由が」
    「あー、うん。そういうことだよ。前は一人で来てたんだよね、こういうお店」
     テレビでは野球の中継が流れ、家族連れの笑い声が奥の座敷席から聞こえてくる。私たちの後ろを、さっき追い抜かした大学生グループが通り過ぎていった。厨房では忙しく鍋が振られ、次々と出された料理が客席へと運ばれていく。
    「はい、お先に餃子です。それと小皿」
     出てきた餃子に、隣からえっという声が聞こえて、私は吹き出すのを必死にこらえた。いかにも皮から手作りでございと全身で主張するその大きさは、一つが私の手の平弱くらいはある。それが合計五個、ずらりとお皿に並んでいるのだ。市販の皮で作る餃子しか知らなければ、驚いても無理はない。
    「はい、五目焼きそば。チャーシュー麺もすぐ出るからね」
     人間の顔より大きな丸い皿に、山盛りの麺と具がたっぷりの餡。てっぺんにはウズラの卵が乗せられ、皿の端には辛子が多めに付けられている。そう、この店は量が多いのがデフォルトだ。普通盛りは、そこら辺の店の大盛りにあたる。
     お待たせしましたと長谷部の前に運ばれてきた大きなラーメンどんぶりの中では、澄んだ醤油スープがきらきらと光っていた。チャーシューが何枚かと、ネギにワカメ、シナチクにゆで卵という定番のラインナップ。日本人がラーメンという料理の名前を聞いたとき、かなりの確率で頭に浮かぶのは、こんなラーメンなんだろう。
     いただきますと手を合わせ、最初に餃子に取りかかる。タレについては賛否両論あるが、私はなんだかんだで酢醤油とラー油派だ。ちょっぴりと付けて、レンゲを受け皿がわりにしてがぶりとかぶりつくと、熱い肉汁があふれ出した。真似をした長谷部の、あひ、という声が隣から小さく聞こえる。
    「長谷部、猫舌だっけ? 大丈夫?」
    「あ、いえ。そのようなわけでは……」
     まさか聞こえているとは思わなかったらしい。しどろもどろになっている長谷部に、私は伸びちゃうよとラーメンを指した。だいたいの食べ方は、先日インスタント麺で経験済みだろう、少しだけぎこちなくラーメンをすすった長谷部の顔が、一気に明るくなる。
    「美味しいでしょ」
     はいと頷く彼の目元が、いつもより少しやわらかい。やっぱりラーメンにしてよかったと、私も目の前で湯気をたてる山に取りかかった。
     五目焼きそばも、餡かけなだけあって熱々だ。くたくたに煮えた白菜や小松菜に、さっくりと歯が入っていくやわらかいイカと、こくのある豚肉。その中で、くっきりとした歯ごたえのキクラゲと、焼き付けられてところどころカリカリになった麺が変化球を投げてくる。さらに辛子を餡に溶かしつつ食べると、さらに味に変化が出て、これだけの量があっても飽きることがない。
     餃子は一人二個ずつ食べて、最後の一個が残っている。長谷部の麺はもう半分以下になり、私もそろそろターニングポイントだ。
    「長谷部も、こっちちょっと食べる?」
     食べられないこともないけど、ほんの少しだけ多いんだよねと差し出せば、ではこちらをとチャーシューを一枚よこされた。味は濃いのに、しょっぱすぎるわけではない、そんなスープが染み込んだやわらかいチャーシューは、相変わらず美味しい。
    「餃子も食べちゃいなよ。普段体力仕事してるのはそっちなんだから」
     みんなと違って、私は戦場へ出ることはない。だからしっかり食べるべきは長谷部たちだろう。遠慮をしつつも、彼の顔が少しだけうれしそうにほころんだような気がした。
     刀剣男士は本丸に顕現するまで、長い間にわたって人の世を見てきている。しかし、その間に食事などをしたことはないようだ。神社などにいたりした経験があれば、酒や肴などは感覚的に知っているようだが、それも知っているというだけで、本丸に来たときが最初の食事ということになる。
     だからこそ、そのときにはメニューに気を使う。どうせなら美味しいものを食べてほしいし、それをきっかけに打ち解けてほしい。審神者に就任した最初の夜、広間の端っこで陸奥守たちと食べた水炊きの、鍋の蓋を開けた瞬間に上がったあの歓声は、今でも私の中に大切に刻まれている。
    「来月は何にしようかな。そもそもゲート、どこになるんだろ」
     何か食べたいものあったら言うんだよ。そう言って笑うと、餃子をほおばっていた長谷部が、なぜか少しだけ、変な顔をした。
     餃子の皿は空っぽ、五目焼きそばは小松菜の切れ端まで片付けられ、ラーメンはスープもなくなって。ごちそうさまと手を合わせ、そろそろ行こうかと立ち上がる。
    「会計済ませちゃうから、先に出てていいよ」
    「いえ、そのようなことは……」
     警護という役割もある以上、うかつなことをするわけにはいかない。そう言って私のそばを離れない長谷部だが、少しだけ居心地が悪そうだ。嫌な知識をつけちゃって、と私は内心でため息をついた。
     こういう場合、私が払うのが当たり前だろう。男だからって上司相手に奢れだなんて、私だったら辞表の一通でも叩きつける。気にしなくていいんだよ、と言いたくもなるが、気にしていることを気づかれるのも、彼は負い目に感じてしまうんだろうか。
    「あ、雨やんでる。今なら傘なしでいけるかな」
     一番近い駅に着いてしまえば、高架下のショッピングモール伝いに戻ることができる。また天気がぐずつきだしても、そこに間に合えば大丈夫だろう。開きかけた傘を閉じて、さっきよりも合わせやすくなった歩調で、二人並んで歩き出す。
     さあ、この後はどうしよう。本丸にお土産を買っていくのは決定事項だが、どこにしようか。近場にはこれといった心当たりがないし、中心街まで戻ろうか。
     評判のケーキ屋の支店が駅ビルの地下にあるけれど、生ケーキの大量購入は難しいだろう。個別包装された和菓子の方がいいかもしれない。ローカルな和菓子屋チェーンのお店だったら、同じ場所に支店がある。
     あそこのずんだ餅を久々に食べたい。仙台のものとは違う、古代米の入ったお餅でずんだ餡をくるんだ、漉し餡の大福のような見た目のものを。光忠の作る本場のものも当然好きだけれど、一番に舌に馴染んだものだからと、許してもらうことにしよう。うちの真っ白な伊達男なら、かえって驚きだと喜ぶかもしれない。
    七月――新宿駅のジャーマンブランチビアセット
     思い出し笑いという言葉があるが、人生で味わう機会が多いのはそちらではないと思う。思い出し怒り、というほうがずっと多い。面談を終え、雑踏のなかを駅まで向かう私の足取りは、だんだんと早くなっていく。
     いやぁ、いいよねぇ。こういうの、あれか、逆ハーレムっていうんだっけ。国の有事に不謹慎かもしれないけど、おじさんには男相手でもうらやましいよ。
     その言葉を笑って受け流すことしか、私にはできなかった。今となっては抗議もできず、心の中で火種はくすぶるばかりで。
     帰るまでに収めなくては。帰ればまた、溜まった業務に家事の手伝いと、いつも通りの日常をこなさなくてはいけない。来たばかりの博多くんの錬度上げ計画もだ。そのためにも、この感情を静めなくては。みんなに心配をかけてしまうことだけは、避けたかった。
    「ねえ長谷部、ちょっと飲んでから戻ろうか。一杯だけだけど」
     そう言って振り返れば、慣れない人混みの中、怒りにまかせて歩く私に必死に追いすがっていた長谷部は、珍しく肩を上下している。
    「あ……ごめん、さすがに慣れてないよね」
    「い、いえ。大丈夫です」
     一度深呼吸をして、足の運びを緩やかに軌道修正をする。目指す場所は改札からすぐで、昼には遅く、夕飯には早すぎるこの時間帯までランチが食べられる店は、意外と貴重だ。
     人通りの多い改札前の地下通路を、少しへこませたような小さな小さな飲食街。といっても、あるのは目当ての店と蕎麦屋だけ。蕎麦の出汁の匂いが強烈に漂う店の前を通り、奥の入り口へと回る。
     昼時には椅子席どころかスタンド席までぎゅうぎゅうに埋まる店も、ピークタイムを外せばそこまでではない。立ち飲みだったらまだ余裕がありそうだ。
    「ジャーマンブランチビアセット二つで」
     カウンターで注文した直後、長谷部の希望を聞いていなかったことに今さら気づく。謝りながら確認をすれば、どうせ何がなんだかわかりませんからと、彼は笑った。気を使われているであろう現状が、幾分か私の頭を冷やしていく。
     トレーを受け取り、右手のスタンド席へと向かう。前の壁には、時事問題を論じた壁新聞や、社会派アーティストによるポストカードの販売のお知らせが貼られている。
     ビールグラスの三分の一を一気に減らして、私はため息を一つついた。だめな飲み方をしている自覚はある。
    「ごめんね、怒れなくて」
     私は、抗議をするべきだった。私に付いてきてくれる、彼らの名誉のためにも、あの職員に異議を唱えるべきだったのだ。
     隣に立つ、長谷部の顔が見れない。情けなさにこみ上げたものを必死に押しとどめると、喉の奥からぐう、という声がした。
     刀剣男士って、元々は物だったわけじゃない、日常生活とかどうですか。大変でしょ、男所帯でご飯の準備とか。え、やっぱり手伝ってるんだ刀剣男士も。多いみたいだねぇ。いやあ、神様? 妖怪? みたいなやつなんでしょ。それが人間みたいにねぇ、慣れないんじゃないですか。
     ねとついた不愉快な声に、余計なお世話だと言いたくなる気持ちを必死に抑えて、表情筋をひきつらせながら誤魔化して。部屋を出た後の惨めな気持ちが、再び襲いかかってきた。
     主、という静かな声に、私はびくりと肩を震わせた。そろりと盗み見ると、長谷部はゆっくりとビアグラスを傾けている。
    「俺たちにとって、食という行為は、普通はただの行為でしかないんです」
     職員の話は、ドアの外で彼も聞いていたはずだ。思っていた以上に穏やかな声に驚いて見上げた顔は、どこか遠くを見つめている。
    「食べるということを、人間は必要としている、それは分かっていました。生きるために必要なものなのだと。それでも、それ以上のことは知りません。分からないのではなく、知らないのです。知らなければ、理解はできません」
     酒などの嗜好品を知る者はいるが、それもほんの一部だけだ。まるで本で暗記するだけの知識のように、それは実感を伴わないままに積み重なっていく。消化されることなく、疑問扱いすることすらなくなったそれは、いつまでも消えないはずだった。
    「それでも今は、それが理解できます」
     くい、とさらに傾けた長谷部のビアグラスの中身は、私と同じくらいのペースでなくなっていく。話すために力を借りたいのは、どうやら彼も同じようだった。
    「いつだか、燭台切も話していました。奴の前の主がなぜ、料理を趣味としていたのか。別れてから何百年も経っているというのに、ここへ来て初めて、理解できたような気がすると」
     遠い昔、共にあった人間に、今になって初めて歩み寄れているように思える。何百年考えても分からなかったことが、人と同じ生活をして、初めて理解が及ぶようになった気がする。言葉を探しながら、一生懸命にそう話す長谷部の姿に、心の中に刺さった棘が、ゆっくりと溶けていく。鼻の奥をまた襲う、つんとした感覚は、大きく吸った息を止めて、何とか抑え込んだ。
     長谷部、と、すいと手を伸ばし、高い位置にある頭に手を伸ばす。さらりとした髪は、夏場の人混みをかき分けてきたせいもあって、少しだけ重かった。
     大事にしたいと思う。散々人間のエゴに振り回され、時には酷い目にも遭わされて。それでも私たちを見捨てることができない、不器用で優しすぎる彼らを。
    「なんかさ、審神者になってよかったよ」
     グラスを持ち上げ、少なくなってしまった中身で、今さらながらに乾杯をする。
    「やっぱり空きっ腹に流し込むのはよくないね。悪い、忘れて」
     食べようか、と皿の上のザワークラウトをフォークで突き刺して、口へ運ぶ。パンに塗りつけたレバーペーストは、酒に合う程度のクセが美味しい。
    「ええ、ご心配なく。俺も少し回ったようです」
     ハムを乗せたバゲットを口にして、涼しい顔で長谷部が笑う。安心したようなその笑顔に胃の奥がふわりと温かくなるのは、アルコールのせいだろう。
     巨大駅の片隅にひっそりと、それでいて確かな存在感で、おかしな二人組に見えるだろう私たちを、この店は何でもないように受け止める。根強いファンが多いこの場所は、逆風のなかでもたくさんの人々によって守られてきた。まるで、私の周りにいるみんなのように。
    「これ、何なんでしょうか」
    「私もよくわかんないんだけどね、美味しいからいいかなって」
     ポークアスピックというものだが、出している店は、少なくとも私の知る限りではここだけだ。豚肉の煮凝りのようなものらしいが、知らなくても美味しいことに変わりはない。
     来月こそ、食べたいものリクエストしてよという私に、長谷部が困ったように考えておきますと笑った。
     きれいに片づいたトレーを返却口に戻して、店を出る。別世界のようだった店から一気に明るい駅の人混みに連れ出され、長谷部の顔が硬くなった。
    「人がすごく多いけど、気を付けてね」
     利用人数世界トップクラスの巨大駅は、慣れていないとすぐに迷子になってしまう。しかし、ここを抜けないとどうしようもないのだ。
     改札に入り、目的のホームまで歩くまでの間。物の見事にはぐれた長谷部を探し回った私が、通路の端で途方に暮れたような顔で立ちすくむイケメンと、虎視眈々と狙いを定める通りすがりの肉食系美女たちという地獄絵図の真っ直中に突入するまで、残り十五分。
     そして、忘れる、という言葉に、ほんの少しだけ長谷部が寂しそうな顔をした訳を私が知り、この時の自分を殴りたくなる衝動と戦う羽目になるのは、もう少しだけ先の話になる。
    八月――船橋のおまかせ寿司
     ほとんどの刀剣男士は、寿司というものを前にしてもはしゃがない。私がそれに驚いたのもつかの間のことで、少し考えてみれば当然のことだ。
     現在のにぎり寿司がポピュラーになったのは江戸時代のこと。それもスタンドで食べることが普通で、現在のハンバーガーやコンビニお握りのような感覚で食べられていたようだ。そりゃあ、見るだけで問答無用でテンションが上がるようなものではないだろう。
     現代社会で慣習とされている行事や社会常識などは、だいたい江戸、下手すれば明治どころか昭和や平成のころが発祥だという話があるが、食べ物だって同じだ。昔の日常食が今のご馳走なんて事例は多々あり、お祝い事のメニューにはそれなりに気を遣う。
     一週間前の宴会メニューを、私は頭の中で反芻していた。クリームチーズはイカの塩辛で和えたものと、胡椒を引いて海苔巻きにしたものの二種類。卵黄はしっかりと味噌漬けにして、新鮮な鰺で作ったなめろうは、たっぷりと皿に盛りつけた。そして、とろけるチーズを忍ばせたハンバーグに、唐揚げと温玉を乗せたポークカレー、グリーンサラダにはスモークサーモンを山と乗せ、フライドオニオンもてんこ盛りに。
     脈絡のないメニューは、主役二人の好みに合わせた結果である。洋風の食材を使った食事が、どうやら彼らには少し特別なご馳走に思えてくるらしく、広間に運びながらいつも以上にはしゃいでいたように思えた。
     しかし、現代生まれの現代育ちである私は、やっぱりお祝い事には寿司が食べたい。あの宴会メニューも十分ご馳走だったが、もっと少人数でひっそり祝いたいときは寿司に限る。
    「とりあえず、最高練度到達おめでとう」
    「あ、ありがとうございます」
     ここは、私の地元県の大きな駅の近く、小さな小さな立ち食い寿司屋。ごつん、と湯飲みを合わせて、私たちは注文したお任せ寿司を待っている。
     本丸に、二振りの仲間が増えた。まずは延々と訓練場を回った果てにやってきた、黒田の槍日本号、そしてその最中にやってきた浦島虎徹だ。そして日本号を探す道すがら、長谷部はめでたく本丸初の最高練度に到達した。
    「たぶん長谷部の次は蛍かなぁ。でもその前に、日本号たちの錬度上げもして……」
     何気なく出した名前に、長谷部の肩が少しだけ揺れる。見なかったふりを貫いたまま、私は壁に貼られたメニュー表に目をやった。
     一つだけ、私には気がかりなことがある。
     二振りが来て、本丸の空気が少しだけ変わった。蜂須賀が大喜びしたのは当然で、人なつっこい虎徹の末っ子が加わってにぎやかになったのは想定内だったのだ。完全に予想外だったのは、なにを隠そう長谷部の反応だった。
     日本号が来て、驚かなかったのは博多くんなどの黒田に縁のある一部の短刀たちだけだった。同じ主君を仰いだ刀と槍としてずっと同じ博物館にいて、それなのに長谷部とのあの一発触発の空気は何なんだろう。私のそんな疑問に厚くんは、そのうち大将にも分かるさと困ったように笑っていた。
    「殿様が持つと、格下でもつけあがるってな」
     出陣中の会話は、通信機を通して審神者にも伝わってくる。しかし基本的に、こちらはその内容に関してはノータッチだ。例え少し不穏な会話をしていようとも、彼らを信じて聞かなかったふりを貫く。それが、私が自分に課したルールだった。
     そのルールを、危うく破るところだった。問いつめたい気持ちは山々だったが、日本号がそんなことを本心から言うタイプとは、私にはとうてい思えない。二人の間にあったのは、そんな単純なものではなかったはずだ。
    「主が気にすることじゃなか、あん二人はそろってぶきっちょたい。しょうがなかよ」
     とは、二人の馴染みの短刀の言葉で。その言葉を信じるしか、私にはできない。私の前では取り繕う彼らに、気が付かないふりをするだけだ。
     カウンターの向こうでは、捻り鉢巻きの職人さんが、ひょいひょいとシャリを丸めている。一人前十カンで、ネタはその日の仕入れ次第。それで千五百円でお釣りがくるのは、下手な回転寿司よりも安くて美味しいんじゃないだろうか。
     カウンターは上下二つに分かれていて、その間にはまるで学校の廊下にあったような金属製の流しが備え付けられている。各々が食べる前に蛇口で手を洗うシステムであるこの店には、箸は用意されていない。
     お待たせしましたと出された木の船には、ずらりと新鮮な魚が整列して輝いている。定番のトロや赤身、他にはイカや穴子にホタテ、甘エビや旬の鯵、そして軍艦はイクラと生しらす。水道で手を洗ってハンカチで拭き、小皿に醤油を垂らせば、スタンバイオーケーだ。
     通は順番がどうのという話があるが、あいにくそんな小うるさい知識の持ち合わせはない。好きに食べさせろと、まずは甘エビに手を伸ばした。下ごしらえの段階でしっぽまできれいに取り去られ、食べやすいぷりぷりとした食感と、口の中でほぐれるシャリ。つんとくるわけでもなく、なにも感じないわけでもない、ちょうどいいワサビの量。
     ネタのどれもこれも、見た目にはちっとも甘さの要素がないのに、これは甘味だと舌が叫んでいる。
    「すみません、持ち帰り寿司を頼みたいんですけど、今日の六時ぐらいに。特上二人前で、片っぽを一・五人前」
    「はーい、かしこまりました。六時ね、お名前だけお願いします」
     ご近所らしい人が、入り口の引き戸から首を突っ込んできた、お祝い事か、はたまた来客だろうか。支払いは受け取るときにと、その人はまたそそくさと店を出て行った。
    「はい、おまかせ一人前。お茶でいいの?」
    「んー、じゃあ菊姫にしよっかな」
     向こうでは客のおじさんを相手に、職人のお兄さんが気さくな様子で注文を取っている。グラスの下にはお皿が敷かれ、なみなみと注がれた日本酒が豪快に溢れていった。
     いかにもな高級和食ですと格式張った店と、ちょっと奮発したいときに気軽に利用できる庶民の店。時代が移り変わっても、江戸時代のファーストフードという由来は、今もなお健在だ。
     大丈夫だよ、僕らも彼らも、眠ったまま年月を重ねたわけじゃない。私の頭を悩ませる二振りと、ほんの少しだけ交流があったという短刀の言葉を、私は思い出していた。否が応でも、話さなきゃいけないときは来るから。積み重なったものは重いけど、無駄じゃないよ。
     そう話す小夜ちゃんの上にも、積み重なったものはたくさんある。隣でガリをつまんでいる長谷部も、今頃留守番中の短刀たちのおもちゃにされているであろう日本号も、弟にせがまれても長兄探しをためらってしまう蜂須賀も、それは同じだ。
     どうにかなると思うことしか、きっとできないんだろうな。船の上のガリまできれいに片づけて、また蛇口で指を洗いながら、私はそんなことを考えていた。
     会計を済ませて引き戸を開けて外に出ると、強烈な日差しとアスファルトからの照り返しが一気に襲いかかってくる。スチロールケースを抱えていた店員さんにごちそうさまと挨拶して、駅への道を進み始める。掲げられた店名を仰ぎ見て、長谷部はなにか言いたいように口をもごもごさせていた。
    「言っておくけど、音読みのほうだからね?」
    「いえ、あの、つい」
     なじみ深い名前とよく似た店名に少し笑えば、長谷部もつられて少し笑顔になる。早くクーラーのきいたところへ。暑さから逃げるように、私たちは駅前のデパート目指して歩き出した。
    九月――神保町のナポリタン
     彼の挙げたリクエストと、面談場所のお知らせを見て、私は思わずガッツポーズを決めた。
    「ごめんね、重くない?」
     長谷部が椅子の上に、大きな紙袋をどさりと置く。中身は、ぎちぎちに詰まった本の山だ。大丈夫ですと言いつつも、彼の手のひらには紙の紐でできた真っ赤な跡が残されていた。
     ここは、日本で一番有名な本の街。大手書店の本店を抜けた先、映画館のある大きな通りへ続く路地に、古い喫茶店がある。
     カフェではない。あくまでも、喫茶店だ。創業六十年越え、この街に集まる本の虫たちの回復ポイントとして、その間ひっそりと佇み続けていた。
     ナポリタンとコーヒーのセットを二つ。それが今回のお目当てだ。今度こそリクエストをしてみなさいという主命に、迷いに迷ったあげく少しだけ恥ずかしそうに彼が答えた料理は、存外に子供向けのものだった。
    「意外だなぁ。ナポリタンって」
    「はい。以前に主が作ってくださったものが美味かったので」
    「言っておくけど、あれはけっこうイレギュラーだからね? こっちのが正統派」
     以前、昼食に私が作ったものは、かなり大人向けのものだ。最初に鷹の爪を炒めて辛さを出しておいて、できあがったら最後にとろけるチーズを乗せ、蓋をして蒸し焼きにする。少し人数が少ない日に、辛いものが苦手なメンバーと分けて作ったそれは、けっこうな評判だったのだ。
     外から見ると暗いように思える店内だが、実際は窓から光が射し込んでそこそこ明るい。内装はレトロ風なんてものではなく、正真正銘本物のレトロだ。中二階と半地下を区切る木製の柵は、年月を染み込ませたように黒くつやつやと輝いている。
    「やっぱりネット通販のほうがよかったかな……でも、ちゃんとした本屋で買うほうが気分出るんだよね」
     紙袋に詰められたのは、ほとんどが私の趣味に走った本の数々だ。児童書に小説、マンガに学術書と、我ながら脈絡がない。
    「そういえば、衝動買いされていた本があったようですが。そこそこ分厚い」
    「……ああ、あれ? 前によく読んでたんだけど、本丸に持ってきてなくてね。読み返したいと思ってたら見つけちゃって、つい」
     学生時代に哲学をかじった頃、何のいきさつだったかは忘れたが手に取った本だった。まだハードカバーでしか出ていないため、少々手痛い出費だったが、良書の値段に高いという概念は存在しない。
     紙袋のなかで一冊だけカバーがかけられているのは、私が長谷部から隠れるように買ったからだ。少しだけ思うところがあって買った、その本のタイトルは――
    「……興味、あるの?」
     おそるおそる、そんな表現が似合う私の口振りに、長谷部が面食らいつつも首を縦に振った。
    「無理にとは、言いませんが」
    「ううん、大丈夫。後で本丸戻ったら貸すよ、私はもう何度も読んだから」
     どのような内容なのか。そんなことを聞いてくる彼に、私はただ、フランスの哲学者が遺したメモをまとめた本だよ、としか言えなかった。
     そのとき、お待たせしました、とやってきたオレンジ色の山に長谷部が目を丸くする。これで話をはぐらかせるとフォークを取り、食べようかと私は笑った。
     ナポリタンの皿自体は、そう大きなものではない。問題は、スパゲッティの高さだ。普通の店では大きな皿にパスタのなだらかな丘ができている程度の量だが、ここの場合は小さな皿に険しい山ができている。
     フォークで巻き取るのは、最初のうちは至難のわざだ。アルデンテなんて無視したやわらかい麺は山のなかで複雑に絡み合っていて、用心しながら掘り出さなければ簡単に切れてしまう。
     やわらかく茹でたパスタなんて、普通だったら美味しいとはあまり思えない。でも、ナポリタンは別だ。ケチャップで真っ赤になった麺と一緒にタマネギやベーコンを巻き取って、汚さないように用心しながら口に運ぶ。
     ミシュランで星獲得なんて、そんな美味さでは決してない。日本の文化や歴史をバックグラウンドにして生きている人間の記憶の奥底に眠る、ナポリタンというパズルのピースに一番ぴったり当てはまる。それがこの店のナポリタンだ。
     量の多さと、ひたすらに続くケチャップ味。単調に思えるそれは、途中で粉チーズやタバスコをかけて変化をつける。山を崩せば食べやすくなるよと、慣れないフォークと格闘する長谷部を見て、私は自分の口元を指さした。
    「長谷部、食べたら拭いたほうがいいんじゃない」
     口の周りは、どうしたってオレンジ色で染まる。慌てる長谷部を笑う私の頭に浮かんでいるのは、本屋でぱらりとめくった本のページに書かれていたメモの一節だ。

      だれに(答えを期待して)この質問をできるだろうか?
      愛していたひとがいなくなっても生きられるということは、思っていたほどはその人を
     愛していなかった、ということになるのだろうか……?

     長谷部に読ませるのをためらった本。哲学者が遺したメモは、最愛の母が病死してからずっと、彼が誰にも見せることなく書きつづっていたものだ。切々としたメモの数々は彼自身が交通事故で亡くなるまで続けられ、心情の変化と、それでも消えることのなかった悲しみが、数日前に聞いてしまった言葉に重なった。
     長谷部と日本号の関係は、相変わらず冷戦状態が続いている。他を相手にしているときとは、あまりにもかけ離れている互いに対する態度に、言葉に出さないだけで、みんなが二人を見守っている状態だ。
     それは私も同じことで、戸惑いながらもこっそり気を回し、二人が少しでも落としどころを見つけられれば、と頭をひねっていた。
     謎が完全に解けたのは、何か進展があればとそのままの編成で進軍をしていた、ある日のこと。
    「だから忘れることにした」
     絞り出すようなその言葉に、すべてのパズルのピースが組み合わさった。
     ずっと心につっかえていたものが消えたのも束の間、私はまたしても聞いてはいけなかったことを聞いてしまった罪悪感に頭を抱えることになる。後は俺たちに任せときんしゃいと胸を張ったのは博多くんたちで、私が口を出す機会は、幸いなことにないまま済みそうだけれど。
     しかし、気になることには変わりない。ナポリタンがだんだんと山から丘に、そして平地になり、その間私の頭は、目の前で頬を緩ませながらナポリタンを平らげていく近侍のことでいっぱいになっていた。
     食後のコーヒーを飲んでいると、外にちょっとした行列ができているのが見える。土曜日はもちろんのこと、平日でもこの店は近所の勤め人や大学生のランチに大人気だ。本でも読みながらゆっくりと、とも思っていたが、少し急いだほうがいいかもしれない。
     しかし、時刻は正午を過ぎたばかりだ。もう戻ってしまうのは、少しばかりもったいない。ふむ、と思考を巡らせた私の脳裏に浮かんだのは、真っ白な小型犬の姿だった。
    「長谷部、ここからちょっと歩くけど、ケーキ屋さんに行かない?」
     半円形のしっかりとした堅めのスポンジケーキの真ん中にはジャムが挟まれ、上質な材料を使ったバタークリームでコーティング、そして見た目は、額にピンクのリボンを飾った、つぶらな瞳の可愛いプードル。この界隈で有名な老舗のケーキは、かなり人気が高いものだ。
     生ケーキは無理だが、焼き菓子なら買って帰れるだろう。イートインがあるので、ケーキだけ二人で食べて、それからお土産を買えばいい。
    「ばたーくりーむですか、なぽりたんの後で」
    「少し距離あるし、歩いてる間にお腹に余裕できるでしょ。可愛いんだよそのケーキ」
     大昔の代用ショートニングのものと違って、上質なバターを使った真っ白なクリームは、名前に反して軽く食べられる。その美味しさを主張すると、長谷部の目元も楽しみだと緩んでいった。
     その十五分後、無情にも下りたシャッターの前で、ケーキ屋がしばらく前に突如閉店したことを、ネットで検索した私は初めて知ることになる。
     仕方なく二駅戻って駅ビルで買ったお菓子片手に本丸に戻れば、二人して意気消沈した上、ショックで泣きそうな私を気遣う長谷部というただならぬ様子に、本丸中が騒然としてしまって申し訳ないことこの上ない。何かあったのかと政府に殴り込みをかけようと先走る幾人かを止めて理由を話せば散々に呆れられたが、食べてみたかったと話す乱ちゃんたちの訴えを聞き、光忠と歌仙が洋菓子のレシピ本を開いてくれた。
     私の記憶とネットの記事と、本丸に存在するありとあらゆるレシピ本を集結させて誕生した真っ白なプードルは、どうしたって記憶のものとは少し味が違ったけれど。やっぱり可愛くて美味しいに決まっていて。
     そして今日も、私のスマホの待ち受けでは、可愛いバタークリームのプードルが、つぶらな瞳をこちらに向けている。


    引用文献
     ロラン・バルト(二〇〇九年)、『喪の日記』石川美子訳、みすず書房、二〇〇九
    十月――井の頭のカリーヴルストとフランクフルト
     記憶よりも新しくきれいになった駅前だが、狭苦しい通りがバスの降車場になっているのは前と変わっていない。平日とはいえそこそこの人混みを抜け、私たちは信号が変わるのを待っていた。ここを渡れば、この街の名所である大きな公園はすぐそこだ。
    「行き先を話したら、燭台切にたいそううらやましがられましたね」
    「あー、光忠は好きだろうね、ここ」
     読んでいる雑誌でさんざん特集されていれば、そりゃあ名前くらい覚えるだろう。住みたい街ランキングナンバーワンを独占していたこの場所は、確かに彼の好きそうなスポットで埋め尽くされている。
     今日は天気がいい、面談が終わったら公園へ行く途中でご飯を調達して、池のそばのベンチで食べようか。そんな話をしてから、早二時間。目的地に続く通りには、あちらこちらにおしゃれな雑貨屋や喫茶店が建ち並ぶ。
     出発した時間が中途半端だったため、出がけに歌仙が作ってくれたお握りが、まだ胃の中に残っている。軽食で問題ないだろうと、私たちがまっすぐに向かったのは、公園の手前にあるソーセージ屋だ。
     看板には大きなソーセージ、黒板にはメニュー表。本格的なドイツ式のソーセージは、商品として買うことも、テイクアウトすることも可能だ。
    「カリーヴルストと……長谷部どうする?」
    「では、フランクフルト、で」
     紙に包まれたソーセージと、プラスチックカップに入ったぶつ切りソーセージ。それを持つ手元が狂わないように、慎重に階段を下りると、ボート池が目の前に広がった。自販機で飲み物を買って空いているベンチを探すと、いつもはカップルで埋め尽くされるのが、嘘のように空いていた。平日様々である。
     違う味のソーセージを分け合って、他愛もない話をする。この池でボートに乗ったカップルは別れるというジンクスのこと、池の向こう岸のずっと先にある、有名なアニメスタジオの美術館のこと、桜の名所で春には人でごった返すこと、日曜日には大道芸などのパフォーマーが集まって芸を見せてくれること。
     そうして矢継ぎ早に話していても、話題の隙間はどうしてもできてしまう。長谷部が口を開いたのは、そんな瞬間だった。
    「そういえば、読みましたよ。先月主にお借りした本」
     ぎくりと体をこわばらせた私に、やっぱりと言った長谷部の顔は、思っていたより穏やかだった。
     あれからの長谷部と日本号の関係だが、どうにか軟化しているようだ。本音を話したことで吹っ切れたのか、博多くんが二人の緩衝材役を引き受けてくれたからか。少なくとも、あのときのような殺伐とした空気は、もはや存在していなかった。
    「よく分かりました。主がどうして、俺に読ませるのを躊躇っていたのか」
    「……ごめんね、聞いちゃったんだ。二人が話してるの」
    「いえ、そんなお気遣いなどは。薄々、気付いてはいましたから」
     漂う沈黙が気まずい。互いに何か言わなくてはと焦った結果、先に動いたのは私の口のほうだった。
    「……死というものの定義は、本当に大昔から考えられ続けていてね」
     我ながら、素っ頓狂なことを話し始めたものだ。鳩が豆鉄砲を食らったような顔の長谷部に心の中で手を合わせるが、一度始めた話を今さら中途半端に止めるわけにもいかなかった。
    「よく聞くのが、『彼は我々の心の中で生き続ける』ってことかな。そうでも思ってないとやっていられない、ってのも本音としてはあるんだろうけど」
     でも、と一息ついて、ボトル缶のティーソイラテで喉を湿らせる。
    「長谷部の中では、誰も“歴史”にはなっていないんだね。ずっとみんな生きているんだ」
     織田信長、黒田如水、黒田長政。私たちの中では、彼らはリアルな人間ではなく、歴史の授業や彼ら自身をテーマにした作り話で触れる、遠い存在にすぎない。物語から触れることで、あたかも生々しい一人の人間であるという錯覚をすることもできるが、あくまでもそれは、登場人物となった彼らでしかないのだ。今生きている人間で、まるでその場にいたかのような記憶をもって、彼らの生き様を大真面目に語る者がいたとしたら、無視をされるか電波扱いだろう。様々な評価はあれど、あくまでも彼らは“歴史上の偉人”以上にはなり得ない。
     しかし、長谷部たちは違う。彼らの“前の主”たちは、彼らの記憶なのだ。一歩引いて俯瞰で眺め、冷静な視線を向けることが求められる“歴史”ではない。未だに彼らの中で声を発し、影響を与え続ける存在だ。
     だからこそ、その記憶は彼らを力づけ、また同時に苦しめる。遡行軍の目的と、それを阻止しなくてはいけない自分たちの目的に、やるせない思いを抱いている刀剣男士は、どんなに平和に見える本丸でも存在する。そんな彼らのケアも、審神者の重要な役割の一つだ。
     今日はやっぱりビールを買わなくてよかった。カレー粉とケチャップがかかったソーセージを口に放り込んで咀嚼すると、スパイスの風味とともに、温かい肉汁が中からあふれ出す。味覚がビールを求めているが、こんなときに酒を入れてしまってはいけない。ただでさえ思考が嫌な方向へ飛んでいきそうだというのに。
     長谷部は、黙り込んだままだ。唐突に話しすぎたかと、まごつく私の手が宙を泳ぎ、彼の腕に触れようとして寸前で止まる。出し抜けにフランクフルトの最後の一口を食べ、ペットボトルをあおった長谷部が、はあ、と一つため息をついた。
    「いつか、平気になってしまうものなのでしょうか」
     祈るようにつぶやいた言葉は、あまりにも切実で。私は必死に、彼がほしい言葉を探す。取り繕った言葉なんて、こんなときにかけたくはなかった。
    「長谷部、わかってるんでしょ。無理だよ」
    「……ええ、知っていました」
     とん、と私の肩口に長谷部の額が押しつけられた。さらりとした髪が首筋に当たってくすぐったい。
    「すみません。五分だけ、いただけますか」
    「いいよ。十分でも、二十分でも」
     火照る頬に、十月の風が心地良い。膝の上で握られた長谷部の拳が、細かく震えている。顔を見られたくないんだろう。嗚咽をこらえるような、小さなうなり声が肩から聞こえてきた。我慢しなくていいのに、と言いたいが、こんな場所で主君相手にということも、我慢をしていることを知られるのも、彼は望まないだろう。無性に寂しくなって、私はただ、ゆっくりと長谷部の背中を撫でていた。
     ひどいなぁと思った。自分に対してでも、もちろん長谷部に対してでもない。彼がついていきたかったと語っていた、前の主に対してだ。
     二人の会話を聞いて不思議に思ったのは、長政という名前だった。信長が下げ渡した相手は、父親の如水だったはずだ。そう思って調べた私からは、ずるいという言葉しか出てこなかった。
     信長に名を付けられたころには、磨り上げられて無銘の刀になっていた『圧切』を、その当時最上位の目利きに鑑定を依頼した男。長谷部が『圧切長谷部』であることを見つけ、彼の茎に『黒田筑前守』と自分の名前を刻みつけさせた男。それが黒田長政だった。
     長政自身が、何を考えていたのかは分からない。『圧切』に対する、純粋な興味からか、それとも、単に家宝の刀に箔を付けたかったのか、判断材料はどこにも存在しない。何にせよ、長谷部の中に長政という存在は、アイデンティティーの一部として、彼のなかにしっかりと刻まれている。
     理不尽だと思った。だって、私に勝てるはずがないじゃないか。今では肉体を持った長谷部と言葉を交わし、生活を共にしている私の方がアドバンテージがあるはずだし、そもそもそういう穿った見方をするような話ではないはず、それなのにだ。
     そんな次元の問題ではないことは重々承知しているし、「一番は今の主」と言い切った長谷部の言葉を素直に受け取ることのできない、自分の醜さも分かっている。
     おそらく長政はこれからも、長谷部の中で生き続ける。付いていけなくてよかったなんて思ってしまう、私の気持ちなんてお構いなしに、彼の中で強烈な印象を残した人間として。
     それでも私には一つだけ、すがりつきたいものがあった。
     長谷部から戻ってきたあの本には、一カ所だけ、少し開き癖が付いているページがあった。見開きの左右でメモの内容が一つずつ書かれていたが、内容から推測するに、彼が何度も読んだのはその左側だろう。つられて読んだその内容が、頭の中でリフレインする。

     彼女がわたしに言ったあの言葉を思い出しても泣かなくなるときが、たんにありうるのだと思うと、ぞっとする……

     ここで書かれた『彼女』とは、哲学者の母親のことだ。しかし、長谷部はこの『彼女』に誰を重ねたのか。
     私は自惚れてしまってもいいのだろうか。自分であってほしいという身勝手な願い事をしてしまう主であっても、彼はいつか、この文章を思い出して、私を想ってくれるのだろうか。
     それが彼をどんなに苦しめるか、それを知っていてもなお、私は願わずにいられなかった。
     この戦争が終わり、みんながあるべき場所に戻って。たくさんの『へし切長谷部』たちの中にいる、彼の上を通り過ぎていった大勢の『前の主』の中で、私という存在のひとかけらでも、彼の中に残っていてくれたら、と。
     きっかり五分で、長谷部は謝罪とともに私から離れていった。少しだけすっきりとしたような顔で深呼吸をして、大きな手の平が、失礼しますと、そっと私の手を覆う。
    「主、その。今は無理ですが。いつか、昔話に付き合っていただいてもよろしいでしょうか。長くはなると思いますが」
     一大決心をしたような口振りとともに、握られた手の甲が熱い。つかえがすとんと落ちるような感覚とともに、私の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
    「うん、もちろん。楽しみにしてる」
     少し澱んだ感情は、どうしたってなくならない。それでも、その思い出が私にとってどんなものであれ、共有したいと思った記憶を、分け与える相手として選ばれるのならば。
     こみ上げるこの感情の名前を、私はよく知っている。うるさい心音とともに心臓を締め上げられるような感覚が、心地よかった。
     さあ、帰ろうか。そう言って握った手を引っ張り、二人して立ち上がる。おみやげを買わなくてはいけないし、買い物メモもたんまり持たされているのだ。暗くなる前に済ませてしまおう。
    「歌仙からのリクエスト、駅の反対側なんだよね。それと光忠からもけっこう頼まれてるの」
     お使いメモには、どこで調べたのか有名な練り物屋の名前だの食材店だのの名前が載っている。こんなにですかと眉を寄せる長谷部とルートを組み立てながら、私たちは公園を後にした。
    十一月――御茶ノ水の台湾まぜそば
     こんな和やかな気分で面談を終えるのは、いったいいつぶりだろうか。それというのも、夏にモラハラをしかけてきた職員が、左遷されて消えていたからである。
     聞いた話によるとあのオッサン、先月乱ちゃんを近侍として連れた男性審神者に侍らせてるだの何だのと絡んだ次の週に、僻地の閑職へ左遷されたそうだ。もともと上層部も扱いに困っていたらしく、堪忍袋の緒が切れた審神者の抗議にこれ幸いと厄介払いをしたんだとか。じゃあ最初から飛ばしておいてくれよとも思うが、そうもいかない部分もあるのだろう。
     しかし、和んでばかりじゃいられない。ここ最近めっきりと寒くなり、本丸では風邪が大流行中だ。
     腕試しの里から無事に物吉くんを連れて帰った直後、一番に倒れたのは石切丸だった。いつになく多かった出陣に、疲れさせてしまったかと青くなったのも束の間。蛍丸から寝相がひどくて布団を蹴飛ばしていたという垂れ込みがあり、呆れ半分心配半分の看病を受けて、回復したと思った、そのすぐ後だった。
     今度は石切丸の看病をしていた薬研が寝込み、連鎖的に短刀部屋がほとんど隔離部屋状態になってしまった。その後、寝不足気味になった一期と江雪と宗三と岩融が順繰りに寝込み、今は少し収まったとはいえ、まだ油断はできない。
    「最初に薬研に頼りすぎちゃったものね。悪いことしたなぁ」
    「お言葉ですが、あれはあいつの自業自得ですよ」
     いつもと違って兄弟たちに世話を焼かれる側になり、熱で顔を真っ赤にしながら、そのマスクってやつは着けておけと薬研はばつの悪そうな笑みを浮かべていた。曰く、眼鏡が曇るからと石切丸の看病中に何度か外していたらこんなことになったらしく、怒り心頭な乱ちゃんに馬鹿なんじゃないのと濡れタオルを投げつけられていた。
     離れた場所にある空き部屋を隔離部屋にしてストーブを焚き、ヤカンで湯を沸かし、看病する人はマスクをつけて、手洗いうがいを徹底させて。それでも今は青江と御手杵に加えて、とうとう昨夜から光忠までが隔離部屋の仲間入りをした。もちろん全員が完治した短刀部屋は、一度しっかりと換気をして掃除済みだ。
     本丸に蔓延した風邪のウイルスは、本丸の中で完全に撲滅させたい。そこへ私と長谷部が、現世の風邪菌なんて持ち込んでしまっては大変だ。
    「そんなわけで、今日は暖かくなるものを食べにいきます」
    「汁物系ですか?」
     うどんか蕎麦か、はたまたラーメンかと首を傾げる長谷部に、甘いと私は笑った。温かい汁物だけでは、すぐに冷めてしまうだろう。食材そのものの力で体を温めるのが、結局は一番の手だ。
     駅前の道を下り、大きな大学のビルの前を通り過ぎて。その店は、角を曲がってすぐのところにある。
     台湾まぜそば。最近流行っている、名古屋発のB級グルメ。汁なしラーメンの一種で、太い麺にピリ辛のミンチ肉や野菜を乗せ、ぐちゃぐちゃに交ぜて、途中で調味料で味を調節しつつ食べるのが定番だ。
     唐辛子とニンニクの入ったミンチに、刻んだ生のニラやネギとニンニク、スタミナも付くし、全部体を温める食材だ。こんなときにはちょうどいい。
     券売機に貼られた、学生証で大盛り無料のポップがこの街らしい。オーソドックスなまぜそばの食券を二枚買い、案内されるままにカウンターに腰を下ろす。
     ううんと凝り固まった背を伸ばすと、長谷部がお疲れ様でしたと笑う。里での玉集めに面談にと、長谷部も私もお互い様だ。終わりが見えている行程だったとはいえ、完全に新しい形の戦場にはどうしても神経質になってしまう。
    「あんな無茶なこと、もうあんまりやりたくないなぁ。下手に札引くと敵もすごく強いし」
    「しかし、手入れがいらないというのは助かりましたね」
    「逆にちょっと怖いけどね、私としては」
     大怪我をしていたはずの彼らが、本丸に戻った瞬間一気に回復する。その効率はともかくとして、見ている側は安心するかというと、案外そうでもないのだ。むしろ少しぞっとする。
    「あんなこと、何度もやらないほうがいいよ。慣れちゃったときが怖いから」
     重傷を負った状態で進軍しても誰も折れず、攻撃を受けることもない。それと同じ感覚で、いつもの戦場へ行ってしまったら。自分の慢心が、私にとっては一番の恐怖だった。
    「部隊長は折れないって言われてるけどさ、長谷部も気を付けてよ」
    「しかし主、だからこそ俺ならば他の者よりまだ。太刀のような連中とも違いますし、その」
    「長谷部」
     資材の問題じゃないよと釘を刺し、私はゆっくりと、子供に言い聞かせるように、自分の考えを口にした。
    「手入れすればいいなんて、絶対に考えないで」
     どうせすぐ治るからと、気を抜くようなことをしてほしくはない。最終的に、それは彼らを弱くしてしまうと思うから。
    「怪我をするのは、仕方がないよ。私もそこは諦めてる。でもね、慣れるのは絶対に嫌なの」
     部隊員はお守りを付けるように徹底させてはいても、それに甘えてはいけないと思う。手入れをする回数なんて、少なければ少ないほどいいし、お守りは最終的に宝の持ち腐れになればいい。部隊長だって、折れないのではない、進軍できなくなるだけだ。だから無茶をしてもいいという理屈は通らない。
    「私はみんなと違うから、結局これは私のエゴなのかもしれないけど。でもね、誰かが折れちゃうのは、耐えられないから」
     もし誰かに万が一のことがあったら、私はどうすればいいのか。その後も、まともに審神者を続けられるのだろうか。そんなことを考えるたびに、心がじわりと冷えていく。
    「……申し訳ありません」
    「いいから、謝らないでよ」
     頭を下げた長谷部の声が悲しげで、こちらまでつられてしまう。そんな顔をさせたくはなかったのに。言い方がきつかっただろうかと、思考は少しだけ悪いほうに傾いていく。
    「長谷部、大丈夫だから。ね?」
     お願いだからと肩を撫で、ようやく上げてくれた顔に、心臓が潰れそうになる。なにをやっているんだろうと思いつつ、タイミングがいいのか悪いのか、運ばれてきたどんぶりを私はカウンターから下ろした。
     みじん切りのニラ、ミンチ肉、ネギ、刻み海苔、魚粉にニンニク、そして真ん中には卵黄。それらすべてを混ぜて麺に絡め、途中で昆布酢を加えてカスタマイズして。以前と同じように美味しいのに、隣の彼とそれを共有できない。互いに黙りこくっているというだけで、テンションはどんどん下がっていく。
     あの顔は、見たことがある。夏に駅で迷子になり、通路の端っこで立ち尽くしていたときと同じだ。捨てられた子犬のような、すがるものをなくしたような。
     私たちは今になっても、お互いの距離を掴みかねている。先月に少し近づいた距離が、もしもまた開いてしまったら。それを考えた瞬間無性に悲しくなって、どうしたらいいのかわからずに視線をさまよわせていると、長谷部が最後の麺を食べ終わったのが目に入った。
     どんぶりの中身を食べてしまおうとする長谷部に、私は慌ててストップをかけた。こうするんだよと、カウンターの上に食器を置く。視線で促すと、長谷部も真似をして、箸をどんぶりからどけて持ち上げた。
    「すみません、追飯お願いします」
     はーいという返事とともに飛んできた店員が、二人分の丼を手に厨房の炊飯器へと向かう。
    「はい、追飯でーす。こっちがお姉さんで、お兄さんこっちね」
     残されたタレの中には、真っ白なご飯がしゃもじに一杯分だけ、無造作に放り込まれている。面食らいつつも中身を凝視する長谷部に、私はカウンターに準備されていたレンゲを取ってよこした。
     ご飯と残った具とタレをぐちゃぐちゃに交ぜて、丼の中を掃除するようにレンゲですくい、口の中へと放り込む。カップ麺の残りで作るおじやと同じレベルの、ジャンクなダブル炭水化物だ。ほんの少しの罪悪感と一緒に食べると、最高に美味しい。
     隣では長谷部も、一心不乱にレンゲを口に運んでいる。その様子が少しだけおかしくて、小さく漏れた笑い声を、長谷部は聞き逃さなかった。
    「……主」
    「ごめんごめん、でもさ」
     一度出てしまった笑いは、なかなか収まらない。くっくと笑う私を呆れたように見ていた長谷部も、次第に表情がゆるんでいった。今し方まで気まずかったのが、嘘のように笑い合う。
    「美味しいでしょ」
    「はい、とても」
     安心したような笑顔に、今度はまた別の意味で心臓をつぶされるかと思った。きれいに掃除されたどんぶりをカウンターに上げて、ごちそうさまでしたとコートをはおる。
     気分を晴らすためにも、散歩でもしていこう。そんな話をしつつ店を出た。ちょうど少し歩いたところに、大きな神社がある。
    「神社の参道に、麹のお店があってね。ちょっと買って帰ろうか」
     ちょうど数日前に、こたつを出したばかりだ、土鍋でお粥を作って麹を入れて、毛布でくるんでこたつに入れておけば甘酒が作れる。栄養満点で、風邪引きに出すにはうってつけだ。
     テイクアウトの甘酒を買って飲んだらお参りもして、みんなの健康祈願でもして、それから戻ろうか。そんなことを話しつつ歩き出すと、長谷部の何かを探るような視線を感じる。もしやと思い、えい、と距離を詰めると、ぴくりと反応した体につられて煤色の髪が揺れた。
     のぞき込んだ顔は、どこかばつが悪そうだ。長谷部、と彼の名前を呼んで、背中を一つ、ぽんと叩く。
    「麹屋さんね、甘味処も併設してるんだけど。葛餅とお饅頭のどっちがいい?」
    「……仕方がないですね」
     俺は饅頭がいいですと笑う顔に、もうあの陰りはない。通り抜ける木枯らしに揃って震え上がり、早く行こうと私たちは緩やかな坂を上がっていった。
    十二月――ハ○ニカ横丁の生パスタ
     二ヶ月ぶりでやってきた街の、あのときとは反対側。戦後の闇市から発展したという歴史にも頷けるような入り組んだ路地には、昔ながらの商店から今風のカフェ、夜だけ開店する飲み屋までがごちゃ混ぜになって並ぶ。その様子が楽器の吹き口に例えられ、付いた名称はハモ○カ横丁。再開発の波に抗い、今となってはちょっとしたこの街の観光地と化している。
     その横町の一角に、昼時になるといつも行列のできるパスタの店がある。今日の私の目当ては、その店のお気に入りのメニューだ。いつもよりは少し短かった行列も、そろそろ終わりが見えてきて、メニュー表から私は顔を上げた。
    「長谷部は納豆平気だっけ」
    「納豆、ですか」
     曰く、嫌いではないが、好物かと聞かれるとそうではない、そんなレベルだそうで。それでも苦手でないならば、全く問題はないだろう。
    「よし、じゃあ決めた。ミートソースのトッピング全部乗せ」
     メニューを一瞥した長谷部が、ぎょっと身じろぎをする。
    「いつの間にか、トッピング変わっちゃってる。温玉乗せるの好きだったんだけどなぁ」
    「納豆、ですか。みーとそーすに」
    「美味しいんだって、これが。ネットじゃ賛否両論だけど」
     納豆の、特に臭いがだめな相手だったら、さすがにこれは頼めない。非常に相手を選ぶ料理だが、苦手でなければ大丈夫だろう。
     外では十二月の冷たい風が吹いているが、案内されて店内に入れば一気に暖かくなる。鍋から上がる湯気が厨房に満ち、それがこちらに流れているのだ。私はミートソース、長谷部はオーソドックスなトマトソース。注文したそれが届くのに、そう時間はかからなかった。
     茹でたての生パスタに、濃厚なミートソース。そこからは揚げ茄子が見え隠れして、モッツァレラチーズの白が散らされている。そしてその頂上には、細かく刻まれた納豆が、ベージュ色に泡だって存在を主張していた。
     粉チーズはスプーンに一杯だけで十分だ。スプーンとフォークを構え、同時に皿の中に突っ込んで上下に麺を返すと、パスタとソースの湯気に混ざって納豆の臭いがむうっと立ち上ってきた。ぎょっとする長谷部に向かって、少し手で湯気をあおいで送ると、どう判断したらいいのか分からないという表情を浮かべられて少し笑ってしまう。
    「だから最初に聞いたんだよ。平気?」
    「……少し驚いただけです」
     長谷部も気を取り直して、カトラリーを手にする。私のまねをして麺を上下に返してソースと絡めると、みるみるうちに平たいパスタがトマトのオレンジに染まっていった。
     ミートソースを一口分フォークに巻き取って口に入れる。もちもちとした噛みごたえのパスタに、煮込みに煮込んだ濃厚なソース。そしてその濃厚さを後押しするのは納豆の独特な風味で、やっぱりこのソースにはこれがないとと私はにんまりと笑った。
     濃厚だが味が濃すぎるわけではない、そんなソースの中から、油をしっかりと吸い込んだ茄子が顔を出す。合間に挟まるモッツァレラも、温玉に負けず劣らずいい仕事っぷりだ。にこにことパスタを頬張る私を、長谷部がじっと見つめている。
    「何なら長谷部も食べる?」
    「え、はい。よろしいのですか」
     一口分のパスタをくるくると巻き取って、フォークの柄をあちら向きにして差し出して、私は目を見張った。目の前では長谷部が、餌をねだる小鳥のように口を開けている。
    「あ、そっちか」
     そう呟くと、勘違いに気付いた彼の顔面が、みるみるうちに茹だっていった。あ、とか、う、とか、そんな意味のないうめき声しか上げられない近侍の姿に、私は黙って天を仰ぐ。
     審神者業界では、どの刀剣男士が一番可愛いかという話題なんて出そうものならば、十中八九血の雨が降る。そりゃそうだ、誰もが自分の本丸の男士が一番可愛いに決まっている。
     しかし、私は断言できる。少なくとも今のこの瞬間、地球上で一番可愛いのはうちの長谷部だ。誰にも異論は唱えさせない。
     すみませんと、あわててフォークに手を伸ばす長谷部を前に、私は選択肢を間違えなかった。くるりとフォークの向きを反転させ、満面の笑みを浮かべる。
    「ほら、あーん」
     頬は赤くなっていないだろうか、指は震えていないだろうか。この手のシチュエーションは、照れてしまったほうが負けだ。
     目を白黒させながらパスタを頬張る長谷部に味をきけば、意外そうな顔で美味いです、という答えが返ってきた。そうかそうかと頷く私に、負けじと彼もパスタをフォークに巻き付けて、こちらへと差し出してくる。
     初めての間接キスは、トマトソースの味でした。
     頭に浮かぶ、そんな恥ずかしいフレーズを必死になって追い出した。ぷりっとしたエビと、くったりと煮込まれたシメジとくれば、まろやかになったトマトの酸味に合わないほうがおかしい。
     いかにも女子受けしそうな店構えだが、周りは女性だらけというわけでもない。カップルだっているし、垢抜けているおしゃれな男性が一人で大盛りらしいミートソースを平らげているのも見える。
     では私たちはどうなるんだろう。もしもカップルに見えていたとしたら。そんなどうでもいい、馬鹿みたいなことを考えつつ、とりとめのない世間話をしながら弾む鼓動を抑えつけた。
     空になった皿と入れ違いにやってきた食後のコーヒーを飲んでしまえば、もう正午をだいぶ回った時間だ。今日も今日とて頼まれたお使いを考えると、そろそろ出発したほうがいいだろう。
     コートを着て、荷物を足下のかごから引っ張り出す。握らされた買い物メモには、近くにある人気のドイツパンの店の名前が書かれていた。
    「また燭台切ですか」
    「うん。でも、ここからだったらすぐだよ」
     メモを見た長谷部が、いぶかしげに眉根を寄せた。ろっげんふぉるこんぶろーと、という声が、何かの呪文の詠唱のようで、思わず吹き出してしまう。
    「ホームベーカリーじゃできないやつなんだよね。光忠がクリスマスパーティーのカナッペに使いたいんだって」
     人を選ぶ味のパンらしいから、とりあえず一斤買ってきてほしい。みんなが気に入るようだったら改めて取り寄せるから。そう頼んできた長船派の祖光忠が一振りの太刀は、心の底から楽しそうにはしゃいでいた。
    「どうなるんだろうね、二十四日」
     あれだけの大人数で手間のかかるごちそうを作るのは、誰がどう考えても手間がかさむ。それでも、噂に聞くクリスマスを前にしてテンションを上げるなというほうが難しいだろう。試したいものがたくさんあるんだと目を輝かせる伊達男を見て、最近来たばかりの後藤くんが、楽しみだと同じく目を輝かせていた。
    「そういえば、歌仙もなにやら浮かれているようでしたが」
    「連続するものねぇ、イベントって」
     クリスマスが終われば、すぐに正月がやってくる。先日、いつも以上に硬い顔で私のところへやってきた雅を愛する文系名刀の願いは、何かと思えば、お節のときくらい鰹節から出汁を引かせてほしいというもので。出汁パックの封印は許可したものの、やっぱり一抹の不安はよぎる。
    「お手伝い、みんなでやらないとね」
    「大丈夫でしょうか。なにやら、また新しい刀が来ると聞きましたが」
     大わらわになるだろう台所を予測して、長谷部が困ったように眉尻を下げる。さすがにイブ前後の二日間と、正月休みくらいはほしいところだが、政府と遡行軍がそれを許してくれるかは、はなはだ疑問だ。
    「シフト組んで、順番に休めばどうにかなるかなぁ……」
     飛び飛びではなく、ある程度まとまったお休みはどうしたって必要だろう。そうでなくては、年末年始の特別感がなくなってしまう。
    「しかし、それでは主が休めませんよ」
    「うん、そこなんだよね。長谷部の休みもなくなっちゃうし」
     ううん、とうなり、決めたと私は呟いた。イブの前日は午後を休みにして、イブはお休み、クリスマス当日は午前休にして、お正月は大晦日から三が日までは連続で休みに。そう宣言すると、仕方がないと長谷部もため息をついた。
    「年末進行というものですか。大晦日までが大変そうですね」
    「そこはね。また情報が来たら計画立てようか」
     会計を済ませて店を出ると、行列はまだまだ店の前に伸びていた。運がよかったと、二人で顔を見合わせて笑い合う。
     なんだか長谷部と出かけると、いつも以上に笑ってばかりな気がする。イベントシーズンにざわつく細い路地を並んで歩きながら、私はそんなことを考えて、また笑みを浮かべていた。
    一月――新宿三丁目のおばんざいと野菜バイキング 野菜が食べたい。そう言った私の勢いに飲まれたのか、はたまた彼自身も、最近の食生活に思うところがあったのか、私たちはおとなしくランチの行列に並んでいた。
     仕方がないだろう。年末年始は、いくら何でも食べすぎた。
     ローストチキン、アクアパッツァ、ベーコンとグリル野菜入りペペロンチーノ、クリームチーズやスモークサーモンのカナッペ、温野菜サラダ、ヤンソンさんの誘惑という、光忠主導で作られたクリスマスディナー。間髪入れず、常夜鍋に天ぷら入り年越しそば、大量の絶品お節と続く、歌仙による和食オンパレード。しかも、「お節も美味いが、こってりしたのもほしくねえか」と、薬研が豚肉を茹でてチャーシューまで作ってきた。
     七草で小休止をさせたとはいえ、試したいレシピや自分のこだわりを爆発させた厨房担当の双璧による鬱憤晴らしによって、さすがに食べるものは選べと胃袋が訴えかけてきていた。第一このままでは、洗面所の体重計が恐怖の対象となってしまう。
     場所は以前にも来た街の、駅から伸びる大通り沿い。そこからほんの少しだけ入った、ビルの中だ。オフィス街のご多分に漏れず、ランチタイムは平日でもそれなりに混雑する。コンセプトがコンセプトなためか、女性客が多い行列の中で、男女二人連れで並ぶ私たちは少しだけ浮いていた。
     いや、居心地が悪いわけでは全くない。むしろ向こうで一人で佇むおじさんサラリーマンのほうが、ずっと所在なさげだ。古い民家のような待合スペースにそぐわないビニールカーテンの向こうでは、野菜がずらりと並んだ冷蔵庫のような空間が広がる。客席は、田舎の農家と近未来をかわりばんこに並べたような通路のその先だ。
     やっと順番が回ってきて、通されたのは畳敷きの座敷だった。端っこに設置された掘り炬燵のようなカウンター席に腰を下ろし、メニューを確認する。
    「おばんざいのセットとスープセット……」
    「ええ、選ぶならそのどちらかですね」
     昨日は宴会だったため、朝ご飯はだいぶ軽めにしていたが、長い待ち時間と面談で、とっくに腹から消えている。しっかり食べたいねと頷き合い、結局二人とも同じ、おばんざいセットに。私はさらに卵かけご飯セットにして、サイドメニューのバーニャカウダも一セット注文する。
     サラダバーご案内します、と店員のお姉さんに連れられたのは、この店の名物だ。市場のように並べられたかごには、見るからに新鮮そうな生野菜がこれでもかと盛られている。キャベツにパプリカ、人参、セロリという定番はもちろんのこと。タマネギに春菊、大根、そしてカボチャ。
     長谷部のかぼちゃ、という呟きに、目の前で野菜を切っていた店員のお兄さんが食いついた。
    「はい、コリンキーっていうカボチャです。彼氏さん甘いのお好きですか?」
     不意打ちを食らって固まる長谷部が、私に肘でつつかれて慌てて首を縦に振る。夏の野菜なんですが、特別に入ったんですよ、生でも食べれちゃうんです。美味しいんですよ、みなさんメロンみたいだって言ってくれましてー。ああ、彼女さんもどうぞ、よかったら。
     野菜の説明が、脳を素通りしていく。そうか、彼氏さんと彼女さんに見えるのか。否定するのも説明が面倒だし、第一少しもったいない。備え付けの小さなかごに、トングであれこれと野菜を盛りつけ始めた。
     カボチャと春菊、つるむらさきにキャベツにセロリに人参、パプリカと、みるみるうちに野菜の山ができる。三つに分かれた長い小皿に、ドレッシングとニンニク味噌、そしてハーブ塩にオリーブオイルをセットすれば、準備はできた。
     座敷の入り口で行き来用のサンダルを脱いで席に戻ると、タイミングよくバーニャカウダが来た。アロマランプのような鍋の中では、ろうそくがゆらゆらと揺れている。熱せられたオリーブオイルからは、アンチョビとニンニクの匂いがした。
     いただきますと手を合わせ、まず私はキャベツを手に取った。少しだけ迷い、やはりここはと味噌を選ぶ。キャベツに味噌、大衆的な居酒屋のお通しでの鉄板も、ここで食べるといつも以上に美味しく感じるのは、野菜のせいか味噌のせいか、はたまたその両方だろうか。
     続いて手に取った人参は、オリーブオイルにひたす。ふわっと鼻に抜けるオイルの香りに、ドライハーブと上質な塩の味が優しく混ざり、人参の甘みを引き立てている。
    「おまたせしました。おばんざいセットと、こちらは卵かけご飯ですね」
     正方形の真っ白なプレートには、九つのおばんざいが行儀よく並んでいる。ゴボウのきんぴらに菜花の天ぷら、角切りのトマトが乗せられた豆腐、秋刀魚の味醂干し、鶏ハム、ローストビーフ、赤カブの風呂吹き、ポテトサラダ、そしてピクルス。
     木の椀に入った味噌汁の具は根菜らしい。私のお盆にはさらに、生卵と専用の醤油が追加されている。真っ白なご飯は、ありがたいことにおかわり自由だ。最初に味噌汁に箸をつけたくなるのは、いつもの本丸でのご飯と同じ。
     根菜と出汁のうまみに、ほんのりとした味噌の香り。それらが渾然一体となって、鼻腔をふわりと抜けていく。味噌汁を一口だけ飲んだ長谷部の眉間のしわがゆるみ、目尻がわずかに下がった。ふう、と気が抜けたようなため息が聞こえる。うん、いい顔だ。
    「美味しいよね、飲んだ次の日の味噌汁」
    「後生ですから忘れてもらえませんか……」
     頭を抱える長谷部に、私はにっこり笑って嫌だと言い放った。

     年始早々に、ようやくやってきた小狐丸と長曽祢虎徹の二振り、そして連隊戦の果てにやってきた、髭切と膝丸の二振り。彼らの歓迎会は、連隊戦最終日だった昨日、まとめて行われた。
     みんなで楽しめるものをと、メインは手巻き寿司に。海鮮に加えて、現代風にアボカドなども用意したおかげもあって、うれしいことに全員から大好評だった。
    「長曽祢兄ちゃん、それじゃ盛りすぎだよ」
    「ああ、まどろっこしい。貸せ!!」
     ようやくそろった虎徹の三兄弟は、浦島くんの希望で長兄を弟二人で囲む席順にした。最初は渋っていた蜂須賀も、海苔に巻くご飯や具の加減がわからずに右往左往する長曽祢にしびれを切らしたのか、ちょうどいい具合に酢飯を乗せた海苔を片手に、どれがほしいんだと刺身を取ってやっていた。
    「お揚げといえば稲荷だと思っておりましたが、これもなかなか美味しゅうございますな」
     そう言って小鉢に舌鼓を打っているのは、いうまでもなく小狐丸だ。こんがりと焼いた油揚げは、シンプルに生姜醤油を垂らしただけでも美味しい。隣では鳴狐が、以前に食べた袋焼きのおいしさを、言葉少なく説明していた。
    「お揚げの中に、いろいろ入ってて」
    「なんと。たとえば?」
    「中身がなんなのか、食べるまでわからないのですよぅ!!」
    「うん。でも、どれも美味しいから」
     あれ残り物整理メニューなんだけどね、と光忠が照れくさそうに笑う。複雑そうな顔でそれを聞く石切丸は、袋焼きは好きだが納豆はどうかと思うとでも言いたげだ。そのときはそのときで、水戸暮らしが長い制作者のお皿へと渡るのがいつものことだけれど。
    「ああ、これってさ」
    「先に言うが俺は膝丸だ、兄者」
     オーブン焼きにした野菜からみょん、と伸びるチーズに、お約束の展開を予測したのか。弟が兄の言葉を遮った。
    「まだ何も言っていないだろう、ピザ丸」
    「結局言ったな。言ってるよな、兄者」
     それを見て、何人かの弟を持つ兄たちは複雑そうな顔をしている。その筆頭は、当たり前だが一期だった。
    「お二人は仲がよいのか悪いのか、少し掴みかねるものがありますな」
    「きにしないでください、いちご。このふたふりはむかしっからいつも、こんなかんじです」
     ふう、と大人びた顔でため息をついた今剣は、両手持ちにした海苔巻きをほおばっている。次第にリスのように膨れていく頬を見て、岩融が黙ってお茶を彼の前に置いた。
    「いやぁ、ほら。僕らっていろいろあったじゃない、それに、他に弟扱いする刀も普段はいないしさ」
     どうにかなっちゃうし、別に不便しないんだぁ、と笑う髭切は、そう言いつつも困ったように膝丸の頭をぺしぺしと優しく叩いている。
    「いえ、よそのご事情に口を出す気は私もありはしませんので……お気に障れば申し訳ない」
     まだ距離を掴みかねている相手に不躾すぎたと、一期も軽く頭を下げる。口を挟むまいと黙っていた私の隣から聞こえたのは、意外としか言いようのない人物の、いつになくふわふわとした声だった。
    「何にせよ、呼べる名があるというのは、いいことじゃないか」
     驚いて見やった長谷部の顔は真っ赤だ。普段はそこまで弱くないはずだが、連隊戦で先陣を切っていた毎日で、さすがに少し疲れが溜まっていたらしい。明日は面談だが、早めに引き上げさせたほうがいいだろうと、陸奥守に目配せをすると、まかせちょけと頼もしいサムズアップが返ってきた。
    「長谷部殿、もしやあなたも」
    「ああ、いるぞ。おまえほど多くはないが」
     何か通じ合っている様子の一期と長谷部に私が戸惑っていると、大倶利伽羅が後ろからそっと耳打ちをしてきた。
    「奴の兄弟刀で、名をもらった者は“圧切”の他は片手で事足りる。まあ、俺も似たようなものだが」
     名を持たない弟、というキーワードに涙腺を刺激されたのか、泣き上戸になった一期に長谷部が慌てふためいている。兄弟多いって大変だなぁという髭切の言葉に、光忠が全くだよと大きく一つ頷いていた。
    「まあ改めて、よろしくね。膝切」
    「惜しい。すごく惜しいぞ兄者ァ!!」

    「疲れてたところに宴会だったからねぇ。朝大丈夫だった?」
     ごめんねと頭を撫でると、長谷部の手から蕪が転がり落ちる。すんでのところでキャッチをして、バーニャカウダソースに浸して頬張った。しゃくしゃくとした触感とみずみずしさに、鰯のクセとニンニクの風味がよく合っていて美味しい。
    「すみません、お見苦しいところを」
    「ううん、逆に楽しかったな。普段長谷部あんなに酔わないし……まあ、覚悟はしたほうがいいだろうけど」
     えっと声を上げた長谷部に、私は満面の笑みを浮かべる。
    「日本号と博多くんが、すっごくおもしろそうにこっち見てたから」
     頭を抱える長谷部を笑い、豆腐に箸を伸ばす。濃い大豆の味に、残すことなく入れられたおからの舌触りとトマトの酸味がよく合う。ゴボウからはふわりと土の香りがして、しっかりと茶色いのに濃すぎない味が好きだ。鶏の胸肉は柔らかく、脂肪がない分いくらでも食べられる。ほろ苦い菜の花の天ぷらは、春を先取りした味がする。
     さて、そろそろご飯にいこうか。一度こん、とヒビを入れたら、ひっくり返してもう一度。そうしてきれいに割れた殻からは、黄金色の卵黄が器の中に転がりだす。白身を切るように箸で混ぜ、醤油は軽く一回しでいいだろう。ご飯に空けた穴めがけて、どろりとしたそれを流し込んだ。
     隣では長谷部が、醤油ベースのソースがかかったローストビーフで、ご飯を巻き取って頬張っている。なるほど、あれはおそらく白ご飯のほうが合いそうだと、ご飯のおかわりにいけるかどうか、私は腹具合を確認した。
     さて、秋刀魚の味醂干である。一切れ取って口に入れ、即座に卵かけご飯をかき込むと、濃い味醂と醤油、そして秋刀魚の脂を、卵が優しく包んで喉へと運んでいく。
     飲み物のように茶碗を空にする私を見て、長谷部の目が少しだけ泳いだ。それを見て、通りかかったさっきの店員のお姉さんを呼び止める。
    「すみません、ご飯のおかわり二人分と、卵かけご飯のセットひとつ追加で」
     はーいと笑ったお姉さんが、ふたつのお茶碗を回収していく。ちょうどそろって一杯目を食べたところでよかった。
    「いや、でも彼氏さんの気持ちも分かりますよ」
     美味しいですよね卵かけご飯。店員さんの一言に、隣からうぐ、という声が聞こえた。またしても不意打ちを食らったのは、こちらも同じである。
    「……二人目だね、今日で」
    「は、はあ」
     彼女たちの発言は、何の裏もないものだった。さも当然であるかのように、私たちをただ見て感じたままに。その結果が、彼氏と彼女、だったんだろう。上司と部下、ではなくて。
    「ほら、バーニャカウダ。早く食べないと煮詰まっちゃうよ」
     ろうそくに炙られてぐつぐつと沸騰するソースを、適度に野菜で冷ましつつ絡めて。そうして食べたセロリは、ポリポリと頭に響く音を立てた。
     二度目に向かったサラダバーでは、今度は大根と蕪を追加する。夏には生の水茄子なんかがありますよ、あとはキュウリもとさっきのお兄さんに言われ、二人そろって来年の夏の面談場所という鬼が笑う願掛けをするはめになった。
     席に戻り、にやける頬を、どうにか気持ち悪くない程度に抑えながら。ゆらゆらと揺れるろうそくの光を私はただ見つめていた。
    「ねえ長谷部、この間清光とか乱ちゃんが、チョコレートファウンテンやりたいって言って却下されてたじゃない」
    「あれですか……当たり前ですよ。倉庫の肥やしになる未来が俺には見えてます」
    「まあ、確かに私もそう思うけどさ。こういうフォンデュ鍋ならいいんじゃないかな、バーニャカウダやチーズフォンデュもできるやつ」
     クリスマスのヤンソンさんの誘惑に使った、光忠お手製アンチョビが、確かまだ残っていたはずだ。畑の野菜とバーニャカウダにすれば、彼が秘蔵しているワインによく合うだろう。
    「……いいですね、そう高いものでもありませんし。後で二つほど見繕って行きましょうか。彼らが好みそうな見た目のものもあるでしょうから」
     一度に本丸全員でできるだけのものは買えないから、最初に少し買って様子見をしてから、万屋に発注すればいい。そう話す長谷部の顔を思わず凝視すると、不都合でもと首を傾げられる。
    「いや、まさかあっさりオーケーもらえる上に、デザインのことまで言い出すとは思わなかったから」
     目を丸くしているところをみるに、自覚はなかったようだ。くすくすと笑いながら、お姉さんが運んできたご飯と卵かけセットを受け取る。
    「なんだかんだで、いいお兄ちゃんだよね。長谷部は」
    「乱たちは、ああ見えて俺よりも年上ですが」
    「うん、そうなんだけどさ」
     そういうのに、年齢はそこまで関係ないんだよ。そんな言葉は言わないまま、また長谷部の頭に私は指を伸ばした。
    「あの、なにか」
    「ううん、ただね」
     髪の手触りを堪能していると、これは他の子も同じだけれどと、正直な気持ちがぽろりと口からこぼれ落ちる。
    「私のところに最初に来てくれた“へし切長谷部”が、長谷部でよかった、って」
     本丸のメンバーとして育てられるのは、同じ刀剣男士でも一振り目。だいたいの本丸がそうだろうし、私のところだってそうだ。二振り目はちょっとした罪悪感をかかえつつ、連結や資材に回している。
     だからこそ、考えてしまうのだ。もしも、私のそばにいる彼が、一振り目の『へし切長谷部』でなかったら、どうなっていたんだろうかと。少なくとも、今のようにはなっていなかっただろう。思考がオーバーヒートしたらしい長谷部の髪を、いくらなんでも唐突すぎたかと撫でていると、指先にしっとりとした何かの感触がした。
    「長谷部、桜」
     それは、現世に出るときは、抑えられているはずのものだった。わずかながらも舞い落ちた薄桃色の花弁は、すぐに空気に溶けるように消えてしまう。
     私のお冷やにひらりと落ちたそれも、すぐに形をなくしてしまう。なんだかもったいないな、と花びらの溶けた水を口に含むと、落ち着こうと同じくお冷やを飲んでいた長谷部が急にむせてせき込んだ。
    「ちょっと、気をつけてよ」
    「誰のせいだと思ってるんですか……」
    「あー、うん。ごめんごめん」
     涙目になった目元が、恨みがましそうにこちらをじとりと睨む。真っ赤になって覆われた口元のおかげで、怖いもへったくれもないけれど。
     深呼吸をする長谷部の背中をさすりながら、ぐるりと周囲を見回す。ちょうどあちこちの会社では昼休憩が終わる頃合いだ。三々五々と人が減り、座敷席は私たちの他にはもう一組を残すのみになっていた。
     壁の上のほうには、選挙のようなキャッチコピーと写真でアピールされたポスターが貼られている。すべて提携農家の宣伝のためのもので、田舎の農家の広間のような内装と微妙にミスマッチなのが逆に見ていて楽しくなる。そのうちの一枚を見て、私は思わず吹き出した。
    「ああいうポスター、光忠とか似合いそうだよね」
     野菜を片手にポーズを決める、イケメンという煽り文とセットにされた農家のお兄さんのポスター。それを指さして、野菜の種とか扱ってたっけ、買って帰ったら喜ぶかななんて話しかければ、長谷部がふい、と視線を逸らす。
    「……連れてきたら、喜ぶんじゃないですか、あいつは」
     その口調はいかにも、俺は不機嫌ですと言いたげだ。こりゃ驚いた。誰かさんの口まねをして、むすっとした顔を見つめる。
    「長谷部が拗ねた」
    「拗ねてません」
    「えー、だって」
    「拗ねてません」
     さすがの機動で背けた顔を追いかけてのぞき込めば、その顔はまるで茹で蛸のようで。
     これはもしかすると、もしかするのかもしれない。真っ赤になった長谷部の顔を見ていると、こちらもなんだか恥ずかしくなってきた。
     とはいえ驚きは二割程度で、やっぱりか、という気持ちがほとんどだ。あいにくと、そういう気持ちに一切気づけないほどの若さは持ち合わせがない。
    「そうだね。でもやっぱり、長谷部がいいな、私は」
     みんなで来れるのが一番だけどねとパプリカでバーニャカウダをさらい、そろそろ終わりそうなろうそくを吹き消す。焦げ付きそうだったソースをさましながら、みずみずしい甘さを堪能した。
    「台所雑貨、どこが充実してたっけなぁ」
     フォンデュ鍋を買う場所を頭の中でマッピングしているうちに、かごの中身はどんどんなくなっていく。もう一度取りに行こうかとも思ったが、腹八分ですませようと帰り支度のために立ち上がった。
     冬用のコートを着て、マフラーをぐるぐる巻きに。長谷部が首に巻いたマフラーは、先月クリスマスプレゼントであげたものだった。太い毛糸と太い編み針でざっくりと編んだそれは、なにを隠そう私のお手製である。
     こっそりと隠れて、まるで既製品のように丁寧に編み、店で買ったかのように慎重にラッピングをする私を、山姥切が何か言いたげに見ていたが、どうか放っておいてほしい。片思いの相手に手編みのマフラーをこれみよがしにプレゼントなんてできるほど、まだ私は自分を見失ってはいない、はずだ。
     ありがとうございましたという声に送られて、エレベーターに乗り込む。ガラス張りの外では、交差点の人の波が軍勢のように流れている。開いたドアの外へ出ると、真冬の風がぴゅう、と音を立てていた。
     この街は相も変わらず、毎日大量の人が訪れては去っていく。あるじ、と少しだけうわずった声とともに、私の目の前に差し出されたのは、手袋を着けた大きな手のひらだった。
    「俺も、学習しましたから」
     夏に来たとき、駅で私とはぐれたのがよほど堪えたのか、それとも。長谷部の赤い耳は、きっと寒さのせいだけじゃないんだろう。
     ふわふわとしたマフラーを火照った頬を隠すように引き上げ、私も右手を差し出した。
    二月――小金井の油そば
    「ところで長谷部、ビール飲みたくならない?」
    「俺をダシにするのはやめましょうか、主」
     却下です、と私の提案は一刀両断される。小さな駅のすぐそばにある中華料理屋には、冬の冷たい雨の中でも少しだけ行列ができていた。
    「油そばに、餃子と……ここのチャーハン美味しいんだよなぁ、どうしよう」
    「では俺がチャーハンセットにしましょうか。分ければちょうどいいでしょう」
     じゃあそれでと決めたところで、ちょうど順番が回ってきた。メニュー表を返しながら店員に注文を伝えて中へ入ると、カウンターの向こうから、いらっしゃいませと威勢のいい声が響く。
     油そば。この地域が発祥と言われる汁なしラーメンの一種だ。元祖と言われる店はいくつかあるが、その中の一つとして有名なこの店は、街の中華料理屋さんとして今日も変わらずに繁盛している。
    「雨の日にラーメンか。思い出すなぁ」
     ほんの半年くらい前のことが、今となっては遠い過去だ。
    「あの店も、また行きたいですね。チャーシュー麺も焼きそばも美味かったですし」
     懐かしそうに笑う長谷部に、私はうんうんと頷いた。
    「長谷部も変わったね。あの頃はもっと堅い感じだったけど」
    「仕方がないでしょう。俺の主がそうさせてくれないんですから」
     すました顔で麦茶を飲む長谷部が、そういえばと照れたように笑う。
    「あの頃は、少し不思議に思っていました。次の月の行き先について、当たり前のように主が話していて」
     来月も自分を近侍にしている、そんな保証なんてないはずなのに。そんなことを思っていたという長谷部も、今ではすっかりこの状況に慣れている。現に、油そばというものを食べてみたいとリクエストをしてきたのは彼自身だ。
     カウンターの向こうからやってきたチャーハンは、皿の上できれいな半球形に整えられている。レンゲを一つ追加で頼んでいただきますと手を合わせ、ぱらっと炒められた米をほぐし、口の中に放り込んだ。
    「……これさ、前も思ったんだけど、本当に肉入ってないんだよね」
    「ええ……入ってないですね」
     シンプルに、卵とネギだけ。なのに、どこの店のチャーハンよりも美味い。その存在は、私にとって長年の謎だ。
     天候がよくないのにひっきりなしに人が入るのは、この味もあるが、立地の良さもまた一つの理由なんだろう。なにせ駅を出て左手に曲がれば一分もかからない。
     新しくなっていた駅前のショッピングモールは、すっかりピンクと茶色に染まっている。かわいらしいラッピングのチョコレートが積まれた店頭では、数人の女性たちが義理チョコの物色にかかっていた。
     明日は二月の十四日。キリスト教の聖人を讃える日が、お菓子業界のキャンペーンで魔改造された恋人たちのイベントは、もう目前に迫っている。クリスマスと同様、悲喜こもごもといった様子で語られることが多い日だが、なんだかんだで昔からテンションが上がることに変わりはない。
     しかも今年はと、私は隣に座る長谷部の横顔を、こっそりと窺い見た。私室の戸棚の中では、昨日作ったお菓子の山が、ラッピングされて出番を待っている。
     バレンタインを直前にして、本命とのランチは中華料理店で油そば。何かが違うような気もしなくもないが、まあ、それはそれで。お待たせしましたと厨房からやってきた餃子を受け取り、私は小皿に酢醤油とラー油をセットした。

    「主、最近お化粧あんまりしなくなってきたよね」
     台所には、いつもと違った甘い匂いが満ちていた。湯煎用の大きなボールにはお湯が湯気を立て、温度計もスタンバイ済み。クーベルチュールを数十人分なんて予算はないので、使うのは万屋で安売りしていた市販の板チョコだ、テンパリングは慎重にやる必要がある。
     クリスマスを過ぎて、現世の横文字イベントも、そろそろあちこちの本丸の間で定着し始めたようだ。一月の半ば頃から、万屋も大々的にチョコレートコーナーを展開させている。レジの横には大口のチョコ菓子お取り寄せカタログも置かれ、ラッピングセットもダース単位が基本だ。おかげで審神者が男性の本丸は、現在実害のない呪詛に満ちているとかいないとか。
     我が本丸も、ご多分に漏れずイベントに乗っかるつもりである。バレンタインを二週間後に控え、本丸メンバー全員分のプレゼントを作るつもりの私と、全員とまではいかなくても、せめて兄弟全員分は作りたい乱ちゃん、そしてちょうど内番を終わらせたところを捕まり、味見役という名の雑用係に駆り出された清光と歌仙が、試作のためにキッチンに集合していた。先ほどの台詞は、まずは手順の確認と計量をとレシピ本をめくっていた私に、清光が言い放ったものである。
    「え、なに。藪から棒に」
    「いや、なんとなーく、さ」
     前は本丸にいる時だって少しはしてたし、面談で現世行くときなんて仰々しいくらいだったじゃん。そう言って首を傾げる清光は、ニヤニヤと意地悪く笑っている。
    「そりゃね、前は必死だったもの。気を張るなってほうが無理でしょ」
     今まで出会った男どもが、全員カボチャや芋にしか見えなくなるレベルのイケメン集団に囲まれて、上司として慕われて。そんな状況で最初からすっぴんを晒せる女性がいたら、逆にかなりの大物だろう。
     審神者の業務は、世間が思うほど楽ではない。なるべく全員に出陣の機会ができるように調整し、それでもどうしてもできてしまう練度の差を埋め、必要な資材も管理し、内番を割り振る。新しい刀剣男士の情報が入ればその詳細を調べ、バックグラウンドを知るために史料を紐解く。さらにみんなの関係にも気を配り、話についていくための勉強も欠かせない。
     そんなこんなで慣れないうちは、徹夜続きで肌の具合もめちゃくちゃになっていた。しかしそれを表に出しては、男士たちにも気を遣われてしまう。
     本丸にいるときは、最低でもファンデにチークとアイブロウを、現世に行くときはそれにプラスしてアイラインとマスカラのフル装備。審神者に就任した直後の数ヶ月は、そんな毎日を過ごしていた。
     メイクはマナーという言説は、どうしたって好きになれない。それでも、自分への評価は付き従ってくれる彼らへの評価にも繋がるのだ。今考えても、かなり気を張っていたと思う。
     それが今はどうだろう。本丸にいるときは、来客でもない限りは基本的にすっぴんだし、現世に行くときも、前よりはずっと薄化粧だ。ただ、前よりも華やかにしたいという意識はあるけれど。
    「やっぱり気になる? 普段もしたほうがいいかな」
    「んーん、別に。誰も気にしないし、逆にホッとしてるよ。気抜いてくれてるんだなーって」
     適度に気を抜いたきっかけなんて、はっきりとは思い出せない。いつしか化粧は、義務やカモフラージュのためのものから、純粋なおしゃれ目的のためのものとなっていった。
    「おしゃれって、最終的には自分のためじゃん? 俺もさ、主に可愛いって言ってもらえるの嬉しいけど、それだけじゃないし」
    「あ、それボクも分かる。別に誰も見てなくても、ボクがテンション上がればそれでいいよねって思うなぁ」
     神様、私の刀たちは、こんなにいい子に育ちました。楽しそうに女子トークのようなものを展開する乱ちゃんと清光の様子に、こちらの気持ちも華やいでくる。
    「なんかさ、前は現世行くのもスーツ? 着ててさ、窮屈そうだったよね。あれボクそんなに好きじゃないんだ」
    「ああ、そうだったそうだった。しかも、長谷部も君に服装を合わせるものだから、本当に上司と部下という出で立ちだったよ。あまり雅とは思えなかったね、あれは」
     和やかになっていたところで、いきなり放り込まれた歌仙の今さらの暴露話に、そうそうと頷いた清光が、さらなる爆弾発言を重ねてきた。
    「今は好きに着てる感じで、ずっといいよね。前よりなんか、デートって感じがしてさ」
     飲み物を口に含んでいなかった自分を、心の底からほめてやりたい。
    「清光さん清光さん、今ただならぬ言葉が聞こえてきたんですけど」
    「えー、だってさぁ。主だって気付いてんでしょ?」
     長谷部って絶対主のこと好きじゃん、主の気持ちはあいつ以外の全員が知ってるし。そう言って満面の笑みを浮かべる清光に、私が反論できるはずがなく。
    「さあ、今の気持ちを雅に表現してごらん」
    「し、忍ぶれど」
    「うん、色にいでけりという以前に、忍ぶ努力をしてみようか」
     歌仙の無茶ぶりに、必死に記憶をたどって絞り出した苦し紛れの引用は、パクりじゃないかという突っ込みで水泡に帰する。そのとき、がらりと開いた入り口の引き戸から、威勢のいい土佐弁が飛び込んできた。
    「なんじゃぁ、美味そうな匂いじゃの」
     段ボールを担いだ買い出し帰りの陸奥守と、かごを抱えた畑帰りの光忠の後ろでは、通りすがりのところを捕まったらしい大倶利伽羅が、仏頂面で雪にまみれたキャベツのかごを持っている。
    「楽しそうだね。何の話?」
    「へへ、こ・い・バ・ナ」
     テーブルに散乱するお菓子のレシピ本と、二週間後の日付。なるほどと笑った眼帯姿の伊達男は、冷蔵庫の扉を開いて野菜をしまいはじめた。
    「ああ、よかった。もうちょっとで伽羅ちゃんじゃなくて長谷部くん連れてきちゃうところだったよ」
     乱くんは何作るの。兄弟たちにマンジャンで、いち兄にはトリュフかな、みっちゃんにもあげるよ。へぇ、それは光栄だな。ぐさりと言葉の流れ弾を私に当てたことにも気付かないまま、伊達男は乱ちゃんと外見に似合わない可愛いトークを繰り広げていた。頭を抱える私を、大倶利伽羅が大変だなとでも言いたげに見つめている。同情するならフォローをくれ。
    「バレンタイン、じゃったか。おもしろいもんじゃのぉ」
    「……興味ないな」
     興味深げにレシピ本をのぞき込んでくる初期刀と対照的に、もう一人の伊達男は真っ赤になった指先を乾いたタオルで包み込んでいる。慌ててストーブで炙って霜焼けを作ることがないのは、北の記憶があるせいだろうか。ストーブの上でしゅんしゅんと沸くヤカンを取り、私はティーバッグをセットしたポットにお湯を注いだ。
     ティーコゼーをポットにかぶせていると、歌仙がすかさず人数分のティーカップを準備し始めた。ビスケットの入ったタッパーを戸棚から出しつつ、私は感じていたモヤモヤにため息をつく。
    「と、いうかさ。みんなは気にしないの? そういうの」
    「うん、何が?」
     何がもへったくれもないだろう、私と長谷部のこの状況のことだ。職場のトップとその秘書役が“そういうこと”になっているなんて、不満の声が上がってもおかしくはない。少なくとも、現世の会社だったら多かれ少なかれトラブルの元になっているはずだ。
     そう言うと、全員が全員、呆れたような表情を浮かべた。
    「やれやれ、なにを言っているのやら」
     今さらだろうと笑う歌仙に、そうそうと清光が同調する。何かあったらとっくに言ってると笑うのは、私の頼れる初期刀だ。
    「……そういうことを気にしている輩が、何かやらかすはずがないだろうに」
     あんたは馬鹿なのかと、大倶利伽羅が正論のど真ん中を突いてくる。それは分かっているけれどと、私は本日何度目かのため息をついた。
    「それもそうなんだけどさ。まあ、何か思うことがあったら言ってよね」
     恋をするときれいになるだの何だのと世間では言われているが、もっと確実なことが一つある。恋をすると、人間はどこまでも馬鹿になるのだ。馬鹿、というよりは、正常な判断ができなくなる。それはもう、何かおかしな成分でも脳から分泌されているんじゃないかというくらいに。
     そう話すと、何人かは心当たりがあるんだろう。特に歌仙が遠い目をしている。場の空気を軌道修正しようと、清光がぱん、と手を叩いた。
    「ま、そのときはそのときとして……主、作るもの決まってるの?」
    「そうだねぇ。たくさん作らなきゃいけないし、アイスボックスクッキーかな」
    「で、へっしーには?」
     興味津々と目を輝かせて、乱ちゃんが身を乗り出す。僕も気になるなぁと笑う光忠をプラスすれば、ノリはもはや女子高生の放課後だ。
    「そうだね、プラスして追加で詰めておこうか」
     クッキーは一人につき三枚にしようと思っていたが、もう一枚か二枚を余分に詰めよう。そう話すと、今の今までニコニコしていた光忠と乱ちゃんが、一気に真顔になる。
    「主、ちょっとそれは、ないかな」
    「そうだよ、さすがにへっしーがかわいそうだよ!!」
     さすがにもうちょっと特別扱いをしてやれと、非難囂々雨霰。世間一般じゃそういう論争は、私の経験から見て、たいてい女から男にふっかけるものじゃなかっただろうか。まさかの大倶利伽羅までが呆れ顔だ。
    「長谷部じゃったら、主からもらうならなんでも喜ぶと思うがの」
    「わっかんないかなー。気持ちだよ気持ち、こういうのは」
     陸奥守からのありがたいフォローも清光に一刀両断され、私はあっさり白旗を揚げた。秘蔵のシリコンの焼き型は、猫型と少し迷うけれど、バラの花型にでもしてみようか。
    「フィナンシェ、ココアとアールグレイの二種類でいいかな」
    「はい、よろしい」
     重々しく頷く歌仙からのゴーサインをもらい、私はバターの在庫をチェックした。

     粟田口と長谷部は立ち入り禁止となった台所で、オーブンをフル回転させた後はラッピングに四苦八苦して。二種類のフィナンシェはパラフィン紙とセロハンに包んで、藤色と山吹色のリボンをかけて、大量のクッキーの隣に分けてある。後は、渡すタイミングだけだ。
     少し羽のできたオーソドックスな焼き餃子の皮は香ばしく、中身がみっしり詰まっている。何より、六つ入りなのがありがたい。
    「宝そば二つ、お待たせしました」
     カウンターに置かれたどんぶりを受け取ってのぞき込む。太い麺にチャーシューにシナチク、たっぷりのカイワレと刻みネギに、ナルトが一枚。その底から、タレの油がきらりと光を反射している。その光景をしばらく堪能して、箸を伸ばした。
     チャーシューはどんぶりのふちに貼り付けるようによけて、他の具と麺、タレをすべて上下に返す。まんべんなく混ざり、タレと野菜をまとわりつかせた麺をすすると、しつこくない油に醤油の風味が喉を通り過ぎていった。ラードまみれのジャンクな油そばも美味しいけれど、日常的に食べたくなるのはこちらのほうだろう。カイワレのさわやかな刺激が、こってりさを全く感じさせない。長谷部も私も、しばらくはひたすら無言で麺をどんぶりから消しにかかっていた。
     半分になったところでストップして、お酢とラー油を回しかけた。またかき混ぜてまろやかになったタレは、すっかり乳化して濁っている。最後の一口まで片付けて、一息ついて麦茶をあおる。チャーハンと餃子の取り分もなくなって、ごちそうさまをしたのはだいたい二人同時だった。
    「この後はどうしますか? その、駅で何か菓子でも……」
    「今ああいう場所で買えるの、チョコばっかりだよ」
     少しだけそわそわしている長谷部に、もう準備はしてあるよと言ったらどんな反応をするんだろうか。しかし、その楽しみはやっぱり明日まで取っておきたかった。
     隣の駅との間に、美味しいケーキ屋さんがある。シンプルな和栗のモンブランが私のお気に入りだけれど、それ以外の焼き菓子も美味しいのだ。ロールケーキでも、みんなで分けられるだろう。
     会計をしながらそんな提案をすると長谷部は、ではゆっくり歩いていきましょうか、と笑った。
     店を出て、相変わらずしとしとと降る雨に眉根を寄せて傘を手にすると、不意にそれを片手で制された。ぼん、と音を立てて、長谷部の傘が開く。
    「その、よろしければ、こちらへ」
     主の気持ちは、あいつ以外の全員が知ってるし。
     清光はああ言っていたけれど、気が付いているのは、たぶんお互い様なんだろう。両手は塞がらないほうがいいでしょうなんて、あまりスマートでないお誘いをしてくる長谷部の赤い顔に、どうしたって頬がゆるむ。
    「そうだね。じゃあお願い」
     大きな傘は、少しくっつけば濡れることもないだろう。腕でも組もうか、それともそこまでするのはまだ早いか。そんな気持ちを抱えつつ、駅とは反対方向に二人で歩き出す。
     一駅分と、もう少し。それだけの距離を、ゆっくりと歩く。私の歩調に合わせる彼のスラックスの裾は、今日はほとんど濡れることはなかった。
    三月――中道通りのソフトクリーム
    「缶コーヒーって、むしろ安いほうが美味しいんだよ。コンビニの肉まんもだけど」
    「お言葉ですが。それを俺に教えてどうしろというんです、主」
     当日朝に急に入った面談時間変更の連絡のおかげで、昼食を取る暇もなく。大急ぎで受付を済ませたら、今度は前がつかえていたおかげで一時間半もの間、待合室で待ちぼうけを食らって。仕方なく、本日の昼食は売店のサンドイッチと自販機の缶コーヒーだった。
    「行きたかったなぁ、ハ○ニカ横町のイタリアンバイキング……あそこのパンナコッタ美味しいんだよね」
    「またこの街にも来るでしょうし、そのときにしましょうか」
     旅行先で食べる全国チェーンの料理が味気ないように、機会があれば少しでも現世ならではの食事を取りたいというのは審神者界共通の認識のようだ。今日のような事態は、アンラッキーとしかいいようがないだろう。執務室のコーヒーマシンで入れたコーヒーに慣れている長谷部も、缶コーヒーを一口飲んだ瞬間眉間にしわを寄せていた。
     やっとこさ面談が終わり、こうしちゃいられないとやってきたのは、街の中心から少しそれた通りにある食料品店だ。長谷部とこの街に来るのも三回目だが、パスタ屋とも公園とも違う色とりどりの食品パッケージや台所雑貨の数々に、さっきから彼は目をきょろきょろさせている。
     店の外には、道の端ぎりぎりまで紅茶やジャムが積み上げられ、海外のお菓子や雑貨も一緒に安売りの札と並べられている。それらには目もくれず、私は右手のデリコーナーへと向かっていった。
     ショーケースの中に並ぶのは、大きなガラス容器で作られたプリンなどのスイーツだ。そしてその奥には、エスニックをメインとしたおかずの数々や、ホットスナックが数種類ずらりと並べられている。好みのおかずをご飯に乗せたぶっかけ弁当も人気だが、忌々しいことに、さっきのぱさついたサンドイッチが未だにお腹に残っている。今回のお目当ては、目の前のプリンたちとソフトクリームだ。
     いろいろなスイーツをカップに入れてもらい、好みのソフトクリームを乗せ、トッピングは各自で。この店の人気メニューだが、もうそろそろ暖かくなってきたとはいえ、さすがに人もまばらだった。
     私はキャラモンドティラミスで、長谷部はコーヒールンバ。そろって乗せてもらったバニラ味のソフトクリームを手に、トッピング台へ向かう。
    「この色の塩、確か厨で見たような気がするのですが」
    「すこーしだけかけてみなよ。美味しいから」
     ピンク色の岩塩をほんの少しと、キャラメルチョコチップに、いかにもアメリカンな色合いの有名なチョコレート菓子。バナナチップスは、舌が冷えたとき用に少し多めに刺しておいて、仕上げにチョコソースをかける。欲張りすぎて溢れさせてもみっともないが、控えめすぎてもつまらない。セルフサービスのトッピングは、さじ加減の調整も楽しさの内だ。
     店内の通路は狭く、イートインスペースも存在しない。だいたいは歩き食いか、店の外での立ち食いが基本だ。店の向かいの道ばたで、二人並んでソフトクリームをつつくと、甘すぎないミルクの風味がティラミスに絡み、ほんのりとした岩塩のしょっぱさが優しく甘さを引き立てる。やわらかいスイーツの中に交ざるコーンフレークやキャラメルチョコチップがアクセントになって、さらに時折ごろりとしたチョコ菓子が口の中で転がった。
     不動行光は、結局私の本丸に来ることはなかった。少し寂しいものがあったが、いつかまた、縁があるだろう。そう思いたかった。
     出陣期間が終わり、複雑そうにしていたのは長谷部だ。心の準備をする時間ができたなと薬研にばしばしと背中を叩かれ、おんしも難儀な男じゃのうと陸奥守に同情され、彼の思っていることがわからないほど、私も鈍くはない。いつか来てくれるそのときまで、心の準備が必要なのは、きっと長谷部だけではないんだろう。
    「いつか不動くんが来たとして、長谷部は大丈夫?」
    「……冷静になれるよう、努力はします」
     今さら何を怖がっているんでしょうね、あなたの馬鹿近侍は。呆れたように笑っていた宗三の言葉が、頭の中にこだまする。難しい顔をする眉間のしわを軽くつつき、私はそっと彼の名前を呼んだ。
    「私にとって、長谷部はいつだって私の長谷部だよ。何があってもね」
     そう言いつつ、スプーンに乗せたキャラモンドティラミスを長谷部の口に突っ込むと、彼はむぐむぐと唇を動かしつつ、なんというかと微笑んだ。
    「……主の元へ一番乗りできた俺が、俺でよかったです」
     そっか、と呟き、私は笑った。ぽりぽりと口の中で音を立てるバナナチップで舌を小休止させつつ、長谷部が差し出したコーヒールンバのスプーンをぱくりとくわえる。
     バレンタインには、執務の合間に二人でお茶を飲みながら、他愛もない会話をしつつフィナンシェをつまんだだけで、結局お互いになにも言わなかった。こういうイベントにかこつけるのもどうかと思ったし、なぜだか今言ってしまうのも、もったいない気がしたのだ。
     まあ、そんな平和な時間も、お茶のおかわりを入れようとした長谷部が、執務室の床下から泥だらけで抜け出していた鯰尾と青江と浦島くん、そして見張り役を任されていた御手杵の四人に気付き、追いかけて正座させるまでのことだったけれど。
     余談だが解放後、興味津々の他の男士たちからなにを聞いたんだと質問攻めにされて、「期待してたのになにもなかったです。お説教のされ損でした!!」と爽やか笑顔で言い切った鯰尾は、一期に追加で正座の刑に処されていた。
     こうして、少女マンガの世界から男子中学生の日常へと一気に変貌した我が本丸は、今日も今日とて平和である。長谷部がこっそりとホワイトデーに向けてお菓子づくりの特訓をしようとして、台所の惨状を予測した歌仙に、無言で洋菓子お取り寄せカタログを押しつけられたらしいという垂れ込みが、当の鯰尾から来たくらいで。おかげで来週が楽しみで仕方がない。
    「あ、長谷部。舌青いよ」
    「主は緑ですね」
     べえ、と舌を見せ合えば、互いのそれはチョコレートの着色料で派手に染まっている。夏にみんなで食べたかき氷を思い出すと話す笑顔は、前と比べれば別人のようだった。コーヒールンバとキャラモンドティラミスをまた一口ずつ分け合って笑い合い、染まった舌を帰るまでにどうしようかと思案して、カップの中身はだんだんと少なくなっていく。
     共有する時間と、ちょっとした秘密が少しずつ増えるにつれて、いろいろなものが変わっていく。それはきっと長谷部を変え、私自身を変え、さまざまなものへ影響し、形のない姿のままで、未来へと繋がっていくのだろう。
     本丸に戻ればまた、過去を守り、今を守る戦争が、私たちの目の前には広がっている。終わるのは数十年先のことかもしれなければ、明日かもしれない。この先が、どうなるかなんて私にも長谷部にも分からないのだ。
     だから後悔しないように今日を大事にしようだなんて、誤魔化すようなことは言いたくなかった。いつ、どんな形で終わろうと、後悔は必ず残る。今できることといえば、少しでもみんなと一緒にいる、それだけなんだろう。スプーンでカップの中身を掃除して、ごちそうさまと備え付けのゴミ箱に二人分のカップを放り込んだ。
    「さて、さすがにちょっと冷えたよね」
    「そうですね。まだ三月ですし」
    「冷え冷えになったとこでさ、揚げてから時間が経ってない、ほんのり温かくて優しい甘さのドーナツとか食べたくならない?」
     そばの通りをずっと行ったところに、美味しいドーナツ屋がある。そこでお土産を買って、好きなドーナツを一つずつテイクアウトして、近くのコンビニで飲み物を買って向かいの公園で。そう提案すると、長谷部の目元がふうっとやわらかくほころんだ。
    「こうも甘味ばかりでいいのかという気も、しないではないですが」
    「まあまあ。あ、あとね、駅ビルに日本茶の専門店もあって、そこでもお使い頼まれちゃってるんだ」
    「鶯丸ですか」
    「半分当たり、平野くんがプレゼントするんだって。前はドーナツ屋さん行く途中にあったんだけど、移転しちゃったみたい」
     キープしておいたお年玉の残りを差し出されて、断れるわけがない。ついでに自分たち用にも調達していこうという提案に、仕方がないですねと笑う長谷部の顔は、言葉の割には楽しそうだ。
     では参りましょうか、そう言って差し出された手のひらを、思わず二度見する。まるで当然のように笑顔を浮かべてはいるけれど、その表情はほんの少しだけ硬かった。
     そっと手を取ると、気を張っていた顔がとたんにホッとしたようにゆるむから、とりあえず力を込めて握りしめてやる。手袋をしていない手のひらの感覚が、なんだか新鮮だ。
     言い訳しなくなったなぁとか、手汗をどうしようとか。そんな気持ちはひとまず心の奥にしまい込み、歩調を合わせて二人でゆっくりと通りを進んでいく。
     長谷部と出会って、二度目の春。それは、もうすぐ近くにやってきていた。
    六花@支部から移行中 Link Message Mute
    2022/08/13 14:45:31

    食欲礼賛 総集編

    イベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
    一部の固有名詞をちょっといじったり横組み用に編集はしていますが、オンライン用に改行増やしたりするのは諦めました、読みにくいでしょうがご容赦ください。ふりがなの設定は時間を見つけて加えていく予定です。

    食欲礼賛 総集編
    発行:2019年10月13日
    初出:2016年3月13日(『食欲礼賛』)、2017年3月20日(『続 食欲礼賛』、『食欲礼賛 終』)

    長谷部×女審神者
    ・モブが出たりする
    ・この世の森羅万象と無関係
    ・あれって思うこともあるだろうけどきっと気のせい
    ・無関係なんです、そういうことでお願いします

    審神者には月に一度、政府本部での定期面談が課せられている。近侍を伴い、ゲートまでは現世を経由し、面談の後は寄り道をして――
    ラーメン、ナポリタン、インドカレー……おでかけの度に増えていく、二人きりの時間。そして本丸のみんなにも見守られながら、主従という関係も少しずつ変わっていく。
    これは近侍の長谷部と審神者の「私」の、ささやかな毎月のお楽しみの話。
    総集編書き下ろし、『十月――銀座の花屋のあんみつ』収録。

    文庫・376ページ
    表紙・挿絵:藤村百さん
    イベント頒布価格:1500円
    サンプル掲載範囲:およそ3分の1強(『食欲礼賛』掲載分)

     通販・イベント共に、特典として無料冊子
    『いつかの本丸の夜食ラーメン』
    をお渡しします。審神者のオリジナル裏設定をやりたい放題ブチまけてますのでご注意を。

    #へしさに #サンプル

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    • 増殖する忠犬へし公の群れに地獄の補佐官様は打って出るようですイベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
      一部の固有名詞をちょっといじったり横組み用に編集はしていますが、オンライン用に改行増やしたりするのは諦めました、読みにくいでしょうがご容赦ください。ふりがなの設定は時間を見つけて加えていく予定です。

      増殖する忠犬へし公の群れに地獄の補佐官様は打って出るようです
      発行:2018年10月7日

      長谷部×女審神者
      ・『鬼灯の冷徹』クロスオーバー
      ・クロスオーバー先原作程度の
        死ネタ
        グロ描写
        メタメタしい発言
      ・両原作に対する捏造設定有

      時間遡行軍との戦いが終わり、すべての本丸は解体。審神者は人間としての元の生活へ、刀剣男士たちはそれぞれの本霊へ戻っていった……はずだったが?
      「主がこちらに来るまでここで待つ」と言って突如地獄の門の前へ大集合した、あちこちの本丸のへし切長谷部!
      ふざけんなと動き出したご存じ閻魔の補佐官!
      最強の地獄のナンバーツーが、忠犬軍団に取った手段とは?

      文庫・120ページ
      表紙:藤村百さん
      イベント頒布価格:700円
      サンプル掲載範囲:最終章前段階まで
      #へしさに #サンプル #クロスオーバー
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    • いつか笑って話せるようにイベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
      一部の固有名詞をちょっといじったり横組み用に編集はしていますが、オンライン用に改行増やしたりするのは諦めました、読みにくいでしょうがご容赦ください。ふりがなの設定は時間を見つけて加えていく予定です。

      いつか笑って話せるように
      発行:2020年8月30日

      長谷部×女審神者
      ・転生現パロ夫婦本。記憶なし長谷部×記憶あり主
      ・モブとの会話
      ・基本的に、長谷部が主に敬語じゃない
      ・ほんのりとした、匂わせる程度の死ネタ

      「お前が見ているのは俺なのか、それとも俺の内側にいる別の誰かなのか」
      「教えてくれ、お前は何を知っているんだ、俺とお前はいったい何だったんだ」

       本丸の記憶が戻らないまま、主と出会い、恋をし、結婚した長谷部。
       妻と自分、そして周囲の友人たちとの間に横たわる、どうしても埋まらない“何か”を追い求めながらも、日常は穏やかに過ぎていく――
       手探りで歩む二人の日々を、日々の食卓とともに描く十三章。

      「信じたいんだ。記憶がなくても、また好きになってくれた彼のこと……思い出してくれなくても、ちゃんと好きになれた私のことも」

      文庫・224ページ
      表紙:藤村百さん
      イベント頒布価格:900円
      サンプル掲載範囲:冒頭三話分
      #へしさに #サンプル #現パロ
      六花@支部から移行中
    • 例の部屋に閉じ込められましてイベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
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      例の部屋に閉じ込められまして
      発行:2019年2月24日

      長谷部×女審神者
      とうらぶユーザー審神者(アラサー社会人)
      ・導入のみ“ちゃんねる小説”形式
      ・捏造設定多数
      ・メタ発言

      夢の中、謎の空間で、ゲームのデータでしかないはずの近侍と鉢合わせたアラサー社会人兼業審神者。
      唐突に舞い降りてきたメモには、『キスしないと出られない部屋』と書かれていて……
      「――いや、支部かよ!!!」
      脱出条件をクリアして、リアルワールドに戻りますか?
      それとも、長谷部と一緒に夢の中での邂逅を楽しみますか?
      ドリームとリアルの間で揺れる、とあるひとときの物語。

      A5コピー・24ページ
      イベント頒布価格:200円
      サンプル掲載範囲:全文
      #へしさに #サンプル
      六花@支部から移行中
    • 一文字御隠居の昼飯珍道中イベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
      一部の固有名詞をちょっといじったり横組み用に編集はしていますが、オンライン用に改行増やしたりするのは諦めました、読みにくいでしょうがご容赦ください。ふりがなの設定は時間を見つけて加えていく予定です。

      一文字御隠居の昼飯珍道中
      発行:2022年5月3日

      長谷部×女審神者
      ・則宗視点
      ・公式にないねつ造設定多数
      ・「そりゃこんだけ本丸があれば、CPも個体差も何でもありでしょ」という作者の認識を元にしたエピソードも出てくる。

       慶応甲府の特命調査を経て、とある本丸に監査官こと一文字則宗が顕現した。
       男所帯のトップが妙齢の女性で、秘書役と熱烈恋愛中。それだけ聞けば危うく思えるものの、なかなかどうして問題なく運営できているようだ。
       案内役兼教育係として加州清光に本丸を連れ回され、懐かしい顔とも鉢合わせ、やって来たのは台所。
       メインキッチン以外に、台所は共同棟と生活棟に計二カ所。聞けば、朝と夜は全員で食事を取るが、昼は各自で済ませるらしい。
      「自分で作るのもありだけどね。しばらくは、得意なやつが多めに作ってくれるとこに断って交ぜてもらうのもいいんじゃない?」
       こうして、一文字御隠居による昼飯行脚の旅が始まった――

      文庫・296ページ
      表紙・挿絵:須羽永渡さん
      イベント頒布価格:1000円
      サンプル掲載範囲:プロローグ+冒頭三話
      #へしさに #サンプル
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    • 主を探して三千里~受験生 長谷部国重の憂鬱~イベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
      一部の固有名詞をちょっといじったり横組み用に編集はしていますが、オンライン用に改行増やしたりするのは諦めました、読みにくいでしょうがご容赦ください。ふりがなの設定は時間を見つけて加えていく予定です。

      主を探して三千里~受験生 長谷部国重の憂鬱~
      発行:2018年11月24日

      長谷部×女審神者
      ・転生現パロ
      ・モブの登場
      ・何でも許せる人向け
      ・この世の全てと無関係

      長谷部国重高校三年生。定期テスト前夜に思い出したのは前世の記憶と、そして……昔通っていた小学校に主がいた!?
      成績ガタ落ちで呼び出しを食らった春の終わりから、刻々と減っていくセンターまでの残り日数と、始まった昔の仲間探し。果たして彼は無事主を探し出せるのか、そして第一志望に合格できるのか?

      文庫・132ページ
      表紙・挿絵:須羽永渡さん
      イベント頒布価格:700円
      サンプル掲載範囲:最終章手前まで
      #へしさに #サンプル #現パロ
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    • A Testatrix of Wisteriaイベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
      一部の固有名詞をちょっといじったり横組み用に編集はしていますが、オンライン用に改行増やしたりするのは諦めました、読みにくいでしょうがご容赦ください。ふりがなの設定は時間を見つけて加えていく予定です。
      読み返しましたが我ながら懐かしいですね、まだ極すら実装されていなかったころの発行だったということを前提にお読みいただければ幸いです。

      A Testatrix of Wisteria
      発行:2017年5月4日

      長谷部×女審神者。
      ・not審神者視点
      ・ねつ造設定
      ・性行為の示唆等、センシティブな描写あり
      ・他本丸の他刀さに描写あり
      ※見解は分かれそうですが、書いてる本人はへしさにのハッピーエンドだと思ってるので、これはへしさにのハッピーエンドです。

      「私は、父の顔を知らない」
       誰もが何かを隠している、それだけは知っている。
       戦争終結後の日本社会。母と二人きりで生きる『私』が暮らす、穏やかで幸せで、少しおかしな日常。その果てにやって来たものは……

      『A Testatrix of Wisteria』
      『The Testator from Wisteria』
       の短編2本を収録。

      A5 ・24ページ
      イベント頒布価格:300円
      サンプル掲載範囲:全文
      #へしさに #サンプル
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    • 『居酒屋 あるじ』ツイッターのタグ企画で書いたもの。
      冬の本丸で時々開催される、アラサー女子審神者の道楽のお話です。
      新人組の様子はだいたいこんな感じよ。
      #刀剣乱舞 #女審神者 #笹貫 #稲葉江
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