いつか笑って話せるようにけんかの後の嫌がらせ弁当
「ケンカでもしたんですか?」
弁当箱を前に固まった俺に、同僚が声をかけてきた。面白そうにしているのが腹立たしいが、図星も図星なものだから言い返せもしない。
結婚してからずっと――と言っても、ここ一年足らずだが――使っている、俺の手のひらほどの大きさのプラスチックの箱。
毎日、彼女が午後からのエネルギーを詰め込んでくれているはずのそれは、今日に限って、真っ白な雪原のようだった。
おかずなし、ふりかけなし、梅干しなし。見渡す限りの白米。
みっちりと詰め込まれた米粒から圧力を感じるのは、ただの俺の考えすぎ……だと、思いたい。
「言っておきますが、僕のおかずはあげませんよ」
「いや……いらん。このまま食う」
同僚の弁当は、たしか彼の兄が作っていると聞いている。なよっちい外見に似合わず、中身は肉メインのガッツリ系だ。
「で、ケンカの原因は?」
「いや、その、ケンカというよりは」
「え、長谷部さんお弁当どうしたの。奥さんとケンカ?」
ひょい、と覗き込んできた先輩の女性が、素っ頓狂な声で小さく叫ぶ。それでも、いつもよりボリュームを抑えてくれているのがありがたい。お局と言われつつも、他の女性陣からも慕われている彼女の気遣いには、中途で入社した当時から何度も助けられている。
「まあ、少し」
「あらー、懐かしい。うちもダンナにやったっけなぁ、昔」
うん十年も前だけどと、彼女にぱん、と威勢よく背を叩かれる。
「奥さん専業でしょ? いつも美味しそうなの作ってくれてるんだから、今日くらいはご飯だけでがんばったら? 何があったかは知らないけど」
このご時世にねえ、いろいろ大変でしょ、世間の目とか。そう言った先輩の言葉に続けて、同僚が忌々しいほど図星を突いてきた。
「仕方がないですよ、この人に家事の分担なんてできっこありません。頭下げて頼んだ分、合格点ですけどね」
「手厳しいねぇ、左文字さんも」
「そりゃあね、僕らもお世話になってますから。この人のお連れ合いには」
「えー、意外。長谷部さん奥さんの話ぜんぜんしないんだもん、想像するしかなくってさ」
でも、とこちらに向き直り、先輩がにやりと笑う。
「こないだのホワイトデー、奥さんでしょう? 準備したの」
「……分かりますか」
「だって、去年ゴ○ィバだった人から、いきなり……何ていったっけ、レ○ニダス? あまりメジャーじゃないお店のもらったらねえ。本当に結婚したんだねーってみんなで言ってたもの」
チョイスするブランドの変遷だけで、そこまで判断できるものなのかと俺は頭を抱えた。女性陣の洞察力、恐るべし。
大きくはない部署の女性陣に配るお返しだ、量もたかがしれている。去年まではとりあえず知っている有名ブランドのものを馬鹿の一つ覚えのように買っていたが、だいぶ年上の上司とそっくり被るわ、金銭的にも少し痛いわで。
頭をひねっていた俺を見かねて彼女が準備してくれたブランドのものは確かに美味く、値段も少しは抑えられたのだった。
「……彼女が気に入ってる店のなんです。だから」
「あはは、いろいろごちそうさま。でも、ホントに美味しかったわよお、あのヘーゼルナッツのホワイトチョコのやつとか。後で私もお店調べて買ったんだけど、娘たちからママこれ美味しいどうしたのーってすごく好評でさ」
がんばって食べてね、と言い残して、先輩は他の女子社員とのランチ会へ出かけていった。たぶん会話のネタにされるんだろうが、そんなことはとりあえずどうでもいい。
「……で、ケンカの原因は?」
問題は、しぶとく残っているこの同僚の態度である。ちゃかすような口振りとは裏腹に、その奥で真剣に俺たち夫婦の仲を心配しているような。
俺や彼女の旧知たちが時折見せるこうした態度は、無性に俺を萎縮させる。厚意しかないと知っていても、どこかで責められているように感じてしまう己の心が不可解で、どうにもこうにも。
「…………その、何というか」
言い争いをしたわけじゃない、手も足もお互い出していない。ただ、俺が彼女の地雷を少し踏み抜いた……らしいということだけ。
「そういえば気になってたんですけどね。家庭に入ってって頼んだ理由、本当に家事だけですか」
「……」
どうして今日はこう、弁当ひとつで自分の人間性に向き合わされなきゃならんのか。左手の薬指に光る指輪をさすり、俺は大きなため息をついた。
「……職場に、女が彼女だけで」
「うっわぁ……なんというか、小さい」
「うるさい、自覚はしてる」
都内とはいえ、ちょっと郊外でメーカーの事務方と聞いて、予想はできたはずなんだ。迎えに行って牽制――というのも少し違うが――してやりたかったが、あのころは俺も仕事が忙しくてそんな余裕はなかったし。
「ただでさえ職場の紅一点で可愛がられて、その上彼女もそんな扱いには甘えず媚びず、真面目に仕事をこなしていたと……」
「ああ、ますます可愛がられるやつですね、おじさんたちに」
新卒として入社以来、彼女もそうして仕事でも一定の評価を得ていたと聞いていた。退職のときは、ずいぶんと惜しまれていたらしいということも。
家にいてほしい、そう言って頭を下げた俺に、彼女は仕方がないなぁと、まるで予想していたかのように笑った。そうして今まで自らの力で築いた評価もキャリアも、あっさりと手放して。
どうして、とは今まで聞けずじまいだ。俺が豹変しない可能性にも、将来不利になる可能性にも、考えが至らないほどあいつの性格は子供じゃないはずなのに。
彼女から寄せられる無限大の信頼、それをどれだけ俺は受け止められているんだろう。けれど、逃げ出してしまったら本当に取り返しのつかないことになることも分かっている。
こうして、妻から未来の選択肢を奪った張本人であるはずの俺は、あのときの引け目をこうして引きずったまま。今から白米だけで、午後を乗り切る羽目になっている。
「ったく、世話の焼ける男ですねぇ、いつまで経っても」
いつまで経っても言われても、お前との付き合いなんて、社会人になってからのここ数年程度だろうが。そんなことは、口にしないほうがいいんだろう。
「お宅のトイレットペーパーが、予備分まで切れていた記憶は?」
「……ない」
「あなたの今着ているジャケットの袖ボタン、一個付け直してあるのには気付いてます?」
慌てて袖口を確かめると、確かにひとつだけ、ボタンの糸が他と少し違う。待ってくれ、取れかけていたことすら、俺はぜんぜん気付かなかったぞ。
たぶん、こういう跡は探せばいくらでも出てくるんだろう。ボタンだけじゃなく、いつもアイロンのかけられたワイシャツや、いつの間にかクリーニングに出されては戻っているスーツやコートにも。
彼女の今の仕事が何か、理解していなかったわけじゃないけれど。気にかけているようで、その実何も分かっていなかったわけか、俺は。
マメですよねぇ、と同僚が笑う。
「結局、あなたたち似たもの夫婦なんですよ、ワーカホリックとワーカホリックで。いいんじゃないですか? お互いが自分の仕事にプライド持って、無理しない程度にお仕事してるんでしょ」
ぽん、と背を叩かれ、左文字はオフィスの片隅に設置された休憩スペースを指さした。
「とりあえず、レンジ行ってきなさい。温めるだけでだいぶ違いますよ」
「……そうする」
悠々と隣の席で弁当を開くな、腹が減る。慌てて立ち上がって向かったレンジの前で蓋を開くと、気だるげな関西弁とともにさらなる野次馬がやってきた。
「おっ、なんやなんや、ケンカか?」
「…………まあ、少し」
「おもろすぎるわ、写真撮らせてー。うちのチビたちに見せたろ」
眼鏡を押し上げ、面白そうにぱしゃりと写真を撮って。来先輩は何があったかは知らんけど、と笑う。
「ま、詰めてくれるだけ傷は浅いやろ。残したりしたら、分からんけどな」
分かっているなと脅迫するような視線に、俺は無言でうなずいた。コンビニでふりかけでも買ってこようか、いや、そういうものに頼るのもNGだろうか。
弁当箱をレンジにつっこみ、つまみをひねる。旧式の機械からは、ブゥンという音と、そして……
「……なんか、ええ匂いせえへん?」
白米の香りに混じって、確かに感じるのは海藻と醤油の匂いだった。チン、という音が響いた瞬間に蓋を開け、席へと急ぐ。
「まさか……」
真っ白な米に箸を入れて慎重に掘り起こすと海苔が現れ、そしてさらにその下には――
「……その、今日は、定時で」
「おー、帰り帰り」
「そうしなさいそうしなさい」
甘辛酸っぱいタレにからめた鶏の唐揚げ。
おかか醤油で和えたブロッコリー。
ごま油の風味が効いた、蓮根のきんぴら。
大豆や揚げ、にんじんもたっぷり入ったひじきの煮物。
そして、黄金色に葱の緑が鮮やかな卵焼き。
雪原の下、次々と発掘されたおかずは、どれもこれもが俺の好物だった。
少し食べにくいけれど、底で蒸された料理はどれも白飯と相性が抜群で。ひじきの汁が染みた米を煮物ごと口に放り込む。
「卵焼き二個あるじゃないですか、中身は?」
「葱とじゃこだ。あとはチーズ」
「取り引きしません? さつまいもとリンゴの甘煮と。お小夜の初めての料理ですよ、価値としてはどっこいどっこいです」
「小夜……ああ、あの弟か。今いくつだ?」
「年中です。ほらこれ、お誕生日会の写真で」
「おー、大きゅうなったなぁ、うちの子らと同じやったっけ?」
ぐいぐいと押しつけられたスマホ画面には、転職前から何度か会ったことのある同僚の弟を、同僚とその兄が取り合うように囲んでいる。
「ええなぁ、俺対価がコンビニ飯しかあらへん……」
というか、うちの同僚たちはなぜ、妻の手料理にこうも執念を燃やすんだろうか。強奪される前に、俺は急いで最後の唐揚げを口に放り込んだ。
ここまで静かにリビングのドアを開けることが、かつてあっただろうか。そっと顔をのぞかせると、彼女は味噌のタッパーにスプーンを突っ込んでいるところだった。
「……ただいま」
「あら、おかえりー。定時で帰れたんだ、今日。連絡してくれたらよかったのに」
昨夜、ほんの一瞬だけ張りつめていた空気は今はなく、何事もなかったかのように妻が笑う。慌てた俺が不格好に取り出した空の弁当箱の中で、箸がからりと音を立てた。
「その……弁当、美味かった」
「……そっか」
カチン、とガスの火を落とす音がする。こちらに来て風呂敷包みを受け取ってうつむいた彼女の身体が、だんだんとわずかに震え始めた。
「えっ、あ……」
まさか泣いているのか。慌てて細い肩を掴むと、こらえきれない笑い声が彼女の口から飛び出した。
「……おい」
「ごめんごめん。あー、おかしい」
かたん、と食卓に弁当箱を置いて、こちらを見上げる顔。子供に言い聞かすような声が、俺の心に沁みていく。
「……あのね、私ちゃんと幸せだよ。たぶん、あなたが思っている以上には」
はあ、とどこか呆れたようにため息をついて、彼女は俺の胸に頭をもたせかけた。腕に添えられた彼女の指に、静かに力がこもっていく。
「第一さ、結婚の報告したら、おめでとうの一言に続けて、私の話なにも聞かずに、もったいないだの時短勤務の制度あるからだの上司が言ってくる会社だよ? 長く働く気なんてなかったもの、最初から」
年齢不相応に落ち着き、理知的な態度を崩さない。そんな彼女の普段と変わらない口調の下からは、静かな怒りの炎が燃えていた。
そんな話聞いていないぞ、口から出掛かった失言を、慌てて押さえつける。話さなかったということは、俺にそれを聞く余裕がないと彼女が判断したからだろう。プロポーズ前までは、あまり彼女の状況を気にかけてもいられなかったわけだし。
「……ちょっとはさ、うぬぼれてもいいんじゃない? 頼んできたのがあなたじゃなかったら、ほっぺたひっぱたいてそのまま別れてるよ、私」
つないだ手が、優しく揺らされる。
「あなたの性格だって知ってるし、この人は大丈夫だって、そう分かってたから……」
「――なぜ」
背伸びをした妻の指が、俺の後頭部に伸びる。髪をかき回し、幸せそうな顔がねだるように目を閉じた。
小さくキスをして、開いた瞼の下にあった視線は――
「ちゃんと分かってるもの。あなたのことはなんだって……だからね」
彼女の口から出るのは、長谷部という学生時代と変わらない呼び名だった。
「私の気持ち置いてけぼりなまま、一人で抱え込まないでよ」
ああ、まただ。出会ったときからずっと、名字で呼び捨てにされると、俺はどうしても彼女に逆らえない。
嫌な感じでは全くないのに、むしろ懐かしさと愛おしさを感じるほどなのに、どうしても――魂に刷り込まれたように、背筋が伸びる。
「ほら、手洗って着替えておいで。ご飯もうすぐ炊けるから」
ぽん、と背を優しく叩かれて、彼女の顔がふわりとほころぶ。ぱたぱたと音を立てるスリッパが、台所へと向かっていく。
「おかずの数、いつもより多かったでしょ? 同じメニューになっちゃうけど、いいよね?」
「ああ、もちろん。何度食っても美味いのは変わらん」
炊飯器の電子音、しゃもじを濡らす水道の音。彼女が今ほんの少しだけ見せた、俺の内側のさらに奥をのぞき込むような視線が、幸せな心を少しだけもやつかせた。
一人で抱え込むな、何度もそう諭されたものだが。俺はまだずっと、誰にも――彼女にすら、どうしても言えずにいることがあった。
『長谷部、くんか。初めまして? でいい?』
『あ? ああ、初めましてだと思うぞ。会ったことあったか?』
『あー……うん、ごめん。気にしないで』
大学で出会ったあの春の日。初めて言葉を交わした瞬間の、彼女の顔によぎった表情。
あの、輝いていた歓喜の光が陰った理由を。
一瞬だけ絶望にゆがんだ表情の意味を。
俺はあれからずっと、何年も問いただすことができないままでいる。