主を探して三千里~受験生 長谷部国重の憂鬱~プロローグ いつかの梅雨
「はせべ、くん」
あれはいつのことだったか。ああ、確か小四か。
「――さん?」
何番目の小学校だったかなんて、もう忘れた。放課後の昇降口には人気がなく、本降りになってきた雨音がひどくうるさかった――相手の名を呼んだ、俺の声すら記憶からかき消すほど――ことを覚えている。
その女子は、クラスのなかでも異質なやつだった。変に大人っぽいというか、目立たないようにしているところが、かえって目立ってしまうというか。いじめとか、そういう空気はなかったにしろ、他の連中からは少し遠巻きにされているタイプの。
転校してきてから半年と少しとはいえ、なんだかんだで小学生の学習道具は日に日に増える。どうにかひとりで持ち運べるだけの荷物を抱えた俺はそのとき、職員室へ挨拶に行った母親を待っていた。
「……その、引っ越し、明日なんでしょ? 大変だね」
親しかったとは言い難いが、彼女が俺をよく見つめていることは知っていたし、その視線に込められた感情のことを、俺はうっすらと察していた――いや、察していたつもりだった。
「別に、慣れてるから」
父親が転勤族だったおかげで、転校も引っ越しも手慣れている。
最初のころはクラスメートとの別れを惜しんだものだったが、五回目を超えた辺りから割り切った。約束をしたはずの友人たちからの手紙は三ヶ月もすれば途絶え、それからまた数ヶ月で俺の住所も変わる。そんなことを繰り返していれば、そもそも誰かと必要以上に仲良くなることすら諦めた。
しかし、そういった自己防衛の手段が変に作用したのか。どこの小学校でも、俺はクラスの女子たちの人気が高かった。転校して最初の体育の授業では短距離走でトップを走り、自分で言うのもなんだが勉強だってできないわけじゃない。そして、半年かそこらでいなくなるのだから、後腐れもない。
そんな風に見られ続けた上に、転校続きの人生のおかげで同世代より大人びているとはいっても。そのときの俺は、たかだか十かそこらのガキでしかなく。
「そっ、か……そう、だよね」
ぶっきらぼうな俺の言葉に答えた彼女の語尾が震えていたなんて、今の今まで気が付きもしなかったんだ。
「あのね、私ね……」
告白されるのかな、と思った。好きだと言われて、ありがとう、と答えて、それでさよなら。何度かに一度は、最後の登校日にやってくるイベントだ。それが終われば俺たちはもう出会うこともなく、お互いのなかで悪くなかった思い出として残される。
「……ごめん、なんでもない」
記憶に残っていた理由は、彼女がそう言いよどんだせいもあったのだろうか。少女の手のひらが胸元できゅっと握りしめていたのは、母親がクラスメートへの挨拶用に大量に買ってきた、ピンク色のタオルハンカチ。おまたせ、という母の声が廊下の先から聞こえてきて、彼女はぎくりと身をこわばらせた。
「さよなら、元気でね」
そう言って身を翻し、傘も差さずに昇降口から飛び出していった彼女の声には涙が交じっていて。なにもできずに立ち尽くす俺を、背後から母が呼んでいた。
「どうしたの、お友達?」
「ううん……」
友達、ではなかった。そんなことを説明するような語彙力が、小四の男子にあるはずがない。口ごもった俺になにを思ったのか、母は痛ましそうに俺の背をなでた。
「ごめんね。もう何年かしたら、引っ越しも最後になると思うから……」
お部屋はもう片付けた? そんなことを聞きながら俺の荷物を片方取って、傘をこちらによこした母に、黙って頷いた。荷造りには慣れているし、もともと物は増やさないようにしている。とっくのとうに、転校の話をされた次の週末には済ませた。
傘立てには、今朝彼女が持っていたはずの可愛らしい紫色の傘がぽつんと置き去りにされていた。見やった校庭に、もう少女の姿はない。泥水にまみれた土の上には、誰かが派手に転んだような真新しい跡が残されていて。
どうしてだろう、なんでだろう、喉の奥が少しだけきゅっとする。行こうかと促されて、もう二度と戻ることはない校舎を後にする。いくら雨の季節とはいえ、やけに激しすぎる雨粒が、誰かの足跡も、俺と母親の足跡も、少しずつ流して消し去って――
そうして、俺の目は覚めた。
飛び起きたベッドの上で、悲鳴を上げそうになった口元をとっさに押さえる。夢のなかでの自分よりも数十センチほどでかくなった俺の体躯もあって、スプリングがぎしぎしと音を立てた。
「ッ、あ……!」
頭がガンガンと痛む。高速で回転する脳みそが、今までにはなかった記憶を次から次へと勝手に再生し始めた。懐かしい母屋、出陣に使っていたゲート、作業を手伝った台所、仲間たちが集まった広間……そのすべてが、一人の人間の姿へと繋がっていく。
嘘だと思いたい、思ってしまいたかった。だって、そんな、まさか。
顕現した瞬間の少しぎこちない笑顔。手入れをするときの優しい手つき。手を繋ぎ、抱きしめた身体の柔らかさと心地の良い体温。幸せだったと最後に笑い、流していた涙。
「――ある、じ」
誰か俺を殺してくれ! その叫びは、うめき声となって真夜中の部屋に響くだけだった。
第一章 春
失礼します。その一言と同時に足を踏み入れた職員室で、俺は真っ直ぐに担任のデスクへと向かった。他の教科担当の教師陣の、心配するような視線が痛い。
「先生、来ました」
「ああ、ごめんねわざわざ。ここじゃあれだし、指導室行こうか」
時刻は昼休み。廊下の窓から聞こえるのは、中庭でボール遊びをする女子たちの黄色い声。進路指導室へ向かう女性教諭の後ろで、俺はどんよりとした空気をまとわりつかせていた。
「で、だ……要件は、分かっていると思うけど」
彼女が手にしたファイルから引っ張り出されたのは、中間テストの答案用紙だった。我ながらひどい数字が、ずらりと並べられている。
「今回なー、どうした? 赤点とか、そういうあれではなかったんだけど……」
現国六十五、古文六十、政経六十一、日本史六十七、数学五十三、生物五十五、英語はリーディングが六十八で、ライティングが六十六。
「受験勉強に専念したいからなんて言って、定期テスト捨てる子もいるけどさ。それにはまだ早いし、長谷部そういうタイプでもないもんね」
窓から差し込む、いっそ忌々しいまでの穏やかな五月晴れ。高三に上がって、最初の定期テストの結果がこれだ。家でも根掘り葉掘り聞かれるんだろう、気が重い。
「ああ、別にね、責めてるとかじゃないよ。ただ、学年末で全教科平均が八十九だった人が、いきなりこんな点数取ったらねえ。それも、単に勉強不足とかじゃなさそうだし」
数学では、回答欄に書き写す答えを間違えたり、簡単な足し算を間違えて堂々巡り。「間違っているものを答えろ」という問題に正しい選択肢を書いたパターンは、暗記系科目では全部にある。英語では中一レベルのスペルミスを連発し、漢字もうっかり点だの線だのを書き忘れた。
「ケアレスミスはね、誰にでもあることだけど。今回は、さすがにちょっと多すぎだな」
答案返却の際には、どの教師も異口同音に何があったと聞いてきた。そんなことを聞かれるだけ、俺はまだマシなんだろう。
「……すみません、少し、眠れていなくて」
嘘は言っていない。実際、あの夢を見た後は一睡もできなかった。
「あー……まあ、まだ本番まで半年以上あるし。復習だけきちんとやって、終わったらそれ以上気に病まないようにね。他の先生たちには、私から言っておくから」
本当のことなんて、言えるはずがない。
テストの前の夜に見た夢で、刀の付喪神だった前世の記憶を思い出したために点数を落としましたなんて。
しかも、昔半年通った小学校のクラスメート、俺のことを好いていたらしい少女Aでしかなかった彼女が、恋仲だったはずの主君だったことまでセットで思い出したなんて。
そんなこと、言った瞬間に諸々が終わるだろう。そりゃもういろんな意味で。口ごもる俺の表情をどう判断してくれたのか、担任は思考を斜め上に吹き飛ばした。
「その、そういえば。違ってたらすまないんだけど、B組の左文字も今回少し順位落としたらしくてさ。朝ちょっと長谷部ともめてたって話聞いたんだけど、なにか――」
「違います」
真顔で即答した俺に、それ以上質問が重ねられることはなかった。邪推はされるかもとは思ったが、よりによってそう来たか。
適当にお茶を濁し、失礼しましたと一礼して部屋を出た。どっと疲れた脚を引きずり教室へ戻ろうとしたとき、よう、というぶしつけな声がかけられる。
「呼び出しお疲れさん、先輩。大変だねぇ、優等生は」
無駄に長い手足に、伸ばした黒髪を無造作にくくって。そいつは俺を見て、人の悪い笑みを浮かべている。ひとつ下、二年の日ノ本――とはいえ、今となっては別の名で呼ぶことになったが。
長髪な上にノーカラーの詰め襟は校則違反だが、「痛いんですよあれ、全体朝礼とかでは我慢するからいいでしょ。髪? 毎日風呂には入ってます」の一言で、口うるさい生活指導を黙らせた武勇伝を持つ。
確かにこいつは口達者だし、妙な威圧感がある。しかしそれとは別で、どんな教師もこの二年にはどうにも強く出られないのだ。その理由は――
「なに言ってんです、特進クラスが」
同学年の元篭の鳥が、呆れた口調でそう言い放つ。そう、この元日の本一の槍はたぶん、俺たちよりも成績が上だ。特進クラスのトップを独走する、つまり学年一位。しかも陸上部のエースという、他の男子生徒からは影でチートと呼ばれるやつで。
「まったく、あなたが錯乱するもんですから、僕までとばっちり食らったじゃないですか」
俺を殺してくれ。あの朝俺が言い放ったそんな戯言に、さすがのこいつも動揺したらしい。その気持ちの揺れなんて、まるで最初からなかったかのように。すました顔でやつは俺にその先を促した。
「……つまり、だ。記憶が戻ったのはいいが、ちょっとの間だけ通った小学校で? クラスメートに主がいたことを思い出した、と?」
「しかも、あっちは記憶が戻っていて? あなたのことを自分の“へし切長谷部”だと把握していたらしく? それなのにあなたはなにも感じず、なにも気付かず、その他大勢の自分を好きになった女子としか思っていなかった、と?」
驚きと呆れがごちゃ混ぜになった表情は、当然向けられるべきものだ。
「本丸であれだけ、主主とうるさかったあなたがねえ……」
「まあ、十かそこらのガキの頭じゃな。仕方がないと言えば仕方がないが」
最後の転校は、小六だった。俺の中学進学を目前にした次の異動から父親は単身赴任生活を送り、母親も待ちかねたように仕事を再開して。一人っ子である俺は、それからずっとこの福岡で腰を落ち着けている。
「しかしまあ、よりによってテストの直前に思い出すとはねぇ。よかったじゃねえか、これがセンター前日だったりしたら悲惨だぜ?」
他人事だと思って、日本号は呑気に笑っている。何言ってんですか、そう言った宗三は、意地悪そうに口角を上げた。
「思い出すタイミングがアレだったのは、なにも長谷部だけじゃないでしょう。ねえ?」
「……まあ、な」
あと五分ずれてくれたらよかったのに。そうぼやいた我が校の陸上部エースは、眉をひそめてため息をついた。
「一年の体力テスト、それも五十メートル走のスタート直前だよ。頭真っ白で走ったおかげで、このザマだ……走り終わってヤベって思ったときには、フジタがストップウォッチ凝視して目ェかっ開いてた」
帰宅部で平和な学校生活を送るために、それまで体育では本気を出さないと決めていたはずなのに。タイムを計っていたのが陸上部顧問だったのが運の尽きだったと、日本号は忌々しそうに吐き捨てた。
「宗三、お前は……」
「僕はもうね、要領よく少しずーつでしたよ。兄様も手を回してくれていましたから、トラブルらしいトラブルもなく」
聞けば、江雪は混乱のあまり高熱を出して寝込んだ経験があるそうで。その教訓から、少しずつ記憶の手がかり――刀であったり、本丸でのことであったり――を、弟へと小出しに与えていたらしい。
「兄弟持ちはね、そのあたりが楽でいいですよ。お小夜のバックアップも、抜かりなく準備中です」
小夜のことは、宗三から聞いていた。まだ記憶は戻っていないことから、その性格から学校では孤立しがちなことまで。
「しかし、その小学校京都だったか? ちっとばかし厄介だな」
「修学旅行も東京ですしね、うちは。ホイホイ行ける場所でもないとなると……」
ふう、とため息をついた宗三が、忌々しいほどに晴れ渡った空を睨みつけた。
「どこかに誰か、他のみなさんがいればいいんですけど……」
なにせこちらは、まだまだ不自由な高校生という身分だ。昔の仲間たちを探そうにも、小遣いと定期の範囲内なんて縛りが科されてしまってはほぼ不可能と変わらない。
「卒業して、大学に入ってからですかね。本格的に探せるようになるのも」
「まあ、どっちにしろちょっとした手がかりくらい、ほしいもんだがな」
思い出せやしなかった馬鹿な近侍と別れてから、もうすぐ八年。彼女は今、どうしているんだろう。もう知らないと吹っ切れているのだろうか、それとも。
隣の校舎からは吹奏楽部の練習の音、中庭からはバレーをする女子たちの黄色い声、廊下の端からは誰かの笑い声。平和で平凡な春の高校の光景が、俺の焦燥感を募らせていった。
第二章 夏
高校生活最後の体育祭が終わって、一月ほどが過ぎた。関東に先駆けて梅雨も明け、目前となった夏休みの計画のことで学内は――少なくとも後輩たちは――浮き足立っている。
「あなた志望校初めから終わりまで都内でしょ、オープンキャンパスとか行くんですか?」
「いや、特には。お前は? 言ってただろ、あっちの大学受けるかもって」
「迷ったんですけど、ぶっちゃけどうするか決めかねてるんですよね。関東住まいならあちこち行ってもいいんですが、わざわざ九州からオーキャン行って受けないってのもしゃくに障りますから」
相変わらず、主に関する手がかりは掴めないまま、俺は地道に受験勉強に取り組んでいた。
「あなた今日予備校は? どっか寄って勉強していきます?」
「俺は別に構わん。日本号は?」
「へーへー、混ぜていただきますかね、っと」
放課後の自習コースとして、学校の教室はいまいちエアコンの効きが悪く、予備校の自習室もあまり籠もりすぎると息が詰まる。母親は今日も遅いため、夕飯は自分で済ませたほうがいいだろう。じゃあ出るか、と帰り支度をしていると、廊下をぱたぱたと走る足音が聞こえてきた。
「ねーねーおっさん! なんか知らないけど呼び出されてるってよ。サッコからね、見つけたら呼べってMINE来てる」
確か、日本号と同じクラスの女子だったか。身も蓋もないあだ名だが、『オッサンとか呼んでるからって油断するな、そういう女子に限って隠れガチ勢だ』とかいう噂は、男子たちの間では公然の秘密……らしい。
「あいっかわらず失礼だな。なんだ、どのセンセーからだ?」
「違うって。正門のとこでさ、他校かな、すっごく派手な男子たちが、二年の日ノ本ってやついる? って」
そんな噂を知ってか知らずか、この老け顔後輩野郎は何でもないような顔で女子から情報を聞き出している。しかしこいつが他校の男子から呼び出しとは……ん?
「他校の男子、ねえ」
「なんかねー、めっちゃ派手な集団だってよ。高校生だけじゃなくて、大人も一緒だって。超可愛いのから日ノ本みたくおっさんっぽいのまでいるってさ。あと小学生? ちっちゃい男の子も」
「……すみません、写真とか来てます?」
派手な集団、そう聞いた宗三が、まさかと小さくつぶやいた。
「あ、今ちょーど来ましたよ、ほら……え、うっわ、マジでイケメンじゃん! ちょっとひのもとォ、なにこれ!?」
〔元原さち子:ツカちゃん、ひのもっちゃん見てない? なんか正門でハデなイケメン集団が二年の日ノ本ってやついる? って呼び出してるんだけど、何やったのあいつ笑〕
向けられた、この国で一番メジャーなトークアプリの画面。そこに表示されたメッセージと写真を見た瞬間、俺の脚は廊下を蹴って駆けだしていた。
「ちょ、長谷部センパイ!?」
日本号よりも要領よく勧誘をかわしたおかげで陸上部入りは免れた口だが、俺だって足の速さは前世譲りだ。
「悪い塚家、元原にはすぐ行くって言っといてくれ!」
「え、あ……うん!」
一瞬だけ上擦っていた女子の口調から判断するに、あいつ無意識に何かやらかしたな……なんてことは、今はどうでもいい。重大なのは、見せられたあの写真だ。
写っていたのは、合計二人。カメラを向けられて可愛らしくピースをした、癖のある髪と、ストレートの髪をそれぞれひとつ結びにした見覚えのある長髪二人組だった。
「――どうして彼らがここにっていうか! なんで知ってるんですか、あなたの居場所!」
「俺が知りたいっつーの!」
「こら、廊下は走るな!」
すんませーん、という日本号の投げやりな声が、後ろからぐんぐん近づいてくる。どうしたって追いつけていない宗三の怒りの声が、ドップラー効果のように俺たちから引き離されていった。
校門にできた人だかりは、俺たちの姿を見てすぐに割れる。日本号の知り合いらしい女子が、飛び跳ねながら手を振った。
「あ、ひのもっちゃーん。こっちこっち」
「うわ、長谷部と宗三!?」
「え、マジで」
やっぱり貴様らか。加州清光と大和守安定のおなじみ二人組が、俺たちを見て目をひん剥いている。
「長谷部は近くにいるんじゃねえかと思ってたけど、宗三もかよ! ひっさしぶりだなお前ら!」
「ご無沙汰してます!」
うれしそうに笑う和泉守兼定の隣では、堀川国広が礼儀正しく頭を下げている。少し離れた場所に駐車されたバンの助手席では、山姥切国広がどこかと通話しながらこちらへ手を振っていた。
「狙いが当たったか。運転してきた甲斐があったな」
ぐりぐりと肩を回して、保護者兼運転手を努めたらしい元新撰組局長の愛刀が笑う。
「いるだろうとは思ったが、やはりお前もか」
「そりゃあ、高校生と小学生だけで行かせるわけにもなあ」
「小学生……ということは」
短刀の誰かか。そう言いかけた俺の脚に、弾丸のように小さな身体が飛びついてくる。見覚えのあるふわふわとした癖のある金髪をなでると、上げられた顔は涙にまみれていた。
「はせ、ぇ、にほ、ご……!」
「……博多」
泣きじゃくる昔なじみの少年は、記憶と同じメガネを外して頬を袖でぐいぐいと拭っている。しっかり者だった昔よりも幼い仕草に、俺はまさかと小さく隣の堀川に耳打ちした。
「記憶は」
「……つい一週間前に、一気に全部戻ってくるパターンでした」
俺の質問に、そんなシンプルな答えが戻る。渋滞を起こす記憶中枢に、猛スピードで伸びる精神年齢、その混乱は俺にも覚えがあった。
「日本号がいるかもって聞いて、行きたいってワガママ言いだしてね、めずらしく。どうするか迷ったけどさ、やっぱり連れてきてよかったよ」
「……そうでしたか、それはそれは」
優しく笑う宗三が、博多の背をなでてハンカチを渡す。でかい図体を縮めた日本号が、彼の両脇に手をやった。
「久しぶりだなあ、よっと」
ぐいっと小さな身体を抱き上げた日本号に、昔のように素直に抱きついていく博多。ギャラリーの女子が、きゃあきゃあとからかうような笑い声を上げた。
「え、ちょ、なになに? ごーちゃん隠し子?」
「ンなわけあるか!」
「はいはい、ややこしくなるのでそういうのは後で。すみませんけど先生来る前に撤収しますので、そちらも散ってくださいね」
ひらひらと手を振って、宗三が解散の号令をかける。とっさに荷物を掴んできて助かった、校門を離れると、車を出た山姥切がスマホを鞄にしまっていた。
「兄弟と一期に連絡した。長曽祢、あんたも車動かしたら連絡したらどうだ、大当たりだったって」
「ああ、そうだ。忘れてましたけど、大当たりだったって……どうしてここが」
いろいろ起こりすぎて何がなんだか。そうぼやいた宗三と、隣で博多を肩車した日本号に、長曽祢が自身のスマホを差し出した。
「日本号、俊台模試だったか? 先月受けていたはずだが。順位は見たか」
「ん? あー……見て、ねえな」
長曽祢がこちらに向けてきた画面には、順位表に並んだ後輩の名前と学校名が。それを見た宗三が、うわぁ、と小さく声を上げた。しゃくではあるが、その気持ちは嫌というほど分かる。
「お、ま。全国五位とか」
「あー? そーいやなんか予備校で言われたような……あ」
同順位の枠の、二つ上。そこを指でなぞった日本号が、そういうことかと柔らかく微笑む。
「……蜂須賀か、この徳島の」
「うん。それで蜂須賀から長曽祢さんに連絡が来たんだ、たぶん日本号が福岡にいるって」
「ホントにビビったよね、いろんな意味でさ」
「で、俺たちが代わりにこうして来てやったわけだ」
「蜂須賀さんも浦島くんも、あまり自由に動ける立場ではありませんから」
高二と高一という年齢に加え、四国という少しアクセスの不便な土地。その上家族のみならず、周囲の人間にまで注目されがちな家柄だそうで。
「俺はな、まあ、一応長男っちゃ長男だが。家業と関係ない業界でしがないヒラ会社員、ってことで察してくれ」
「複雑だな、相変わらず」
適当に駐車場を探してくる。そう言って運転席に収まった長曽祢を見送り、さて、と宗三が腕を組んだ。
「どうします、この後。どこか入りますか?」
「あー、なるべく安いとこがいいかな。俺たちの予算、ほとんど長曽祢さんに出世払いで借りてるからさ」
そういえば、こいつらはどこから来たんだろう。そんな疑問が浮かび、俺はとある可能性に気が付いた。
俺も日本号も宗三も、刀として元から縁のある土地に今はこうして住んでいる。蜂須賀は徳島だと今聞いたし、なんの因果か知らないが、俺たちの居住地にはそれなりの法則性があるのだろう。それなりに距離があっても、どうにか福岡まで車を使って陸路で来られて、こいつらと博多が共通で関係している街といえば……
「お前たち、もしかして住んでいるのは」
「ん? ああ、たぶんお察しの通りだよ、京都」
「それって……!」
「え、なになに? どうかしたの?」
再び、うっすらとした恐怖感が俺の上に覆い被さってくる。それでも、隠しておくなんて許されるはずがない。
「――恥を忍んで、聞きたいことがある」
主を知らないか。そうつぶやいた俺に、加州がどういうことだと眉をひそめた。
すべて話した。小学校のころは転校を繰り返していたこと、京都の小学校にも半年ほどいたこと、その小学校の同じクラスに主がいたことを、つい数ヶ月前に本丸の記憶と一緒にやっと思い出せたこと。
「主が……」
呆然とした山姥切は、まさかあんたが、という顔で俺を見つめる。初期刀ではないが、彼も本丸の古株だ。萎縮する俺に助け船を出すように、堀川がスマホでその小学校の地図を差し出してくる。
「その小学校、兄弟のバイト先から近いよね。でも、会ったことないってことは」
「……おそらく、どこかのタイミングで引っ越したんだろう。そうでなければ、兄弟が気付かないはずがない」
ああ、やっぱり。彼らが最初から主の話をしなかった時点で、何となく察してはいた。
「すぐ近くにいたってことかよ……!」
和泉守の拳が、そばの電信柱を悔しそうに殴りつける。ぎゅっと握りしめた山姥切の手が、もうその頭に存在しない布を掴むように額にやられた。
「それこそ長谷部が京都にいたころには思い出していたんだ、俺は。そのときにもっと行動していれば……!」
「兄弟、こればっかりは仕方がないよ。同じ京都でも、うちは逆方向じゃない。小学生じゃ、そこまで遠出なんてできないでしょ?」
「あれ、もしかして……」
堀川からスマホを受け取り、矯めつ眇めつ画面の拡大と縮小を繰り返していた大和守が、隣の相方の肩をつつく。
「清光ん家さ、ここけっこう近所じゃない?」
「あー、そうなんだけど……俺、引っ越してきたの小六だったからなぁ」
今高三の俺が小四だったころから、今高二だという加州が小六のころ。きっとその数年間の間に、どこかへ。
卒業してからでも、京都に行けば何か手がかりが掴めるはずだ。俺のそんな甘い考えは、幻想で終わった。心配そうにこちらを見つめる博多が、日本号の肩の上から俺の頭をぺしんと叩く。
「せめて、写真でも残ってなか?」
「……半年くらいしかいなかったからな。どこの学校でも、あまりそういうものは」
思い出に残るようなものは、あえて残さないようにしていた。そう言った俺を、日本号が相変わらずだなと呆れたように笑っている。そのとき、あっと声を上げたのは、ずっと黙り込んでいた篭の鳥だった。
「……撮っているんじゃないですか、クラス写真。新年度のタイミングで、だいたいどの学校もやるでしょう、全員集合させられて」
「長谷部! いたの何月から何月だ、半年くらいって言ってたよな!?」
胸ぐらに掴みかからん勢いで俺を問いつめる和泉守を見て、ちょうど戻ってきた長曽祢が慌てて駆け寄ってくる。すわ喧嘩かと仲裁に入ろうとしたあいつの袖を、加州と大和守が引っ張って耳打ちをした。
「……転校が、六月だった」
そうだ、思い出した。転校してきた一月のことも、桜の下で並ばされた四月のことも。どうせここにも長くはいないのに、と冷めた顔でカメラレンズをにらむ俺の隣で、彼女がどこか悲しそうに笑っていたことも。
「よし、お前ん家行くか。お袋さん今日も仕事だろ」
忘れていた、というよりも、脳が防衛本能として記憶に蓋をしていたんだろう。
冬の朝、教壇の前で紹介される俺を見て、彼女の顔がうれしそうに輝いていたことも。そしてその笑顔が、少しだけ言葉を交わした瞬間に絶望に染まっていたことも。そのとき俺が感じたのが、「変なやつ」という薄っぺらい印象だけだったことも。
時間遡行したい、歴史を修正したい。せめてあのときの俺の頬を張り飛ばして、主に謝ることができたのなら。昔の使命と相反するそんな願望が、頭から離れない。
喉の奥からせり上がった何かが、うっすらと気道をふさいでいる。吐き気のようなその感覚に、俺はぎゅっと両手を握りしめた。
「おじゃましまーす」
「上がるぞー」
誰もいない家のドアを開けて、儀礼的に口にしたただいまの挨拶は、他の連中の声にかき消された。母親が写真をまとめていた引き出しを漁ると、確かに似たような構図の写真が束で発掘される。
「……うわ、マジで全部別の学校のだ」
「なんつーか、大変だったんだな……」
あんなの毎年やってたのかよ、そう言って驚嘆する和泉守も、小学校の途中で京都に転校してきたらしい。ついさっきのいらだちを隠さなかった口調と打って変わった同情する声に、俺は曖昧に微笑んだ。
「小六、小五、で……あ」
あった。加州の声が、わずかに震える。どこに彼女がいるかなんて、言わなくてもあいつには分かったんだろう。
「……主だ。ねえ、やっぱり主だよ、この子」
懐かしいなあ、なんて泣きそうな声と一緒に、写真が回されてくる。桜の下で弱々しく微笑む彼女の顔は、二種類の記憶と残酷にオーバーラップした。
どうして分からなかったんだろう、何も感じなかったんだろう。こんなに可愛らしく、心から愛おしいと思える顔なのに。こんなに悲しげな顔をさせてしまったのは誰か、誰もが知りながら何も指摘してくれないでいるのがいっそ辛い。
「……そうだ、寄せ書き! 長谷部、寄せ書きって取ってある?」
何かしらもらったでしょ、叫ぶようにそう言った加州も、そういえば金沢から京都へ引っ越した経験があると言っていた。なんでもいい、彼女の存在の痕跡を見たい。その気持ちは、痛いほどに分かる。
「……ああ、確かここに」
転校の度に増えていく厚紙は、いくら似たようなメッセージしか書かれていなくても捨てるわけにもいかなくて。少々ぞんざいではあるが、一緒くたにまとめてあった。
似たようなレイアウトと、似たようなメッセージの羅列。短い間だったけど、元気でね。短い間だったけど、楽しかったよ。そんなコピーしたようなメッセージが、厚紙の中心に大きく書かれた俺の名を囲んでいる。
かつてのクラスメートたちを、薄情だと責める気にはなれなかった。我ながらつきあいの悪い小学生だったとは思うし、半年以下の期間しかいなかったクラスメートへのメッセージなんて、いきなり書けと言われても困ったやつの方が大半だろうから。
そんな感じの色紙しかなければ、集合写真以上に目当てを探すのは難しい。ようやく探し当てたメッセージを、和泉守が難しそうな顔でにらむ。
「元気でね、か。そりゃあな、こんなとこに具体的なメッセージなんて……ん?」
「……長谷部さん、これ、ちょっと鉛筆使っていいですか」
なにか消した跡がある。そう言って、堀川は色紙を指でなぞっていた。
「確かに、ちょっと毛羽立ってるな。上から書き直して、読みにくくなってはいるが」
少し汚すぞ、と鉛筆を取り出した長曽祢に、俺は曖昧にうなずいた。喉のつかえはどんどん巨大化して、息を浅くしていく。
本当は、集合写真や寄せ書きのことなんてとっくに思い当たっていた。見返そうなんて、恐ろしすぎてできなかっただけで。
そうだ、俺は逃げたんだ。思い出せなかった罪悪感から目を背けていたんだ。あっと声を上げ、浮かび上がったらしい文字を読み上げる堀川の声が、死刑判決を言い渡す裁判官のようにリビングに響く。
「……幸せ、に」
それを聞いたら、もうダメだった。
おかしいと思ったときにはもう、胸を押しつぶされるような苦しさに襲われていて。きゅうっと閉じていく喉の奥は、上手く呼吸をしてくれない。
「っとに、あいつは……」
「主さんらしいと言えば、らしいけどね」
山姥切と堀川の声は、耳鳴りにかき消されて聞こえにくい。ひゅ、という呼吸音と一緒に、視界が暗くなっていく。
腕がやけに痛いのは、たった今本棚の角にぶつけたからだろうか。フローリングに崩れ落ちた自分の身体は、思っていた以上に派手な音を立てた。
「長谷部!?」
遠く、博多の悲鳴が聞こえる。違う、お前にそんな泣き叫ぶような声を出させたかったわけじゃない。なにをやっているんだ、俺は。ついさっき嬉しそうに飛びついてきてくれたこいつを、どうにか安心させないといけないのに。どんなに努力しても、浅く鈍い呼吸音しか、俺の口からは出てきてくれなかった。
「おい、どうした!」
慌てふためいたような日本号の声が聞こえる。ぶつけたところを掴むな、痛い。あと普通にうるさい。ああ畜生、声が。
意味のをなさないうめき声は引きつる喉から飛び出して、唾液と一緒に口からこぼれていく。俺の名を呼ぶみんなの声は遠く、今にもブラックアウトしそうな意識のなかで感じた恐怖は涙となり、目の端からぼろぼろと垂れ流されていった。
あんまりだ。あんな顔を主にさせてしまって、再会も謝罪もできないまま、こんな無様な形で死ぬなんて。
「ッ、なにか、袋を」
「いや、それダメ。逆に危ない」
宗三の声を遮ったのは、加州の冷静なそれだった。どっこいせと抱き起こされ、背中に腕が回される。かしゅう、とやっとこさ名を呼ぶと、おどけるような声が返ってきた。
「はいはい俺ですよーっと。ごめんねー、主と違って胸かったくてさ」
「かしゅ、おれ、しぬ」
「死なない!」
我ながら情けないほど震えている泣き言は、鋭いその声によって切り捨てられた。
「ただの過呼吸だよ、死にゃーしないって。ほら、大丈夫」
どうしてそんなに手慣れているんだなんて、そんな疑問は聞かないほうがいいんだろう。彼の指示通りに、ちょっとずつ吐く息の量を増やしていく。
「ん、じょーずじょーず、その調子」
赤ん坊のようにあやされるなんて、昔の俺からしたら屈辱そのものだろうけれど。
「おい、勝手に台所借りたぞ」
「水飲んで。ゆっくりでいいから」
なにかもう、頭の中がぐちゃぐちゃすぎて、そんなことを気にしてもいられない。山姥切に渡されたグラスから少しずつ水を喉に流し込むと、呼吸の調子が回復してきたのもあって、身体の震えはだいぶ落ち着いてきた。
「はー、ビビった……平気か?」
「にほんご、ぉ……」
折ってくれ。いつかどこかで言われた台詞は、震え声となって小さく響く。剣呑な舌打ちは、俺を心配していた後輩自身のものだった。
「……やなこった。進んで前科持ちになる趣味はねぇよ」
ぐわっと俺の頭を掴んだ大きな手のひらが、戒めるように俺の頭を締め付ける。痛いと悲鳴を上げると、呆れ果てたような怒りの声が、あいつにしがみついていた小さな身体を俺の前に引き出した。
「あのなあ、人の寿命縮めておいて、最初に言うのがそれかよ。博多見ろ」
どん、と勢いよく抱きついてきた博多の顔は、恐怖にひきつっていた。
「はせ、べ……どうともなか? 死なん?」
「……すまん」
とうとう声を上げて泣き出して、怖かったと震えている背中を抱きしめる。たかが過呼吸とはいえ、目の前で発作を起こされたのだ、恐ろしかったに決まっている。ケアをすることになるだろうこいつの兄弟たちにも、いつか詫びを入れないと。
「一期には、俺から連絡しておこう」
「ん、そーね。そこは長曽祢さんお願い」
「ほら、濡れタオル。顔拭け、落ち着くから」
和泉守が差し出した布で涙だの汗だのなんだのを拭い、ゆっくりと深呼吸をする。すまん、と小さく吐き出した謝罪の言葉に、彼は深い深いため息をついた。
「……正直、話聞いたときはいつ殴ってやろうかと思ってたんだがな。その気も失せるぜ、こんなん見せられたら」
「つーか! これ主も主でしょ! ホンットにあの人ってば……」
「しかし加州、あの主だぞ? そういう人だ、それは俺たちも全員が知っているだろう」
「いや、分かるよ? 分かるんだけどさあ。清光の言う通りでさぁ、もうちょっと、なんていうか、ねぇ!?」
「恨み言のひとつでも書いておけば、まだよかったものを……」
「まあ、書けないよねぇ、主さんには……でも、ちょっとこれはね、うん」
「まったくですよ。この人がこれ見てどれだけ苦しむのか、分からないはずがないだろうに……しかしまあ」
いや、どこをどう見ても主は悪くないだろう。口々に好き勝手なことを言う面々に、そう反論する暇もなく。宗三の生白い指が、情け容赦なく俺の鼻をひねり上げた。
「ひさま、らんろふほりら!」
「なんのつもりじゃないですよ、このため込み常習犯が。あなた大丈夫ですか、こんな調子で。主と再会した瞬間切腹とか勘弁してくださいよ」
「…………」
ここぞというときに痛いところをついてくるところは、本丸にいたときから憎たらしいほど変わっちゃいない。何も言えなくなった俺を絶対零度の瞳で見つめつつ、彼は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「決めました。僕も行ってあげます、東京」
「……は?」
「まだ下にお小夜が控えていますから、国立一本勝負になりますけどね。まあ、いまのところB判は出てますし。付き合ってあげますよ、腐れ縁は腐れ縁らしく。日本号も、どうやら東京に行くようですし」
「おい、その言い方だと俺もこいつに付き合って上京するみたいじゃねえか」
「あなただって、志望校決めたのは成り行きでしょう」
ぎゃんぎゃんと言い合いを始める同級生と後輩に、俺はどうしてそうなったと頭を抱える。
「長谷部というか、長谷部が下手やらかして主にトラウマ作らせるのが心配なんですよ。誰かしらそばにいないと絶対に自滅するでしょ、この人」
「あー、まあね……」
反論したい気持ちは山々だが、悲しいかな今や俺は前科持ちだ。乾いた笑いを浮かべる加州に、そこで納得するなとも言えやしない。
「え、長谷部志望校東京? どこ受けるの?」
「東京ば行くと?」
興味津々という大和守と博多の視線に負け、俺はやむなく白旗を掲げた。
「あ、ああ、早稲谷の法学だが」
「……あ、あー」
宗三に話したときにも思ったが、どうしてどいつもこいつも俺の志望校を聞いて変に納得したような顔をするんだろうか。
「宗三は?」
「今のところ、二橋の社会学部ですかね」
「おお、二人とも秀才なんだな。で、日本号は? 成り行きで決めるって、一体どこに……ん?」
ちょっと待て、と顎に手をやった長曽祢が、記憶をたどるように宙をにらむ。
「蜂須賀が受けたの、難関大学向けの模試だったよな?」
「……言っておきますけど、この人僕らの第一志望滑り止め扱いできるレベルですよ」
「え、でもそこを滑り止め扱いで、東京ってことは、つまり」
とーだい。そう小さくつぶやいて、大和守が悲鳴を上げた。
「……仕方がねぇだろ。箱根の強豪校がうちにうちにってうるさくってたまらねえんだ」
走るのは好きだが、競技として走るのは高校まで。普段からそう豪語するこいつの宣言も、少しでもよい人材をとスカウトに奔走する面々には軽く聞き流されてしまうことも多い。
陸上部員たる者、夢の舞台に出たくないはずがない。そんな無意識の偏見と固定観念に犯された大人たちをはねのけるには、それらしい理由が必要になる。志望動機としては、あまりいい顔をされるものではないだろうが、そのモチベーションとこいつの頭が組み合わされば、まあ越えられないハードルではないだろう。
「こ、怖い。この人たち怖い」
じりじりと後ずさる大和守は、呆れ顔の加州の後ろに隠れて縮こまっている。
「トーダイテーダイって、ご大層に持ち上げられてるだけさ。偏差値とやらが高いだけで、入っちまえばその辺の大学と変わりゃしないっつーの」
「本当に頭のいいやつの言動してる……」
「ほんっとに可愛げのない後輩ですねえ」
「お? ほしいか? なあ、本当にほしいのか? 俺に可愛げなんてもんが」
お前の志望校だけは絶対に受けないよ、俺は。あれは昨年のインハイ後、わざわざ学校まで訪ねてきたどこぞの大学の陸上部監督を丁重に断ったときのこいつの言葉だった。あのときは嫌みかとも思ったが、体育会系の文化になじめない最速のエースの顔を見ていれば、そんなやっかみもいつしか雲散霧消してしまった。
「ま、第一志望トーダイなんでって言えば、とりあえず黙ってくれっからな。ただ、小馬鹿にしたような目で見られるのが気に食わんし、本気で受かりにいくが」
必要なのは、相手を黙らすことのできるネームバリュー。勉強したいことは、入学してから考えればいい。かの大学にも運動系のサークルは当然あるが、一般入試で入ってしまえば強引な勧誘も受けないだろう。そもそも、知名度をスポーツの大会に頼らなくてもいいレベルの学校だ。
「みんな受かるといいですよね。兼さんも僕も、第一志望東京の大学なんです」
「おう、うちは之定も東京だしな。親も説得しやすいし」
「みんな頑張ってよね。あれだけ人多いとこだったら、誰かしらすれ違いそうなもんだし」
清光は進路決めた? まだ決めてなーい。沖田総司の元愛刀どもは、呑気にそんなことを話し始めている。これ以上ここにいるのもなんだしという長曽祢の号令で、グラスだのタオルだのを片づけてから家を出た。
「どうする? この後。俺たち今日中に戻らないといけないんだよね」
「正直、出発前に休まないときついものがあるな、おじさんは」
「すまないな、せめて兄弟が来られれば……」
山伏や一期が大学の授業さえなかったら、運転を交代できたそうだが、そもそもそこまで乗せられる車もなく。最低限の人数で、学校を休んでもいい者ということでこの面子になったらしい。
「あー、僕ご飯食べて帰りたーい!」
「福岡まで来てファミレスってのもなあ。俺水炊きかモツ鍋食いてぇ」
「待って待って兼さん、博多くんは? どうしたい?」
懐かしい場所だし、食べたいものとかあるでしょ、そう気を利かせた堀川に聞かれて、ついさっきまで涙で濡れていた博多の顔が明るく輝いた。
「俺、うどん食べたかぁ!」
うん、やっぱりこいつはこうでないと。なんだか胸のつかえが解けたような心地がして、俺はやっとこさ博多に心から笑いかけることができたのだった。
「ごぼ天か?」
「かしわのおにぎりも!」
俺や日本号よりも大人びた言動をする反面、時折見せる短刀らしい幼い笑顔。そういえば、あのころだって何度もこいつに救われたな、なんて思いつつ、俺は思いきりふわふわの髪をなでてやった。
「俺もごぼ天にすっかね、どこの店行く?」
「長曽祢の財布的にも、安めのところがいいんじゃないですか」
「すまん、助かる……」
ここしばらく、夕飯は予備校の休み時間にコンビニ弁当をかき込むことも多い。たまにはいいだろう、昔話に花を咲かせながらうどんをすするのも。
そうして店へと向かう道すがら、ちょい、と加州たちに手招きをした宗三が、スマホのカメラを起動する。
「加州も大和守も、写真撮りません? 兄様に送りますので」
鬼か、こいつは。確か江雪の定時は六時半だったと思うが、そのころには加州たちは関門海峡の先にいるだろうに。職場で頭を抱えるだろう彼の兄貴に、俺は心の中で合掌したのだった。
連絡先は、当然交換した。そこから芋蔓式に、粟田口などの面々ともつながれた。こういうところは、便利な時代だと思う。
適当に理由作って、周りの知り合いに聞いてみるから。そう言っていた加州が、テンション低く報告をしてきたのは、それから三日後のこと。
〔きよ:家近い後輩のお姉ちゃんにさ、いたよ。長谷部のことも覚えてた、隣のクラスだったって〕
ああ、やっぱり引っ越してたか。もしかしたら、という一パーセント程度の希望も、加州の文章からは望み薄だと伝わってくる。
〔きよ:離婚したんだって、ご両親が。主がついて行ったのはお母さんらしいんだけど、引っ越し先は分からないって言ってた。住所交換するような友達も、いなかったんじゃないかって〕
両親が離婚、親権は母親、どこに行ったのかは、完全に不明。そのトリプルコンボから伝わってくる嫌な予感は、誰しもが察したらしい。
〔やす:もしかしてだけどさ、これ、名字も変わってたり〕
〔まんば:可能性としては高いだろうな〕
もちろん、違うパターンもあるだろう。けれど、今俺たちが身をおいているのはそれに希望をかけられるような社会じゃない。
〔みだれん:へっしー、大丈夫?〕
当然ながら、俺と主の事情も、俺の失態も、皆とは共有されている。気遣うメッセージにどう返信したものか、そう頭をひねっているうちに、授業開始のチャイムが鳴った。
〔長谷部国重:大丈夫だ。すまん、これから予備校だから一度落ちる〕
我ながら、全然大丈夫な文章じゃないな、これは。ため息をついてテキストを開くと、グループチャットではなく個別のメッセージの新規通知が一件、届いたのが見えた。
〔日ノ本号:考えすぎんなよ〕
そっけない一言に、俺は返信せずにただ手を合わせた。
夏休み、受験生の天王山。数々のイベントを楽しむ余裕なんて、現役生にあるはずもなく。ほぼ毎日が夏期講習通いで、休みの日は自習なり宗三と集まってファミレスで勉強なりと、休むことなく俺は勉強に明け暮れていた。
〔きよ:ねえ、みんなちょっと集合!〕
そんなMINEの新規通知が届いたのは、俺がドリンクバーから五杯目のジンジャーエールを運んできたときだった。
〔きよ:後輩のお母さんがさ、引っ越しの日に、主のお母さんとちょっと話してたんだって!〕
向かいに座って因数分解と格闘していた宗三と、思わず目が合う。
〔きよ:引っ越し先も分かったよ。どこだと思う?〕
もったいぶったようなあいつの口調は、以前の報告とまったく違っている。その理由は、次に知らされた土地の名を聞いた瞬間に合点が行った。
〔きよ:高知! 主の母方のお爺ちゃんとお婆ちゃん、定年退職後に四国に移住してて、そっちに行くって!〕
〔うら:高知……高知かぁ……〕
意外と近かった。そんな浦島のぼやきを筆頭に、誰もが驚いたようなスタンプや安心したようなメッセージをてんでに書き込んでいる。
〔厚:……これもしかして、そこまで心配しなくても大丈夫なやつじゃねぇか?〕
〔きよ:だろうねー〕
気が抜けたような厚のメッセージに、俺はうっすらとしたモヤモヤを感じて空をにらんだ。なんだこの気持ちはと真顔になる俺に、宗三が呆れたようにため息をつく。
「そりゃ仕方ないでしょうよ。どっちですか、あなたと彼と、主のそばにいるって聞いて安心するの」
俺たちが今までに関わってきた土地には、どこかしらで明確な共通点がある。ほとんどが、刀としての縁の地だ。
土佐にいるだろう昔の仲間と言えば、一振りしか思い浮かばないだろう。俺たちの本丸の始まりの刀、最古参にして重鎮、陸奥守吉行。
「そ、の場合」
「……覚悟しておいたほうがいいでしょうねぇ。当然知っているでしょうよ」
あいつが主のそばにいるかもしれない。その予感は、俺の気持ちを落ち着かせると同時に、どうしようもない不安感をあおり立てていた。
第三章 秋
〔まんば:てれび〕
それはセンターも二ヶ月前に迫った、とある火曜の夜。予備校から戻って、さて寝る前に復習をと思っていたときだった。
突如届いたマインの新規通知は、山姥切からのもの。混乱したような文面からは、あいつにはすまないが何事が起きたのかさっぱり分からない。
〔国広@あくまで助手ですから:これ見て〕
助け船を出すように、堀川がリンクを張る。タップしたその先は、世間ではメジャーな呟く系のSNSだった。
『【速報】謎のイケメン一般人登場』
そんな文面に添えられたハッシュタグには、世界の観光地を特集した人気番組の名前があった。そして、中学の世界史で聞きかじった、ヨーロッパの都市の名前。
「……は!?」
表示された動画の画質の悪いサムネイルを見て、反射的に俺は再生ボタンに指を叩きつけた。落ち着け俺、他人のそら似という可能性もあり得なくはない。
小さなスマホ画面の中で、レポーター役の中堅芸人が、石畳の通りを歩いている映像が始まる。
『はー、やっぱ多いねえ、若い子が。学生街なんだし、どっかに安くて美味い名物ないですかねぇ……日本じゃだいたいラーメンとカレーの激戦区になるけど、オランダはそういうのって――』
『こんにちはー! 日本のテレビですか?』
横から突然かけられた陽気な声に、その芸人は少々仰々しい叫び声を上げて驚いている。驚くのはこっちのほうだ、何をしているんだあいつは。
『え、なになに、日本人? 観光客……じゃないよねえ、学生さん?』
『そうですそうです! ここの大学院のマスターで――』
特徴のあるくせっ毛、人なつっこい笑顔。そして共通弁で話してはいても、言葉の奥からは聞き間違いようのない、郷土の言葉の響き。
『もしかして、お兄さん出身四国のどこか? 高知だったりする?』
『分かりますか?』
『いや、だってこう、坂本りょーま! って感じじゃん、話し方とか雰囲気とかさ、なんかこう、っぽいなーって』
『ほんまかえ!?』
そして何よりも。その名を聞いたときの、嬉しそうに輝く顔。ああ、あいつだ。誰がなんと言おうとあいつだ。
『えー、これ仕込みとかじゃないんですよね?』
『いや、ホントに偶然。本当に、通りすがりに声かけてくれたの!』
『ホンマですかぁ? こんなイケメンな? 日本人の兄ちゃんが? 偶然?』
スタジオでは出演者たちが好き勝手に言い合っているが、こちらはそれどころじゃない。そう思いたい気持ちも分かるが、こんなのが仕込みであってたまるか。
『――さんに声をかけてくれたのは、日本人留学生のヨシユキくん! 地元高知の大学に進学したものの、一念発起してアメリカの大学に留学。今はこの街の大学院の修士課程に在籍しているんだとか。秀才なんですねー!』
ナレーションで知らされた本丸一の古株のとんでもない経歴を聞いて、思考が一瞬フリーズする。本当に、何をやってるんだあいつは。
『へー、ここに来て一年くらい? じゃあ、この辺詳しかったりするかな、なんかお勧めスポットとか――』
『Hoi, Yoshi!』
友人らしい、いかにもヨーロッパ系という見た目でなぜか源氏物語を抱えた学生があいつに声をかける。映像はそこで終わっていた。
俺が見終わるタイミングで、ちょうど他の連中も再生が終わったらしい。それでもたっぷり二十秒ほど、チャット欄には誰も何も書き込もうとはしなかった。
『まじかー』
沈黙を破り、そんな吹き出し付きのアニメの美少女スタンプを投下したのは、まさかの骨喰で。それを皮切りに、混乱の坩堝に叩き込まれたようなチャットが画面を流れ出す。
〔きよ:ねえ、あいつなにやってんの? なにやってんの!?〕
〔安定:オランダ? なんで海外行ってんの? 高知じゃないわけ? 主は?〕
加州と大和守の混乱したチャットの中、冷静な一言を投げてきたのは俺の後輩だった。
〔日ノ本号:長谷部、Facenoteのアカウント作れ〕
この国では三番手か四番手、海外では一番手というイメージのあるSNSの名前を聞いて、意図していることを察せないほど俺たちは馬鹿じゃない。
〔かね@かっこよくてつよーい:あー、持ってるなアカウント。あいつだったら絶対やってるな。しかもヨーロッパの大学院だろ? 何かしらSNSのアカウント持ってねぇと話にならないだろうし〕
和泉守の発言に、何人かが同意のスタンプを送ってくる。その中で手を挙げたのは、粟田口家の双子の脇差の片割れだった。
〔ずお:俺、アカウント持ってるから検索してみようか? オランダの……ライデン、だっけ。たぶん検索したら見つかると思うんだよね、あの人のことだから。ていうか、もっと前に検索してみりゃよかったなぁ〕
そうだ、たぶんあいつの行動は、こうなることが分かってのことだろう。うちの初期刀が単なる目立ちたがりや、母国からのテレビクルーに郷愁を誘われたから、なんて理由で軽々しく声をかけるはずがないのだ。
きっとあれはメッセージだ、俺たちへの。見つけてくれ、自分はここにいるという。
〔まんば:鯰尾、陸奥守を見つけたら長谷部に伝えろ。お前からは動かなくてもいい〕
ようやく混乱が治まったらしい山姥切に、鯰尾が了承のスタンプを送る。自分の喉の奥が、きゅっと締まったような感覚がした。
〔蜂須賀:そうだな。連絡を取るのは、長谷部がするべきだろう〕
続けざまに繰り出される蜂須賀の発言に、どうしても文字入力をする指が重くなる。
〔長谷部国重:待て、俺がか〕
〔きよ:長谷部が連絡しないで誰がやるの。気持ちは分かるけどさ、逃げたらたぶん、あんた一生後悔するよ〕
情け容赦ない加州の正論に、首根っこを押さえつけられる。そうして俺の退路は、鯰尾がチャット欄に張ったリンクによって完全に絶たれたのだった。
〔ずお:はーい、発見。ほんっとに最初からこっち探せばよかった!〕
〔うら:SNSやってる人少ないもんなぁ、俺たち……〕
〔国広@あくまで助手ですから:登録はしててもつながること目的じゃないし、ほとんど確認しないものね〕
〔ばみ:兄弟が登録しているのも、中学の文化祭でクラスのみんなでつながろうという流れになったからだけだしな。卒業してからはほとんどさわっていないし、他人が検索しても出てこない設定にしてただろう〕
仕方がないよと慰める他の脇差たちの発言を横目に、リンク先へ飛ぶ。そこにあったのは、見間違いようのないあいつの写真。深呼吸をひとつして、俺は『新規登録』ボタンをタップした。必要最低限の情報だけを登録して、言葉を選びつつ、メッセージを打ち込み始める。
突然連絡することへの非礼、俺の名前、テレビで見たということ、もしも自分の名を聞いて思うことがあれば返信がほしいという要望。そして心当たりがないようだったら、今は忘れてくれてもかまわないということ。
蛇足の保険として書き加えた最後の一文が、我ながら情けない。そうして送ってからわずか五分後、届いた新着メッセージの知らせに、間抜けた悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえる。
『Skipy: Drgon_Horse_yoshiyuki 日本時間で明日の夜八時には、パソコンの前におるようにするき』
この返信の早さは待ちかまえていたのか、それとも。安堵感と同時に、少しだけ、本当にほんの少しだけ、十三階段を前にした死刑囚のような心地になってしまう自分を殴りたい。昔の仲間と再会できたというのに、どうして喜ばしい気持ちよりも恐怖が多いのか。いや、どこをどう見ても俺の自業自得なのだが。
シンプルなメッセージの内容を、スクショしてそのままチャット欄に投下する。
〔しなのん:明日の夜かぁ。オランダって時差何時間だっけ?〕
〔きよ:えーっと、七か八時間くらい? こっちの方が進んでるんだっけ。それまでにスカイピーの準備しておけってことだよね、これ〕
〔蜂須賀:明日か……俺も浦島も家で用事があってね……〕
〔うら:長曽祢にいちゃーん! 蜂須賀兄ちゃんと俺から! 同じ四国だし、日本に戻るときにでも会いたいって伝えて!〕
やっぱりそうだった、声かけてよかったね。主へのつながりを持つ可能性の高い上に、全員と仲のよかった本丸の重鎮との再会を控え、皆の文章が一気に色めき立つ。
そんな空気を横目に、俺の表情は硬いまま。もう遅いからと解散の号令をかけたのだった。
怒ってる。あいつ絶対怒ってる。次の日の朝、HR前に俺が吐いたそんな弱音に対して、宗三は呆れたようにため息をついた。
「子供ですか、あなたは」
「……返す言葉もない」
この件についてはやけに素直だなんて、宗三も日本号もちゃかそうとしないのがありがたい。他の連中も知っていて、あえて明るく振る舞っていてくれていたのだろうと思う。
あの、いろいろなものをこらえながら書いた結果素っ気なくなってしまったのだろう文章。その背後に隠されたいろいろな感情を察せないほど、俺たちがあそこで過ごした日々は薄っぺらいものじゃないはずだ。
「そりゃ世間的には今のお前は十七のガキでしかないけどな、精神年齢は数百だし、死ぬほど不本意ながら俺や初期刀殿よりは上のはずだろうが」
「この人あれなんですよ。何だかんだで主に関しては古株のみなさんに上下関係叩き込まれてたから……」
MINEでは、京都組がさっそく打ち合わせを始めている。海外との通話だ、つなげるアカウントはなるべく少なく、なおかつWEBカメラを使用することを想定して、画面の人口密度は高すぎないほうがいい。あちらは加州の家と粟田口家の二手に分かれて、俺たちは三人で。陸奥守を入れて四台のパソコンでつなげば、そこまで回線も重くはならないはずだ。
「……で、どうする今日」
「僕の家でいいでしょうね。お小夜は移動教室でいませんし、両親は夜遅くなるそうですし。兄様が繁忙期だの資格の勉強だので参加できないのが残念ですが」
「あー、俺予備校……ま、サボるか。一回くらいはどうってことねーな」
チャイムの音に、俺たちはそれぞれの教室に戻った。高校生活最後の学祭も終わって浮ついた空気も消え、泣いても笑ってもセンターまで二ヶ月足らずという焦りは、教室の雰囲気をどうしても変化させている。
「えー、じゃあ次の問題、灰谷の次だから……長谷部か。正解の選択肢と、全文音読」
「オ、イ……I feel really sorry to hear that. I wonder if I could turn back time.」
「訳は?」
「……そのことを聞いて本当に残念に思います。時間を巻き戻せたらいいのに」
「ん、正解」
意地の悪い例文が、ちくりと胸を刺していく。
「明後日は単語小テストやるからな、範囲はSOROのセクション三十七」
授業の最後にそう予告され、教室中からブーイングが起きた。ほとんどの生徒が予備校に通っているこの学校では、この時間は所詮“おまけ”でしかない。
「えーじゃない! 入試本番じゃ範囲指定なんてしてくれないんだから親切なもんだろ」
そんなクラスメートたちに同調するほど俺は子供ではなく、教師陣が一生懸命なのだからこちらも態度で返そうなんて言えるほど熱くもなれなくて。中途半端な俺はただ、そんな教室の静かな狂騒を黙って見つめている。こんな調子でそつなく授業をやり過ごす毎日は、きっと冬休みの前まで続くんだろう。
そうして放課後、宗三の家で参考書片手に自習をしていれば、時刻は夜の七時五十五分。来がけにコンビニで買った鶏そぼろ弁当が、腹の中でまだ存在を主張している。
「インストールして、アカウントだけ作っておきましたよ。京都のみなさんのIDは?」
「加州と一期のだな。MINEに投げてる」
「あ、待てあいつらもう部屋作ってるらしいぞ。宗三のID教えろだとよ」
「あー、はいはい。確認します」
宗三がスマホに指を滑らせてそう時間をおかず、画面にチャットルームへの招待が送られてくる。承認ボタンを押した先には、まだ俺たちしかいなかった。
〔Kiyoがbird_in_cageを追加しました〕
チャットも通話も可能なフリーソフトの画面には、どこからつっこみを入れていいのか分かりかねるこいつのIDが表示されていた。
「おい、なんだこの安直なIDは」
「お黙んなさい」
〔Kiyo:宗三たちやっほー〕
〔Sweet_Strawberry_Awata:こんばんはー、へっしーたちもいる?〕
加州のアカウントは、想定通りあいつが操作しているらしい。反面、粟田口家から送られてきたチャットは、そのアカウントの持ち主とは思えない可愛らしいもので。
「……乱か」
「まあ、こんなID素面じゃ設定しねーだろうな、あそこの長兄」
〔bird_in_cage:はいこんばんは、三人そろってますよ。さっそくですけど、陸奥守探して追加しちゃいますね〕
〔Sweet_Strawberry_Awata:OK! 今博多がWEBカメラ設定してくれたから、いつでもいけるよー!〕
〔Kiyo:こっちもおっけー、いつでもどーぞ〕
キーをぽちぽちと叩き、ひとつうなずいた宗三がマウスを動かす。『ルームに追加』のボタンにカーソルを合わせ、振り返った瞳が俺の目を見つめた。
「……いいですね、心の準備は」
見つけたアカウントには、SNSと同じ写真のアイコンが表示されている。俺が深呼吸をして首を縦に振るのと同時に、宗三の指がマウスを勢いよくクリックした。
〔bird_in_cageがDrgon_Horse_yoshiyukiを追加しました〕
その知らせが表示されるやいなや、待ちかねたように特徴的な音声が鳴り響く。通話を誰がかけたのか、それは言うまでもなく。
『おー、みんなぁおるかえ? 久し振りじゃなぁ!』
WEBカメラを事前に設定しておいて助かった。通話画面は三つに区切られ、俺たち以外の三カ所のカメラ映像を映している。
加州の後ろには、大和守に和泉守に長曽祢、堀川家は山伏が運悪くバイトのシフトを入れてしまっていたとのことで、三兄弟のうち二人がそろっていた。粟田口家は、今記憶のある兄弟たち――一期に脇差の双子、厚に薬研に後藤に信濃に博多、そして乱が。そして薬研の後ろには、不動が懐かしそうにこちらを見て笑っている。
夏にこちらにやってきた連中以外は、こうして面と向かう(と言っていいかは分からないが)のは今世では初めてだ。でも、どいつもこいつも、記憶から飛び出してきたように変わらない。
そして誰もが頼っていた本丸の最古参は、カメラ越しにこちらを見て元気よく手を振っている。
『陸奥守さーん、やっほー!』
『驚いたぜ、いきなりテレビに出てるんだからさ』
『まっはっは、やっぱりあれかぁ! いきなり長谷部からメッセージ来たき何事かと思うた!』
『だいぶ話題になってましたよ。クラスの女の子たちが、いきなりイケメンが出てきたーって話してて。ネットでも少し騒がれてたし』
『あ、俺のクラスもー!』
『そっちはまだお昼?』
『おお、真っ昼間じゃ!』
画面の向こうでは、楽しそうに話が弾んでいる。隣に立つ日本号に小突かれて、俺は宗三の座るいすの背もたれを握りしめて深呼吸をする。
むつのかみ、そう言った俺の声は、戦場でも出したことがないほど、情けなく震えていた。
「その……あるじ、は」
『あるじぃ?』
ああ、やっぱり。にこやかだった瞳は一転し、昔戦場で目にしたようなどす黒い敵意をはらんで俺を見つめている。
『……おんしゃの言う主っちゅうがは、こっちの記憶が戻っちゅうと理解した瞬間わしに抱きついてきて、「長谷部が私のこと分かってくれなかった」ちゅうて大泣きした主のことかえ? ええ?』
腹に投石をぶち当てられたような感覚は、記憶が戻った春のころから嫌というほど味わった。それでも馴れることはついぞないだろし、馴れてはいけないんだろう、たぶんこの先一生。
「……すまない」
『謝る相手を間違ぉちゃあせんか?』
血の気が引く顔が、すうっと冷えていく。正しいやりかたを忘れてしまったように浅くなる俺の呼吸音を聞いて、宗三と日本号が慌てたように口を開きかけた、そのときだった。
『陸奥守!』
加州の肩を掴み、そいつはマイクに向かって身を乗り出していた。あの日、俺に「いつ殴ってやろうかと思った」と言っていたはずの和泉守兼定は、不本意そうだがはっきりとした口調で、初期刀へと呼びかける。
『お前の言いたいことは分かる。ぶっちゃけ俺がお前でも、そのくらいのことは言うだろうさ。だがな、今はそこまでだ。それ以上は止めておけ』
「……息しろ、息。ゆっくりな」
ばすん、と日本号に背中を叩かれ、俺は慌てて呼吸を意識した。夏に加州から教わった通り、肺の空気をすべて吐ききってから息を吸う。
『画面越しにまた過呼吸でも起こされちゃ、こっちの夢見が悪くならあ』
『そうそう、うちの弟にまたトラウマ植え付けるのはちょっとね……博多、平気?』
粟田口家の画面の後ろでは、きゅっと口を引き結んだ俺と日本号の昔なじみが、古株の脇差だった兄に背をなでられている。
もう長谷部は十分報いば受けたけん、許してほしか。俺と主の話を聞いて驚き呆れる兄弟たちに、あいつはそう言って頭を下げたそうだ。
記憶が戻った直後、やっと出会えたと思った昔なじみが過呼吸でぶっ倒れるなんて光景を、あいつに見せてしまったのは俺だ。すべてが俺の自業自得だというのに、誰しもが仕方がないと困ったように笑う。それが余計に俺の居心地を悪くすると、たぶん全員が知りながら。
『陸奥守、俺からも頼むよ、今はちょっと抑えてやって。宗三、長谷部大丈夫?』
薬研の後ろから身を乗り出して、不動が困ったように手を合わせている。ぎゅっと目を閉じたかつての初期刀は、深くため息をついて頭を下げた。
『……すまん。今のがぁは完全にわしが悪い』
「陸奥守」
そんなことは。そう言いかけた俺を、あいつは画面越しに片手で制した。
『記憶が戻って、一番えずい思いするがぁ長谷部自身じゃ。それは分かっちょったはずやったけどにゃあ……』
お前にだけは許してほしくなかった。それが甘えだなんて、嫌ってほど俺は理解している。眉を下げて笑う彼の瞳には、もうあの剣呑な光はない。
『ま、多かれ少なかれ、思い出す前のことで悶絶するのは俺たちみんな同じだしな。ゆきだって大変だったろ』
どうしても暗くなる空気を打ち消すように、薬研が笑って隣の同級生の肩を叩く。
『うん……うちの親も、寺と神社のどっちに連れて行くかって大騒ぎだったし……』
記憶が戻る前の幼い不動は、それこそ本丸で顕現したばかりのころとそっくりだった。そう話すあいつの言葉から、なにが起きたかは察した。しかも、そんな性格の小学生男子が一瞬にして――四日間の旅すら必要とせずに、あの素直な性格を身に付けるのだ。何も知らない周囲の混乱は、いかばかりであったか。
「大変でしたねえ……僕は兄さまが先でしたから、手を回してもらえてましたけど」
『あー、兄弟で先に思い出してるやつがいるってのは強いな。ま、おかげで俺たち兄弟、全員そろって厚に頭上がらねえんだが』
兄弟で最初に記憶が戻ったのは、本丸の初鍛刀であった鎧通しだった。後々兄弟たちが思い出していくときに、サポートを彼が一手に担っていたそうで。
『いやー、そのぶん俺が一番あれこれ握ってんだよな。薬研なんてさあ、昔は本当に、そりゃあもう……』
そう言ってため息をついた厚は、大げさに目を覆って天を仰いだ。まったくだよ、と仏頂面の乱が力強くうなずく。
『声変わりもしてないボーイソプラノに、この外見で、しかも年相応の中身でしょ? 思い出すのボクが先だったからさ、この天使がああなっちゃうんだなあって思うと……』
『あ? なんだ? 昔みたいに呼んでやろうか? エフン……みだれちゃーん!』
『あっ、ごっめーん。ボクが悪かった許して!』
ほら見て、さぶいぼ。そう言ってブラウスの袖をまくる乱を見て、信濃と後藤の肩が小刻みに震えている。精一杯の裏声を出して喉をやられたらしく、薬研もおっさん臭くせき込みながら笑っていた。
その反面、彼らの長兄の表情には後悔だけが浮かんでいる。
『……私が、もっと早く思い出せればよかったんだが』
『こればっかりは仕方がないからさ。気にすんなよ、いち兄』
一期が思い出したのは、少しだけ他の弟たちに遅れてのこと。しかも、断片的に思い出した記憶のトップバッターが、よりによって大阪城で重傷を負った弟たちの姿だったというのだから、パニックを起こすのも仕方がない。
そのとき声を上げたのは、通話が始まってからずっと黙ったままだった粟田口の脇差のもう一振りだった。
『……俺がこんなことを言う権利があるのか、言っても許されるのか、分からないけれど。でも』
そう言った骨喰の頭に浮かんだのが誰なのかは、言うまでもないだろう。
『――思い出してやれなかったというのも、苦しいんだ』
『兄弟、兄弟』
泣き出す一歩手前のような声で、そう絞り出した骨喰の肩を抱いて。鯰尾が少し寂しそうにカメラにむけて笑いかけた。
『もうさ、いったんやめよう? 愚痴って、誰かを責めて、それで起きちゃったことがどうにかなったらさ、苦労はないよ……それに、やり直せない失敗じゃない。でしょ?』
『陸奥守、一度話を戻すぞ。主はご両親の離婚で京都から高知に引っ越したと聞いてはいるが、会えたんだな? 長谷部のことで何か言っていたりは……』
話を整理するべきだろう、そう言った長曽祢に、陸奥守は静かにうなずいた。
『……ああ、記憶が戻った長谷部が自分を見付けようにも、名字も変わって、引っ越して、手がかりを残いちゃれんかった。それが心残りやと……ただ、それ以上ににゃあ』
主、あなたはどこまで優しいのですか。気づけなかった間抜けな俺のことを、もう知らないと宣言しても誰もあなたを責めないだろうに。
『探そうと思うなら、まだえい。長谷部が、必要以上に自分を責めてしもうちょったら。ほんで、もしも、もしもじゃ、ほんまに、馬鹿な考えがよぎって……どがぁに頑張ったち、一生会えんなってしもうたら……けんど、元気そうで安心したぜよ』
俺がもう少し冷静でいられなかったら、そのルートに足を踏み入れてしまう可能性だってあっただろう。いすの背もたれをつかむ俺の手は、今や真っ白になっていた。
『宗三と日本号は、今長谷部と近くにおるがじゃな?』
『驚くことに、同じ高校ですよ僕ら三人。福岡です』
おどけた様子でそう報告する宗三に、陸奥守はホッとしたように優しく微笑む。
『主はにゃ、長谷部のことをそれはもう気に病んじょった。せめて、自分の知っちゅう誰かがそばにおってくれたら、と……教えたら喜ぶろうにゃあ』
『ちょっと待って、陸奥守。それで、主は今どこにいるわけ? 高知?』
『だいたい、なんでオランダなんて行ってるのさ?』
加州と大和守が投げかけた質問は、たぶん今、この通話に参加している全員が知りたがっていることだろう。矢継ぎ早に繰り出される質問に、彼は落ち着けとジェスチャーを返した。
『主は今は栃木じゃ。母やんの仕事の都合で、高校から向こうにおるぜよ。元気にやりゆう、安心しぃや……わしのことはにゃ、話せば長ごぅなるけんど』
『おー、まあかいつまんで頼むわ。全員分の近況報告なんて、やってるうちに朝になっちまうぞ』
元気でいる、そう聞いた和泉守の表情がゆるむ。冗談めかした彼の言葉に、陸奥守はおかしそうに笑い声を上げた。
テレビのナレーション通り、最初に彼が進学したのは地元の私立大学だった。数年前に鳴り物入りで設立されたばかりで、国際化を謳い、大学運営未経験な地元議員や地元企業の役員が学長だの理事長を務めている、そんな類いの。学部名は陸奥守曰く『グローバルヒューマン育成学部』、主席入学だったそうだ。
「なにか、こう、落ちが見えたと言いますか……というか、なんで受験したんですか」
学部名を聞いた宗三の肩から、一挙に力が抜ける。
『その……大学案内ではにゃ、そりゃぁもう魅力的に思えたがよ……国際化やグローバルっちゅう言葉の響きも、こう、あれで』
ごまかすように緯線をそらせた陸奥守は、苦々しそうにも笑って頬をかいた。
『大学に入って、最初の夏休みじゃった。学校で募集を出しちょった、短期の留学プログラムに参加してにゃあ、カリフォルニアに三週間行っちょったがやけど。道にまよぉた時に、案内してくれた学生と話が盛り上がっての。一緒に行った同級生からは、よぉ話せるねぇらぁて言われたけんど……』
「待ってください。語学研修ですよね? それ語学研修ですよね?」
『まぁ、よぉある話ぜよ。日本人の集団で行たら、どういたち固まって行動するきに……ほんで、ちっくと我に返ってしもうて』
自分はこのままでいいのか。迷う彼の背を押したのは、当時小六になっていた主だった。
あなたの中にいる『前の主』は、きっと私だけじゃない。
記憶が戻っていようといまいと、あの土地に生まれ育って、その男の名を意識しない日はないだろう。今までもこれからも、人々の新しい時代への夢と理想だけを背負ったまま、ずっと語り継がれるだろう郷土の英雄の名を。
信じて、私は大丈夫だから。そう言い聞かせるかつての主の手を取って、彼は目が覚めたと何度も礼を言った。
『今は、昔とは違う。わしが望めば、わしは世界のどこへやち行ける。連絡なんちゅうもんは、ネットを使うたらこうしてすっと取れる。主に何ぞあっても、ひいとい(一日)あったら地球の反対側から駆けつけれる……便利な時代ぜよ。龍馬のころとは違う、なんやちできる』
そして夏休み明けから、彼は猛勉強を開始し、その結果、ワシントンの名門大学の入学試験に合格。卒業後はもう少し勉強を続けるために、アメリカよりは学費が安く英語開講の授業が多いオランダの大学院へと進んだそうだ。
『波瀾万丈っつーか、なんつーか。思い切ったな』
『すっごいなあ……大変じゃなかったですか? ご家族の説得とか』
唖然とした和泉守と堀川の言葉にも、陸奥守は何でもないように笑っている。
『通いよった大学の先生にも口添えしてもろうてにゃ、返済不要の奨学金のこともしっかり調べて、バイトでも稼いだがじゃ、外堀はしっかり埋めちょったよ』
「むしろ、彼はうちにいるほうが不思議」「このままではもったいない」大学の教授陣からは異口同音に説得され、金銭面でも完璧な資料を提示され、家族もとうとう折れたという。首席入学だったおかげで入学金と学費がほぼ免除されていた上に兄弟も全員独立済みだったことも、有利に働いたそうだ。
しかもこの男、バイトは接客のような定番以外にも、国外に出ても続けられるものをしていたとかで。オンラインを通じて請け負った翻訳の仕事は、今も続けていると言っていた。
公務員として役所勤務をしている高校の同級生経由では、外国人観光客や移住者向けのパンフレットや書類、はたまたホームページの観光案内。地元を出た友人たちからも、直接依頼が来たり紹介されたり。人好きのする性格の彼はもともと友人が多いだろうし、こいつだったら絶対に信頼できるからと頼りにされているのだろう。
『まぁ、親に出いた資料は説得第一で、それなりにハッタリかまいちょったきにゃ。足りんぶんは自分で稼ぎゆうよ。あとは、深入りせんばぁに株を少々……』
ひええ、と叫んだ大和守が、加州の腕にしがみつく。
『こ、怖い。清光、この人怖いよ!』
『おっまえさ、そのハイスペック人間アレルギーどうにかしろってそろそろ――でさ、陸奥守。今主がつながってるのあんただけ? そうじゃないでしょ?』
ぐっと落とされた加州の声に、通話に参加した誰もが目を見張る。
『――相変わらず鋭いにゃあ、加州は』
『お、当たりだった? なんかそわそわしてるから、カマかけてみたんだけど。俺たちとしゃべってるのに、どこかと二窓かな? チャットしてたでしょ』
ふん、と鼻を鳴らす加州のドヤ顔が、そのままいたずらそうに笑う。
『いくら昔より便利な時代だからってさ、あんたが主のこと、日本にひとりぼっちでいさせたまんま、院に進むはずがないよねぇ』
そう、この男のうちにあるものは、俺とはまた別のベクトルの主への思いだ。四年程度ならいざ知らず、それ以上の年月、自らの夢にかまけて主を放置なんて、彼女が許しても陸奥守吉行自身が許さないはず。
『当たりも当たり、大当たりじゃ!』
〔Drgon_Horse_yoshiyukiがCrane_is_screamingを追加しました〕
うれしそうに笑った陸奥守が、キーボードとトラックボールに手を伸ばしたすぐ後に、誰かのIDがチャットルームへと投げ入れられた。
『Crane――?』
『え、クレーン? 車?』
大和守の戸惑ったような声の通り、その単語は、確かに工事現場で見るあの車を意味する。しかしその反面、まったく別の意味も持っていたはずだと、記憶のなかの単語帳を急いでめくる。あと少しで思い出す、というところで、一足早かった日本号がまさかと叫んだ。
『よっ、と。どうだ、驚いたか?』
その言葉の意味は、鶴。突如通話に参加したカメラの先では、我が本丸では最古参の太刀だった男が、不敵な笑みを浮かべていた。
『鶴丸国永――!』
山姥切の叫び声が、スピーカーから音割れして響く。陸奥守と鶴丸が、思わずといったようにヘッドホン越しに耳を押さえた。
『あー、鶴丸かあ、そりゃ陸奥守も――ん? え?』
〔Drgon_Horse_yoshiyukiがBushWarbler_Nightingale_whateverを追加しました〕
誰だ、こいつは。そのIDの意味を推理しようにも、こちらの頭に入っている単語も所詮は受験英語だ。首をひねっている間に、もう一つ、通話画面が増える。
『おお、久しぶりだなあ』
「え、待ってください本気で意外なんですけど」
画面のむこうでは、鶯丸がけらけらと笑っている。スカイピーでの通話という言葉には、本丸でもトップレベルで似合わなかったはずの彼の隣には、相変わらず緑茶の入った大きな湯飲みが置かれていた。
『まだまだぁ!』
〔Drgon_Horse_yoshiyukiがO_Kanehiraを追加しました〕
〔Crane_is_screamingがOneEyed_Dragonを追加しました〕
〔Drgon_Horse_yoshiyukiがakasikuniyukiを追加しました〕
〔Crane_is_screamingがtengu_imatsuruを追加しました〕
〔Crane_is_screamingがDaihanNyaNyaNyaaaaを追加しました〕
〔Drgon_Horse_yoshiyukiがKoryuを追加しました〕
〔Crane_is_screamingがKurikara_Hiroを追加しました〕
〔Drgon_Horse_yoshiyukiがGineGineを追加しました〕
『まっはっはっは! ざっとこんなもんじゃな!』
大包平、燭台切、大般若、小竜、大倶利伽羅、明石、今剣の後ろには三日月に小狐丸に岩融、そして御手杵の後ろには同田貫。カメラの先で、ある者は呆然と、またある者はうれしそうに、それぞれが画面を見つめている。
『三日月……大般若もいる……』
鯰尾の袖をぎゅっと掴んだ骨喰の目から、とうとう涙がこぼれ落ちる。
『ちょ、きょうだ――』
慌てて兄弟をなだめようとした鯰尾の声に、ザザッというノイズが被さった。
『――っとつ――さ――! どう――こと!?』
『おい――だこれは、せつ――しろ、うぐ――』
『――だよお、いきな――カイピ――ろって――かあ』
『お――ほね――で――か! いや――べ――なものだな――』
「うっわ。ぜんっぜん聞こえないじゃないですか」
「そりゃ、こんだけの人数で一度に喋ればなあ」
燭台切、大包平、御手杵、三日月。その四人の声だということは、かろうじて分かった。一気に重くなった回線に邪魔をされ、途切れ途切れにしか聞こえないが。
〔Kiyo:ちょっと、いきなりしゃべりださないで! きこえない!〕
〔Kurikara_Hiro:まず説明しろ国永、どういうことだ〕
〔akasikuniyuki:しゃべるなら一人ずつしゃべりましょ、一人ずつ。自分マイクミュートしますわ〕
どうやら鶯丸と三日月たち以外の面々には、ほぼ完全にサプライズだったらしい。そりゃうれしいけどさ、とキーボードに指を叩きつけてチャットを送る小竜が、悲哀に満ちているのだろう文章を送ってよこした。
〔Koryu:鶴丸さん、知ってる? 俺たちさ、今日リーディングピリオド。ついでに言えば、俺明日美術の世界のファイナルなんだけど。二限に〕
〔akasikuniyuki:うわよりによって〕
『……鶴さん、謝ったほうがいいよ』
『すまん、いや、それは本当にすまん』
驚きつつも、今の今まで口元を押さえて大喜びしていた燭台切が、小竜のチャットを読んだ瞬間同情するように頭を抱える。慌てて手を合わせる鶴丸を見ていると、どうやら本当に大(おお)事(ごと)らしい。
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:俺もエッセイのdueが明日なんだがなあ、書こうとしたことが全部吹っ飛んじまった〕
『うん、般若くん。前日に徹夜で片付けようとしてる時点で君は自業自得』
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:いやいや、もうちょっとでまとめに入るところだったんだよ、本当に。それより小竜も親父も、リーディングピリオドだのファイナルだの、みんな分かるのかい?〕
どうやら鶴丸と、小豆を除いた長船の太刀どもに古備前の二人、そして明石は現在大学生で、しかも同じ学校らしい。課題の中断に口元をひきつらせながら、大般若がキーボードに指を走らせる。
『ああ、ごめんね。僕たち同じ大学でさ、明日から期末テストで、授業なかったんだよ』
〔Koryu:で、俺は明日の二限に、めちゃくちゃ厳しいと有名な先生のテストがあります〕
『はは、しかし面白いだろう、あの先生の授業も。大包平もだいぶ泣かされたよなあ』
『黙れ。お前が美術メジャーに進んだからと、安易にジェネードを選んだ俺が馬鹿だった』
『まあ、ちょっと日本離れしたカリキュラムの大学だとでも思っていてくれ。ICCっていうんだが』
「あー、はいはいはい。あそこか」
納得したようにうなずいた日本号によれば、定期的に話題にはなるが、地方では少し知名度が劣る大学なんだそうで。しかし、「お前みたいなやつは最初から志望しないタイプの大学だよ」とはなんだ、失礼な。
〔Koryu:あ、あと俺と大般若の親父は寮住まいだから、マイクちょっと使えないんだ〕
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:お互い別々のルームメイトいるからねえ。そっちの会話は聞こえてるよ〕
『般若くん、それでdueは何時? 大丈夫?』
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:明日の十時、提出ボックス。だからまあ、残り二百ワード程度だしどうにかなるだろうさ〕
〔akasikuniyuki:油断すると痛い目見るで。とりあえず書くことだけでもメモっとき〕
『あったもんね明石くん。徹夜で書き上げたのに寝坊してボックス閉まっちゃったこと』
『英語じゃったら最後に見ちゃるばぁならできるぜよ?』
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:あー……そっち今昼間だっけか。終わらせたらファイル送るよ〕
『陸奥守、読める英語になってるかどうかの判断だけならタダでやってくれるからなあ。鶴さんはもう卒論のabstract翻訳は彼に予約したぞ。長谷部たちも困ったときのために覚えておけ、もちろん仕事として頼むからタダではないけどな』
やいのやいのと進んでいく大学生たちの会話は、いつかの俺たちも直面するものなのだろうか。まだあまりイメージがわかない生活は、興味深くないと言えば嘘になる。
『あ、俺進路調査の提出明日だったっけ……おもしろそうだし、そっちの大学書こうかな』
目を輝かせて鶴丸たちの話を聞いていた鯰尾が、いいこと考えたと笑う。そんな若人たちに乱入したのは、天下五剣の心底楽しそうにはしゃぐ声だった。
『おお、ここ――しょうの――りとり――できて、同時――こえ――いわもでき――か! なれ――るなあ、いま――るぎは』
俺たちのやり取りを見て、やっと画面がどうなっているのかを理解したらしい。慣れた手つきでパソコン操作をする今剣に興奮気味に話しかけた瞬間、元短刀の顔に青筋が浮かんだ。
『――ああもう!』
『ちょ――かづきど――』
ぶつん、と派手な音とともに、小狐丸のたしなめるような声がとぎれる。いらついたような顔の今剣が、三日月を振り返って何事か文句を言っていたが、その音声はこちらには聞こえてこなかった。
〔tengu_imatsuru:すみません、三日月がうるさいので、こちらもマイクミュートにしました。なにか言われたら僕が代筆します〕
たたたっとキーボードに指を走らせる今剣は、視線を下に落としている様子がない。チャット画面に表示されたメッセージを見て、日本号がううん、とうなり声を上げた。
「なにか、変な感じがするな……こう、お前さんが漢字を使っていると」
〔tengu_imatsuru:今時の小学生やってるのに変換機能くらい使えなくてどうするんですか、お忘れでしょうがデジタルネイティブですよ今の僕。周りがプログラミングの授業だの将来の夢はユートゥーバーだの言ってるのに、全部ひらがななんてやってられません〕
『こえーよ今時の小学生』
『今剣以外はパソコン全然なわけ? つまり』
〔tengu_imatsuru:今日はフィールドワークで奈良に行っていて来られなかったんですが、石切丸はそこそこできますよ。ただ、論文書いたりするのがメインでこういったものは得意じゃないです、がんばってMINE程度ですね。ああ、彼は今神戸ですので後で連絡先教えます〕
とっちらかった会話と、飛び交う近況報告。ただ、現状を理解しきっているやつは、たぶんこの通話の参加者のなかでは一握りだ。話を整理しようと言って、陸奥守が鶴丸たちとの再会について語り出す。
今からちょうど一年前。オランダでの新生活に慣れてきた陸奥守は、週末を利用して突発旅行へと出かけていった。行き先として選んだのは、主が昔――本丸にいたころから好んで読んでいた、児童文学作家の故郷、スウェーデン。ストックホルムで一泊した後、作家の故郷の町にあるテーマパークへ向かう計画だった。
そして二日目の昼、首都から二百キロ以上南の田舎町の駅で降り立った彼を見つけて叫び声を上げながら駆け寄ってきたのは、見覚えのありすぎる男の姿だった。
『まぁ、考えることはおんなじじゃった、ちゅうことじゃ』
大学の秋休み中だった鶴丸も、その作家の名、というか主を懐かしみ、同じくスウェーデン旅行の真っ最中だった。取り急ぎと主に詳細をメールして、当初の目的もそこそこにカフェで昔話に花を咲かせたという。
『で、そのころはちょうど、鶯丸もイギリスに交換留学でいてなあ。突発的にエディンバラまで二人で押し掛けたりと大騒ぎだったぞ。小豆の坊主も今パリの製菓学校だし』
休みの度に世界中を飛び回るという鶴丸に、一期が変わりませんなと笑う。
『相変わらずの行動派ですな、鶴丸殿も』
『文化財保護法適応外の間にやれること全部やる、が今世のモットーなんだよ、俺は』
〔Kurikara_Hiro:無茶して突っ走るのもいい加減にしろ〕
『すまんすまん伽羅坊、もう桜は舞わないってことを忘れちまうんだよ、時々』
たしなめるようなチャットを打ち込んだ大倶利伽羅は、画面の向こうで昔と変わらない仏頂面だ。確かにずっと桜をまとわせていたころと比べれば、この体は加減が難しいだろう。向こう見ずに突っ走れば痛い目を見る。
「あれ、でもそれってあなたがヨーロッパに行ってからですよね? その前に誰かと会ってたんですか?」
宗三の言葉に手を挙げたのは、ずっと画面の先でにこにこと笑っていた御手杵だった。
『あ、それ俺たち。陸上のインハイ地区予選会場に主も来ててさ、同田貫が見付けたんだ』
ちょっと待て、と俺の隣で日本号が眉を寄せる。おそらくこいつが持つ疑問は、俺と同じものだろう。
本人がどう思っているかはともかく、こいつは我が校陸上部のエースだ。個人記録だって確か持っていたはずだし、同じ陸上だったらお互い気づいてもおかしくはない。
「……俺、去年と今年も出てたんだが」
『えー、マジかよぉ。チェックしとけばよかった』
『年ズレてたんだろ、たぶん。俺たちもう卒業してるし、そもそも成績も記録が残るほどじゃなかったし』
『だよなー、俺は高飛びで全国の予選敗退、同田貫は砲丸投げで地区予選敗退でさ。で、俺一年だけど一浪してるし。日本号今高二だろ? そりゃ知らないって』
おそらく不本意だっただろう記録のことを聞き、日本号の口からやべ、と小さく声が出た。ただ、御手杵のほうはあっけらかんとしたもので、自分は飛ぶのが好きだっただけだからと笑っている。
『俺の出番全部終わって、これで引退かと思ってたら主とすれ違ってよお。負けたとかそういうウジウジしたやつ全部、あいつが一気に吹き飛ばしやがった』
『そうそう、なんか他のやつがさあ、たぬきが他校の女子拉致ってきたって大騒ぎしてるからなんだと思ったら主がいてさあ、ホント大変だったんだぞ。主の友達まで怒鳴り込んできて……あ、そうだ』
なにかを思いついたように、御手杵は日本号を呼ぶ。そうして彼から聞かされたのは、もう一本の槍の近況だった。
『蜻蛉切なんだけど、まだ記憶戻ってないって。で、村正が今千葉にいる』
「……千葉?」
聞けば、村正はもう記憶が戻り、千葉市内の看護学校に通っているそうで。つながりの見えない地名に、日本号が首をひねっている。
「村正が? あいつ地元あっちなのか?」
『いや、二人とも三重。あいつら従兄弟同士で、蜻蛉切確か日本号と同い年だぞ』
「ん? ああ、そうか。村正派はそもそも……」
『そうそう、村正が桑名で、蜻蛉切が四日市だったかな。家が医者やってるからって蜻蛉切も医学部志望で。それで村正も、蜻蛉切のサポートをしマス! って地元で看護の専門行くつもりだったらしいんだけど……』
前世から可愛がっている年下の従兄弟が、第一志望を地元大学から首都圏の国立医学部に変更したことで、急遽千葉から願書を取り寄せたらしい。
「蜻蛉切が千葉、ねえ……まさか、元の主絡みか」
『村正がさ、たぶん喉元くらいまで来てるって言ってたぜ、記憶。夏のオープンキャンパスで来たときに大多喜城連れて行ったら、なんか懐かしそうにしてたって。縁の地だもんな、一応』
本当に一応ではあるが、前の主の通過点となった土地。少しでもそこに近い場所へ、ということは、まあそういうことなんだろう。会いてえなあと、懐かしいという気持ちを抑えられない低い声が隣から聞こえてくる。
〔Kiyo:伝言でーす。後で和泉守が、東京組に歌仙の連絡先教えるって。あの人も今東京だよ〕
〔Sweet_Strawberry_Awata:そうそう! うちの叔父様もね、館林にいるから連絡先教えるね!〕
『え、鳴狐群馬か? 意外と近いんだなあ、俺茨城』
チャット欄と通話と、久しぶりの再会はどうしても話が弾む。俺の隣で日本号がひとつあくびをこぼしたとき、部屋のドアが遠慮しがちにノックされた。
「宗三、あなたまだ起きて……!?」
「おや、お帰りなさい兄様」
ちょうど帰宅したらしい江雪が、パソコン画面に映るメンバーを見て固まっている。陸奥守とつながることは知っていても、俺たちと同じくこうなることは彼としても想定外だっただろう。
『おお、江雪か。久しいなあ』
うれしそうに笑う鶯丸や、ほかの面々に挨拶をしつつも、状況はだいたい理解したらしい。言いにくそうに額に手をやり、彼はため息とともに腕時計に目をやった。
「みなさん、お気持ちは分かりますがもう十時過ぎましたよ……未成年はそろそろ帰したいのですが、連絡先だけ交換して、また続きは後日ということにしては?」
『あー、そうじゃな、すまん! こっちが真っ昼間やき忘れちょった!』
『そうだな、そろそろお開きに……ああ、長谷部。その前にこの鶴丸さんがひとつ、朗報をやろう』
「なんだ、手短にすませろ」
宗三の家に行くと伝えてはあるが、さすがに日付が変わる前に帰らなければ駄目だろう。後ろ髪を引かれる思いと帰宅時間に対する焦りから、少しばかり口調が乱暴になるのは勘弁してほしい。
『誘った俺に感謝しろよ? 主の第一志望、うちだぜ』
は、と間抜けた声が俺の口からもれる。何度驚かせたら気が済むんだこの鶴は。
「……高田馬場と三鷹ですか。国立ほどじゃないですが、そう遠くはないですね」
まあ僕は第一志望通ったら同じ沿線なんですけど。得意そうに笑う宗三の足を、俺はこっそり踏んづけた。
『ああ、ただな。主の連絡先はまだ教えんからな』
『え、なんで!?』
抗議するような大和守の声を抑えるように、鶴丸が部屋にかかっていたカレンダーを指さす。
『当たり前だろ、センターまで残り何日だお前ら。主含めて現役組の合格が先!』
『そうじゃそうじゃ、受験前の主に雑念植え付けてたまるもんか。しかもおまんらぁの合格に響いたら、気にするがぁ主やぞ』
『さあ選べ、今すぐ電話番号を教わって長電話したあげくお互い一浪して再会できないままじらされる上に、主に罪悪感植え付けるか。それともこれから三ヶ月くらい我慢して、受験から解放されて、かーらーのっ、心おきなく感動の再会か』
「……お心遣い感謝します」
そりゃそうですよね、そうぼやきながら、宗三が画面に向かって頭を下げる。もったいぶるように腕を組んだ鶴丸が、よろしい、とうなずいた。
「おい、知らせておくが俺にはすぐ連絡先教えられるからな。俺はもうAOで決まってる!」
「分かった、わーかったちゃ! 合格おめでとうさん!」
身を乗り出すように叫んだ山姥切に、今度こそ陸奥守が落ち着けと叫ぶ。ひとしきり笑った鶴丸が、またしても悪戯そうな笑みを浮かべる。
『じゃあ、聞き分けのいいお前らに、ここで主から伝言だ。「みんな頑張ろうね、会えるの楽しみにしてる」だとよ』
「録音した音声とかないか」
『うん、長谷部くんなら言うと思った』
燭台切にそんなことを呆れたような口調で言われても、これは仕方がないと思う。何が悲しくて、久しぶりの主からの言葉を鶴丸の裏声で聞かねばならんのか。
『和泉守、ホントに頑張ってよね。東京行くんでしょ』
『二次対策順調? 兼さん』
『やめろよお前ら! こないだやっとB判到達したんだぞこっちは!』
大和守と堀川にとりすがられ、和泉守が悲鳴を上げる。画面の先では陸奥守が、呼吸困難になるほど笑い声を上げていた。
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:心配しなさんな。センターなんぞ最悪一月あればどうにかなる〕
〔Koryu:さっすが、十二月後半からの追い上げでギリギリ間に合わせた人の言うことは違うねぇ〕
『般若くんって毎回毎回土壇場でどうにかしちゃうよね、小豆くんはコツコツ形なんだけど……ハラハラしてるの、いつもこっちばっかりでさぁ』
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:終わりよければ全てよし、さ。ああ、ところで粟田口家は今京都だって?〕
何でもないように笑い、刀派の祖をいなした大般若がチャットで呼びかけた先で、骨喰が驚いたようにイエスと答えた。
〔DaihanNyaNyaNyaaaa:じゃあクリスマス休暇の帰省、途中で京都に寄っていくことにしようかな。三日月のじーさまもどうだい?〕
今剣の背後で、天下五剣が目を輝かせて首を縦に振る。
〔tengu_imatsuru:というか、僕と岩融今奈良ですし、今いるの僕らの家ですからね。三日月たちは明日の始発で東京に戻りますけど、僕らはいつでもそっちに遊びに行けますよ〕
『お、いいな。まだ思い出してない兄弟たちも、なにかしらとっかかりになりそうだ。秋田なんか、今剣と仲良かっただろ』
ぱあっと顔を輝かせた骨喰が、何度も何度もうなずいている。薬研の隣でも、信濃と後藤と厚がうれしそうに笑っていた。
『貴様ら、もう十時半になるぞ。受験生もだが、小学生はとっとと寝ろ、明日も平日だろうが! それと大般若はエッセイを早く片づけろ! 俺たちも、明日はファイナルだぞ!』
『うん、軌道修正ありがとう。そろそろ解散とするか、連絡先だけチャットに投げてくれ』
大包平のでかい声が、音割れのノイズとともにスピーカーから飛び出してくる。それに続いた冷静な鶯丸の一言で、大騒ぎだった夜の通話はお開きとなったのだった。
第四章 冬
階下からは、両親が見る年末の歌番組の音声が聞こえてくる。久しぶりに単身赴任先から戻った父親には申し訳ないと思いつつ、例年は家族揃って食っていた年越しそばは、一足先に夜食として腹の中に収めさせてもらった。
『おい、大般若いるか? 数学教えてくれ、積分で詰まった!』
『あー、はいはい。とりあえず問題と、どこまで解けたか個チャに写メ頼むよ』
『すみません、陸奥守……は、いませんよね』
『大晦日は出かけるって言ってたもんね。英語だったら見ようか? 一番できるの小竜くんだけど、僕ら今実家だし、ちょうど彼謙信くんの相手してて……』
結局、あの後なんだかんだで全員がスカイピーのアプリをスマホに落とし、こうして勉強中に通話をつなぐことも増えた。現役の大学生組に勉強を見てもらう機会も増え、正直助かっている。
『……世界史詳しいやつはいるか』
『お、伽羅坊も二次対策か。どれ、鶴さんが見てやろう』
『アジア史やったら俺も見れるでー』
国立狙いの和泉守や宗三、大倶利伽羅は、志望校がどこもセンターよりも二次試験のほうを重要視するために、もう二次対策に重点を置き始めている。一方で私立志望の俺は、本試験対策より今はセンター対策に焦点を絞っていた。
そうは言っても、クリスマスも大晦日も正月もあったもんじゃないのは受験生共通だ。センター生物の過去問とノートを開き、シャーペンと消しゴムを手元に置く。
「すまん、過去問やるから落ちるぞ。それ終わったら早めに寝るからもう今日は上がれないと思う」
『おー、了解。頑張れよ』
『よいお年をー』
スマホのタイマーを一時間に設定し、シャーペンを構える。答え合わせとおさらいが終わったら、明日の正月直前講習に備えて早めに寝ておこう。あの日から机の前に飾っている、寄せ書きの一カ所を見つめながら深呼吸をする。
彼女は今、どうしているのだろう。第一志望は私立とはいえ、センターも受けるとは鶴丸たちから聞いている。予備校には通っていないそうだから、ずっと家で勉強しているのだろうか。
会いたいな。そんな言葉が口からうっかり出そうになり、慌ててこらえた。一言心の内をこぼすたびに、風船から少しずつ空気を抜いているような心地になる。
虫のいい願望だということは分かっているが、それでも願わずにはいられない。主が俺と同じことを思っていてくれたら、なんて。
センターまでそろそろ二十日を切る年の暮れ。焦りと不安を期待でどうにか覆い隠しつつ、俺はタイマーのスタートボタンをタップした。
カレンダーにつけていたバツ印は数を増し、予備校の入り口に掲げられた忌々しいカウントダウンは残酷に数を減らしていく。
とうとう迎えた一月の半ば、土曜日の朝。俺はとある場所に立っていた。
まだ八時だ、いくらなんでも開館には早すぎる。アーチ状の門の前には鎖が張られ、当然だが入ることはできない。
懐かしい、そう思えるかどうかは、まだ分からない。けれどここは、俺がそんな感傷を抱くべき場所だった。大きな展示案内ポスターに写る見間違えようのない刃文と茎の金象嵌銘が、吐いた息に白く曇って見えた。
今、あの展示室には“俺”がいる。
記憶が戻って最初の冬だが、受験生に博物館なんて余裕があるはずもなく。小学校卒業間際の引っ越しでやってきた街の博物館なんて、校外学習の機会を逃せば訪れることもないだろう。
展示期間外でも、せめて一度くらい。そう思って秋に一度だけ、足を運んだことがある。しかし、そのときも展示室の前で引き返してしまって。それから結局、どうにも行きにくくなったままだ。
「おや、早いですね」
「当然だろう」
考えることは、しゃくに障るがお互い同じだったらしい。薄い体を雀のようにコートだのマフラーだので膨らませた宗三は、俺から目をそらしてポスターを黙って眺めている。
「……小学校のころにね、ちょうど今頃でした。学校行事で来たんですよ」
こいつが昔話とは、珍しい。茶々を入れずに黙って続きを促したのはそう感じたからだ、決して、昔の仲間から俺の話を聞きたかったからじゃない。
「並んでましたよ、あなたたちが。あなたの前でね、女の子たちが騒いでたんです、下から見たら全然違うね、きれいだねって」
展示のライトに透かした刀身に、一瞬にして現れた皆焼の刃文。最後に見たのは、自分自身のことながら今や遥か昔のことだ。
「懐かしいなと思ったんです、初めて見たはずの刀なのに……そのときからでしたね、記憶が戻り始めたのは。きっかけがあなただったなんて、兄様には笑われましたけど」
俺も宗三も、第一志望に合格したらこの街を出る。その前に一度はここにと思ったが、センターが終わっても本試験などと気が休まる暇はないだろう。一月から二月の初旬、展示期間にのんびり博物館なんて余裕はなさそうだ。
「……会いたかったな、一回くらい」
一度だけここを訪れたあのとき、展示室の入口からちらりと見えたのは、後輩の姿だった。一言も発せず静かに黙りこくって、それでも祈るように、そこに存在する“誰か”と対話をしているような。そんな静謐な部屋の空気を、俺が壊せるはずもない。あの後別の常設展示室にそそくさと逃げ込んだ俺ができたことなんて、再現された大正のカフェのソファでぼうっとすることだけだった。
「なにを馬鹿言ってるんです。一月は毎年来ますし、一緒に見たい人がいるんでしょう。一度どころか、何度だって会えるじゃないですか」
記憶が戻る前にさ、一度だけ、之定に連れてってもらったんだ。あの夏の始まりの日、別れる前に和泉守がそう話していた。引っ越した京都でさっそくできたあいつの“友達”の話を聞き、歌仙が「遊びにおいで」と新幹線の切符を二枚、あいつと堀川ぶん取ってくれたそうで。
俺は東京に行く。また国広たちと“俺”に会いに行くんだ、“あの人”の生まれた場所に。そう言って目を輝かせるあいつの瞳には、未来への不安や、自分に対する疑念はひとかけらも浮かんではいなかった。
「死ぬ気で取りに行きますよ、合格通知」
「当然だ。行くぞ」
受験票、筆箱には鉛筆と消しゴムと鉛筆削り、母親が張り切って作ってくれたカツ丼弁当に、水筒胃薬カイロ、おやつのチョコレート、そしてお守り代わりの使い古したボロボロの参考書。いっぱいになったリュックを、深呼吸しながら背負い直した。
センター試験開始までは、あと一時間。会場である大学は、ここから近い。
黒田筑前守。俺の歴史を刻む茎の金に、頭を下げてきびすを返す。ひゅう、と吹いた海風が、俺たちの背中を押した。鞄に下げた学業守の梅の刺繍が、朝日にきらめく。
大丈夫、きっと俺は大丈夫です。誰に向けたのかはっきりしないそんな言葉を、俺は口の中で小さくつぶやいた。
その知らせをMINEに投げてすぐ、怒濤の新規通知が俺に襲いかかってきた。
〔きよ:え、マジ!? おめでとう!〕
〔ごとー@あと五センチほしい:すげぇ! やったな!〕
〔かね@二次頑張る:おめでとさん! 俺も早く解放されてぇ……〕
〔うら:国立は試験いつだっけ?〕
〔かね@二次頑張る:二十五と二十六。つーか、俺は国立一本でいいって言ったんだけどよぉ、親が併願もいくつか受けろってうるさくてさ〕
祝いの言葉とスタンプが、スマホ画面を流れていく。その反面、自宅のパソコンの画面には、無機質な数字が並んでいた。
今日は、俺の第一志望校のセンター利用合格発表日。いや、自己採点の時点でもしかしたらとは思っていたが。
〔日ノ本号:なんだ、テンション低いな長谷部。無事合格したってのに〕
まずは親に報告して、本試験用に予約していた飛行機とホテルはキャンセルしないと。ああ、後で陸奥守たちにも報告しておくか、そんなことを他人事のように考えていると、いぶかしげな後輩からチャットが飛んできた。
〔そざ:……あなたもしかして、ちょっとがっかりしてるでしょ、本試験行かないことになって〕
やめろ、この場で図星を突くな。見えていないと知りながらも、俺は画面の向こうでにやけているだろう同級生を睨みつけた。
〔かね@二次頑張る:おい、ふざけんなって言ってもいいか〕
〔国広@あくまで助手ですから:兼さん、八つ当たらないの〕
まだしばらくは受験生モードでいなくてはいけない和泉守は、堀川にやんわりとたしなめられている。返す言葉もない、俺だってあいつと同じ状況だったら怒り狂うだろう。
〔そざ:いつでしたっけ、予定してた一般の試験日。前日はともかく、試験終わったらちょっとは自由行動できますもんね東京で。主とはすれ違っても、鶴丸たちには会えるでしょ〕
しかし、どうしてこいつは俺の図星という図星を的確に突いてくるんだ。嫌がらせか貴様。
〔やす:あー、へー、ふーん?〕
〔みだれん:やっだへっしーかわいーい!〕
どいつもこいつも、何も言わないうちに決めつけるな。しかし、何も言い返せないのもまた事実で。
〔厚:主じゃなくっても、会えるもんなら会いたいよなー、そりゃなー〕
〔ふどー:うん、気持ちは分かるよ、気持ちは。長谷部が、ってのは意外だけど〕
〔かね@二次頑張る:おいこれ鶴丸と燭台切にチクろうぜ〕
「やめろ!」
思わず声が出た俺は悪くないと思う。
あいつらがこれ以上ないほどに調子に乗る様子が、ありありと思い浮かぶ。そんな悪夢に巻き込まれてたまるか。
慌てて止めようと入力しようとしたそのときスマホに届いたのは、別のアプリの新規通知。その内容を見て、すぐに俺は画面をタップしていた。
〔Crane_is_screaming:おい、いるか、ニュースだ、主から連絡だ! 合格だってよ!〕
肩から力がどっと抜ける。なんでだろうか、自分の受験番号を見つけたとき以上に気分が上がっているのは。
〔そざ:私立っていいですよねぇ、日程早くて〕
まだ僕の下にお小夜が控えてるんです、退路を断って国立一本勝負に出ないと。春にそう息巻いていた元篭の鳥が、マインのチャット欄にそんなぼやきをこっそりと投下した。
〔Crane_is_screaming:ほれ、主の連絡先が知りたいやつは言え! 個チャで渡すぜ!〕
鶴丸の言葉に、何人もが喜びの声を上げる。それきりチャット欄が静かになったのは、皆彼のところに突撃しているからだろう。俺はそんな様子を、何も言わずに眺めるだけだった。
〔Crane_is_screaming:長谷部は?〕
〔Pressure_Cutter:俺はまだいい〕
いつになっても手を挙げない俺をいぶかしんだのか、それともこの流れを予想していたのか。それ以上追求しようとしないあいつに対して、ついつい弁解じみた言葉を続けてしまう。
〔Pressure_Cutter:面と向かって話したい〕
〔Crane_is_screaming:その心は?〕
畳みかけるようなその言葉に、返事をする指が重くなる。
〔Pressure_Cutter:怖い〕
茶化すように草を生やしてくれるのは、皆の優しさだ。画面の向こうに、穏やかに笑う呆れ顔が見えたような気がした。
〔Crane_is_screaming:分かった、後半はオフレコにしといてやるよ。んじゃ、俺は授業行ってくるぜ。陸奥守上がったら伝えてやってくれ〕
この時間帯は、まだヨーロッパは明け方だ。初期刀への伝言を預け、大学五年生にして卒業間際であるはずの鶴丸は落ちていった。
〔きよ:ねえ、主ずっと通話中なんだけど!〕
〔そざ:いや、当たり前でしょうよ〕
〔しなのん:ごめーん、今厚と話してる! 兄弟一巡したら知らせるよ!〕
〔やす:いや、それまだしばらくかかるでしょ! 清光と今からそっち行くから!〕
〔国広@あくまで助手ですから:落ち着いて、たぶん時間変わらないと思う〕
相変わらず、粟田口は機動が速い。口論じみたやり取りをしつつ、どのチャットの文章からも隠しきれない歓喜がにじんでいる。
覚悟を決める前に、やるべきことを済ませよう。まずは親へ報告だと、俺はそっとアプリを終了させてスマホを置き、席を立ったのだった。